こんにちは、エンリケです。
「戦略航空偵察」三十五回目です。
ペトロパブロフスクと聞くと、
石光正清を思い出します。
それにしても、Mig-25という名は懐かしいですね。
わかる人はどんどん少なくなってるようですが。
さてきょうの内容は以下のとおりです
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□ご挨拶
▼SR-71のカムチャツカ半島、ペトロパブロフ
スク軍港偵察
▼SR-71の米本土と嘉手納往復飛行
▼SR-71の北朝鮮偵察
▼SR-71へミサイル発射
▼ソ連のSR-71対抗策
▼MiG-25フォックスバット
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さっそくどうぞ
エンリケ
、
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戦略航空偵察(35)
戦略偵察機SR-71(2)
西山邦夫(元空将補)
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□ご挨拶
今回は、カムチャツカ半島ペトロパブロフスクが
出てきます。カムチャツカ半島というと井上靖の
『おろしあ国酔夢譚』(
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を思い起こします。船頭大黒屋光太夫がアムチトカ
島に漂着しカムチャツカ半島に渡ってから過ごす厳
しい日々がありました。当時は18世紀半ば、女帝エ
カテリーナ2世の時代でしたが、ロシアはこの地に
も手を広げていました。当時、沿海州のウラジオス
トクはまだ清朝の支配下にあり、ペトロパブロフス
クは極東ロシアの重要な拠点でした。
不凍港であるペトロパブロフスクは重要な軍港です
が、近くの山がソ連ICBMの弾着地で、米軍RC
-135が頻繁に飛行していました。1983年、
樺太で大韓航空機撃墜事件が起きた際、ペトロパブ
ロフスク上空を大韓機は通過しました。ソ連防空軍
は大韓機を米軍偵察機と思い、スクランブルが遅れ、
失敗しています。大韓機が接近する直前に米軍偵
察機RC-135コブラボールがペトロパブロフス
ク沖を飛行していましたが、この空域はコブラボー
ルが頻繁に飛行しており、慣れっこになっていたの
です。ソ連防空軍は大韓機をコブラボールと誤認し、
領空に入ってくることなど想定外だったようです。
▼SR-71のカムチャツカ半島、ペトロパブロフ
スク軍港偵察
極東に位置する2つの軍港、カムチャツカ半島の
ペトロパブロフスクと日本海に面するウラジオスト
クは、米海軍にとって常に関心の的になっていまし
た。空軍は海軍の要請に応じて、この2つの軍港の
潜水艦の情報収集にSR-71を使うことに合意し
ました。
この2つの軍港は、1970年代末期から、SA-5ガモ
ンSAMとMiG-25フォックスバット戦闘機で厳重に防護
されていました。偵察飛行は国際空域を飛行すること
で実施し、写真と併せてレーダーの情報も収集するこ
とになりました。飛行に際して、そのルートの選択が
鍵でした。公海上を海岸線に沿って上下し、時には海
岸に向かって直角に飛行し、領空に侵入しないうちに
左右どちらかにブレークして、ソ連のレーダーを刺激
し、有効な情報を入手しようとする工夫を凝らしまし
た。
▼SR-71の米本土と嘉手納往復飛行
SR-71は、米本土カリフォルニアのビール基地
と沖縄の嘉手納基地間の往復飛行はしばしば行なっ
ており、そのつどペトロパブロフスクへの偵察が行
なわれていました。ソ連のレーダー監視員はこの飛
行の態様を知っており、監視に慣れているものと見
られました。
ビール基地と嘉手納基地の間を移動するSR-71
の飛行計画担当者は、SR-71に特異な飛行を行
なわせ、ソ連のレーダー監視員のみならず、要撃管
制官を惑わせるプランを作りました。それは防空網
