配信日時 2020/07/29 09:00

【自衛隊警務官(33)】陸軍憲兵から自衛隊警務官に(33)― 森林太郎(鴎外)の貢献― 荒木肇

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自衛隊警務官(33)
陸軍憲兵から自衛隊警務官に(33)

森林太郎(鴎外)の貢献

荒木 肇

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□ご挨拶

 依然として梅雨が明けません。いったいどうした
ことでしょう。21日には、という予測もあり、2
5日にはという声もありましたが、今日26日も当
地横浜では雨が降っています。九州でも災害の復旧
だけで大変なようです。繰り返し、お見舞いを申し
あげます。

 さて、今日は文豪として有名で、同時に明治・大
正の脚気病問題で、すっかり悪玉になっている森林
太郎(鴎外)についての話題です。軍医として、彼
は当時、ドイツ語の専門家として国際会議にも出た
り、クラウゼビッツの「戦争論」の翻訳紹介をした
りという活躍もしていました。

 今日は彼の国際人道法についての功績をお話しま
す。


▼森林太郎のドイツ留学

 鴎外こと森林太郎陸軍軍医がドイツ留学の辞令を
受けたのは1884(明治17)年6月だった。ベ
ルリンに向かい、のちにライプチヒ、ミュンヘン、
ベルリンの各大学で指導を受けた。帰国後は、当時
の陸海軍を悩ませていた「脚気(かっけ)」につい
て、細菌説を唱える。対して英国流の臨床主義を信
奉した海軍軍医団と激しく対立した。

この脚気論争については拙著『脚気と軍隊』(並木
書房、2017年)を参照していただきたい。わた
しの持論、過去の人の業績を語る時には、「後出し
ジャンケン」(結果が分かっている現在からの断罪)
はやめようではないかということを主張するために
書いたものだ。

 鴎外の履歴について、よく知られていることだろ
うから簡単にまとめておく。1862(文久2)年
というから幕末である。石見国津和野(いわみのく
に・つわの)の城下に鴎外は生まれた。家は親代々
の藩医官だった。本名を林太郎(りんたろう)とい
う。津和野は現在、島根県にあり、山陰の小京都な
どといわれる。藩主は亀井氏、4万3000石の小
さな外様大名である。

 幕末期には、有名な藩校「養老館」が藩士の教育
を行なう。林太郎はここで7歳から9歳まで儒学や
オランダ文典も学んだという。なお、明治陸軍の制
度や精神に大きな影響を与えた西周(にし・あまね)
は林太郎の伯父筋にあたった。

 1872(明治5)年に上京し、ドイツ語を学
ぶ。74年には満12歳で、当時の第1大学区医学
校予科(5月に東京医学校に改称)に入学した。7
7年4月には、東京大学医学部本科生となった。の
ちの東京帝国大学医科大学である。81年7月には
満19歳5カ月で医学部を卒業した。大学に残って
ドイツ留学を望んだが、卒業成績が振るわず、12
月に陸軍軍医副(中尉相当官)に任じられ、陸軍軍
医の道に進んだ。

 念願のドイツ留学は前任者が肺結核の発病によ
り、任期途中の帰国となったことからである。18
83(明治16)年に陸軍兵食の研究のために、勇
躍、東京を出発したのだった。ドイツではまず栄養
学を学んだ。わが国では、当時、食物についてはほ
とんど関心がなく、腹を満たせればいいというのが
常識だった時代である。


 それがドイツでは、無機化学、有機化学、細菌学
や生物学までが活用され、先端の学問にふれて、森
にとっても大きな精神的な成長にもなったのだろ
う。もちろん、森は医師・医学者である前に、帝国
陸軍軍人であり、現役軍医官であった。軍医の制度、
軍陣医学、医事行政なども学び続けたのだった。

 1887(明治20)年9月には、わが国赤十字
社が前年に発足したことから参加を許された第4回
赤十字国際会議にも参加する。ドイツのカールスル
ーエで開催されたそれには、前年にわが国がジュネ
ーブ条約に加入したことによって許された。鴎外は
代表の1人だった陸軍軍医監石黒忠悳(ただのり)
の随員として通訳も務め、わが国がジュネーブ条約
の普及にいかに尽力しているか主張もしたという。

▼出征と偕行社記事

 1888年には帰国。新進気鋭の世界一流レベル
の細菌学者と受け止められ、91年には帝国大学か
ら医学博士の学位を授与された。陸軍軍医学校など
で教育にあたり、94(明治27)年には日清戦争
開戦から4週間後、8月末に中路兵站軍医部長とい
う戦時補職が与えられた。

