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荒木さんの最新刊
知られざる重要組織「自衛隊警務隊」にスポットを
当て、警務隊とは何か?の問いに応えるとともに、
警務隊で修練されている「逮捕術」を初めて明らか
にしたこの本は、小平学校の全面協力を受けて作ら
れました。
そのため、最高水準の逮捕術の技の連続写真が実に
多く載っています。それだけでなく、技のすべてを
QRコードを通して実際の動画をスマホで確認できる
のです!
自衛隊関係者、自衛隊ファン、憲兵ファンはもちろん、
武術家、武道家、武術ファンにも目を通してほしい
本です。
『自衛隊警務隊逮捕術』
荒木肇(著)
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こんにちは。エンリケです。
「陸軍工兵から施設科へ」の五回目です。
冒頭文のフランスばなし。
「真の歴史」をわきまえているかいないかで
同じ風景をみても得られるものが違うなあ。
と感じさせられました。
きょうのような軍人列伝、大好きですw
実力主義だった明治陸軍の姿や大谷大将のことなど、
うれしい限りです!
さっそくどうぞ。
エンリケ
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新シリーズ!
陸軍工兵から施設科へ(5)
士官生徒の時代
荒木 肇
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□ご挨拶
はやくも霜月、7日には立冬となりました。これ
から本格的な冬がやってきます。寒さにともなって、
コロナ禍はいっこうに警戒を緩めることができな
い様子です。おかげさまで、身近なところに感染さ
れたという方はまだ聞かれませんが、これも国民が
みな協力してマスク着用、外出自粛などに励まれて
いるからでしょう。
産経新聞を読んでいますと、在フランスの方から
の情報が載っていました。フランスのコロナ爆発の
話です。まず、わが国と比べるとフランス社会には
大きな特徴があるとのこと。握手ばかりかハグ、顔
を接近させて親愛の情を表す習慣、そして手を洗わ
ないという常識があるとのことです。また、いわゆ
る個人主義で、統制に服さないという国民性がある
とのことでした。
そういえば、フランス風を導入したわが陸軍、そ
の背景にある個人主義にはずいぶん困ったらしいの
です。自主・独立の気分、フランス革命以来の反権
威、統制に反発する気質、これらに支えられたフラ
ンスの文化が移入されたのです。初期の軍学校では
士族出身の生徒が多く、その自尊心の異様な高さや、
自主・独立の気分がひどくて、これらが相まって
たいへんだったそうです。
フランス社会の現状の一端を教えてもらい、初期
の陸軍の混乱を思い出しました。
▼士官生徒時代始まる
市ヶ谷校舎の落成は1878(明治11)年6月
になった。西南戦争のおかげである。学校長は曽我
祐準(そが・すけなり)少将だった。この人は福岡
県柳川の出身であり、明治16年に中将に昇任、そ
の後参謀本部次長、陸軍士官学校校長(明治19年)
などと務めたがドイツ制式への反対を強硬に主張
した。そのため陸軍中枢から追われ、宮中顧問官、
貴族院議員、枢密顧問官などを歴任することになっ
た。
次長は保科正敬(ほしな・まさたか)大佐、教頭
は武田成章(たけだ・なりあき)大佐だった。武田
大佐は幕末の兵学者でフランス築城学を生かして、
北海道の五稜郭(ごりょうかく)を設計したことで
有名な人物である。この落成式の日に、武田と理科
の教官たちが工夫して軽気球を揚げたと松下博士の
著書にある。
士官生徒の2期生は、1876(明治9)年に入
校し、79年2月1日に卒業し、少尉に任官したと
松下博士は書いている。ところが、『陸軍士官学校
史』によれば1878年12月に卒業とある。砲兵
・工兵少尉はそのまま在学して修学を続けた。これ
を「生徒少尉」といったことは前回にも書いた。
この期は、のちの有名人がそろっている。136
名が卒業し、その内訳は歩兵91名、騎兵はなし、
砲兵が32名、工兵は13名になっている。なお、
輜重兵科は1899(明治32)年卒業の士官候補
生第11期からしかいない。
▼日露戦争で活躍する士官生徒世代
最も有名な第2期士官生徒出身者といえば、田村
怡与造(たむら・いよぞう)だろう。旧姓は早川で
ある。山梨県出身だったので「今信玄(いましんげ
ん)」といわれた。戦国時代の英雄、武田信玄の再
来だというのだ。それほど剛毅(ごうき)で頭脳明
晰だったらしい。
日露戦争の直前、1893(明治36)年に病に倒
れ死去、中将に昇任する。対ロシア戦争の準備が命
を縮めたという。ドイツに留学すること5カ年半で
あり、日清戦争では大本営兵站監部参謀、第1軍参
謀副長として出征、駐ドイツ武官、参謀本部次長を
務めた。このときに病死してしまった。
井口省吾(いぐち・しょうご)も有名である。砲
