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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
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こんにちは、エンリケです。
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は98回目です。
今日も読みごたえのある素晴らしい内容です。
終わりが見えてきた本連載ですが、
これからが本番といってよいのかもしれません。
最後まで目を離せません。
さっそくどうぞ
エンリケ
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(98)
「サンフランシスコ講和条約」締結と主権回復
宗像久男(元陸将)
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□はじめに
冒頭から私的なことで恐縮ですが、私は1951
(昭和26)年4月8日の生まれです。「サンフラ
ンシスコ講和条約」や「日米安全保障条約」の締結
は、偶然にも私が生まれた年のできごとでした。当
然、当時の状況を覚えているわけはありませんが、
歴史を探求し続け、1951年に近づくにつれて、
これまでとは違った“愛着”のようなものが沸いて
いる自分に気がつきました。
同じ歳の作家の浅田次郎氏は、「歴史を学ぶこと
によって、今ある自分を知る」として「自分の『幸・
不幸』はいったいどのような経緯をもって自分が背
負うことになったのか」、つまり「自分の座標を確
認する」ために「歴史を学ぶ」と説いております。
長い旅でしたが、ここまで来て私自身もようやく
「自分の座標」を確認できつつあるような気になっ
ています。ここから後、つまり1951年以降は、
私にとりましては、幼少時代を含めて自分の人生そ
のものであり、「歴史」の範疇を超えるものと考え
ています。
他にも理由がありますが、このことが「サンフラン
シスコ講和条約」などの締結をもって「我が国の歴
史を振り返る」の最後のテーマとする理由の1つで
もあります。ご理解いただければ幸甚です。
▼「米比相互防衛条約」「アンザス条約」締結
第1次日米交渉を終えたダレス一行は、その後、フィ
リピン、オーストラリア、ニュージーランドを訪問
しますが、フィリピンでは賠償放棄の原則に対する
不満、オセアニアの2国では、日本の再軍備に対す
る警戒感から軍備制限条項の挿入と米国による安全
の保証を強く求める意見が出されます。
日本の再軍備を実現したい米国は、オーストラリア・
ニュージーランド・米国の間で集団安全保障条約
(アンザス条約)を締結することを約束することで
日本の軍備制限を求める要求を撤回させます。そし
て実際に、サンフランシスコ講和会議が開催される
直前の1951年8月30日にフィリピンと米国の
間で「米比相互防衛条約」、9月1日に「アンザス
条約」がそれぞれ調印されます。
こうして、トルーマン政権内で構想された太平洋地
域の集団安全保障条約は、上記2条約に「日米安全
保障条約」を加えた「3本立て」となりますが、背
景に、日本の再軍備に対する近隣諸国の不安があっ
たことは否めませんでした。
ダレスの帰国後、国務省は、米英間でそれぞれの条
約案の相違点の調整を実施します。調整は手間取り
ましたが、内容的には米国側が押し切ったような形
で共同草案がまとまります。
▼サンフランシスコ講和会議の召集・条約調印
共同草案をまとめあげた米英は共同主催国となっ
て、1951(昭和26)年9月4日にサンフラン
シスコで対日講和会議を開催することを決定し、7
月20日、共同草案とともに55か国に招請状を発
送して8月13日まで各国の意見を集約することを
めざします。
しかし、「日中戦争」として日本と戦った中国及
び南北朝鮮に対しては発送されませんでしたし、ベ
トナムも南ベトナムのバオダイ政権に招聘状が送ら
れ、ホーチミン政権は無視されました。
インドは、“中国やソ連と講和条約を締結する道
が失われる”として米英共同草案に反対して欠席し、
ビルマ、インドネシア、フィリピン、パキスタンな
ども賠償問題に対する強い不満から欠席します。
ただ、ソ連は、米英の予想に反して出席し、総会
において修正案を提案します。それは、(1)南樺太・
千島列島に対するソ連の主権承認、(2)すべての連合
軍の撤退、外国軍基地の不設置、(3)民主化条項の
挿入、(4)日本の軍備制限(陸軍15万、7.5万
トンの海軍、戦闘機200機、原子力兵器の保有禁
止など)などを骨子としていました。
講和会議を“交渉の場ではなく、調整の場”と位
