配信日時 2021/02/17 09:00

【特別紹介 防衛省の秘蔵映像(3)】昭和35(1960)年防衛庁記録 荒木肇

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荒木さんの最新刊

知られざる重要組織「自衛隊警務隊」にスポットを
当て、警務隊とは何か?の問いに応えるとともに、
警務隊で修練されている「逮捕術」を初めて明らか
にしたこの本は、小平学校の全面協力を受けて作ら
れました。

そのため、最高水準の逮捕術の技の連続写真が実に
多く載っています。それだけでなく、技のすべてを
QRコードを通して実際の動画をスマホで確認できる
のです!

自衛隊関係者、自衛隊ファン、憲兵ファンはもちろん、
武術家、武道家、武術ファンにも目を通してほしい
本です。

『自衛隊警務隊逮捕術』
 荒木肇(著)
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こんにちは。エンリケです。

きょうは、
「防衛省の秘蔵映像」の解説 3回目です。

今わが国を覆っているかに見える「騒動」の本質も、
当時と同じ構図でしょう。

コロナ騒動を利用し、五輪を中止に導き、菅内閣を
打倒するのが目的ですね。

当然、背後には、すべてのシナリオを描いてる、
名前を変えただけで、核は当時と同じ「ある勢力」
があり、国内で顔出しして反対活動しているあらゆ
る分野の方々は「彼らの走狗・パシリ」でしょう。

<「安保ハンタイ!安保ハンタイ!岸を倒せ!」>

と同じことが、半世紀以上経ったいま、再び繰り返
されています。反日活動の定形進化は止まりません。


さっそくどうぞ。


エンリケ


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特別紹介

防衛省の秘蔵映像(3)
─昭和35(1960)年防衛庁記録─


荒木 肇

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□ご挨拶

 建国記念の日も穏やかに過ぎました。東京都をは
じめ、多くの府県では罹患者の方々も減りつつあり
ます。とはいえ、油断できないのが医療体制。従事
者の方々のご苦労もしのばれます。また、この夏の
オリンピック・パラリンピック開催に向けて、いま
も尽力されておられる方々もお疲れ様です。

 そこへひと騒動起きました。森喜朗組織委員長の
辞任です。しかも、後任についてもドタバタとしか
言えない様子になりました。マスコミの力はまだ大
きいと思わされ、またネット社会での匿名の森会長
攻撃もすごいものでした。

 それで思い出したのが、1960(昭和35)年
の、日米安全保障条約改定の騒ぎです。あのときも
新聞各紙、ラジオ、テレビの報道はまさに狂乱状態
でした。なにぶん、安保阻止国民会議という、今か
ら思えば怪しい団体がありました。

 社会党、共産党、日本労働組合総評議会(総評)、
全日本学生自治会総連合(全学連)、日中国交回復
国民会議などがこの「国民会議」の中心でした。
学者・知識人などによる「安保問題研究会」、文化
人・芸術家による「安保批判の会」などもマスコミ
を使って、反米、岸信介(きし・のぶすけ)内閣打
倒に向けた活動を熱心に行なっていました。


▼さらっと語る35年版の映像記録

6月15日には、全国的大衆闘争の日といわれ、職
場大会、ストライキ、デモなどに580万人もの人
が参加したそうです。わたしは小学校3年生でした。
父に手を引かれて、日比谷(国会にかなり近い)
の和田倉門のすぐそばまで行きました。人のうねり
がどこまでも、どこまでも続いていたことを覚えて
います。

次の記憶は通っていた小学校です。学校で流行った
のは、「安保ハンタイ!安保ハンタイ!岸を倒せ!」
とテレビで見たスクラムを組んでのジグザグ・デ
モでした。子供はすぐに真似するものです。先生た
ちも特に叱ることもなく、止められた覚えはありま
せん。


騒ぎの中で、学生の一部と活動家たちが国会に乱入
しました。警察の機動隊がそれを排除します。その
混乱の中で一人の女子学生が亡くなりました。「権
力によって殺された」とマスコミや運動団体は主張
し、多くの人がそう信じましたが、その真相はいま
だにうやむやのままです。そうしたことにはほとん
ど触れずに、この年の防衛庁映像は作られています。

▼安保改定騒動の裏側


この条約の改定は、なんとか独立国家らしくなろう
という自民党によって計画されました。10年前に
占領が終わり、独立が許されたとき結ばれた安全保
障条約は、あまりにアメリカにおんぶに抱っこでし
た。軍事力は持たない、攻撃されたらアメリカ軍が
守ってくれる。アメリカが襲われても日本は何もし
ない・・・という不平等なものでした。

このままでは独立国とは言えない。そうした気持ち
から政権与党(自民党)は新しい安全保障条約を結
ぼうとしたのです。そして、大きな駐留軍関係経費
も問題でした。

一方、共産主義国家や社会主義国家への憧れを強く
もつ人々もいました。あるいは労働者の中には本気
で革命を起こそうと思っている人たちもいたのです。
「防衛大学校生は同世代の恥だ」と公言する高名
な若手文学者もいましたし、「警察官は権力のイヌ
だ」と書きたてる新聞記者や、言葉にするテレビの
解説者もいました。街を歩く自衛官に「税金泥棒」
と罵り、抵抗されないことをいいことに暴力までふ
るう人もいたのです。

