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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
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こんにちは、エンリケです。
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は95回目です。
今日も読みごたえのある素晴らしい内容です。
ちなみに私は、コロナについては
今回の冒頭文の内容に共感同意しています。
メディアが騒ぐこと、いたずらに恐怖を煽ること
にはぜったい引きずられない。
過去の経験から、そういう意識も沁みついていま
すw
そういえば、7/27に上久保先生らの記者会見が
行われてましたね。実に説得力ある知的な内容でし
た。
ネットの時代、真実はネットでしか知ることができ
ないようです。いいのか悪いのかはわかりません。
さっそくどうぞ
エンリケ
追伸
<私たちは、
歴史の中で何度も繰り返され、今も繰り返されてい
る共産主義国家の「事実と主張が違う」という“手
口”をしっかり学ぶ必要があると考えます。>
ということばや、
吉田茂への評価
など、今日の記事も読みごたえ抜群です。
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(95)
「朝鮮戦争」の経緯と我が国に与えた影響
宗像久男(元陸将)
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□はじめに
再び、新型コロナウイルスが猛威を振るい始めた
ように見受けらますので、久しぶりに、冒頭で新型
コロナを取り上げてみました。
確かに感染者の拡大だけをみると「第2波到来」の
ような雰囲気がありますが、今回は、「若者層に感
染者が多い」「感染者の増加している割には、重傷
者・死亡者が圧倒的に少ない」など4月頃の感染拡
大とは少し勝手が違っています。
昨年末、中国武漢で新型コロナが発生して以来、
半年以上が過ぎ、新型コロナの“正体”について、
専門家はかなり分かりかけてきたのではないかと考
えます。しかし、相手がウイルスだけに100%解
明するのは難しく、それゆえに、専門家の間には
“多勢に無勢”のような空気が流れているような気
がします。
テレビなどでお馴染みの専門家らは、依然、“恐怖
を煽り立てる”解説は饒舌ですが、例えば、第1波
において、(1)欧米やブラジルなどであれほど感
染者が急増し死亡者も多かったのに比し、なぜ日本
や韓国などアジアでは感染者も死亡者も少なかった
のかとか、今回の(2)再び感染者が増大しているの
に、なぜ重傷者や死亡者が少ないのかなどについて
の解説は歯切れが悪いままです(彼らもよくわから
ないのだと推測しています)。
このような空気の中で、堂々と持論を述べる“勇気
ある専門家”もおります。多くの方は見過ごしてい
ると思いますので、紹介しておきましょう。例えば、
月刊誌「WILL」9月号に『第二波は来ない』と
断言した記事を掲載した京都大学大学院特定教授の
上久保靖彦氏やテレビで具体的な数値を示しつつ
『自然免疫で98%は治る』と主張している国際医
療福祉大学大学院教授の高橋 泰氏などです。
お二人の説を素人なりに理解するとその概要は次の
通りです。まず(1)の謎について、上久保教授は「人
類は生誕以来、ウイルスと“共生”しており、周期
的にウイルスが変容・変質することによって人に感
染したり、鎮(しず)まったりする」ことから説明
しています。
今回は、ウイルス細胞の周りにある「スパイク」と
呼ばれる突起(それが太陽のコロナに似ていること
から、コロナウイルスと呼ばれています)が、人の
組織細胞にある「ACE2受容体」というものに、
まるで“鍵と鍵穴がピタッと合うように結合”して
しまったようです。その結果、人体は、ウイルスを
