配信日時 2020/07/23 08:00

【我が国の歴史を振り返る ─日本史と世界史に“横串”を入れる─(94)】変容する国内情勢と「朝鮮戦争」前夜  宗像久男(元陸将)

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
合わせは以下よりお気軽にどうぞ
 
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WEB http://wos.cool.coocan.jp
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こんにちは、エンリケです。

「我が国の歴史を振り返る
 ―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は94回目です。

今日も読みごたえのある素晴らしい内容です。

朝鮮戦争勃発前、韓国は軍隊の反乱で大混乱してい
たということです。その混乱に乗じて南侵が始まった。
朝鮮戦争の始まりがよくわかる一文です。

万巻の書を読んでもわからなかったキモの部分が
賢人の一言ですべて氷解する。
そういう味わいを覚える連載です。


あなたもさっそくどうぞ


エンリケ


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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(94)

変容する国内情勢と「朝鮮戦争」前夜

宗像久男(元陸将)
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□はじめに

 7月10日、「朝鮮戦争の英雄」であり、韓国陸
軍初の陸軍大将・白善燁(はく・ぜんよう)将軍
(99歳)が亡くなるというニュースが届きました。

白将軍は、満州国軍官学校を卒業され、「朝鮮戦争」
勃発時には、韓国陸軍第1師団長として初期の防衛
作戦で大活躍し、その後、第1軍団長を経て、19
52年には、31歳の若さで韓国陸軍参謀総長に就
任、翌53年に韓国陸軍初の大将に昇任しました。

白将軍は、「朝鮮戦争」の教訓から「韓国繁栄の基
は、海洋国家の米国・日本との紐帯にこそある」を
信念として持っておられた、数少ない親日派として、
陸上自衛隊の高官、中でも歴代の韓国駐在武官らと
交流を深めておられました。元韓国駐在武官の福山
隆氏は、最近の厳しい両国関係の中にあっても、
「韓国人の中にあれほど偉大な人がいる限り大丈夫、
と自分の心をクールダウンさせてくれた人物だった」
と回想しております。

 私個人にも、現役時代、白将軍に一度だけお会い
した経験ありますが、我が国の旧軍出身や自衛隊の
先輩将官とはまた違った「偉大な軍人」との印象が
しばらく頭から離れなかったことをよく覚えていま
す。

将軍の書籍もほとんど読んでいますが、中でも、自
らの経験のもとに書かれた『指揮官の条件』は、
「戦場統率」つまり“戦場において指揮官はいかに
あるべき”を学ぶ数少ない良書として、折に触れて
参考にさせて頂いておりました。

 本メルマガで、「朝鮮戦争」を取り上げるこのタ
イミングで白将軍の訃報に接し、何か不思議な縁を
感じざるを得ません。(合掌)

▼“赤狩り”の拡大

 前回、共産党の追放について触れましたが、GH
Qと吉田内閣による“レッドパージ(赤狩り)”の
実態についてもう少し補足しておきます。マッカー
サーは、占領直後に牢獄から釈放した日本の共産主
義者たちを5年後の1950(昭和25)年には“極
悪人扱い”することにより、占領政策の“本姓”を
国民に公然と見せつけました。

マッカーサーの指示を受け、吉田内閣による“赤狩
り”はかなり本格的に実施されます。共産主義を少
しでも匂わす出版物は無期限に発行禁止にしたこと
に加え、マスコミの“赤狩り”も徹底し、各報道機
関は社内の共産主義者らを解雇します。その数は、
「朝日新聞」72人、「毎日新聞」49人、「日本
経済新聞」20人、「NHK」99人、「共同新聞
社」33人などでした。

全国の教職員も、共産主義者あるいは共産主義と見
なされる教師も辞職を勧告され、その結果、約12
00人(全体の0.2%)の教師が辞職しました。
この数字を多いとみるか少ないと見るかは意見が分
かれるところですが、当時は、「危機的に高い」に
見なされていたようです。事実、日教組や全学連の
ような団体は依然として各地で共産党擁護の騒動を
起こしますが、特に日教組は、「教え子を再び戦場
に送るな!」のスルーガンを採用し、闘争を表明し
ます。

マッカーサーは、「民主主義」の手引書を導入して
若者教育を試みたり、新しく任命された天野貞祐
(ていゆう)文部大臣は再び「日本精神」の復活を
提唱し、「静かな愛国心」を育てようと努力します。

中でも、天野文相は、「明治節」(明治天皇の誕生
日)の11月3日を「文化の日」と定め、占領下で
禁止されていた「国歌」を歌い、「日本国旗」の掲
揚を提唱して、マッカーサーの認可を取り受けます。

