配信日時 2021/01/13 09:00

【陸軍工兵から施設科へ(13)】 「旅順要塞の激闘(1)」 荒木肇

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荒木さんの最新刊

知られざる重要組織「自衛隊警務隊」にスポットを
当て、警務隊とは何か?の問いに応えるとともに、
警務隊で修練されている「逮捕術」を初めて明らか
にしたこの本は、小平学校の全面協力を受けて作ら
れました。

そのため、最高水準の逮捕術の技の連続写真が実に
多く載っています。それだけでなく、技のすべてを
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自衛隊関係者、自衛隊ファン、憲兵ファンはもちろん、
武術家、武道家、武術ファンにも目を通してほしい
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 荒木肇(著)
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こんにちは。エンリケです。

「陸軍工兵から施設科へ」の十三回目です。

きょうも実に面白い話です。

さっそくどうぞ。


エンリケ


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陸軍工兵から施設科へ(13)

旅順要塞の激闘(1)


荒木 肇

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□再び緊急事態宣言に

 みなさま、お変わりありませんか。わたしが暮ら
す神奈川県も、1都2県とともに緊急事態宣言を受
けることになりました。おかげさまで、わたしや家
族にはまだ感染という事態はありません。しかし、
周辺では、陽性者や疑いのある人などの噂を聞くよ
うになりました。

 そこで心配なのは、周囲とのコミュニケーション
をとる場所や機会をなくしている方々のことです。
わたしには家族があり、職場から帰ればその日の出
来事を話し合ったり、いっしょに笑ったり悲しんだ
りすることができます。

ところが、わたしの職場には地方から出てきて、1
人で暮らしている仲間がいます。学生時代から下宿
暮らしだから、1人で過ごすのは慣れている。そう
はいっても、外出も不自由、帰省もできない、何よ
り職場の人たちと公的な場でしか話ができないのは
初めてだと語ってくれました。

わたしも含めて教員というのは、チームで働くのは
当然ですが、同時に個人事業主のような側面もあり
ます。報告・連絡・相談ということが重視されてい
ます。ただ、それだけでは足りません。学校帰りに
一杯やる、食事を共にする、そうした非公式な場が
必要です。細かい授業のノウハウや、対人関係のコ
ツ、そういったものを心を開いて伝達する私的な場
が大事なのでしょう。

それができなくなって、ほぼ1年が経とうとしてい
ます。心を病む人も増えてきました。孤独な若い先
生たちの誠実な姿を見るたび、ストレス対策も自分
だけでやらねばならない、そういった苦労を思いま
す。もちろん、わたしはいろいろな場で応援してい
ますが。


▼旅順要塞攻略の工兵

 1904(明治37)年、旅順要塞攻略のために
第3軍の戦闘序列が下された。これが5月20日の
ことだった。すでに第1軍(近衛・第2・第12師
団)は韓国の仁川・鎮南浦に上陸し、平壌(ピョン
ヤン)付近に集中した後に北進し、鴨緑江(おうり
ょくこう・韓中国境線)を渡河した。

第2軍(第3・第4・第6)は遼東半島(りょうと
うはんとう)の塩大澳(えんだいおう)も上陸後、
大連港の根拠地を確立するため金州付近の敵を撃破
した。有名な南山(なんざん)の戦闘を制し、同地
を占領する。これによって、ロシア野戦軍主力と旅
順要塞の連絡は断たれた。その後、奉天に続く東清
鉄道に沿って北上して遼陽(りょうよう)に向けて
進撃した。

 両軍の中間には、5月中旬に独立第10師団が上
陸し、北上。この独立第10師団を中心に、第5師
団が合流し、6月30日には第4軍が編成された。

▼乃木大将が率いた第3軍

 第3軍(第1・第9・第11師団)は海軍の要請
によって、ロシア旅順艦隊を軍港から追い出す、あ
るいは無力化するために編成された。第1師団は首
都東京を中心とした関東地方、第9同は金沢を中心
にした北陸地方、第11同は四国地方全土の兵士で
構成されていた。

 乃木が初めて「旅順要塞防御配置図」を見たのは
5月13日、東京三宅坂の参謀本部の一室だったと
いう。ロシア軍の堡塁(ほうるい)がうねるように
旅順口を取り巻いている。しかし、詳細な情報はま
るで記載されていなかった。

そこにどれだけの機関銃・砲が配備されているか、
その堡塁のべトン(セメントで構成されたコンクリ
ート)の厚さはどれほどか、どれほどの兵力がこも
っているかは、ほとんど知られていなかったのだ。

そのことについては詳しく語る人がいない。乃木の
無能、そうして莫大な損害を受けた第1回総攻撃の
ことに一気に論を進めてしまうのだ。当時の参謀本
部も、多くの情報将校を戦前から旅順近くに送りこ
んでいた。堡塁の配置や、装備、守備隊員の数など
を調べようとしていたのである。

