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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
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こんにちは、エンリケです。
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
はきょうで101回目です。
瀬島さんの
「大東亜戦争七つの教訓」
は、必読です。
さっそくどうぞ
エンリケ
ご意見・ご感想はコチラから
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ブックレビューの投稿はこちらから
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(101)
「大東亜戦争」の総括(その3)
宗像久男(元陸将)
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□はじめに
Y様から「大政翼賛会がなぜ成立したか、コロナで
一斉自粛を始めた国民性と関係しているのではない
か。どうやって国家総動員が形成形跡されたのか」旨
のご質問がありました。まずは、このような疑問を持
ちつつ、毎回メルマガをお読みいただき心より御礼申
し上げます。
メルマガ本文の中で、近衛新党から大政翼賛会になっ
た経緯、国家総動員法についても陸軍統制派や革新官
僚、それに近衛内閣のスタッフ(実は共産主義者やそ
の協力者など)の一致した政局判断であり、そのため
の政策だったことについては説明しております。
実は、次号の102話で、夏目漱石が「日本の開花」
を「軽薄で虚偽で上滑りしたものだった」と語ってい
たことを数学者の藤原正彦氏が取り上げ、「その国民
精神は、今もあてはまる」旨の解説をしていると紹介
する予定です。
私は、大政翼賛会もコロナ自粛もその範疇、つまり明
治以来、変わることのない、“上滑りな国民精神”が根
底にあると思っています。細部は次回、取り上げます
ので、お待ちいただきたいと願っております。
さて、前回取り上げました青年将校らの行動に関連し
て、個人的な思い出があります。若かりし頃、自衛隊
の「隊歌」を練習させられる機会がありました。その
中に、「べきらの淵に波騒ぎ ふざんの雲は乱れ飛ぶ
混濁の世に我立てば 義憤に燃えて血潮湧く」との
歌詞からなる『昭和維新の歌』もありました。もちろ
ん、教えている方も習う方も歌詞の意味など知ろうと
するはずもありません。
のちのち、この歌詞こそが、青年将校たちの目に映っ
た「当時の世情」であり、国家改造の先頭に立とうと
する熱意がほとばしった歌であることがわかります。
細部は本文で触れましょう。
▼軍が“独立した政治意識”を持つに至った要因
軍という圧倒的な力を持った組織がなぜ“独立した政治
意識”を持つに至ったのでしょうか? 前回取り上げま
した竹山道雄氏は、(1)青年将校の運動、(2)軍
の国体精神、(3)大東亜共栄圏建設と国内改革とい
う3ステップを踏んだと解説します。
まず、青年将校の運動ですが、昭和初期、「赤にあら
ずんば人にあらず」との左翼思想がインテリの間にま
ん延し、若い世代は完全に政治化します。インテリ層
は武器を持っていなかったのですぐに弾圧されます
が、その風潮が若い将校たちに伝搬し、軍人特有の形
に“変形”していきます。
特に、多くの軍人が農家や中産階級出身であったこと
から、社会の不正を憎み、苦しんでいる人々に同調す
る“激情”を保持している点ではインテリ層の動機とほ
ぼ同じでした。唯一の違いは、インテリ層がマルク
ス・レーニン主義に則り天皇と祖国を否定したのに対
して、国防に任ずる将校たちはこれらを肯定し、絶対
視します。
しかも、将校たちが求めていた「天皇制」は、イギリ
ス的な立憲君主的天皇制(“機関説的性格”とも言われ
ます)ではなく、国家の一元的意思の体現者としてプ