このようにして、全国規模で実施された“赤狩り”
は、約2万2千人に達しました。背景に「世論の支
持」というか、「世論の沈黙」、つまり、共産主義
者を弁護しようものなら「赤」と見なされたため、
多くの国民が沈黙したこともあったようです。

この“赤狩り”は、憲法が保障する「基本的人権の
保障」を犯しているのはないか、との議論もありま
したが、吉田首相は、「政府は共産主義者達の追放
を正当と見なした」として、逆に「憲法は、共産主
義者達を犠牲にしてでも守らなければならなかった」
と回想しています。

のちの共産党は、(本音ではないと推測しますが)
“自分たちを犠牲にした”憲法を擁護する護憲政党
になるのですから、何とも不思議です。

▼日米安保条約締結への道

 さて、前回に引き続き、日米安保条約締結への経
緯を振り返ってみましょう。1948(昭和23)
年秋、イギリスから新たな条約案が示唆されますが、
安全保障に関する条項はなく、米国国防総省は「現
下の極東情勢の下では対日講和は時期尚早」と考え
ていました。

日本が再軍備すれば、その一つの解決策になり得た
のでしょうが、マッカーサーは頑として聞き入れず、
「日本は極東のスイスになるべき」と繰り返し語っ
ていたのがこの時期でした。

 吉田首相は、ドッジの緊縮財政を緩和する必要性
をアメリカに訴えるために、1950年4月、池田
隼人蔵相を訪米させます。この際、吉田は「日本は
早期講和を希望する。その後、日本及びアジアの安
定のために米軍を駐留させる必要があるので、アメ
リカ側から言い出しにくいのであれば、日本側から
オファーする」と池田に語り、先方の意向を打診す
ることを命じます。

この打診によって、日本側の意向が初めてワシント
ン当局に直接伝わったことになりますが、GHQは、
マーカーサーの頭越しで協議を行なったことに強い
不快感を示します。池田蔵相は叱責され、GHQへ
出入りを指し止めされます(「渡米土産事件」と呼
ばれています)。

この前後に吉田・マッカーサーでどのようなやり取
りがあったかは不明ですが、その年の元旦、マッカ
ーサーは「挑発なき攻撃に対する固有の正当防衛権
を完全に否定すると解釈することはできない」とし
て、「マッカーサー3原則」の解釈時、そして「芦
田修正」時にすでに認めていた「自衛権」について、
初めて公にメッセージとして言及します。

それから3週間後の施政方針演説において、マッカ
ーサーと言説を合わせ、あれほど“自衛権放棄”に
拘(こだわ)っていた吉田が「戦争放棄の趣旨に徹
することは、けっして自衛権を放棄するということ
は意味するわけではない」として、「我が国が民主
主義、平和主義を徹底し、厳守するという国民の決
意が、平和を愛好する民主主義国家の信頼を確保し、
相互の信頼こそ、我が国を守る安全保障である。こ
れが国際協力を誘致する」旨を表明し、左翼から
“態度豹変”として厳しい批判を受けます。

吉田は「自ら軍備がなくとも、自衛権の行使の一形
態としてアメリカに守ってもらうことはできる」と
明言することによって、日米安保条約締結への道を
開いたのです。

吉田はまた、憲法前文でいう「平和を愛する諸国民」
を「平和を愛好する民主主義国家」――複数ではな
い――に言い換えています。端的に言えば、「マッ
カーサーの言うことを聞いて、非武装に徹しておれ
ば、米国という平和を愛する民主主義国家が日本を
守ってくれる」。それが「国際協力を誘致する」と
して、平和条約と日米安保条約が手結(てつがい)
されることを示唆したのでした。
マッカーサーの年頭メッセージと吉田の施政方針が
ぴったりと符節が合っているのは、決して偶然の一
致ではないと考えるべきでしょう。

▼「ダレス」来日

 「朝鮮戦争」勃発前、国内では、講和条約をめぐっ
ては「単独講和」か「全面講和」の議論が盛んに行
なわれます。東京大学南原繁総長がアメリカ一辺倒
を公に批判し、ソ連や中国を含む「全面講和」と独
立後の日本の“完全中立”を主張します。これに対
して吉田は、南原を「曲学阿世」(己の学問を曲げ
て世の流れにへつらうこと)と批判し、論争が拡大
します。

 この論争は、「朝鮮戦争」の勃発によって急速に
しぼむのですが、「単独講和」を強力に押していた
吉田は“将来が読める指導者”として株を上げる結
果になります。

 1950年5月、共和党の元上院議員ジョン・フ
ォスター・ダレスが米国の超党派外交の役割を担い、
対日講和条約の責任者としてトルーマン大統領から
指名されます。そしてダレスは、「朝鮮戦争」勃発
直前の6月、来日します。

