配信日時 2021/03/10 09:00

【特別紹介 防衛省の秘蔵映像(6)】3次防の時代-(2)空中機動力の時代 ─昭和43年映像─ 荒木肇

--------------------------
荒木さんの最新刊

知られざる重要組織「自衛隊警務隊」にスポットを
当て、警務隊とは何か?の問いに応えるとともに、
警務隊で修練されている「逮捕術」を初めて明らか
にしたこの本は、小平学校の全面協力を受けて作ら
れました。

そのため、最高水準の逮捕術の技の連続写真が実に
多く載っています。それだけでなく、技のすべてを
QRコードを通して実際の動画をスマホで確認できる
のです!

自衛隊関係者、自衛隊ファン、憲兵ファンはもちろん、
武術家、武道家、武術ファンにも目を通してほしい
本です。

『自衛隊警務隊逮捕術』
 荒木肇(著)
 https://amzn.to/34szs2W
-----------------------------------------

こんにちは。エンリケです。

きょうは、
「防衛省の秘蔵映像」の解説6回目です。

大学生がまだエリートだったころの懐かしい世相が
垣間見れて楽しいですね。

女性自衛官一期生のはなしも知るところ少なく、興
味深いものでした。

さっそくどうぞ。


エンリケ


メルマガバックナンバー
https://heitansen.okigunnji.com/

ご意見・ご感想はコチラから
 ↓
https://okigunnji.com/url/7/


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

特別紹介

防衛省の秘蔵映像(6)

3次防の時代-(2)空中機動力の時代
─昭和43年映像─


荒木 肇

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


昭和43年映像の紹介
https://www.youtube.com/watch?v=JCHuK8tuq70

▼ヘリコプターの増勢

 この3次防の5年間をふり返ると、国産装備の開
発・取得が進んだことでした。そして陸自では空中
機動力の増強が唱えられます。ヘリコプターによる
兵員、物資の輸送だけではなく、対地攻撃力まで備
えた他用途ヘリが整備されました。

すでにアメリカ軍はベトナムで海兵隊による「Ai
r Assult(空中強襲)」が行なわれました。米陸軍
もヘリコプターによる強襲を研究し、「エア・マニ
ューバー・オペレーション」、空中機動作戦と名付
けています。

陸上自衛隊も新たな部隊改編が行なわれ、ヘリコプ
ター団が発足しました。茨城県の霞ヶ浦から千葉県
木更津駐屯地に移った映像があります。霞ヶ浦駐屯
地はいまも航空学校霞ケ浦分校があり、広大な関東
補給処の敷地の一部です。

木更津駐屯地から発着する陸自のヘリは、東京湾を
またぐ高速道路からも見られます。神奈川県川崎市
から海底トンネルに入り、人工島「海ほたる」に出
て海上の橋を使って千葉県に渡る自動車専用道路で
す。向かって右の海岸沿いに木更津駐屯地がありま
す。

戦争前から戦時中は海軍航空隊が置かれ、双発の陸
上攻撃機部隊がいました。おかげで長い滑走路があ
りました。いまは陸自第1ヘリコプター団と特別輸
送隊(皇族や国賓を送迎する)、対戦車ヘリ隊など
の部隊がいます。

陸自のヘリにはOH(偵察)、UH(多用途)、C
H(輸送)、AH(対戦車)と4種類があります。
映像では当時の主力輸送ヘリ、バートルV107を
見ることができます。正確には川崎・バートルKV
107IIといい、タンデム・ローター(前後に2
つの回転翼がある)の全長25.7メートルの大型
です。当時は53機を保有していました。

自重は約6トン、最大速度は144ノット(約27
0キロ)毎時です。タンデム・ローターの利点とし
ては、胴体の前後に揚力(ようりょく・上に押し上
げる力)が働くために、重心位置の許容範囲が広く、
胴体の容積をフルに荷物搭載に使えることでした。
また、その姿の大きさ(ローターの直径は15.5
4メートル)から想像すると動きは鈍重に思えます
が、意外な事になかなかの運動性があります。