を刺激し、休止中のレーダーを稼働させることを意
図していました。
1977年8月9日、嘉手納基地を発進してビール
基地へ向うかに見えたSR-71は、いつもと違っ
たルートを飛行しました。それを見たレーダー監視
員は、不審に思ったに違いありません。SR-71
はペトロパブロフスク付近で情報収集を実施後、嘉
手納へ引き返しました。翌日も同様な飛行を実行し
ました。
前日の特異な飛行に引き続き、8月10日に嘉手納
を離陸したSR-71 972号機がビール基地へ
向かいました。同じ頃、ビール基地を別のSR-71
976号機が離陸、嘉手納へ向かいました。976号機が
ペトロパブロフスク沖を南下し、嘉手納からの
972号機が北上して両機が急速に接近しました。
両機はマッハ6以上の速度で接近しており、燃料を
放出して雲を作り、互いの視認を助けました。
両機の行動は正確で、計画した時刻の10秒以内に
すれ違いました。この特異な行動に刺激され、この
地域に所在するソ連のレーダーは、ほとんどすべて
が動作を開始しました。発射された電波は、SR-71
はもとより、近辺で待ち構えていたRC-135によって
捕捉・収集され、貴重な防空レーダーの情報が大量
に収集されたのです。
▼SR-71の北朝鮮偵察
1968年まで北朝鮮の偵察にあたっていたA-12が
退役し、その任務をSACのSR-71が引き継ぐことに
なりました。A-12の退役は、もっぱら予算上の理由
でしたが、その後も北朝鮮の軍が顕著な増強を行な
っていると推定されており、偵察活動の継続は必須
と考えられました。
DIA(国防情報局)は、北朝鮮の地上軍は19
77年には45万人でしたが、翌年には55万から
60万人になったと推定しました。これは世界で5
番目に大きい軍隊であり、金日成の行動は予測困難
でした。彼の目的は共産主義体制での半島統一であ
るに違いなく、北朝鮮軍の増強が予測された状況下
では、偵察機による情報収集を再開する必要性が高
まりました。この時、A-12の退役からすでに10年余
が経過していました。
太平洋軍司令部(CINCPAC)は、北朝鮮軍は
いつでもDMZを越えて侵攻する力を持っており、
これを監視するSR-71の数を増やし、飛行回数
も増やすべきだと統合参謀本部に要請しました。韓
国に駐留する戦域の指揮官たちは、北朝鮮軍の夜間
の活動が活発であるとして、SR-71に夜間の飛
行を行なうよう要請しました。
これらの要請に応え、1977年9月、初めての夜
間偵察飛行が嘉手納を発進して行なわれました。そ
の後、年末までに4回の夜間偵察飛行が行なわれま
したが、夜間飛行は予期しない障害に直面しました。
コックピット内の様々な光源が邪魔になり、操縦が
難しくなったのです。
特に高度を落とし給油機と合流する時に、地平線を
確認するのが難しくなり、バーテイゴ(空間認識不
全)に陥る危険がありました。対策として、給油回
数を2回から1回に減らすことになり、半島横断飛
行も2回から1回に減りました。その後、コックピ
ット内の器材の改善が行なわれ、問題は解決しまし
た。
▼SR-71へミサイル発射
8月26日朝、非武装地帯上空を3往復し、さらに
SA-2と疑われる目標を偵察するミッションを与
えられ、SR-71が嘉手納を発進しました。出発
前に、パイロットは「SAMが運用可能だと誰が判
断するのか、ミサイルを視認しなければならないの
か」と情報将校に聞き、情報将校はその通りだと答
えました。
SR-71は嘉手納を離陸し、最初の空中給油を終
え、半島の非武装地帯上空を東へ横断しました。半
島の東海岸にそって南下し、再給油して再度半島を
東から西へ横断しました。半島の西海岸に近づき、
高度77,000フィート、速度マッハ3で飛行し
ているとき、レーダー警戒装置が作動し、後席のR
SO(情報システム将校)はミサイルが発射された
と叫びました。機長はマッハ3.2に加速し、「ミ
サイルのコントレールが見えた」と言って、ゆるい