異物と感じて免疫反応を起こし、それが、発熱や肺
炎などの症状として現れるのだそうです。
事の始まりは、昨年11月頃、中国全土で『S型』
(先祖型)、『K型』(先祖型の変質型)といわれ
るコロナウイルスがまん延したことにあり、“少し
変わった風邪”という程度の認識だったようです。
しかし、昨年末、武漢で『G型』に変容し(原因は
不明です)、欧米でさらに『欧米G型』に変容、重
度の肺炎を引き起こし、猛威を振るってしまいまし
た。
上久保教授は、「日本には、中国人観光客の来日に
より『S型』『K型』の免疫が到来し、日本人の間
で“集団免疫”に達していた。特に『K型』の免疫
が『G型』にも有効だったため、深刻にならなかっ
た」と解説しています。
そして「欧州には、『S型』は十分流入していたが、
『K型』が十分でなかったため、『ADE』(抗体
依存性感染増強)という現象が起きた。また米国で
は、当時、インフルエンザが流行して1万2千人も
死亡していため、『ウイルス干渉』が起き、『K型』
が入りづらくなっていた。さらに、中国が武漢を封
鎖したのに続き、欧米諸国も外国人の入国拒否や
“都市封鎖”を強行したため、逆に『K型』が入る
余地がなくなってしまった」と続きます。
ここでいう「ADE」や「ウイルス干渉」について
は、私の能力を超えますが、「ADE」は、“本来、
ウイルスなどから体を守る抗体が、免疫細胞などへ
のウイルス感染を促進してしまう現象”であり、
「ウイルス干渉」は、“1個の細胞に複数のウイル
スが感染した時に一方あるいは両方の増殖が抑制さ
れる現象”のことを言います。
最近の現象である(2)については、上久保教授は「P
CR検査の拡充により感染者数は爆発的に増えてい
るが、初回の感染で免疫がついている人達の体内に
再びウイルスが入っているだけで、重症になること
はない。最近、この“集団免疫”が世界各地で定着
しつつあり、重症者・死亡者が少なくなっている」
と解説しています。
この説が正しいとすれば、中国や欧米諸国と違い、
法的に私権を制限できず(言葉だけは“ロックダウ
ン”として先行しましたが)、“都市封鎖”のよう
な強制処置をできなかった我が国のやり方が、結果
として“功を奏した”ことになります。
つまり、のちに「政府の対応が遅かった」と批判さ
れますが、昨年11月以降、約184万人の中国人
観光客、1月から2月頃であっても武漢からの直行
便で約34万人も中国人が入国していたことが、我
が国の被害を“軽症”に留めた要因だったというこ
とになります。
事実、上久保教授は「何もしないのが一番」とし
て、「従来、風邪やインフルエンザでPCR検査な
どしたことなかったように、大騒ぎする必要がない」
とし、その上で、「重い肺炎患者だけは手厚く治療
すれば、いずれ『集団免疫』に達して、コロナは終
息する」と断言しています。
高橋教授も、“自然免疫”で無症状とか風邪ぐらい
の症状は98%治り、「抗体が免疫反応を起こす第
3段階以上(残りの2%弱)の発症数と死者数の把
握に限定すべき」として、「29歳以下の重症化リ
スクは低いので、学校の授業やスポーツは元の状態
に戻すべき」と勇気ある提言をしております。
各県知事などの“弱気”に比して、政府が“経済と
の両立を貫く姿勢”を崩さず、また、トランプ大統
領が「コロナは鼻風邪のようなもの」と発言して物
議を醸した要因に、上久保教授や高橋教授、あるい
は同じような説をだれかに聞き、理解しているのか
も知れません。高齢者の私はすべて理解して納得し
ているわけではありませんが、このような説に耳を
傾ける必要はあると考えています。先を急ぎましょ
う。
▼「朝鮮戦争」勃発と経緯
さて「朝鮮戦争」です。1950(昭和25)年
6月25日払暁、猛烈な砲撃が大地を揺るがし、1
3万人余の北朝鮮軍が一斉に38度線を突破し、宣
戦布告なき奇襲攻撃を実施しました。まず前段の経
緯を振り返ってみましょう。
不意を衝かれた韓国軍は、38度線を守っていた
