配信日時 2020/07/16 08:00

【我が国の歴史を振り返る ─日本史と世界史に“横串”を入れる─(93)】我が国の安全保障政策をめぐる議論  宗像久男(元陸将)

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
合わせは以下よりお気軽にどうぞ
 
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WEB http://wos.cool.coocan.jp
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こんにちは、エンリケです。

「我が国の歴史を振り返る
 ―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は92回目です。

今日も読みごたえのある素晴らしい内容です。


さっそくどうぞ


エンリケ


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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(93)

我が国の安全保障政策をめぐる議論

宗像久男(元陸将)
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□はじめに(「共同謀議」について補足)

 前回取り上げました「東京裁判」で指摘された「共
同謀議」について、どうしても1点、補足しておき
たいと思います。それは、林房雄氏の『大東亜戦争
肯定論』に出てくる文章です。林氏の肯定論自体に
ついては、本メルマガの総括で取り上げるつもりで
すが、林氏は「共同謀議」について以下のように記
述しています。

 「どの戦争も、敵と味方の戦力を慎重に計算し、周
到に『共同謀議』したら、とてもやれる戦争ではな
かった。・・・勝目のない戦争をさけ、文明開化政
策によって『内治の改革』をはかり、欧米に伍する
繁栄を求めることが最も懸命な道であったからだ。
もし可能なら、日本人はその道を選んだであろう。
だが、この道はふさがれていた。いかなる理性的判
断と努力によっても他の道を選ぶことが不可能であ
った」として、「政府は常に“非戦論”だった」と
する立場は、日清戦争以外、どの戦争にも当てはま
ることを強調しています。

その上で、「日本は、近代の世界文明の中にあって、
極めて特殊な地位に立った国であり、20世紀の進
行中には、遅かれ早かれ、この特殊な地位にもとづ
いた“日本の悲壮な運命”を展開せざるを得ない」
とする運命論的な考え方を大隈重信氏、徳富蘇峰氏、
和辻哲郎氏らも共有していたことを紹介しています。

 本メルマガでも再三、紹介しましたように、事実
は「共同謀議」とは全く別次元であり、我が国は、
常に圧倒的に勝る敵に対して、あらゆる手を尽くし
ても回避する手段がなく、やむなく戦争に挑んだの
でした。それは日清・日露戦争から大東亜戦争まで
共通しています。まさに、「国際社会の中で特殊な
地位にあったが故の“我が国の宿命”だった」とす
る指摘は、我が国の歴史を素直に学べば、自ずと導
かれる有力な結論のひとつであろうと考えます。

裁判で指摘された「共同謀議」に対する被告全員の
“反応”の背景に、このような共通認識があったと
すれば、改めて、「人類史上における大東亜戦争の
意義」とか「真の勝者はどちらだったか」など、本
戦争の“歴史的評価”に思いが至ります。続きは、
本メルマガの総括で取り上げることにしましょう。

さて、これまで述べてきましたGHQの占領政策、
中でも日本国憲法や日本改造については、戦後、我
が国の隅々まで広く行きわたっています。しかし、
占領期の後半に議論された、講和条約や日米安全保
障条約の締結、それに伴う米軍の駐留や日本再軍備
については、日本政府とGHQ・ワシントン当局を
含む米側の間で“いかなる情勢判断のもと、いかな
る議論がなされたのか”など、あまりつまびらかに
なっておりません。

昭和史研究家には興味にない話題だったのか、我が
国の「戦後体制」の骨幹ともいうべき、安全保障体
制(国防体制)の議論は“蚊帳の外”におかれてい
るように見えるのは、元自衛官としては何とも“腑
に落ちない”ところがあります。

そこで、数少ない“参考となる歴史書”などを探り
当てながら、経済政策の変更などと絡めて、「朝鮮
戦争」前、厳しい情勢の変化を眼前にして、将来の
我が国の安全保障政策をめぐる議論、言葉を代えれ
ば、 “非現実的な理想主義といかに決別しようとし
たか”について振り返ってみようと思います。