旋回をしてミサイルから遠ざかりました。ミサイル
は2マイル離れて爆発し、その高度は約80,000フィー
トでした。
▼ソ連のSR-71対抗策
1960年代、米空軍はB-58ハスラー、B-70ヴァルキ
リー、SR-71などの超音速、高々度飛行の爆撃機、
偵察機を開発し、逐次運用を開始していました。こ
れらの高性能機はソ連にとって大きな脅威であり、
これに対抗するための策を練りました。その一つが
高性能戦闘機の開発であり、もう一つが地対空ミサ
イル(SAM)の高性能化でした。
1960年代初期、ミコヤン・グレヴィッチ設計局は、
米軍の超音速機に対抗できる要撃機の開発を請け
負い、誕生したのがMiG-25フォックスバットでした。
SAMはS-200(NATOコードでSA-5ガモン)が
開発されました。SA-5はSA-2をはるかに超える
性能があり、有効射高は20~40km、
速度は2,500m/secに達し、1967年には運用可能と
なっていました。探知距離320kmの捜索レーダー
が目標を探知し、目標追尾とミサイル誘導を兼ね
たレーダーの誘導可能距離は270kmでした。その
後、2年間でSA-5のサイトは軍事基地、主要都市、
主要産業施設等の周辺に配備が進み、75サイトが
設置されたと推定されました。
▼MiG-25フォックスバット
SA-5が運用状態になった5年後の1972年、ソ連空
軍はMiG-25の部隊が各地に編成されたと表明しまし
た。編成地は、モスクワ近郊、キエフ、ペルム、
バクー、ソ連北部および極東地域です。配備された
MiG-25の数は600機以上で、これらのMiGは、ソ連
国境縁辺を飛行するSR-71への対処を目的としてい
ました。
その中で、1976年9月6日、ソ連防空軍の
ヴィクトル・ベレンコ中尉がMiG-25を操縦して
函館空港へ亡命する事件が発生しました。MiG-25の
機体調査の機会を得たのは、米情報機関にとって
棚ぼたの授かりものであり、多くの性能が分析さ
れ、以下のような性能も判明しました。
「MiG-25の搭載レーダーの捜索能力は、100km先
のレーダー・クロスセクションが16平方メートル
の目標を探知できた。地上のレーダー・システム
は、機上の目標指示システムと同期し、地上から
戦闘機に目標を自動的に指示できた。これにより、
機上のレーダーは電子妨害(ECM)に対し対抗で
きた。対空ミサイルAA-8アクリッドは、4発を搭載
している」
1982年から1989年までの7年間、ソ連防
空軍第787連隊はMiG-25を運用し、バルト
海周辺で活動していました。この期間は、SR-7
1が英国のミルデンホール基地で活動していた時期
と重なっています。SR-71が引退した時点で、
第787連隊はMiG-25をMiG-23とMiG-29へ換装しまし
た。SR-71への対処が必要なくなったのです。
(つづく)
(次回が最終号となります)
(にしやま・くにお)
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□著者略歴
西山邦夫(にしやま・くにお)
1936年生まれ。防衛大学校卒(4期・空)。
情報関係略歴:航空幕僚監部調査2課収集1班長、航
空総隊司令部情報課長、陸幕調査別室主任調整官、
航空自衛隊幹部学校主任教官。著書に『肥大化する
中国軍(空軍部分を執筆)』(晃洋書房、2012年)、
『中国をめぐる安全保障(空軍部分を執筆)』(ミ
ネルバ書房、2007年)。研究論文に『中国空軍の戦
力構成とドクトリン』『中国空軍のSu-30MKKとイン
ド空軍のSu-30MKI』『韓国空軍の増強と近代化』
『中露合同軍事演習』『中国の主要航空兵器の装備
化実績と将来予測』『中国空軍の戦力とドクトリン』
『チベットにおける中国の軍事態勢整備』など多数。
近刊として『戦略航空偵察(仮題)』。
。
PS
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