配信日時 2020/11/04 09:00

【陸軍工兵から施設科へ(4)】市ヶ谷台に士官学校が生まれる 荒木肇

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荒木さんの最新刊

知られざる重要組織「自衛隊警務隊」にスポットを
当て、警務隊とは何か?の問いに応えるとともに、
警務隊で修練されている「逮捕術」を初めて明らか
にしたこの本は、小平学校の全面協力を受けて作ら
れました。

そのため、最高水準の逮捕術の技の連続写真が実に
多く載っています。それだけでなく、技のすべてを
QRコードを通して実際の動画をスマホで確認できる
のです!

自衛隊関係者、自衛隊ファン、憲兵ファンはもちろん、
武術家、武道家、武術ファンにも目を通してほしい
本です。

『自衛隊警務隊逮捕術』
 荒木肇(著)
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こんにちは。エンリケです。

「陸軍工兵から施設科へ」の四回目です。

今日も登場する「軍人小話」も、たまらなく好きです。


さっそくどうぞ。


エンリケ


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新シリーズ!

陸軍工兵から施設科へ(4)

市ヶ谷台に士官学校が生まれる

荒木 肇

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□ご挨拶

 冬が近づいてきました。人と出会う機会が減り、
行事や会合も縮小され、ずいぶん暮らし方が変わっ
た方が多いと思います。わたしも例外ではなく、外
食することは減り、元から外出も少なくなりました。
マスクをすることがいつものことになり、息苦し
さにも少し慣れてきました。


 心配なのは人の心です。わたしたちはコミュニケ
―ションをとって人と生きています。コミュニケー
ションの本旨とは、情報と感情の交流、共感だとい
う指摘がありました。情報交換や発信はネットでも
できて、不自由はありません。ただ、ナマな感情の
共有はとても難しい。飲食を共にすることで、他者
への寛容度が広がるのも事実です。

 宴会や、友人を自宅に招いての交流が不足してい
ます。それが飲食業界の不振につながり、雇用の機
会も減らしているのだと今更ながら気付いています。
若いころからお世話になってきた横浜の居酒屋が
小さくなりました。伊勢佐木に本店があり、支店が
横浜駅前に2軒ありました。いまは伊勢佐木町店と
駅前店が1つ無くなっています。

 残された1店だけを応援しています。


▼陸軍士官学校発足す

 兵学寮の傘下にあった教導団が独立する。教導団
は下士を養成するところだ。1873(明治6)年
8月13日のことである。つづいて同20日、戸山
出張所(現・新宿区戸山)が設けられ、全軍隊の教
育訓練を統合研究する戸山学校に翌74年に改称さ
れた。

 士官学校の独立は74(明治7)年11月2日で
ある。次に幼年学校が兵学寮から離れて陸軍省の直
轄となって独立する。翌75(明治8)年5月9日
のことである。同日、戸山学校も兵学寮から離れた。
こうして、その日、伝統ある兵学寮は廃止された。

 「仮」士官学校のことも触れておかねばならない。
兵学寮の管轄下に士官学校があった1873(明
治6)年10月4日に「非職士官」104名を入寮
させたという。非職というのは、官をもっているが
補職されない立場を非職といった。フランス式の導
入を促進するためである。12月17日には、「仮
士官学校」という学校を別につくり、教導団の優秀
な者を入学させて速成だが士官教育を行なった。次
に全国の各隊から士官生徒を採用し、歩兵93名、
砲兵54名、工兵10名を急いで教育した。これが
二期生であり、先の一期生も士官学校卒業であるけ
れど、これを正式な卒業生として数えることはない。

 ところで、士官とは当時、「尉官」をいう。佐官
は「上長官」といった。律令古代官制に由来する言
い方である。前にも書いたが、階級名称については
議論があり、古代の武官の官名を復活することにし
た。

近衛府の長官の將、衛門府の次官である佐、兵衛府
の判官である尉である。これらを当初、将官は勅任、
佐官は奏任、尉官を判任としたが、列国の制度を
考え、尉官も奏任とされた。外国のNCO(信任状
をもたない士官)にあたる下等士官は、やはり「軍
曹」という言葉を古代兵衛府から採った。下等士官
、下士官は大臣に任免権がある判任官になった。

▼士官学校の独立

 1874(明治7)年10月27日、陸軍士官学
校条例が制定された。同年11月2日に正式にスタ
ートする。ここから陸軍士官学校は66年の歴史を
もつことになった。校舎は現在、新宿区市谷本村町
にある防衛省の位置にある旧尾張藩邸である。総武
線市ヶ谷駅から徒歩10分、同じく四谷駅からも徒
歩10分の位置になる。

 12月25日には、生徒たちがここに入った。西
には富士山がよく見える。市ケ谷台と今も言われる
ように、小高い丘の上にある。陸軍士官学校は、1
941(昭和16)年までここに存在した。

 ところで、市ヶ谷決定についての秘話がある。そ
れは、上野台(現、東京都台東区)がいったん候補
地に挙がったことだ。陸士出身の軍制史の泰斗、松
下芳男によれば、初代の校長曽我祐準(そが・すけ
のり)少将が野津鎮雄大佐(のち中将)と御雇教師
ジュルタン工兵大尉(フランス陸軍)を連れて、上
野まで出かけたという。