それを煽るマスコミ人も、理論的な指導者にまつり
あげられたがる学者や評論家もおりました。芸術家
や学者の多くは親中国、親ソビエト連邦であり、中
には北朝鮮を理想国家のように言う人もおりました。
巧みな情報統制や操作に騙されていたのです。

しかし、反政府運動は、国会突入をきっかけにマス
コミの手のひら返しに裏切られます。朝日新聞をは
じめとして各社は「暴力はいけない。議会制民主政
治を守れ」という論陣を張りました。6月19日の
国会では自然承認があり、23日には条約批准書が
交換されて、新安保条約が発効すると、とたんに激
しい行動は終息してしまいます。後から聞くと、「
いや、安保条約の中身なんて読んだことはなかった。
ただ、岸と自民党のやり口が気に入らなかった」
という人が多かったことに驚きました。


 多くの人は、アメリカに出て行ってもらって、ソ
連や中国と仲良くして、非武装でやってゆく。それ
は、やっぱり無理だということを知っていたのです。
この後、11月の総選挙では自民党は296議席
を取りました。社会党は145議席です。選挙前に
は40議席だった民社党は17議席しか取れずに惨
敗でした。

自民党対社会党という2大政党政治の始まりです。
同時に、この安保条約でわが国は防衛経費負担を著
しく少なくできました。それも大きな理由の1つと
して、わが国はこれ以後、高度経済成長を遂げてい
ったのです。

▼防衛庁の移転、陸自の方面隊

 この1960(昭和35)年1月、防衛庁は新し
い庁舎に移転します。地下鉄日比谷線の六本木駅か
ら徒歩3分の桧町(ひのきちょう)駐屯地でした。
今はもうヒルズが建って超近代的な街並みです。昔
の面影はありません。そこは江戸時代には大名家の
下屋敷があり、明治からは歩兵第1聯隊の兵営があ
りました。道を隔てたところには歩兵第3聯隊の兵
営があり、赤坂の1聯隊、麻布の3聯隊と通称され
ていました。この桧町の駐屯地が市ヶ谷に移転する
のは2000(平成12)年秋のことでした。

 映像はこの年、方面隊体制を築いたことが描かれ
ています。北方、東北方、東方、中方そして西方の
5個方面隊ができました。それぞれの主力となるの
はナンバーのついた管区隊です。方面隊司令部は方
面総監部といわれ、映像には東方総監部の創設を記
念して市ヶ谷(現防衛省)駐屯地の中で観閲行進を
する特車部隊(M24)が観られます。

https://www.youtube.com/watch?v=-uP1D6Fb6o8

▼新中特車(61式戦車)

 4月7日には、神奈川県川崎市の三菱日本重工(
後三菱重工)下丸子工場で、「中特車」の発表会が
開かれています。ナレーションには「口径90ミリ
砲を装備し・・・」という言葉が流れます。戦後1
0年以上もの技術的空白期を乗り越えて、国産戦車
が誕生したのです。もっとも、朝鮮戦争以来の米軍
戦車、供与された戦車の整備などで、まったくのゼ
ロとは言えません。

 国産戦車が欲しい、そうした声は1953(昭和
28)年には、当時の第1幕僚監部(のちの陸上幕
僚監部)からすでに35トン、90ミリ砲装備の戦
車の要求が出ていたとのことです。供与されたM4
中戦車は33.6トン、52口径76ミリ砲装備で
した。

 1951(昭和26)年からの朝鮮戦争では、米
軍のM4中戦車の76ミリ砲では、北朝鮮軍のT3
4/85に対抗できませんでした。そこでT34の
85ミリ砲に勝る90ミリ砲がどうしても必要だと
思われました。そこで当時の米軍のM47、48は
90ミリ砲であり、西欧列国のスタンダードである
90ミリ砲でなければならないとされます。

また、国土防衛用としては鉄道輸送の必要があり、
車幅の制限があります。1067ミリの狭軌の路線
網があった国鉄も、他の私鉄もトンネルやホーム、
鉄橋などの規格が小さく、幅の大きな戦車は造れま
せん。安全限界といわれる規制がありました。

 米軍の90ミリ砲を搭載するM47、M48戦車
は車内の容積も大きすぎました。体格の良かった米
兵に合わせた規格が自衛官には大きすぎ、操縦席か
ら操向レバーやペダルに足が届きにくいなどという
こともあったといいます。

 基本設計は防衛庁技術研究本部、車体関係は三菱
重工、砲塔関係は日本製鋼が受け持ちました。第1
次試作はSTA-1と同2の2輌が造られ、195
7(昭和32)年までに完成します。1は車高をと
ことん低くすることを狙い、2はオーソドックスな
形でまとめられました。1はクローラー(キャタピ
ラー)の下部を支える転輪が7つになっています。
車高を抑えるために全長が長くなりました。

