配信日時 2020/08/07 08:00

【熱砂の自衛隊イラク派遣90日(2)】「いつ両親に「イラク行き」を打ち明けるか……」藤井岳

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
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WEB http://wos.cool.coocan.jp
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こんにちは、エンリケです。

藤井岳さんの、
「熱砂の自衛隊イラク派遣90日」
の二回目です。

戦場に行くのを両親にいつ打ち明けるか?
は、じつに身につまされるテーマですね。

国民の無知が自衛官を傷つけている
情けない現実に、改めて気づかされた記事でも
ありました。


ご意見・ご感想は、
コチラから ↓
https://okigunnji.com/url/7/


さっそくどうぞ


エンリケ


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新シリーズ!

熱砂の自衛隊イラク派遣90日(2)

「いつ両親に「イラク行き」を打ち明けるか……」

藤井岳(ふじい・がく)(元陸自2曹)

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□はじめに

連載2回目です。まだまだ自分の体験を発表する緊張
感には慣れません。

今はとにかく、読者の皆さまに自分の経験したこと
がしっかり伝えられるよう、執筆に邁進してまいり
ます。引き続きよろしくお願いいたします。

▼火器車輌整備班に配属

 私の配属された火器車輌整備班は火器整備班と車
輌整備班からなり、主任務はそれぞれの班の名称通
り、火器整備班は支援群が装備する火器(拳銃、小
銃、機関銃など)の故障整備や部品交換、一般隊員
では実施できない高段階整備を実施。車輌整備班は
支援群の装備車輌(軽装甲機動車、高機動車、96式
装輪装甲車、各種トラックなど)の定期整備および
故障整備を主に実施する。

 隊員は師団隷下の後方支援連隊などから整備に従
事している者を中心に集められ、まさに整備のスペ
シャリスト集団であった。車輌整備班は4個チーム
に分けられ、それぞれアルファ(A)、ブラボー
(B)、チャーリー(C)、デルタ(D)と呼ばれ
た。私はDチームに配属され、その後チームの同僚
とは派遣前訓練をはじめ各種訓練で共に励み、演習
では同じ天幕、サマーワ宿営地では宿泊コンテナで
一緒に生活することになり、共に長い時間を過ごし
た。

 当初は職種も任務も部隊もまるで違う隊員たちと
うまくやっていけるか心配だったが、そこはやはり
自衛官。課業が終わった後は隊員クラブで酒を酌み
交わす、いわゆる「飲みにケーション」ですぐにみ
な仲良くなり、心配は杞憂であった。

▼訓練開始

 本格的な訓練は私が所属していた駐屯地で始まっ
た。各種施設が充実しており、かつ師団管内では比
較的広大な面積を持ち、演習場も近いというのが理
由であった。元々の駐屯部隊に加えイラク派遣準備
隊があちこちで訓練を開始し、駐屯地はいつにも増
して賑やかになった。

 わが整備小隊車輌整備班は戦車大隊の整備工場の
一部を間借りし、管理替えで一時的に戦車大隊に配
備された96式装輪装甲車などを使用して整備訓練を
開始した。しばらくすると、車輌整備班の数人に対
し、茨城県の土浦駐屯地内にある武器学校、ここで
実施される集合教育参加の命令が出た。

 武器学校は戦車や火砲、トラックなど陸上自衛隊
が装備する車輌などの整備員を養成する学校である。
参加を命じられた集合教育は、当時は陸上自衛隊の
新型装備であり、派遣部隊の主力装備である軽装甲
機動車と96式装輪装甲車の構造機能および整備要領
を習得するための教育であり、1か月ほどの期間で
実施されるものであった。

 すでに車輌整備班の3分の2ほどの隊員はこの教
育を履修しており、どうりで皆テキパキと整備をす
るものだと感心して見ていたが、自分もこの教育に
参加して最新装備の教育を受けられるということ
で、気が引き締まった。