兵で、静岡県出身。1916(大正5)年に大将に
親任された。日清戦争では第2軍参謀(作戦主任)、
参謀本部勤務、陸軍省軍務局砲兵課長、兼ねて軍
事課長、日露戦争には満洲軍参謀(兵站)として出
征した。戦前には2期後輩の松川敏胤(まつかわ・
としたね)とともに参謀本部部長となり、田村次長、
つづいて児玉源太郎次長を補佐して作戦準備を進
めた。
大谷喜久蔵(おおたに・きくぞう)も閥外人であ
る福井県出身歩兵、しかも大阪鎮台彦根分営(滋賀
県彦根市)に入営し、兵から士官学校を受験した苦
労人だった。1916(大正5)年には大将に親任
された。日露戦前、1902(明治35)年に少将
となり、歩兵第24旅団長、日露戦争では師団、軍
の兵站監を務めた。戦後は戸山学校長、教育総監部
参謀長、本部長を務める。最後の実戦指揮は191
8(大正7)年のシベリア出兵の派遣軍司令官だっ
た。
司馬遼太郎氏による『坂の上の雲』で無能な第3
軍司令部参謀長とされた伊地知幸介(いじち・こう
すけ)中将も同期生だった。砲兵、鹿児島県出身で
ある。日清戦争では第2軍参謀副長、1900(明
治33)年4月に少将になる。これはのちに大将と
なる井口や大谷がそれぞれ明治35年5月、同6月
と比べると2年も早く将官になったという優秀さで
ある。これが頑固で、自分が第一人者だと威張って
いたと描かれて、ずいぶん損をしている。実像はま
た別のようである。
実戦指揮で有名になった大迫尚道(おおさこ・な
おみち)は砲兵出身の大将だった。日清戦争前には
ドイツ駐在の経験もある。大迫3兄弟は有名な軍人
ばかりである。長兄は尚敏大将、次兄は西南戦争で
亡くなった尚克大尉だった。尚道は薩摩閥であるか
ら御親兵から幼年学校へ入り、そこから士官学校に
進んだ。
砲兵科では4位の成績で卒業。1883(明治1
6)年には砲兵中尉、86年には陸軍大学校教授に
なり、自身は大学校を卒業しない。89年に砲兵大
尉でドイツ留学、91年には少佐でまた渡欧、ドイ
ツ公使館付きになった。日清戦争には野砲兵第1聯
隊大隊長だったが8月には第1軍参謀として出征す
る。その後、野砲兵第3聯隊長などを務めた後、1
901(明治34)年6月に少将となって日露戦争
には第2軍参謀長として勤務する。
大将にはなれなかったが、長岡外史(ながおか・
がいし)中将もこの期である。山口県出身の歩兵、
陸軍大学校第1期生だった。1902(明治35)
年6月少将になる。この人も晩年のプロペラ髭で有
名になった。いまも新潟県上越市に残る第16師団
長官舎は、彼が建てた西洋式建築として有名である。
また、日本航空界の育ての親としても高名であるが、
若き頃、二宮忠八薬剤生(薬剤部下士)の提出した
飛行機の研究に冷たい態度をとったことを悔いてい
たというエピソードもある。
▼各兵少尉になった3期生
1879(明治12)年12月22日に少尉に任
官したのが第3期生である。この期は優秀な人が日
露戦争では少将であり、騎兵の秋山好古大将がいる。
大将を多く出した期であり、卒業生は歩兵64名、
騎兵3名、砲兵7名、工兵15名のうち、大将が
5人も出た。
秋山は1883(明治16)年に中尉に昇任し、翌
年、陸軍大学校へ入る。
この期から、兵科の呼称を階級名の前に入れるよ
うになった。昭和15年の兵科撤廃まで、陸軍砲兵
中尉、陸軍騎兵大佐などというようになる。
本郷房太郎(ほんごう・ふさたろう)は歩兵で丹
波篠山藩士の子、内山小次郎(うちやま・こじろう)
は砲兵で鳥取藩士の子、柴五郎(しば・ごろう)は
福島会津藩士の子、そして工兵の父と呼ばれた上原
勇作(うえはら・ゆうさく)は宮崎都城藩士の子と、
愛媛松山藩士の子である秋山の5人の大将である。
こうしてみると、長州出身者はおらず、維新の雄
藩どころか、賊とされた会津藩士、松山藩士の子が
大将にまで栄進している。明治陸軍は、それなりに
能力主義であったのだ。
(つづく)
(あらき・はじめ)
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●著者略歴
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、
同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。
日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸
海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を
行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』『自衛隊
警務隊逮捕術』(並木書房)がある。
『自衛隊の災害派遣、知られざる実態に迫る-訓練
された《兵隊》、お寒い自治体』 荒木肇
「中央公論」2020年3月号
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