ダレスは、マッカーサーをはじめとするGHQ幹部
や日本政府の要人らと面談し、会った日本人のほと
んどが自国の安全保障について「国連に期待する」
「憲法第9条によって平和を守る」のような返答を
したことに困惑します。

この時点での吉田首相の判断は、本人の述懐によれ
ば「再軍備に対して私は正面から反対した。なぜな
ら日本はまだ経済的に復興していなかったからだ。
経済自立のために耐乏生活を国民に強いなければな
らない困難な時に、軍備という非生産的なものに巨
額な金を使うことは日本経済の復興を極めて遅らせ
たろう。・・再軍備をすればアジアの近隣諸国を刺
激するかもしれなかった」だったようです。

 マッカーサーや吉田の言動に加え、占領軍の原論
統制のもとに他の考えが入り込む余地がなかったと
いえばそれまでですが、「これが戦後の日本人一般
の安全保障観の出発点だったとすれば、戦後の我が
国の安保思想が混迷するのは無理もないことだった」
(岡崎氏)のでした。

▼「朝鮮戦争」前夜

 我が国が周辺情勢など“どこ吹く風”に、憲法第
9条を「お守り」のように握りしめ、「永久平和」
の念仏を唱えていた時、突然、「朝鮮戦争」が勃発
します。

 朝鮮半島の状況、特に、統一を狙った北朝鮮の様々
な企てについてはすでに述べましたが、勃発前の韓国
側の状況に触れておきましょう。

南北の統一をめぐって米ソ両軍の撤兵が提案され、
一部撤兵が開始されていた1948(昭和23)年
頃、韓国軍隊が各地で反乱を起こします。そして反
乱に失敗した革命軍は、各地でゲリラ活動を実施し
ます。このゲリラは49年春には約2万人に増え、
地域にして韓国の40%を制するまでになり、「昼
は大韓民国、夜は人民共和国」と記されたほどでした。

ゲリラ活動は、韓国軍の討伐によって50年春ごろ
まではおおむね終息しますが、これに呼応するよう
に、38度線付近で国境紛争が発生し、師団級の交
戦にまで発展していきます。

北朝鮮の朝鮮人民軍は、ソ連の支援を得て逐次増強
され、開戦時には約13万5千人、戦車150両、
砲600門、航空機196機を数え、完全編成の8
個師団、未充足の2個師団を基幹に整備が進んでい
ました。

これに対して、ゲリラや共産分子の粛清、そして国
境紛争に対処しながらの増強を余儀なくされた韓国
軍は、50年春の時点でようやく9万8千人、装甲
車7両、砲89門、航空機32機しかなく、9個あ
ったとされる師団はその編成も装備も訓練もまちま
ちでした。中でも北鮮軍にある戦車が韓国軍にはな
く、有効な対戦車手段も保有していませんでした。

補給品もゲリラ討伐や国境紛争のためにほとんど使
い尽くした上、李承晩大統領の北伐論を心配し、米
軍はことさらに補給品の交付を制限していたのでし
た(なぜ、米軍がこのような状況判断をしたかは不
明です)。

1950年5月、北鮮軍が38度線に集中している
ことを察知した韓国軍は、「侵略の危機が迫ってい
る」と米国軍事顧問団に警告する一方、李大統領は
「北辺に危機が迫っている。これを予防し、韓国の
安全を守るためには米国の援助以外に方法はないが、
援助量は必要を満たしていない」と重ねて米国の援
助を要求します。

国連は、度重なる国境紛争や国境付近の不穏な情勢
を監視するために、軍事監視班の設置を決め、勃発
2週間前の6月12日、監視班の一部が38度線付
近を視察します。その結果、「攻撃を受ける現実的
な兆候はない。万一侵略が起こっても、韓国軍はこ
れを撃退できる」とし楽観します。

来日のついでに朝鮮半島まで足を伸ばしたダレスは、
6月18日、38度線を視察し、「異常を認めず」
として、22日、マッカーサーにも「楽観している」
旨の見解を報告します。

韓国軍は、ついに最後の瞬間まで北鮮軍の能力や攻
撃準備の“度”を察知することができなかったので
す。のちに、これらのミス判断は、韓国の諜報費が
少なかった上、共産圏独特の警察組織と住民組織の
ため、北鮮にスパイを送ることができなかったこと
が原因と分析されています。

余談ですが、数年前、「韓国の高校生の7割以上が
『朝鮮戦争は北進だった(南が北に攻めた)』と答
える」というニュースを観て、歴史教育の恐ろしさ
が強く印象に残った記憶があります。また日本にお
いても、最近こそあまり話題になりませんが、宗教
のように一途に「北進論」を唱える人たちがおりま
した。