 武器学校での教育を終えて帰隊すると、やはり約
1か月不在の差は大きいもので、ほかの隊員たちは
次々と新しい訓練や教育に入っており、焦りを覚え
た。

 自衛官は入隊直後、そして部隊に所属してから
も、とにかく勉強や教育の連続だが、新しい知識の
習得の機会には「ほかの隊員を押しのけてでも近く
で見学しろ」「わからないことをそのままにせず、
教官が困るくらい質問しろ」と何度も言われる。教
育の時間は限られ、進度も早く、教官も何度も同じ
ことを教えてくれるわけではないからだ。当然、座
学や実習に対する姿勢は皆真剣である。

 整備特技を保持し、武器学校での教育を履修した
とはいえ、整備員としての勤務経験がない私は車輌
整備班の同僚に後れをとっていたため、帰隊後は整
備訓練などでわからないことがあれば先輩隊員にあ
れこれ質問し、実技も率先してやらせてもらい、さ
らに装備に対する知識を深めて少しでもほかの隊員
に追いつこうと必死だった。

 そのうち、派遣準備隊の訓練はさらに濃密かつ高
度になっていき、イラク情勢やアラビア語の座学を
はじめ、さまざまな状況下での射撃訓練、宿営地で
使用する装備や資材の操作取り扱いなど、知識や技
術習得のための多忙な日々が続いた。

▼アイキュー(IQ)

 訓練開始前からイラク派遣準備隊に関連する事項
は関係者間では「アイキュー(IQ)」という隠語が
使われ、訓練が始まっていることや、派遣準備隊に
関する事柄は正式発表がないうちは秘匿されていた
が、厳しく徹底はされず、そのうち駐屯地近傍から
近くの街にも情報が流れていた。中には歯科で「イ
ラクに行くので虫歯を全て治療して欲しい」と堂々
と話した派遣隊員もいたというからあきれたものだ。

 私も外出先で会う人や知人から「イラクに行く
の?」と聞かれるようになり、そのたびに「知らな
い」とはぐらかした。あげく、歯科で治療を受けた
際、何も話していないのに医師から「若いうちに戦
争に行くなんてねえ……」と面と向かって言われ、
言葉を失った。

 過去、自衛隊の海外派遣の任務は何だったのか。
イラク派遣も戦闘が目的ではなく復興支援が主任務
だということが一般の人々に伝わっていないことを
痛感したが、一般人の自衛隊に対する知識や理解と
いえば、自衛隊に興味がある人でなければこんなも
のだろうと自身に言い聞かせた。そして、情報秘匿
の姿勢を見せながらも情報流出の抑止を徹底せず、
知らぬふりをする派遣準備隊上層部には不信感を抱
かずにはいられなかった。

 同時に、自衛官でありながら情報保全の重要性も
理解せず、軽々しく情報をばらまく一部の派遣隊員
には「お前らにはプロ意識はないのか」とそのレベ
ルの低さに怒りすら湧き、派遣準備隊の情報保全態
勢が万全ではないという事実をまざまざと見せつけ
られたような気がした。

▼ミニ・サマーワ

 派遣前訓練も大詰めを迎えた頃、総仕上げともい
うべき演習が実施された。某演習場内にサマーワ宿
営地を模した模擬宿営地が設営され、ここで数日に
渡り訓練を実施する。派遣隊員たちはここを「ミ
ニ・サマーワ」と呼んだ。

 日程前半は各部隊ごとにそれぞれの任務を実状況
に見立てて訓練を行ない、後半は連続状況下での訓
練となる。特に後半は不審者の宿営地への接近や宿
営地への攻撃も想定され、的確な対応が要求され
た。もちろん警備も24時間態勢である。

 訓練前半、わが車輌整備班は整備用天幕内で実際
に車輌の整備を行なった。やはりそれまで訓練を行
なった整備工場とは勝手が違い、当初はやや戸惑い
があったものの、そこはやはり整備のプロ集団。す
ぐに慣れ、整備工場に常備されている大型の資機材
がなくとも用意された資機材と創意工夫で整備を実
施できるようになった。

 ミニ・サマーワで実際に訓練できるようになった
のは24時間態勢の警備訓練である。サマーワでの
警備は、主に普通科連隊の隊員で編成された警備中
隊が実施していたが、彼らの主任務は宿営地外で活
動する施設隊や輸送小隊、そしてVIPなどの護衛・
警護であり、宿営地の警備、監視任務は警備中隊以
外の部隊もローテーションで担当した。