置付けていた米英側は、あらかじめ修正提案の提出
を禁止しており、各国代表の発言も1時間に制限す
る議事規則を多数決で決定し、ソ連の修正提案を検
討する機会を与えませんでした。
こうして、米英協定案を基調とする講和条約は、9
月8日、ソ連・ポーランド・チェコ3国が欠席する
なか、参加49か国によって調印されました。また
同日、「日米安全保障条約」も調印されました。
なお、これまで触れませんでしたが、講和条約の第
5条には「日本が主権国として国連憲章第51条に掲
げる個別的自衛権または集団的自衛権を有すること、
また、日本が集団的安全保障取り決めを自発的に締
結できる」と記載されていることを付け加えておき
ましょう。
さて、ついに達成した「サンフランシスコ講和条約」
の署名式で、吉田首相は「この条約は公正にして、
史上かつて見ざる寛大なもの」と演説しますが、途
中で読み飛ばして全部は読まなかったといわれます。
発言は占領軍と調整済みで、「自分が心血を注いで
書いた文章であったなら、読み飛ばすはずがない」
として岡崎久彦氏は「吉田の占領期最後の屈辱的な
パフォーマンスだった」と解説しています。
しかし、それで終わりではありませんでした。前回
も述べましたが、占領政策の後遺症は今も続き、多
くの日本人は、この時の吉田首相が選択した結果と
して、精神的混迷の中にもがきつつ生き抜くことを
余儀なくされます。その傾向は国防論議において特
に顕著でした。
なお、のちに日本は、署名はしたが議会で批准され
なかったインドネシアをはじめ、中華民国、インド
との間で個別に講和条約を締結・批准しています。
また、ソ連とは共同宣言(1956年)に合意し国
交回復しますが、依然として、北方領土問題が未解
決のために講和条約は締結されていません。
韓国とは日韓基本条約を締結し(1965年)国交
を結びます。また、中華人民共和国との間では、日
中共同宣言(1972年)で国交を結び、のちに日
中平和友好条約を締結して共同宣言の内容に国際法
上の拘束力を与えました。いずれも領土や歴史に絡
む問題などの争点が顕在化しています。
▼「サンフランシスコ講和条約」総括
改めて「サンフランシスコ体制」の歴史的性格につ
いては振り返る必要はないと思いますが、今回、
「サンフランシスコ講和条約」締結に至る経緯や条
約内容などは、『口座 日本歴史』(歴史学研究会・
日本史研究家編集、東京大学出版会)から、“史実
と思わしき部分のみ”を参考にしました。
しかし、本書に記載されている歴史の解説から時々
垣間見える“史観”は、正直、個人的には受け入れ
られないものばかりでした。そのはずです。本書の
歴史研究家たちは、吉田首相から「曲学阿世」と批
判された南原総長の“末裔達”なのですから、吉田
首相よりさらにリベラルな論陣を張っています。
この分野もヒエラルキーのトップに君臨する東京大
学において、このような書籍に何の疑問を持たずに
歴史を学び、その歴史観を刷り込まされた“秀才達”
が日本各地に分散し、各界のリーダーになっている
のか、と改めて歴史教育の実態とそこで教育された
人達に思いが至ることでした。
加えて、歴史研究の“正統”はあちら側にあり、こ
ちら側が「歴史修正主義」あるいは“異端”なのか
と、改めて“己の立つ位置”(視座)を考えさせら
れました。この続きは最後に総括しましょう。
▼主権回復
1952(昭和27)年4月28日、「サンフラ
ンシスコ講和条約」と「日米安全保障条約」が発効
し、日本は、6年8か月に及ぶ連合国の占領から開
放され、晴れて主権を回復します。
この歴史的節目の主役となって我が国をけん引し
た吉田茂首相は、自書『日本を決定した百年』の冒
頭で、「日本は太平洋戦争という大失敗を犯したが、
全体としては激しい国際政治の荒波のなかを巧みに
舵をとってきた。それは日本人のすぐれた『勘』の
たまものだ。特に明治の指導者たちは優れた『勘』
をもっていた。だから、私はことあるごとに『勘』
の必要を説いてきた」として、あたかも「当時の選
択は自らの『勘』を働かせた結果である」と言いた
げに語っています。
確かに吉田は、「全面講和」を唱える知識人やマ
スコミからは「反動政治家」「米帝国主義に追随す
る売国奴」といったレッテルを貼られながら、自ら
の「勘」で「単独講和」を推進しつつ、一方では再
軍備制限を選択し、結果として戦後復興や経済発展
も成し遂げました。
個人的には、「主権回復直後こそ憲法改正の好機
だった。それを実現しなかったのは吉田茂という政
治家の本質だ」と考えますが、当時の状況から“時
期尚早”との「勘」が働いた結果なのでしょうか。
上記自書には、「日米安保条約の将来はどう思わ
れるか」との質問に対して、吉田が「条約などは一