3万人の韓国軍をはじめとして随所で敗退、潰走し
ます。翌日、トルーマンは韓国への武器援助と命令
し、日本の駐留米空軍の戦闘機10機を韓国軍に提
供するとともに、27日には、「国連安保理が侵略
者に戦闘行為を停止し、38度線に撤退するよう命
じても、これを無視した」との理由で、海空兵力の
出動を命じます。そして、国防省は、マッカーサー
が作戦の責任者であることを発表します。
開戦4日目の28日、早くもソウルが陥落しま
す。トルーマンは、陸軍の韓国派遣を発表し、半島
の海岸線封鎖も命令します。一方、「爆撃は朝鮮と
満州の国境を越えてはならない」と指示します。米
国空軍の大型爆撃機20機が首都平壌を猛爆すると
ともに、イギリス艦隊やニュ―ジーランド軍艦も参
戦します。
北朝鮮の侵略開始から7日後の7月4日、ソ連のグ
ロムイコ外務次官がタス通信で「戦争を始めたのは
アメリカだ」と猛反撃に出ます。アメリカも当然、
断固反発しますが、このようなやり取りが、のちに
「北進論」へ発展する要因となります。私たちは、
歴史の中で何度も繰り返され、今も繰り返されてい
る共産主義国家の「事実と主張が違う」という“手
口”をしっかり学ぶ必要があると考えます。
7月7日、ソ連抜きで開催された国連安保理は、
「北朝鮮を侵略者」として認定し、アメリカ軍を主
体に国連軍を組織します。トルーマンは、改めてマ
ッカーサーを国連軍司令官に任命し、イギリス、フ
ランス、カナダなど16カ国が国連軍に参加します。
さて、前回触れました我が国の“赤狩り”は、「朝
鮮戦争」の進展とほぼ同時並行して行なわれまし
た。事実、マッカーサーが共産党の「アカハタ」発
行停止の命令を下したのは、「朝鮮戦争」勃発の翌
日の6月26日でした。
マッカーサーが、この“2正面作戦”を強いられた
のは偶然ではありません。マッカーサーは、「自衛
のための武力も禁止」と憲法に書き込み、「ひ弱な
日本をここまで理想の国に創り上げたのは自分の業
績だ」と誇っていたものの、国内では共産主義が芽
吹き、海の向こうでは、毛沢東が大陸を乗っ取り、
満州を征服し、ソ連が東ヨーロッパを共産化し、原
爆をも成功させ(1949年9月)、さらには、北
朝鮮を武装化して朝鮮半島全体を制圧しようとして
いるのです。
まさに、“読み”の甘さが暴露されたのですが、マ
ッカーサーは、それをひた隠しにしつつ“強硬路線”
に転じます。しかし、それが慎重なトルーマン大統
領はじめ米国当局と意見の不一致を生む原因にもな
り、やがて命取りになります。
国連軍は、8月には半島南端の釜山付近まで追い詰
められますが、マッカーサーはただちに反撃に出ま
す。9月15日、「天才的」といわれる作戦能力を
発揮し、第10軍団を編成して7万人の戦力をソウ
ル近郊の仁川港に上陸させます。本作戦について、
国防省は「干満の差が5メートルもある仁川港は上
陸不可能」と大反対し、(同じ考えから)北朝鮮も
守備隊を配置していなかったのです。
大きな賭けに勝ったマッカーサーは、北朝鮮軍を背
後から攻撃させ、これを撃破、ソウルを奪還しま
す。北朝鮮軍は一転して敗走を重ね、10月半ばに
は平壌からも撤退します。
米軍を中核とする国連軍と韓国軍は、中朝国境に
向けて快進撃を続け、北朝鮮の敗北によって、念願
の南北統一が実現するかのように見えた、まさにそ
の時でした。毛沢東は、予てからの金日成との約束
どおり、30万人超の人民解放軍を(表向きは「義
勇軍」という形で)一挙に投入し、再び国連軍を3
8度線以南に押し戻します。これまでが「朝鮮戦
争」前段の概要です。
▼「朝鮮特需」と「警察予備隊」創設
「朝鮮戦争」は、のちに “北朝鮮の侵略を挑発し
た一要因に、日本が「単独平和条約」を締結しよう
とした動きがあった”(アチソンおよびジョージ・
ケナン)とする分析もあるように、その原因でさ
え、我が国の国内状況と密接に関係していました。
そして「朝鮮戦争」そのものが、占領下の我が国
に及ぼした影響は計り知れないものがあります。