▼占領政策の変更と影響

 米国政府が「日本経済の早期復活の促進」に政策
を変更したことはすでに述べました。その際のジャ
パン・ロビーの活動が我が国に与えた影響をもう少
し掘り下げておきましょう。

昭和23年3月、グルーを名誉会長とする「対日協
議会」が発足されます。やがて親日ロビーの牙城と
なる同協議会の発起人は、『ニューズウイーク』の
外交担当編集者ハリー・カーン、ドーマン、コンプ
トン・バケナムら知日派でした。

彼らは、GHQの対日政策を徹底的に批判する記事
を相次いで『ニューズウイーク』に掲載します。特
に「占領政策はアメリカで許容されている以上に左
傾化している」との記事が掲載されると、議会でも
対日政策が攻撃の的になり、「経済復興を占領政策
の第1目標にすべき」との政策変更につながります。

マッカーサーやニューディーラーたちが猛反発した
ことは当然でしたが、「もっと徹底した旧体制の破
壊によって、社会主義的な国家にしたい」との意図
を持つ国内マスコミや左翼にとっても、『ニューズ
ウイーク』の記者たちが憎悪の対象となりました。

このような経緯に加え、その後の日米安保条約や再
軍備をめぐる議論の混迷もあって、“日本を共産化
しやすい状態にとどめておく”との本音を隠し、経
済復興を阻止するとともに、「安保反対」「再軍備
反対」をことごとく叫ぶ左翼(いわゆる進歩的文化
人)が残ってしまい、長くその影響を引きずること
になります。

さて、日本経済は、のちの「朝鮮戦争」の勃発によ
って閉塞状態から一挙に開放されますが、昭和21
年から24年までの経済の回復度(戦前との比較)
は、21年が58%、22年が65%、23年が6
9%となります。緩慢ではありましたが、占領政策
の変更によって徐々に改善基調にありました。

▼「公職追放」解除と共産党追放

 占領政策の変更によって、財閥解体や自治体警察
の返上なども行なわれます。「公職追放」も見直さ
れ、日本の政治や経済の再建に必要な人物は復帰を
求められます。昭和24年2月、追放指定解除の訴
願審査委員会が設けられ、1年半の審査の結果、
1万人余を解除し、残りは19万人余となります。
そして、講和条約締結間近の昭和26年11月まで
に、1万8千人を残して他は追放解除となります。

他方、逆に共産党追放へ目が向けられ、コミンフォ
ルムの命により、共産党が占領当局と対決路線を指
示したこと(1950年1月)がそのきっかけにな
ります。こうして、同年5月に、GHQは、「赤旗」
幹部41人に追放命令を出したのを皮切りに、追放
は、講和条約によって追放解除されるまで続き、共
産党員61人が追放されます。その結果、多くの共
産党幹部は、地下に潜るか海外に亡命します。

▼「芦田書簡」とマイケルバーガーの安全保障論

 さて、連合軍の日本占領は、結果として7年も続
きますが、“近世以来、主権国家同士の戦争の結果、
敗戦国全土の占領がこれほど長く続いた例はなかっ
た”ことを私たちは改めて記憶にとどめておく必要
があると考えます。

この“長く続いた占領”については、「初めから意
図されていたわけではなかった」ともいわれます。
現に、マッカーサーは、占領1年半後の昭和22年
3月に「できれば1年以内に平和条約を結んで、軍
事占領を終わらせたい」と発言しています。

この時点で米国が用意した対日講和案は「バーンズ
案」と呼ばれ、「軍隊の保有や航空機の保有を禁止
し、工業や商船隊も制限し、極東委員会の代表が日
本に常駐して25年間、監視する」という内容であ
りましたが、マッカーサーは「過酷すぎる」として、
講和が遅れることにしぶしぶ同意したのでした。

日本に幸いしたのは、当時、第2次世界大戦の処理
をめぐる米英ソの交渉が至る所で暗礁に乗り上げて
おり、対日平和条約も難航し、“監視期間を25年
から40年に延長する”妥協案まで出されたようで
すが、結局、合意は得られなかったのです。