後継機種である現用のCH47チヌーク(やはりタ
ンデム・ローター)が富士の総合火力演習で機敏な
動きを見せると観客から大きな嘆声が上がることが
多いようです。しかし、実際は前後両方のローター
が機体重心から遠いので、ローターの推力のわずか
な変化だけで鋭敏な操縦ができるといいます。

ヘリボーン(空輸挺進行動)では武装した隊員を2
5メートル載せることができました。ところが、1
05ミリ榴弾砲(重量2.3トン)を吊りあげると、
兵員を載せることができなくなります。人員と弾薬、
砲はそれぞれ別々に運ばねばなりませんでした。

▼ベルHU-1B/H

 映像の中で北部方面隊の演習が撮られています。
そこには多くのヒューイと呼ばれる、この中型の多
用途ヘリが乱舞しています。この米軍が1959(
昭和34)年に採用した多用途ヘリは現在も改良を
重ねられながら使われ、傑作タービン・ヘリと言わ
れるほどです。わが国では富士重工、すなわち戦前
の中島飛行機(傑作戦闘機「隼」、「疾風」などを
送りだした)の後身がライセンス生産しています。

 1963(昭和38)年から装備を始め、昭和4
6年までに90機が生産されました。映像の中のヘ
リはB型でしょう。最大搭載人員は10名といわれ
ます。北部方面隊所属機のほぼ半数は、地上攻撃用
の重機関銃などを装備していたそうです。

 設計のねらいは簡潔な構造、高い信頼性、容易な
整備とされました。揚力を生み出すメインローター
は直径14.3メートル、最大速度は116ノット
(約215キロ)です。何度か乗せてもらいました
が、パワーは十分、軽快な機動性が印象的でした。
座席は燃料タンクの前に3列で最大搭載力は14人
といわれますが、キャビンは決して広くはありませ
ん。

▼WAC幹部の採用

 この年から一般職の女性自衛官(当時は婦人自衛
官)が採用されました。一般職というわけは、それ
以前の女性自衛官は看護官に限られていたからです。
最初のスタートは、陸曹(下士官)や陸士(兵)に
なる隊員たちの教官要員だった11名の幹部(将校)
でした。採用受験の倍率は6倍といわれますから、
現在と比べるとずいぶん人気がありません。しかし、
採用された11名全員が当時の女性としてはたいへ
ん高学歴の4年制大卒でありました。

 ついでに看護官の話ですが、看護学生(ナース要
員)第1期生は1961(昭和36)年に採用され
ました。この受験倍率はなんと75倍です。3年間
の在学中に陸士長に進み、看護師(当時は婦)免許
を取得すれば2等陸曹に昇任しました。その後は部
内幹部候補生も受験できるし、当時はもっとも恵ま
れた女性技能者でもあったわけです。

 愛称はWAC(ワック)といわれました。米陸軍
のWomen’s Army Corpsから略称を採用したのです。
「軍隊」ではないのにArmyはおかしいと思われまし
たが、マスコミもすっかりスルーしていました。こ
の後、空自はWAF(ワッフ)、海自はWAVES
(ウェイブ)という女性自衛官制度を造りますが、
どちらも米空軍、海軍の翻訳語です。正確には海自
の発音は「ウェイブズ」になるはずですが、これは
女性に「ブス」はないだろうということから、敢え
て波に通じる「ウェイブ」にしたとか聞いています。 

 この年の幹部1期生の前田米子1等陸尉は後に1
佐に進まれ、婦人自衛官教育隊長も務められました。

▼施設器材が見られる

 西部方面隊には第5施設団(複数の施設群を隷下
にもつ)があり、その駐屯地福岡県小郡からほど近
い筑後川の架橋(がきょう・「が」と濁るのが伝統)
演習が見られます。まず驚かされるのが、米式の巨
大なゴムボートです。正式には「浮のう(嚢)橋」
セットといい、水深1.2メートル以上の河川に
対して戦車などを通過させるものでした。