ロシア的な、いわゆる“統帥権的天皇”でした。
そればかりか、立憲君主的天皇を支えていた政党、財
閥、官僚、軍閥を否定します。中でも、大正デモクラ
シー以来の自由主義政党による“腐敗”に反発して軍国
的な国家社会主義を目指すのです。
この動きは、「昭和維新」を唱える昭和初期の「五・
一五事件」や「二・二六事件」に始まり、やがて、軍
全体が「国を救う者は自分たちだけである」との異常
なまでの自尊心を誇示し、「天皇親政」のもとの「皇
軍」に代表される圧倒的な力を確立していきます。
当然、背景に、「世界恐慌」以降、国民経済が疲弊
し、政治においては政党や官僚に対する不信感から、
このような軍の動きを強烈に支持した社会の機運(国
民の総意)がありました。
▼共産主義者達の暗躍
その上、青年将校ら軍人には“思いがけない応援団”も
おりました。すでに紹介しましたように、青年将校ら
の現状打破・革新への思想を巧みに利用した、ゾルゲ
や尾崎秀美など共産主義者グループです(三田村武夫
著『戦争と共産主義』より)。
彼らは、コミンテルンの戦略に基づき、日米戦争を画
策して我が国を敗戦に導こうとの“謀略”を働かせ、一
連のスパイ活動を実施しますが、やがて軍人の一部の
みならず、革新官僚、近衛政権内の要人らとも連携
し、統制経済の実施をはじめ、当時の主要な政策を陰
で主導します。
こうして、国民の圧倒的な支持を得た「満州事変」を
契機に、「日中戦争」、さらには、「八紘一宇」のも
との「大東亜共栄圏構想」へと拡大して、「日米戦
争」、そしてついには敗戦という結果に繋がります。
▼昭和天皇の敗因分析(まとめ)
まとめますと、敗戦のご聖断と「二・二六事件」のご
決断を除き、昭和天皇は立憲君主の立場を終始貫きま
す。敗戦の原因を語る数少ない天皇のお言葉の中に、
山県、大山、山本等の如き陸海軍の名将がいなかった
ことを嘆かれますが、戦争が始まるや実質的に「輔弼
責任」を有する国務大臣も機能せず、立憲君主制その
ものが崩壊していたのでした。
その上、ご指南役たる元老も不在、枢密院の権限も低
下するなど、まさに、明治時代と似ても似つかない我
が国の統治制度における“裁可者”として、孤立無援
だった天皇の“嘆き”だったと推測されます。
岡崎久彦氏は「戦前の重要な政治的結果のどれをとっ
てみても、一人の人間にその責任をなすりつけたり称
賛したりするのは不可能だ」とも解説していますが、
我が国の破綻の根本は、「不磨(ふま)の大典」とし
た明治憲法をはじめ、顧みることなかった我が国の統
治制度が、“時勢”への適応性を欠いてしまったことに
あると考えざるを得ないのです。
▼作戦参謀が残された「大東亜戦争」の教訓
さて、「大東亜戦争」総括の2番目に話題を変えま
しょう。「振り返れば、すべて苦しみの連続だった」
として『幾山河』と題した回想録をはじめ、『祖国再
生』『大東亜戦戦争の実相』などを上梓された瀬島龍
三氏は「大東亜戦争」の間、主に陸軍参謀本部の作戦
参謀として勤務され、陸軍首脳部の内側において戦争
を実体験されました。戦争末期には関東軍参謀に転
属、そこで終戦を迎えられ、シベリア抑留も体験して
おられます。
瀬島氏はまた、山崎豊子の小説『不毛地帯』のモデ
ルの一人だったことやソ連のスパイ説なども取りざた
されましたが、これらの書籍を通じて瀬島氏が後世に
残し、伝えたかった“事実”について、私ごときがとや
かく論じる資格も知見もありません。
しかし読めば、旧軍の将校たちの“実像”、つまり“国家
の存亡を背負って正面から取り組んだ軍人たちの生き
ざま”――確かに今日の判断基準で見れば、未熟で、か
つ間違いもあったかも知れませんが――を偽ることな
く後世に残そうとした 瀬島氏の“思い”がひしひしと伝
わって来ることは間違いありません。
その中で、瀬島氏が残された「『大東亜戦争』の教
訓」を紹介し、若干の分析を試みたいと考えます。
瀬島氏は、「大東亜戦争」の性格を(1)大東亜戦
争は、あくまで自存自衛の受動戦争であって米国を敵
とした計画戦争ではなかった、(2)日本から要請し