中でも、米軍から大量の軍事物資の注文を受けた結
果、「朝鮮特需」が発生し、瀕死状態であった我が
国の経済に生命を吹き込み、一挙に蘇ります。
その総額は、1950年当時のGDP3兆9470
億円の約3分の1に相当する1兆3千億円の巨額に
及びました。
マッカーサーはまた、在日米軍を急遽、朝鮮半島に
出動させねばならず、その空白を埋めるための処置
として、7万5千人の「警察予備隊」の創設と海上
保安庁の8千人の増員を指令します。
この指令に基づき、吉田首相は、“国会にかけず
に”「ポツダム政令260号」として警察予備隊の
創設を強行します。ここでいう「ポツダム政令」と
は「GHQによる間接統治の形態として、GHQの
要求を日本政府が命令の形にして国民に伝えるも
の」です。
これがやがて日本の再軍備につながることは容易に
予期できたはずですが、この時点になっても、吉田
は、「これは治安確保のためのもので再軍備とは何
の関係もない」と公式に発言し、予備隊の幹部も旧
軍人を排して警察出身で固めます。マッカーサー自
身も依然として、「日本に必要なのは国内治安能力
だけで、再軍備は不必要」と考えており、二人の考
えは一致していました。
▼再び、「対日講和」締結の動き
さて、中国共産軍の介入で国連軍が総崩れになり、
ソウルの南側で戦線を再編成していた1951年
1月、ダレスが再び日本に到着します。ダレスは
「朝鮮戦争が起こったからこそ、自由主義陣営のパ
ートナーとして日本との講和を急ぐ必要がある」と
主張して、「このような時期、対日講和は後回し」
という論を退けます。
ダレスは、“早く独立したい”吉田に対して、
「日本は自由世界の強化にいかなる貢献ができる
か」と問うと、吉田は「まず独立してからの話で、
その質問は尚早である」と答え、マッカーサーも
「自由世界が日本に求めるものは軍事力であっては
ならない。それは実際的でない。日本の持っている
軍事生産力や労働力をフルに活用し、自由世界の増
強に活用すべき」と吉田の側に立った発言をします。
歴史の「if」として、「マッカーサーがダレス
側に立った意見を述べたら、吉田はどのように反応
したのだろうか」とつい興味を持ちますが、のち
に、保守派が吉田を持ち上げて命名した『吉田ドク
トリン』(経済に専念し、軍備を最小限にする政
策)について、岡崎氏は、「吉田は、ドクトリンな
どに最も遠い世俗的人物である。『マッカーサー・
ドクトリン』という方がはるかに正しい。吉田がや
ったことはマッカーサーの思想や表現を忠実に守
り、そこから外れないように細心の注意を払っただ
けである」と指摘しています。これこそが“史実”
と考えます。
(以下次号)
(むなかた・ひさお)
※お知らせ
私は現在、ボランテイアですが、公益社団法人自衛
隊家族会の副会長の職にあります。今回紹介いたし
ます『自衛官が語る 海外活動の記録』は、自衛隊
家族会の機関紙「おやばと」に長い間連載してきた
「回想 自衛隊の海外活動」を書籍化したものです。
その経緯を少しご説明しましょう。陸海空自衛隊は、
創設以降冷戦最中の1990年頃までは、全国各地
で災害派遣や警備活動を実施しつつ、「専守防衛」
の防衛政策のもとで国土防衛に専念していました。
憲法の解釈から「海外派兵」そのものが禁止され
ており、国民の誰しも自衛隊の海外活動は想像すら
しないことでした。当然ながら、自衛隊自身もその
ための諸準備を全く行なっていませんでした。
ところが、冷戦終焉に伴う国際社会の劇的な変化に
よって、我が国に対しても国際社会の安定化に向け
て実質的な貢献が求められるようになりました。
こうして、湾岸戦争後の1991(平成3)年、海
上自衛隊掃海部隊のペルシア湾派遣を皮切りに、自
衛隊にとって未知の分野の海外活動が始まりました。
しかも、中には国を挙げての応援態勢がないままで
の海外活動も求められ、派遣隊員や残された家族の
やるせない思いやくやしさは募るばかりでした。
それでも隊員たちは、不平不満など一切口にせず、