 幅は約2.6メートル、長さ約10メートル、高
さ約80センチメートル、浮力は約16トンという
ものです。この上に、アルミでできたポーク(普通・
短・傾斜の3種類がある)を適当に組み合わせて、
床状になるように敷き並べて橋にしました。

 これが35トンから50トンまでの戦車・車両等
を通過させます。映像には105ミリ榴弾砲を軽々
と引くクローラー(キャタピラー)付きの牽引車が、
偽装した戦車が通る姿が映っていました。

 また開発中の、おそらくのちに「70(ナナマル)
式自走浮橋(ふきょう)」とされる水陸両用車が紹
介されています。水深約1.5メートル以上の深さ
の河川に乗り入れて、フェリーボートのように車輌
や戦車を運んだり、つなげて橋になったりしました。

 73式装甲車の試作型も見ることができます。1
973(昭和48)年に仮制式として採用されます
。これも水中に乗り入れて進む姿が見られます。

▼昭和天皇、皇后陛下が「三笠」を初訪問

 短い時間ですが、横須賀市に保管されていた戦艦
「三笠」に天皇・皇后両陛下が初めて訪問されてい
る映像もあります。1905(明治38)年5月2
7日、対馬沖で戦われた日本海海戦を戦った殊勲艦
でした。日本海軍聯合艦隊とロシア海軍バルチック
艦隊が激突したこの海戦は、日本海軍の大勝利に終
わりました。

 高名な東郷平八郎海軍大将が、この吹きさらしの
艦橋トップで指揮を執り、その提督の靴跡の形が床
板には描かれています。三笠は英国製の当時、最新
鋭の戦艦であり、その後には事故で爆沈もしました
が復旧され、退役後は記念艦として現在の場所(現・
三笠公園)にありました。


 戦後は米軍に接収され、ダンスホールなどにされ
ましたが、有志の努力によって昔の姿に戻ることが
できました。そこへ両陛下が戦後23年経って、初
めて行かれたとは驚かされます。

▼国立競技場前の行進と世相

 当時の陸自の人員は17万3000、海自は3万
6000と艦艇15万トン、空自は4万人と100
0機の航空機という勢力でした。さっきご紹介した
陸自のWAC隊も行進し、偵察用オートバイが初め
て行進します。もっとも、現在のようなモトクロス・
バイクではありません。大型の、バイクに詳しくは
ない筆者には分かりません。

 映像の中には「檜町警備隊」という変わった名称
の部隊が編成されたことが出てきます。なるほど、
この翌年には「70年安保」の年になります。10
年ごとの日米安全保障条約の見直し、調印の時期が
近づいていたのです。この60年代の後半は「大学
紛争」の時代でした。

 そうした中で、赤坂桧町(六本木)にあった防衛
庁に過激な学生が突入するといった事件がありまし
た。そのため警衛がヘルメットに帯剣、小銃をもつ
といった姿に変わり、その任務にあたる警備隊がつ
くられたのです。

 若い方々には遠い話に違いありません。この年に
「日大闘争」が始まりました。学生運動という荒れ
た時代の始まりです。元々は日本大学の経理の中で
不透明な20億円もの支出があったことからでした。

 学費の値上げ反対闘争といい、学生の暴力は大き
な社会問題となりました。なぜ、学生は暴れたか、
当事者の回想を見聞きすると、ずいぶん純粋な真面
目な動機に裏付けられた行動のようになっています。
でも、わたしのような「政治的意識の低い」同世代
(やや下ですが)から見える景色とはずいぶん違っ
ています。