た首脳会談を米国が拒否し、首脳会談が適わなかった
ことは残念だった、(3)戦争の責任は日本に一方的
にあるのではなく、米国にも戦争の責任がある、とし
た上で以下のような7つの教訓を掲げております。
まず教訓の第1は、「賢明さを欠いた日本の大陸政
策」です。我が国が「ハルノート」を受諾できなかっ
たのは、まさに我が国の大陸政策を否定されたからで
した。これは国家の威信の全面否定であったと瀬島氏
はとらえています。
幕末から明治にかけて、我が国は、北からはロシア
の南下、南からはインドや清国を植民地化したイギリ
スの2大強国が迫ってくるという国家存亡の危機に
あって、自衛独立の機能が欠如していた朝鮮半島、そ
してロシアの満州占領を放任したままの大陸情勢か
ら、国防上「開国進取」を国是にかかげ、日清・日露
戦争を実施しました。
両戦争の勝利によって得た大陸の権益は、やがて政治
的、経済的、軍事的勢力圏建設へと変貌し、「満州事
変」から「支那事変」と発展していきます。背景に、
日本の国土狭小、資源貧弱、人口過密に加え、「世界
恐慌」による世界経済のブロック化がありました。
この大陸政策は、国民的合意を得たものでありました
が、中国ばかりでなく、中国進出を企図する米国から
も否定され、日米戦争の要因となります。
瀬島氏は「結果論として、様々な事情があったにせ
よ、日本の大陸政策はその限界、方法、節度において
賢明ではなかった」と断じております。
教訓の第2は「早期終結を図れなかった支那事変」で
す。本メルマガでもどのような経緯を経て「支那事
変」が拡大して行ったかについて触れましたが、瀬島
氏は「支那事変は満州事変の終末戦」として陸軍中央
部に拡大反対派が存在した事実、そして目的を「満州
国承認」のひとつに絞り、早期終結を図るべきだった
と回顧します。
この考えは「支那事変」の拡大を強硬に反対して左遷
された石原莞爾や当時の参謀次長の多田駿と共通しま
す。改めて、武藤章ら陸軍の強硬派と海軍、さらに近
衛内閣の大勢により事変の拡大を図ったことが悔やま
れます。
教訓の第3は「時代に適応しなくなった旧憲法下の国
家運営能力」です。その趣旨はすでに本メルマガの第
99・100話で紹介した内容と全く同じです。
瀬島氏は、東條英機といえども、最後は国務大臣の岸
信介の辞職拒否によって総辞職のやむなきに至ったこ
とを取り上げ、非常事態においても一国務大臣のポス
トを自由にできなかった明治憲法の実体(欠陥)を指
摘しています。
教訓の第4は「軍事が政治に優先した国家体制」で
す。これについてもすでに取り上げましたが、「統帥
権の独立」により政略と軍事戦略の統合を必要とする
国家意思の決定について、政府と統帥部の協議を待た
ねばならなかったこと、しかも軍事戦略を伴う決定
は、ややもすると統帥部の実質的イニシアチブによっ
て行なわれたこと、さらに「軍部大臣現役武官制」に
よって内閣を打倒し得たことを取り上げます。それに
加え、「五・一五事件」や「二・二六事件」などのテ
ロの脅威が“政治に対する軍事優先”に拍車をかけたと
しています。
教訓の第5は「国防方針の分裂」です。国防方針をめ
ぐる陸海軍の対立は明治時代にさかのぼります。以
来、陸軍がロシアを、海軍が米国を想定敵国として軍
を建設してきましたが、昭和になり、陸軍は自ら推進
してきた大陸政策を米国に否定されたため、対米主戦
論に傾き、逆に海軍が対米慎重論に傾きます。
一方、「大東亜戦争」開始直前まで、日本国民のだれ
もが米国との戦争など考えていなかった中にあって、
その海軍が日米戦争の口火を切ったのは、「戦争抑止
軍備が時に戦争促進軍備になるという軍事力の持つ“慣
性”であり、海軍もその轍を踏んだ」と解説します。
陸海軍ともに、自軍軍備建設に好都合な国策を主張し
て対立を続けましたが、言葉を代えれば「自軍軍備あ
るを知って、国家あるを知らざる状態」が続いたこと
を「誠に悲劇だった」と述懐しています。
教訓の第6は「的確さを欠いた戦局洞察」です。戦局
の将来を的確に洞察することがいかに至難なことであ
