配信日時 2020/09/12 15:38

【読者投稿】第二次大戦日本人捕虜異聞

こんにちは。エンリケです。

読者さんさんから投稿をいただきました。

実に面白い内容なので紹介します。

さっそくどうぞ。


エンリケ


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小生81歳の医師(引退)です。31ー41歳の10年間欧米
で研究生活を送った際、数多の興味深い見聞をしま
した。その一端を「第二次大戦日本人捕虜異聞」と
題して記載します。

(土本泰三)



■第二次大戦日本人捕虜異聞

(1)ミシガン大学N教授からの伝聞

 私は若かりし頃、米国ミシガン大学医学部で2年
間、遺伝学及び免疫学の研究に従事したことがある。
当時南米オリノコ川流域に居住する未開のヤノマミ
族が発見された。現代人と接触のない(筈の)彼らの
人類学的研究の成果に大きな期待が持たれ、私は彼
らの染色体の研究を担当した。

閑話休題。ミシガン大学には多くの著名教授が在籍
していて、日本文学のサイデンステッカー教授も当
時在籍しておられ、面識を得ることが出来た。理学
部にはドイツ系米人N 教授がおられ、父君が宣教師
で一家で日本の青森又は秋田に永年滞在されたため、
N 教授は日本で生まれ、14、5歳まで同地で育ち、
その後一家で米国に帰国された。同教授は日本語に
堪能であったが、何故か標準語を話され、東北弁で
はなかった。

 N教授は大学卒業後、米軍の日本語語学研修学校
に入校、同校卒後中尉として太平洋方面に派遣され
た。某日潜水艦で潜水作戦中、日本海軍駆逐艦に遭
遇、運良く魚雷で同艦を撃沈することが出来た。

波間に漂う生存者を救助しようとしたが、多くはそ
れを拒否、救助活動は極めて困難であったが、数名
は救助出来た由。

当時米海軍は高性能であった日本軍の93式酸素魚雷
の機密に強い関心があったので、上司からの指示で
捕虜の尋問にはその点に重点が置かれ、早速捕虜の
尋問を開始した。最初にずぶ濡れの若い海軍将校が
連れて来られた。

驚いたことに、彼は子供の頃毎日の様に仲良く遊ん
だT君であることが一眼で分かった。N中尉は型通り
の尋問を開始したが、彼は階級しか答えない。それ
で話題を変え、生まれ故郷や子供の頃の思い出を訊
くと、徐々に答え始めた。「仲の良かった友達は?」
「居た」「名前は?」「アメリカ人で、Nと言った」
「T君、私がそのNだよ」驚きの余りの彼の大きく開
かれた両眼が忘れられない、とN教授。

その後強い緊張から解放されたT氏はすっかり打ち解
け、喋らなくても良い機密まで話し始めたので、そ
こまでしなくても、とN教授は逆に心配されたそう
だ。T氏のその後の消息は聞き漏らした。


 その後、N教授は陸上勤務となり、収容者数のかな
り多かった捕虜収容所で(収容所名は聞かなかった)、
毎日同僚のS中尉と交代で、捕虜の尋問に当たってい
た。ある日、S中尉が尋問中に、一人の捕虜が煙草の
空箱をS中尉の方に押し付けてきた。

失礼な奴だと思ったが尋問を終了し、次の捕虜を呼
び入れた。所がその捕虜が着席時に、その煙草の空
箱を見るや否や顔色が変わったので、S中尉も異変に
気づき、空箱をN中尉の所に持って来た。其処には、
当日夜捕虜全員で叛乱を起こす、と言うことが記載
してあり、密告状であった。収容所側も驚いたがそ
れに備えて準備をした。

叛乱勃発前、「密告者」がN中尉を訪れ、次のように
自身の保護を依頼した。即ち、自分の密告が皆の知
る所となったが、叛乱は予定通り決行される事、捕
虜の内2名は生き延びて生涯をかけて「密告者」に報
復する事、が決定されたので、自分は殺害される、
よって保護をお願いしたい、と。

N教授によると、叛乱は決行され、多数の死傷者が出
たが、2名は叛乱に加担しなかった、「密告者」は保
護された、とのこと。

戦後GHQの一員として東京に居たN教授を訪ねて「密
告者」が来たそうだが、そんな人間を私は相手にも
しませんでした、とN教授は苦々しく語られた。


 N教授の語学校の場所の詳細は不明であるが、深西
部のとある田舎町の近くであったとか。休日を利用
して同期生とその田舎町の銀座通りを歩いていたら、
前方に若いスタイルの良い金髪の女性が歩いていた。

お茶目な若い二人は日本語で「前を歩いているお嬢
さんはスタイルが良いですね。」「しかし顔を見て
見ないと美人かどうか分かりませんね。」「そうで
すね。それにちょっとお尻が大き過ぎますね。」等々
つまらぬことを話し続けていた。

所が、とある四つ角でその女性は左に折れながら振
り返り、満面に笑みを浮かべながら二人に向かい、
立派な日本語で
「先程から私に過分のお褒めの言葉を頂戴し、誠に
有難う御座いました。私は此処で左に行きますので、
これにて失礼致します。ご機嫌よう。」と言って去
って行きました。

まさかこんな田舎で日本語の分かるアメリカ人が居
るとは思いもしなかった私たち二人は、恥ずかしさ
の余り顔が真っ赤になりました。

N教授の若き日の過ちであった由。


(2)旧ドイツ陸軍軍医R医師からの伝聞

 ミシガン大学での二年間の研究を終え、日本に帰
国予定であったが、スイスのバーゼル大学医学部か
ら招聘され、一年間の予定で急遽バーゼル大学へ行
くことにした。バーゼルには結局8年間滞在した。
その期間の話である。

 R医師は旧ドイツ陸軍軍医として従軍中、ドイツ軍
の敗戦に伴い東部戦線でソ連軍の捕虜となり、モス
クワ付近の捕虜収容所に入れられた。ドイツ軍の捕
虜収容所内では、ソ連軍に対する阿り(おもねり)、
ドイツ人同士のソ軍への密告等が甚だしく、これが
嘗ては誇り高かったドイツ人かと、若きR医師は悩む
と共に、自国民に対して愛想を尽かした。

数ヶ月後、ドイツ軍の直ぐ近くに日本軍捕虜収容所
が出来た。送られてきた日本軍捕虜はドイツ軍とは
違い、ソ軍に密告する者など皆無で、指揮官の命令
一下全員が一致団結して行動し、容易にはソ軍の言
いなりにはならず、これぞ軍隊のあるべき組織であ
ると深い感銘を覚え、ドイツ人であることが恥ずか
しかった、とのR医師の言。

しかし、そのお陰でドイツ軍捕虜も徐々に日本人捕
虜の態度を見習う者も出て来たとか。R医師曰く、
それ以来自分は日本人を無条件に尊敬するようにな
った、と。R医師の買い被りもあるのかも知れない
し、シベリアでの日本人捕虜の風聞では、この様な
立派な方々は極めて例外的であったようだ。

しかし、例外とはいえ、立派な先人が居られ、同様
環境下にあったドイツ人たちに深い感銘を与えたこ
とは、大いに誇るべきであると思い、拙文ながら、
書き残しておく。


(おわり)


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