 宿営地には「望楼(ぼうろう)」と呼ばれる監視
塔があり、完全武装でここに登り、昼間は肉眼や双
眼鏡などで警戒監視、夜間は主に暗視装置を使用し
て警戒監視した。ミニ・サマーワの望楼は実際にサ
マーワ宿営地に構築された望楼とはほど遠い、鉄パ
イプで組んだ骨組の上に足場を設置しただけの簡素
なものだった。

 気温が上がるなか、完全装備で警戒監視を行なう
のは楽ではなく、特に後半の連続状況下ではいつど
のような状況が生起、付与されるかわからず、高い
緊張感をもって任務についた。

 後半の実動演習、状況終了の報を聞いたときは緊
張が解けて、全身から力が抜ける思いであった。
「あっち(サマーワ)じゃあ、気温60度の中でこ
の生活を送るんだぜ」と誰かの声を耳にして、想像
もつかない灼熱の大地で任務につく自分の姿を思い
浮かべた。しかし不安はなかった。すでに北海道か
ら派遣された支援群がサマーワで活動しているの
だ。同じ自衛官が任務についている、彼らにできて
俺たちがやれないわけがないだろう。そう思いなが
らさらに意気を強くした。

▼「父の顔は見られなかった」

 4月も後半を迎え、何度か実家に帰省した。私の
実家は駐屯地からそう遠くなく、車で高速道路を南
下すれば1時間ほどであり、一般道をゆっくり走っ
ても2時間半から3時間で着く距離だ。帰省すれば
地元の友人たちと飲み歩いたり、地元をドライブし
てまわるのが常だった。

 この時期、すでにイラク第3次派遣群は北東北の
第9師団主力で編成との報道はされており、テレビ
で関連のニュースが流れると、両親も気になって凝
視していた。この時点で両親は私が派遣準備隊に配
属され、すでに訓練に参加していることを知らな
い。もともと実家では部隊や勤務の話はあまりしな
かったのだが、今回は事情が違う。私はいつ両親に
イラク行きを打ち明けようか迷っており、帰省して
も結局話せずに帰隊するのを何度か繰り返していた。

 この4月後半の休暇も最終日を迎え、夕方、荷物
をまとめ玄関で靴を履いていると、父が愛犬を抱い
て居間から出て来た。母は外出して不在だった。
「気をつけて戻れよ」
「ああ」
 靴を履き、荷物を手にした。
「俺さ」
 少し間を置いた。
「イラクに行くことになったから」
 父の顔は見なかった、いや、見られなかった。
「……いつ。いつ行くのや?」
「詳しい出発の日程はまだ言えないんだ。まず、母
さんにも話しておいて」
 父親のショックが伝わってくる。重苦しい空気に
押しつぶされそうだった。早く玄関から出たかった。
「……わかった」
「じゃあ、行ってくる」
 バッグをつかんで逃げるように玄関を出た。

 陽もすでに落ち、暗い高速道路、車のハンドルを
握りながら母のことを考えた。やはり自分の口から
伝えるべきだったか。私のイラク行きを知ったらど
んな表情をするだろう、父の顔さえまともに見られ
なかった私だ。もし直接母に伝えるとしても俯(う
つむ)いたまま話すことになるのだろう。


(つづく)



(ふじい・がく)


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【著者紹介】

藤井岳(ふじい・がく)ペンネーム
1979年岩手県一関市生まれ。1996年自衛隊生徒とし
て陸上自衛隊入隊。少年工科学校へ入校。卒業後機
甲生徒課程を経て第9戦車大隊(岩手)で戦車乗員
として勤務。2004年第3次イラク復興支援群に参加、
イラク・サマワにて任務に就く。2005年富士学校
(富士)に転属。機甲科部で助教として戦車教育に
従事。2008年退職。フリーランスフォトグラファー
として活動を開始。自衛隊航空部隊の撮影、取材に
取り組む。2015年から「PANZER」誌で執筆開始。そ
の後「丸」「JGROUNDEX」「JWings」などで写真や戦
車に関する記事を発表。現在に至る。



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