るか、しかし、「戦争最高指導部の最大の使命は戦局
の洞察にある」ということを瀬島氏は改めて指摘しま
す。
何度も取り上げましたように、楽観的な「支那事変」
の見積り、そして欧州正面、中でも大英帝国の崩壊予
測や独ソ戦の早期決着などに加え、「大東亜戦争」初
戦においても、太平洋正面作戦は海軍の艦隊決戦に
よって決着すると判断したことから、対米英蘭作戦に
充当する陸軍兵力の見積り誤りなど、随所に及びまし
た。
教訓の第7は「実現に至らなかった首脳会談」です。
国家間における話し合い、特に責任ある首脳会談の重
要性をあげています。
昭和16年8月の日米首脳会談、また「東條内閣が発
足して国策再検討を行っていた頃に首脳会談が実施さ
れなかったことは誠に残念であった」とし、「もし実
現しておれば日本の破局は回避し得たかも知れない」
と分析しています。その上で、日本側は、「対米戦争
を決断した際にも首脳会談を執拗に提案し、破局の打
開を希求すべきだった」としています。
首脳会談の重要性は、当時の教訓だけに留まらず、現
下の国際情勢においてもそのまま通ずるものでありま
しょう。
以上挙げました7つの教訓は、戦後に回顧したとは
いえ、実際の作戦参謀としての経験から掛け値なしの
“本音”と思われるだけに一つ一つに重みがあります。
この7つの教訓は即、我が国が破局に至った要因でも
あり、歴史の「if」、つまりこのうち一つでも「そ
うならなかったら」あるいは「それが実現したら」と
仮定すると、我が国の命運が様変わりしたであろうこ
とは容易に想像つきます。
旧軍を批判するのは簡単です。しかし、ここに掲げら
れているような教訓をすべて“昭和の軍人のせい”とす
るのはあまりに史実と違い、無理があることは明白で
す。
そして、将来の我が国の平和と安寧を維持するために
こそ、これらの教訓を活かすことが肝心と考えます。
当然、当時とは情勢も全く違いますが、教訓第3の
「時代に適応しなくなった旧憲法下の国家運営能力」
などは、“時代や情勢の変化に応じて国家運営能力を柔
軟に適応させていく重要性“を訴えております。
私たちは現在、戦前の教訓を活かし切れず、おなじ過
ちを犯そうとしているのではないでしょうか。真剣に
考えるべき時期に来ていると声を大にして言いたいと
思います。
この原稿をしたためていた9月4日は、偶然にも瀬島
氏の命日にあたります。平成19年同日、瀬島氏は9
5歳の天命を全うされました。不思議な縁を感じま
す。
(以下次号)
(むなかた・ひさお)
※お知らせ
私は現在、ボランテイアですが、公益社団法人自衛
隊家族会の副会長の職にあります。今回紹介いたし
ます『自衛官が語る 海外活動の記録』は、自衛隊
家族会の機関紙「おやばと」に長い間連載してきた
「回想 自衛隊の海外活動」を書籍化したものです。
その経緯を少しご説明しましょう。陸海空自衛隊は、
創設以降冷戦最中の1990年頃までは、全国各地
で災害派遣や警備活動を実施しつつ、「専守防衛」
の防衛政策のもとで国土防衛に専念していました。
憲法の解釈から「海外派兵」そのものが禁止され
ており、国民の誰しも自衛隊の海外活動は想像すら
しないことでした。当然ながら、自衛隊自身もその
ための諸準備を全く行なっていませんでした。
ところが、冷戦終焉に伴う国際社会の劇的な変化に
よって、我が国に対しても国際社会の安定化に向け
て実質的な貢献が求められるようになりました。
こうして、湾岸戦争後の1991(平成3)年、海
上自衛隊掃海部隊のペルシア湾派遣を皮切りに、自
衛隊にとって未知の分野の海外活動が始まりました。
しかも、中には国を挙げての応援態勢がないままで
の海外活動も求められ、派遣隊員や残された家族の
やるせない思いやくやしさは募るばかりでした。
それでも隊員たちは、不平不満など一切口にせず、
「日の丸」を背負った誇りと使命感を抱きつつ、厳
正な規律をもって今日まで一人の犠牲者を出すこと
なく、与えられた任務を確実にこなしてきました。
この間、実際に派遣された隊員たちのご苦労は想像