片の紙切れに過ぎない。当時、あれが最善と考えた
から条約を結んだ。将来のことは将来の世代が決め
るべきことだ」と真剣に答えたとの記述があります。
吉田学校の“生徒達”は、あまりに米軍による保
護協定的な性格が強かった日米安全保障条約(旧安
保)を、激しい安保闘争の中で強行採決によって、
より共同防衛に近い形に改正はしました(1960
年)。しかし、憲法の制約があって、依然として
「片務条約」(日本側が米国の防衛を担う義務なし)
であることには変わりありません。
“条約は一片の紙切れ”といえども、国家の命運
がかかっていることは明白です。70年あまり、半
ば米国の“配下”にあるような状態を放置したまま
になっているのはあまりに異常です。現下の周辺情
勢が当時の情勢と全く違うことも明白です。憲法が
国家の生存のための“足かせ”となるならば、勇気
をもって改正に向けて真剣に議論すべきではないで
しょうか。
安保改正にさかのぼること5年前の1955年、保
守合同で成立した自由民主党は、共産圏に対する防
衛力の強化とともに、自主憲法の制定を“党是”と
して掲げています。以来60年余りが過ぎた現在に
おいても、「勘」を働かせて憲法改正に情熱を傾け
る人達が存在する一方、“時期尚早”と足を引っ張
る勢力が党内に存在するように見えます。戦後はま
だ終わっていないと私は考えます。
▼「大東亜戦争」総括に向けて
一般には、「大東亜戦争」は1945(昭和20)
年8月14日、「ポツダム宣言」受諾をもって“終
戦”となっていますが、これは我が国の解釈であ
り、現に、終戦記念日あるいは戦勝記念日が各国に
よって違います。アメリカ・イギリス・フランス・
カナダは9月2日、ロシア・中国は9月3日です(ロ
シアは最近、9月2日に変更しました)。
「戦争とは他の手段をもってする政治の継続」とす
るクラウゼヴィッツの定義に忠実に従えば、単に
“戦闘”を止めた時点をもって“戦争終結”とする
ことに疑問があります。
クラウゼヴィッツは、“一国家の抵抗力を奪う”と
いうことは、(1)戦闘力の破壊、(2)国土の占領、
(3)敵の意思のくじく、ことと解説しています。昭
和20年8月時点では、我が国は、戦闘力はまだ相
当保有しておりましたが、武装解除して戦う意思を
放棄しました。見た目には、(1)と(3)は成立したか
のように見えましたが、この時点で完全だったかど
うかは、少なくとも連合国側に立てば確証はありま
せんでした。また(2)については、沖縄を除き、荒
廃したとはいえ国土は未占領のままで、終戦後、連
合国の占領によってようやく(2)が完了しました。
クラウゼヴィッツはまた「“敵の意思をくじく”と
いうことは、講和条約締結をもってはじめて成立す
る」として「講和とともに戦争目的は達成され、戦
争の仕事は終わったものとみなされる」としていま
す。
実際に我が国がかかわった戦争の歴史を振り返りま
すと、日清戦争は「下関条約」、日露戦争は「ポー
ツマス条約」、第1次世界大戦は「ベルサイユ条約」
がそれぞれの“終戦”からさほど間をおかずに講和
条約が締結され、戦争の決着に大きな意味を持ちま
した。
それに比して、「大東亜戦争」は、終戦後7年弱の
占領という歳月を経てようやく講和条約締結まで漕
ぎつけました。歴史的には異例です。
これらから、本メルマガではクラウゼヴィッツの定
義に倣い、1951年に講和条約が成立し、我が国
の主権が回復した時点まで含めて、改めて「大東亜
戦争」を総括してみようと思います。
なお、「大東亜戦争がいつから始まったか」につい
ては各論ありますが、「講和条約まで含んで大東亜
戦争とすべき」とする主張を見つけることはできま
せんでした(実際にあるのかも知れません)。よっ
て歴史の研究として適切かどうかは別として私の独
断です。
占領期まで含めて「大東亜戦争」を総括することに
よって、(1)なぜ占領が7年弱も続いたのか、(2)日
米両国の死闘と占領の関係、(3)今日になってもな
ぜ我が国は占領政策の影響を受けているのか、など
についてあぶりだすことができ、その上で「敗戦と
はなにか?」「なぜ敗戦したか?」などの本質を知
るきっかけになると考えます。次回以降、詳しく振
り返ってみましょう。
(以下次号)
(むなかた・ひさお)
※お知らせ
私は現在、ボランテイアですが、公益社団法人自衛
隊家族会の副会長の職にあります。今回紹介いたし
ます『自衛官が語る 海外活動の記録』は、自衛隊
家族会の機関紙「おやばと」に長い間連載してきた
「回想 自衛隊の海外活動」を書籍化したものです。
その経緯を少しご説明しましょう。陸海空自衛隊は、
創設以降冷戦最中の1990年頃までは、全国各地
で災害派遣や警備活動を実施しつつ、「専守防衛」
の防衛政策のもとで国土防衛に専念していました。