2には車高が高くなったものの、旋回性能が良くな
ったという長所があったそうです。第2次試作は1
958年12月に仕様が決まります。STA-3と
同4が納入されたのは35年3月でした。この3と
4は、砲口にある排煙器(ボア・エバキュレータ)
が丸いシングル・バッフル型からT字型に変えられ
たことです。砲口の左右に煙を飛ばし、砲手の照準
を容易にすることができました。生産型はこの2次
試作車を改修し、73(昭和48)年まで560輌
が生産され、主力戦車として活躍します。映像には
水壕を越える雄姿が映っています。

61式は、いまの戦車から見ると幅が狭く、背が高
く見えます。それは車体の最大幅が2950ミリ、
全高が3120ミリもあるからです。大東亜戦争中
に、日本兵が「敵は2階建ての戦車で来た」と表現
したM4(供与されたM4A3E8で全高2980
ミリ)よりも140ミリも高かったのでした。これ
はM4の幅が2990ミリで61式よりも40ミリ
も小さいことが加わったためでしょう。

ちなみに、帝国陸軍の97式中戦車の全高は47ミ
リの砲を積んだタイプで2380ミリ、幅は233
0ミリでありました。

▼海自の「てるづき」、潜水艦「おやしお」とネプ
チューン

 「てるづき」はアメリカ軍の域外調達として発注
され、完成と同時に貸与(のち供与)された国産大
型護衛艦でした。31年度の予算建造警備艦は前回
に紹介した「むらさめ」、「ゆうだち」とこの35
年に竣工した「あきづき」と「てるづき」です。ネ
ームシップとなる「あきづき」は就役直後から、ま
た他の艦も警備艦から「護衛艦」へと名称が変更さ
れました。

 「てるづき」は自衛艦隊(戦前の実動部隊である
聯合艦隊に相当する)の旗艦を務めることになりま
す。対潜水艦用の「あやなみ」型と対空戦重視の「
むらさめ」型の両者を合わせたような汎用護衛艦で
す。

ただし、司令部設備をもっていました。司令部要員
のための容積が確保されました。大型化し基準排水
量が初めて2000トンを超えました。貸与艦なの
でアメリカ海軍の艦番号もついています。護衛艦と
しての「あきづき」はDD161、「てるづき」は
DD162、米海軍の番号はそれぞれDD960と
DD961になっています。
 
 戦後初の国産潜水艦「おやしお」も6月30日に
竣工しています。それまで海上自衛隊は米海軍から
供与された米軍潜水艦(1943年竣工したミンゴ)
だけを保有していました。護衛艦などの対潜水艦
訓練の標的になったり、乗員の救助訓練などに使わ
れたりしていたのです。

 それが戦後初の設計、建造で国産潜水艦が生まれ
ました。もちろん、相手はソ連の潜水艦です。水中
での高速発揮を実現し、ジーゼルで水上を進み時速
13ノット(約24キロ)、水中は電動機で時速1
9ノット(約35キロ)の高速航走をしました。水
中にいながらも空気取り入れ装置(シュノーケル)
を使ってジーゼル機関で進むこともできました。戦
前海軍の優れた技術であった自動懸吊(けんちょう)
装置、自動深度保持装置を継承しています。規準
排水量は1130トンです。この後、海自は水中標
的になるために小型潜水艦の建造を進めます。

 また、当時の主力対潜哨戒機であるロッキードP
2V-7ネプチューンも背景に登場します。当初の
供与機16機に続いて59年からライセンス国産機
が配備されます。以後、65年までに国産機は48
機にもなって、グラマン・アベンジャーTBM(2
0機供与)、ロッキードPV-2ハープーン(16
機供与)の老朽化と退役の穴を埋めました。

 第2次大戦中に開発された世界最初の陸上基地か
ら発進する洋上哨戒の専用機です。レーダー、MA
D(磁気探知装置)をもっています。全幅31.6
5メートル、全長27.94メートル、自重が22.
6トンといった堂々たる大型機です。対潜水艦魚
雷や爆弾、ロケット弾などをもちました。

▼F86Fセイバーの曲技飛行

 5機による編隊アクロバット飛行が紹介されます。
9月18日、「航空50周年」、つまり日本で初め
てアンリ・ファルマン機で徳川大尉が飛んだ年から
半世紀。それを祝って羽田空港で機材の展示や、ア
クロバット飛行が行なわれます。多くの観客は、そ
の妙技にみとれて喝采しています。のちにブルー・
インパルスになるチームでしょうか。



(つづく)


(あらき・はじめ)


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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、
同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。
日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸
海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を
行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』『自衛隊
警務隊逮捕術』(並木書房)がある。
 

『自衛隊の災害派遣、知られざる実態に迫る-訓練
された《兵隊》、お寒い自治体』 荒木肇
「中央公論」2020年3月号
 https://amzn.to/31jKcxe


 
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