するにあまりあるのですが、寡黙な自衛官たちは本
音を語ろうとしませんでした。
かくいう私も、陸上幕僚監部防衛部長時代、「イラ
ク復興支援活動」の計画・運用担当部長でしたので、
決して公にはできない様々な経験をさせていただき
ました(墓場まで持っていくと決心しております)。
このような海外活動の実態について、隊員家族をは
じめ広く国民の皆様に知ってもらうことと自衛隊の
海外活動の記録と記憶を後世に伝え残したいという
願いから、「おやばと」紙上でシリーズ化し、各活
動に参加した指揮官や幕僚などに当時の苦労話、経
験、エピソードを寄せてもらいました。
連載は、2012年8月から2014年11月まで
約2年半続き、その後も行なわれている「南スーダ
ン共和国ミッション」や「海賊対処行動」などにつ
いてはそのつど、関係者に投稿をお願いしました。
このたび、シリーズ書籍化第1弾の『自衛官が語る
災害派遣の記録』と同様、桜林美佐さんに監修をお
願いして、その第2弾として『自衛官が語る 海外
活動の記録』が出来上がりました。
本書には、世界各地で指揮官や幕僚などとして実際
の海外活動に従事した25人の自衛官たちの脚色も
誇張もない「生の声」が満載されております。
遠く母国を離れ、過酷な環境下で、ある時は身を挺
して、限られた人数で励まし合って厳しい任務を達
成した隊員たち、実際にはどんなにか辛く、心細く、
不安だったことでしょうか。
しかし、これらの手記を読む限り、そのようなこと
は微塵も感じられないばかりか、逆に派遣先の住民
への愛情や部下への思いやりなどの言葉で溢れてお
り、それぞれ厳しい環境で活動したことを知ってい
る私でさえ、改めて自衛隊の精強さや隊員たちの素
晴らしさを垣間見る思いにかられます。
また、桜林さんには、海外活動の進化した部分とか
依然として制約のある法的権限などについて、わか
りやすく解説し、かつ問題提起していただきました。
皆様にはぜひご一読いただき、まずはこれら手記の
行間にある、隊員たちの「心の叫び」を汲み取って
いただくとともに、自衛隊の海外活動の問題点・課
題などについても広くご理解いただきたいと願って
おります。また、前著『自衛官が語る 災害派遣の
記録』を未読の方は、この機会にこちらもぜひご一
読いただきますようお願い申し上げ、紹介と致しま
す。
『自衛官が語る 海外活動の記録─進化する国際貢献』
桜林美佐監修/自衛隊家族会編
発行:並木書房(2019年12月25日)
https://amzn.to/384Co4T
宗像さんへのメッセージ、ご意見・ご感想は、
このURLからお知らせください。
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https://okigunnji.com/url/7/
【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学
校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロ
ラド大学航空宇宙工学修士課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕
僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、
第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て
2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』
などに投稿多数。
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ています。
マガジン作りにご協力いただいた各位に、心から感
謝しています。
そして、メルマガを作る機会を与えてくれた祖国に、
心から感謝しています。ありがとうございました。
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