 中路兵站とは海岸線の釜山(プサン)から京城
(ソウル)への陸路を担当する。兵站病院や伝染病
舎などを設け、管理し、飲料水の確保状況など、衛
生関係は兵站軍医部の担当だった。つづいて、10
月には第2軍兵站軍医部長に転任する。遼東半島を
攻略するために編成されたのが第2軍だった。翌年
1月には山東半島へ向かい、占領した威海衛(いか
いえい)で勤務する。金州でも働き、95(明治2
8)年5月には台湾総督府軍医部長となった。

 陸軍将校たちの研究雑誌、「偕行社記事」につい
ては、よく知られているだろう。鴎外こと森林太郎
1等軍医正(中佐相当官)は1899(明治32)
年2月号に「赤十字条約?(ならび)ニ其略評」とい
う投稿を行なった。

 この内容は、まず16世紀からアンリー・デュナ
ンまでの戦争と救護の関係についてふれた。つづい
て1864年の10カ条(陸戦について)、68年
の補足条項14カ条(海戦同前)について、詳しく
解説をした。いわゆるジュネーブ条約のことである。

▼鴎外が紹介したジュネーブ条約

 この原本は現在ではネットで「官報」を検索すれ
ば、すぐに読むことができる。分かりやすいように、
現代語、漢字・仮名遣いに直し、要約してみよう。
日付は1886(明治19)年11月16日である。

第1条 戦地仮病院と陸軍病院は局外中立と見なし
て、患者もしくは負傷者が、この病院にいる間は、
交戦者はこれを保護して侵害してはならない。ただ
し、戦地仮病院、陸軍病院が兵力を使ってこれを守
ろうとしたら局外中立の権利は失われる。

第2条 戦地仮病院と陸軍病院で任用する監督者、
医師、事務員、負傷者運搬員と従軍説教師はその本
務に従事し、負傷者が入院し、あるいは救助するべ
き者がいる場合のみ局外中立の権利がある。

第3条 前条に掲げた各員が勤務する病院が敵軍の
占領下になっても本務を継続することができる。あ
るいは本来の所属隊に戻るために退去することがで
きる。その場合において占領軍は敵軍の前哨線まで
送致すること。

第4条 陸軍病院の器具・什器などは交戦条規によ
って処置する。その病院に勤務する者は各自の私有
物の他は物品を携帯することは出来ない。ただし、
戦地仮病院はその器具・什器を保有することができ
る。

第5条 負傷者を救助する土地の住民は侵害できな
い。その自由を奪うこともできない。交戦国の将官
は住民に慈善を行うことを勧め、そうすることで局
外中立の権利を持てることを広報する責任がある。
(住民が)その家屋内に負傷者を収容し、看護する
ときは、その家屋を侵すことはできない。また家屋
に負傷者を受け入れるときは戦時課税の一部を免除
され、家屋を軍隊の宿営場所に押収されることは免
れる。

第6条 負傷し、あるいは疾病にかかった軍人は、
その所属に関わらず受け入れ看護すべし。司令長官
は戦闘中に負傷した兵士を速やかに敵軍の前哨に送
致することができる。ただし、そのときの情勢によ
り、送致することができるように両軍の協議が行わ
れた場合のみに限る。
治癒後に兵役に堪え(耐え)ないと認めた者は本国
に送還すべし。
また、その他の者でも、戦争中に再び兵器をとらな
いと盟約した者はその本国に送還すべし。
患者や負傷者が退去する時、その引率する者ととも
に完全に局外中立とする。

第7条 陸軍病院戦地病院と患者負傷者が退去の時
は、標章として特定の一様の旗章を用いてその傍ら
に必ず国旗を掲げるべし。
局外中立の人員のためには臂(ひじ)章を装着する
ことを許す。ただし、その交付は、陸軍官衙(かん
が)がこれを担当する。
旗と臂章は白地に赤十字形を描いたものとする。  

 残る8・9・10条は以上の実施までの手続きが
書かれる。
 次回は、鴎外の解説と意見、また日露戦争におい
ての森第2軍軍医部長の赤十字職員への配慮、帰国
時の処置について調べてみよう。



(以下次号)


(あらき・はじめ)


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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同
大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露
戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍
教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行な
う。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』『(仮)
警務隊逮捕術(近刊)』(並木書房)がある。
 

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