これについては、個人的には“論評に値しない”と
考えていますが、圧倒的な軍事力の差異からしても、
「北進の可能性は皆無」が“常識”と考えます。


(以下次号)


(むなかた・ひさお)

※お知らせ
私は現在、ボランテイアですが、公益社団法人自衛
隊家族会の副会長の職にあります。今回紹介いたし
ます『自衛官が語る 海外活動の記録』は、自衛隊
家族会の機関紙「おやばと」に長い間連載してきた
「回想 自衛隊の海外活動」を書籍化したものです。

その経緯を少しご説明しましょう。陸海空自衛隊は、
創設以降冷戦最中の1990年頃までは、全国各地
で災害派遣や警備活動を実施しつつ、「専守防衛」
の防衛政策のもとで国土防衛に専念していました。

 憲法の解釈から「海外派兵」そのものが禁止され
ており、国民の誰しも自衛隊の海外活動は想像すら
しないことでした。当然ながら、自衛隊自身もその
ための諸準備を全く行なっていませんでした。

ところが、冷戦終焉に伴う国際社会の劇的な変化に
よって、我が国に対しても国際社会の安定化に向け
て実質的な貢献が求められるようになりました。

こうして、湾岸戦争後の1991(平成3)年、海
上自衛隊掃海部隊のペルシア湾派遣を皮切りに、自
衛隊にとって未知の分野の海外活動が始まりました。
しかも、中には国を挙げての応援態勢がないままで
の海外活動も求められ、派遣隊員や残された家族の
やるせない思いやくやしさは募るばかりでした。

それでも隊員たちは、不平不満など一切口にせず、
「日の丸」を背負った誇りと使命感を抱きつつ、厳
正な規律をもって今日まで一人の犠牲者を出すこと
なく、与えられた任務を確実にこなしてきました。
この間、実際に派遣された隊員たちのご苦労は想像
するにあまりあるのですが、寡黙な自衛官たちは本
音を語ろうとしませんでした。

かくいう私も、陸上幕僚監部防衛部長時代、「イラ
ク復興支援活動」の計画・運用担当部長でしたので、
決して公にはできない様々な経験をさせていただき
ました(墓場まで持っていくと決心しております)。

このような海外活動の実態について、隊員家族をは
じめ広く国民の皆様に知ってもらうことと自衛隊の
海外活動の記録と記憶を後世に伝え残したいという
願いから、「おやばと」紙上でシリーズ化し、各活
動に参加した指揮官や幕僚などに当時の苦労話、経
験、エピソードを寄せてもらいました。

連載は、2012年8月から2014年11月まで
約2年半続き、その後も行なわれている「南スーダ
ン共和国ミッション」や「海賊対処行動」などにつ
いてはそのつど、関係者に投稿をお願いしました。

このたび、シリーズ書籍化第1弾の『自衛官が語る 
災害派遣の記録』と同様、桜林美佐さんに監修をお
願いして、その第2弾として『自衛官が語る 海外
活動の記録』が出来上がりました。

本書には、世界各地で指揮官や幕僚などとして実際
の海外活動に従事した25人の自衛官たちの脚色も
誇張もない「生の声」が満載されております。

遠く母国を離れ、過酷な環境下で、ある時は身を挺
して、限られた人数で励まし合って厳しい任務を達
成した隊員たち、実際にはどんなにか辛く、心細く、
不安だったことでしょうか。

しかし、これらの手記を読む限り、そのようなこと
は微塵も感じられないばかりか、逆に派遣先の住民
への愛情や部下への思いやりなどの言葉で溢れてお
り、それぞれ厳しい環境で活動したことを知ってい
る私でさえ、改めて自衛隊の精強さや隊員たちの素
晴らしさを垣間見る思いにかられます。

また、桜林さんには、海外活動の進化した部分とか
依然として制約のある法的権限などについて、わか
りやすく解説し、かつ問題提起していただきました。

皆様にはぜひご一読いただき、まずはこれら手記の
行間にある、隊員たちの「心の叫び」を汲み取って
いただくとともに、自衛隊の海外活動の問題点・課
題などについても広くご理解いただきたいと願って
おります。また、前著『自衛官が語る 災害派遣の
記録』を未読の方は、この機会にこちらもぜひご一
読いただきますようお願い申し上げ、紹介と致しま
す。

『自衛官が語る 海外活動の記録─進化する国際貢献』
桜林美佐監修/自衛隊家族会編
  発行:並木書房(2019年12月25日)
  https://amzn.to/384Co4T







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【著者紹介】

宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学
校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロ
ラド大学航空宇宙工学修士課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕
僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、
第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て
2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』
などに投稿多数。


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