憲法の解釈から「海外派兵」そのものが禁止され
ており、国民の誰しも自衛隊の海外活動は想像すら
しないことでした。当然ながら、自衛隊自身もその
ための諸準備を全く行なっていませんでした。
ところが、冷戦終焉に伴う国際社会の劇的な変化に
よって、我が国に対しても国際社会の安定化に向け
て実質的な貢献が求められるようになりました。
こうして、湾岸戦争後の1991(平成3)年、海
上自衛隊掃海部隊のペルシア湾派遣を皮切りに、自
衛隊にとって未知の分野の海外活動が始まりました。
しかも、中には国を挙げての応援態勢がないままで
の海外活動も求められ、派遣隊員や残された家族の
やるせない思いやくやしさは募るばかりでした。
それでも隊員たちは、不平不満など一切口にせず、
「日の丸」を背負った誇りと使命感を抱きつつ、厳
正な規律をもって今日まで一人の犠牲者を出すこと
なく、与えられた任務を確実にこなしてきました。
この間、実際に派遣された隊員たちのご苦労は想像
するにあまりあるのですが、寡黙な自衛官たちは本
音を語ろうとしませんでした。
かくいう私も、陸上幕僚監部防衛部長時代、「イラ
ク復興支援活動」の計画・運用担当部長でしたので、
決して公にはできない様々な経験をさせていただき
ました(墓場まで持っていくと決心しております)。
このような海外活動の実態について、隊員家族をは
じめ広く国民の皆様に知ってもらうことと自衛隊の
海外活動の記録と記憶を後世に伝え残したいという
願いから、「おやばと」紙上でシリーズ化し、各活
動に参加した指揮官や幕僚などに当時の苦労話、経
験、エピソードを寄せてもらいました。
連載は、2012年8月から2014年11月まで
約2年半続き、その後も行なわれている「南スーダ
ン共和国ミッション」や「海賊対処行動」などにつ
いてはそのつど、関係者に投稿をお願いしました。
このたび、シリーズ書籍化第1弾の『自衛官が語る
災害派遣の記録』と同様、桜林美佐さんに監修をお
願いして、その第2弾として『自衛官が語る 海外
活動の記録』が出来上がりました。
本書には、世界各地で指揮官や幕僚などとして実際
の海外活動に従事した25人の自衛官たちの脚色も
誇張もない「生の声」が満載されております。
遠く母国を離れ、過酷な環境下で、ある時は身を挺
して、限られた人数で励まし合って厳しい任務を達
成した隊員たち、実際にはどんなにか辛く、心細く、
不安だったことでしょうか。
しかし、これらの手記を読む限り、そのようなこと
は微塵も感じられないばかりか、逆に派遣先の住民
への愛情や部下への思いやりなどの言葉で溢れてお
り、それぞれ厳しい環境で活動したことを知ってい
る私でさえ、改めて自衛隊の精強さや隊員たちの素
晴らしさを垣間見る思いにかられます。
また、桜林さんには、海外活動の進化した部分とか
依然として制約のある法的権限などについて、わか
りやすく解説し、かつ問題提起していただきました。
皆様にはぜひご一読いただき、まずはこれら手記の
行間にある、隊員たちの「心の叫び」を汲み取って
いただくとともに、自衛隊の海外活動の問題点・課
題などについても広くご理解いただきたいと願って
おります。また、前著『自衛官が語る 災害派遣の
記録』を未読の方は、この機会にこちらもぜひご一
読いただきますようお願い申し上げ、紹介と致しま
す。
『自衛官が語る 海外活動の記録─進化する国際貢献』
桜林美佐監修/自衛隊家族会編
発行:並木書房(2019年12月25日)
https://amzn.to/384Co4T
宗像さんへのメッセージ、ご意見・ご感想は、
このURLからお知らせください。
↓
https://okigunnji.com/url/7/
【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学
校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロ
ラド大学航空宇宙工学修士課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕
僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、
第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て
2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』
などに投稿多数。
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謝しています。
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