 「国を憂える」、あるいは「社会の現状を否定し
理想を語る」というのは、旧い知識人、あるいはそ
れを自負する人だけの特権でした。大学、いわゆる
高等教育への進学率が10%くらいなら、まだ大学
生はそうした知識人ともいえたでしょう。社会に出
ても、まだエリート扱いをしてもらえた人たちです。

 現に、1963(昭和38)年の某大学の卒業式
では、その総長が「諸君は社会に出たその日から指
導者、知識ある人と思われるが・・・」と送辞を述
べ、それをあからさまに否定する人はいませんでし
た。

 ところが、この40年代の半ばになりますと進学
率は30%を超えました。卒業しても、前のような
扱いは受けられない。わたしはそうした怒りや苛(
いら)立ちが、ああした過激派の学生たちの心の底
にあったと思います。

 わが国の史上最大の経済成長とはいつか、その答
えは第1次世界大戦の戦中と戦後にありました。1
910(明治43)年から1920(大正9)年の
10年間で、わが国の名目GNP(国民総生産)は
4倍に膨れ上がります。しかし、1960(昭和3
5)年から70(昭和45)年の10年間はどうだ
ったか。16兆円から76兆円にもなりました。実
に5倍近くです。

 もう少し詳しく見ると、1964(昭和39)年
は東京オリンピックの年でした。東海道新幹線が走
り、首都高速道路も開通します。ホテルも開業がラ
ッシュ、そして過剰投資のおかげでいったんは不況
になりますが、66年には回復します。これから1
973(昭和48)年の第1次オイルショックまで、
わが国の高度経済成長は続いてゆきました。

 国内の平和と豊かさの増進とは別に、アジアは混
乱を続けています。ベトナム戦争は1973(昭和
48)年に停戦しますが、アジアの貧しさは豊かな
日本の若者にとって「きまりの悪い」ものだったよ
うです。そのアジアの停滞とベトナムの戦争のおか
げで、わが国は豊かになっている。だから・・・と
いった思いは、真面目な青年の看板の多くがもつも
のでした。

 次回は一気に第4次防衛力整備計画(昭和47年
度~51年度)、1972年から76年度のみどこ
ろを見ましょう。



(つづく)


(あらき・はじめ)


☆バックナンバー
 ⇒ https://heitansen.okigunnji.com/
 
荒木さんへのメッセージ、ご意見・ご感想は、
このURLからお知らせください。

https://okigunnji.com/url/7/
 
 
●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、
同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。
日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸
海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を
行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』『自衛隊
警務隊逮捕術』(並木書房)がある。
 

『自衛隊の災害派遣、知られざる実態に迫る-訓練
された《兵隊》、お寒い自治体』 荒木肇
「中央公論」2020年3月号
 https://amzn.to/31jKcxe


 
PS
弊マガジンへのご意見、投稿は、投稿者氏名等の個
人情報を伏せたうえで、メルマガ誌上及びメールマ
ガジン「軍事情報」が主催運営するインターネット
上のサービス(携帯サイトを含む)で紹介させて頂
くことがございます。あらかじめご了承ください。


最後まで読んでくださったあなたに、心から感謝し
ています。
マガジン作りにご協力いただいた各位に、心から感
謝しています。
そして、メルマガを作る機会を与えてくれた祖国に、
心から感謝しています。ありがとうございました。

----------------------------------------------
-
メールマガジン「軍事情報」
発行:おきらく軍事研究会
      (代表・エンリケ航海王子)
メインサイト:https://okigunnji.com/
問い合わせはこちら:https://okigunnji.com/url/7/
メールアドレス:okirakumagmag■■gmail.com
(■■を@に置き換えてください)
----------------------------------------------
 

 
配信停止はこちらから
https://1lejend.com/d.php?t=test&m=example%40example.com
 
 
投稿文の著作権は各投稿者に帰属します。
その他すべての文章・記事の著作権は
メールマガジン「軍事情報」発行人に帰
属します。
 
Copyright(c) 2000-2021 Gunjijouhou.All rights reserved.