 そうしてみると、近くにある下谷(したや)とい
う土地が気になったらしい。現在のJR上野駅の北
東部にあたり、上野台といわれる高地の下になる。
そこから下谷という地名が生まれた。いまもJRの
山手線、常磐線、京浜東北線、高崎線、宇都宮線、
東北・上越新幹線などは台地の下を大きく回って北
に進んでいる。

 この下谷は、いまも旧い大正・昭和期の雰囲気を
残すところだが、明治初めの当時は町屋が密集し、
はるか向こうには官許の吉原遊郭が望めた。これで
は士官生徒の育成にはふさわしくないということか
ら、市ヶ谷台に決まったという。

▼生徒少尉

 1875(明治8)年1月28日から2月27日
までの間に、数回にわたって生徒158名を入学さ
せた。これを士官生徒第1期生という。この修学期
間は兵科によって異なった。歩兵と騎兵は2年、砲
兵と工兵は3年だった。歩兵と騎兵は卒業と同時に
少尉に任官する。ただちに部隊に赴任した。

 対して砲兵と工兵少尉は、さらに1年間の在校が
必要とされた。明治9年には、それでも修学が不足
ということから、歩・騎兵科は3年、砲・工兵科は
4年とされたが、1881(明治14)年にはさら
に延長された。砲・工兵科は5年となった。このこ
とは、後に砲・工兵科将校の義務教育となる砲工学
校普通科課程の前身になると松下博士も指摘してい
る。

▼在学中に西南戦争に出た1期生

 この士官生徒第1期生の中には、在学中に起こっ
た西南戦争(1877年2月)に出征した人が多か
った。初級幹部の不足のために、急きょ任官し部隊
に赴いたのだ。7月3日に任官した木越安綱(きご
し・やすつな、明治37年中将)は日露戦争では歩
兵第23旅団長兼ねて韓国臨時派遣隊司令官として
先陣をきって大陸へ渡った。第5師団長としても軍
功をあげた。

 7月5日に任官したのは、石本新六(いしもと・
しんろく、明治37年中将)工兵少尉である。陸軍
築城本部長、陸軍次官と進み、1911(明治44)
年には陸軍大臣となった。7月18日任官組から
は同じく工兵山根武亮(やまね・たけすけ、明治3
9年中将)や砲兵伊地知季清(いじち・すえきよ、
明治33年少将)がいる。いずれも西南戦争を生き
延びて、欧州へ留学したエリートである。

 また、エリートと言えば、東條英教(とうじょう・
ひでのり、明治40年中将)がいる。教導団から
選ばれて進学した1人である。戦術や兵要地誌につ
いて造詣が深く、陸軍大学校1期生の首席卒業だっ
た。公刊日清戦史の編纂にも力を注いだ。ところが、
日露戦争の緒戦で旅団長として不手際を行った。
現場の実員戦闘指揮において失態があっては、許さ
れるものではなかった。戦後の記録には、「病を得
た」などと粉飾されているが、実際は「机上の戦術
の神様だった」という悪名を受けて中将にようやく
名誉進級したのである。

 彼の子息が、陸士17期の東條英機(とうじょう・
ひでき)大将という昭和史、大東亜戦争期の首相、
陸相、参謀総長だった。

 このときの第17期というのは、プロシャ式の士
官候補生時代の期別である。士官生徒時代は学校か
らすぐに少尉に任官したが、制度改革で陸士に入校
するには隊付(たいづき)といわれる兵と下士官の
勤務の経験が必要とされた。その17期生である。
資料に見られる陸士の期別は注記がない以上は、こ
の候補生時代からになる。また奇しくも、この士官
候補生の期別は、その生徒の誕生年が明治の年次と
一致することが多い。覚えておくと便利である。東
條英機もまた、1884(明治17)年12月30
日生まれだった。

 日露戦争の時には英機は士官学校生徒だった。卒
業は1905(明治38)年3月に卒業し、翌月に
少尉任官、近衛歩兵第3聯隊補充大隊付となった。
戦争が終わるまで戦地にでることはなかった。在学
中に、尊敬する父が戦場の失策で「戦意不足」とさ
れて更迭されては、彼の心に大きな傷が生まれたこ
とは容易に想像がつく。しかも、彼の父も彼も、岩
手県の出身であり、長州閥による陰謀と受け止めて
も無理はない。

 第1期生徒の戦死者は32名も出たと松下博士は
書いている。秋元書房の「陸軍士官学校」の名簿で
は、戦死・戦病死者として34名があげられている。
なお工兵少尉に任官したのは15名とある。





(つづく)


(あらき・はじめ)


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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、
同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。
日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸
海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を
行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』『自衛隊
警務隊逮捕術』(並木書房)がある。
 

『自衛隊の災害派遣、知られざる実態に迫る-訓練
された《兵隊》、お寒い自治体』 荒木肇
「中央公論」2020年3月号
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