しかし、その懸命な努力をはね返したのは、ロシア
陸軍の防諜努力だった。要塞建設工事に携わった現
地の清国人をはじめとして、ロシア軍将兵にも厳重
な監視の目を光らせていた。参謀本部第2部(情報
担当)の将校も清国人労働者をよそおって旅順市街
に入ることはできたが、市街背面の要塞地帯を見る
ことすらできなかったらしい。

『明治三十七・八年日露戦史』にも、率直に「その
防御上の堡塁砲台の強弱につきて未だ偵察し能はざ
るも・・・」と書いている。

「まず、強襲して様子を探るべし」というのが、当
時の常識であり、世界陸軍の認める「まともな攻撃
法」だったことを指摘しておこう。

▼第1回総攻撃まで

 5月28日、第3軍司令部は東京を出た。広島県
宇品軍港から乗船、6月6日、遼東半島塩大澳に上
陸する。旅順東方、北泡子涯(きたほうしがい)に
軍司令部を設けた第3軍は、ここで未着の第9師団
と攻城器材(こうじょうきざい)、つまり重砲、攻
城砲、弾薬、鉄道材料、修理・整備用の器材・部品
等の到着を待った。


 ここでいう重砲とは、軽快な機動力をもった野砲
(口径75ミリ)よりも大きく、およそ100ミリ
以上の口径をもつ砲のことである。攻城砲はふつう
馬で牽引できず、重量があり、鉄道などで運ぶもの
のことをいう。また、野砲は榴霰弾(りゅうさんだ
ん・曳火信管によって目標上空で炸裂させ、小さな
弾子を放射する)で野外の露出した人馬を攻撃する
ものだった。したがって、榴霰弾は掩蓋(えんがい・
屋根)のある陣地には、あまり効果があがらない
ものである。

攻城砲は堅固な敵陣や建造物を撃つものである。当
時は、10糎(せんち)半加農(カノン)、12糎
同、15糎榴弾砲、12糎榴弾砲、15糎臼砲(き
ゅうほう)、9糎臼砲だった。加農は外来語のカノ
ンへの当て字であり、初速が高く平射(へいしゃ)
弾道である。射程、弾の届く距離が長いことを特徴
とする。当時は直接射撃(目で観測して目標を撃つ)
が加農の特徴だった。

対して榴弾砲は大きな弾を擲射(てきしゃ・ほおり
なげる)する大砲をいう。この射撃は多くが間接射
撃である。敵から見えない所から、観測所からの連
絡で弾着を修正し、山越えなどをして射撃できた。
要塞砲からの反撃も受けにくかった。

臼砲というのは、その名称通り、「うす」のような
形をしている。大きな口径に対して短い砲身である。
弾道は、いまの迫撃砲のようであり、射程は短い
が上空に高くあげて、落下させる。これも敵の目に
はつきにくい。

次に実際の射撃準備の話である。砲兵が射撃するに
は陣地占領、観測所の設置、弾薬の集積が必須の手
続きになる。この弾薬の話である。

佐山二郎氏の指摘によれば、攻城重砲の砲弾準備が
まったく間違っていたのだった。ドイツ陸軍の攻城
輜重が砲1門あたり1000発を用意した。そこで
日本参謀本部は、800発ほどでいいだろうとした。
その理由は、ドイツが攻めるのはフランスである。
そのフランス軍の要塞ほどロシア軍要塞は堅固で
はないだろうというのだ。

こうして800発を用意し、半分の400発を攻城
砲廠(こうじょうほうしょう)、つまり攻城砲兵隊
の整備部隊が携行し、残り400発は軍兵站(ぐん
へいたん)部に属する野戦兵器廠に預けるように参
謀本部は決めてしまったのである。野戦兵器廠はふ
つう、兵站主地に置かれる。

海上輸送されて揚陸した物資を軍兵站部の輸送部隊
が運ぶ。その巨大な集積場所が兵站主地だ。前線か
らははるか遠い地にある。さらに物資は兵站地に送
られ、そこから兵站末地に逓送された。部隊が砲弾
を手にするのは、師団弾薬大隊が末地から運んでき
てからである。

参謀本部から請求された陸軍省担当者は驚いた。そ
んなに砲弾が要るものかと思い、在庫が少ないこと
もあったが15糎臼砲弾は300発しか送られなか
った。他の砲への残りの400発は攻城の着手まで
には大連(だいれん)に運ぶと約束されたが、実際
には間に合わなかった。

次回は失敗に終わる総攻撃について。



(つづく)


(あらき・はじめ)


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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、
同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。
日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸
海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を
行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』『自衛隊
警務隊逮捕術』(並木書房)がある。
 

『自衛隊の災害派遣、知られざる実態に迫る-訓練
された《兵隊》、お寒い自治体』 荒木肇
「中央公論」2020年3月号
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