「日の丸」を背負った誇りと使命感を抱きつつ、厳
正な規律をもって今日まで一人の犠牲者を出すこと
なく、与えられた任務を確実にこなしてきました。
この間、実際に派遣された隊員たちのご苦労は想像
するにあまりあるのですが、寡黙な自衛官たちは本
音を語ろうとしませんでした。
かくいう私も、陸上幕僚監部防衛部長時代、「イラ
ク復興支援活動」の計画・運用担当部長でしたので、
決して公にはできない様々な経験をさせていただき
ました(墓場まで持っていくと決心しております)。
このような海外活動の実態について、隊員家族をは
じめ広く国民の皆様に知ってもらうことと自衛隊の
海外活動の記録と記憶を後世に伝え残したいという
願いから、「おやばと」紙上でシリーズ化し、各活
動に参加した指揮官や幕僚などに当時の苦労話、経
験、エピソードを寄せてもらいました。
連載は、2012年8月から2014年11月まで
約2年半続き、その後も行なわれている「南スーダ
ン共和国ミッション」や「海賊対処行動」などにつ
いてはそのつど、関係者に投稿をお願いしました。
このたび、シリーズ書籍化第1弾の『自衛官が語る
災害派遣の記録』と同様、桜林美佐さんに監修をお
願いして、その第2弾として『自衛官が語る 海外
活動の記録』が出来上がりました。
本書には、世界各地で指揮官や幕僚などとして実際
の海外活動に従事した25人の自衛官たちの脚色も
誇張もない「生の声」が満載されております。
遠く母国を離れ、過酷な環境下で、ある時は身を挺
して、限られた人数で励まし合って厳しい任務を達
成した隊員たち、実際にはどんなにか辛く、心細く、
不安だったことでしょうか。
しかし、これらの手記を読む限り、そのようなこと
は微塵も感じられないばかりか、逆に派遣先の住民
への愛情や部下への思いやりなどの言葉で溢れてお
り、それぞれ厳しい環境で活動したことを知ってい
る私でさえ、改めて自衛隊の精強さや隊員たちの素
晴らしさを垣間見る思いにかられます。
また、桜林さんには、海外活動の進化した部分とか
依然として制約のある法的権限などについて、わか
りやすく解説し、かつ問題提起していただきました。
皆様にはぜひご一読いただき、まずはこれら手記の
行間にある、隊員たちの「心の叫び」を汲み取って
いただくとともに、自衛隊の海外活動の問題点・課
題などについても広くご理解いただきたいと願って
おります。また、前著『自衛官が語る 災害派遣の
記録』を未読の方は、この機会にこちらもぜひご一
読いただきますようお願い申し上げ、紹介と致しま
す。
『自衛官が語る 海外活動の記録─進化する国際貢献』
桜林美佐監修/自衛隊家族会編
発行:並木書房(2019年12月25日)
https://amzn.to/384Co4T
宗像さんへのメッセージ、ご意見・ご感想は、
このURLからお知らせください。
↓
https://okigunnji.com/url/7/
【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学
校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロ
ラド大学航空宇宙工学修士課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕
僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、
第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て
2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』
などに投稿多数。
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謝しています。
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