その後の動きは、「日本を対象とする安全保障」か
ら徐々に、“日本が共産陣営の手に落ちることを防
ぐ”「日本のための安全保障」へ転換していきます。
特に、マーカーサーの早期和平提案に疑問を持って
いたのは、第8軍司令官のマイケルバーガー中将で
した。

マイケルバーガーは、「早期和平が実現すれば米軍
は引き上げを考えなければならないが、もしその後
でソ連軍が樺太や千島から侵入してきたらどうする
のだろう」と心配していました。当時の我が国が置
かれた“状況”を伺い知ることができるエピソード
と考えます。

昭和22年9月、芦田均がそのマイケルバーガーに、
「国連が機能しない場合を想定して、(国連が機能
するまで)我が国を防衛する方法として、(1)米軍が
駐留し、(2)日米間で特別協定を結び、日本の防衛を
アメリカに委ね、日本の独立を保障するのが最良の
手段である」とする、のちの「日米安保条約」への
第1歩となる「芦田書簡」を手交します。

特に、この“国連が機能するまで米国に頼る”とい
う考えは、のちの旧安保条約、改正安保条約に引き
継がれます。そして「“日本に対する駐留”より
“日本のための駐留”であるべき」とする考えは、
当時から叫ばれ、その後しばらく続いた「ビンの蓋」
論に対抗する考え方としてとても有効でした。

岡崎久彦氏は、歴史の「if」として、「占領中の
日本政治を指導したのが、権威主義的な固定観念の
持主であるマッカーサーと論理性のない吉田ではな
く、マイケルバーガーと芦田であったら、戦後日本
の思想言論の混迷は間違いなく避けられただろう」
と述懐しています。

▼マッカーサーの日本再軍備反対

昭和23年3月、マイケルバーガーは、「当時の4
万7千人の駐留軍ではソ連の侵入に対抗できない」
として、3~5個師団の日本軍の再建計画をつくり、
ウイロビーなど主要幹部との会議で案をまとめると
ころまでもっていきましたが、再軍備に反対するマ
ッカーサーに一蹴されてしまいます。

その時のマッカーサーの状況判断は、「中国大陸で
は蒋介石がまだ健在で共産軍を防いでいるし、ソ連
が南朝鮮を侵攻する可能性も薄い」としたようです
が、この情勢判断はその後ことごとく誤りとなりま
す。

マッカーサーは、“憲法第9条を中心に自分が組み
立てた日本占領方針を覆すアイデアを意地でも抑え
る”ことに情熱を燃やし、(「封じ込め」政策で有
名になった)ジョージ・ケナンらが訪日し、「日本
固有の自衛力保持」を主張した際にも、再軍備には
強硬に反対し続けます。

その理由として、(1)日本の軍国主義化を恐れるアジ
ア諸国の反発を招く、(2)占領軍の威信を失墜させる、
(3)日本が再軍備しても5等国並みの軍事力しかなら
ずソ連の脅威に対抗できない、(4)日本の経済力が
軍事費に耐えられない、(5)日本国民が戦争放棄を
支持している、などを挙げ、「日本の平和主義路
線は規定路線であって、占領軍の威信の失墜、日本
の世論の反発なしには変えられない」と主張します。

大統領候補から外れ、リベラル勢力の意見を取り入
れる必要がなくなった後になっても保持し続けた、
この“かたくなな考え”について、前述の岡崎氏は、
「孤立した独断的な人物が犯しがちな誤りである」
と厳しく批判しています。そして、この一貫したマ
ッカーサーの発言は、そのまま“論理性のない”吉
田茂の発言に忠実に反映されるのです。

こうしているうちに、昭和24年10月、中国に中
華人民共和国が成立し、マッカーサーが考えていた
“非武装日本との早期和平”は非現実のものとなり
ます。この結果、トルーマン大統領も出席した国家
安全保障会議において、「対日講和は無期延期、米
軍駐留継続」が決定されます。つまり、ワシントン
の大局的戦略とマッカーサー・吉田の方針の間には
かなりの齟齬が生じていたのでした。

歴史的事実としてのマッカーサーの更迭は、「朝鮮
戦争」最中の昭和26年4月ですが、昭和24年時
点で、ワシントンでは“マッカーサー更迭論”が出
る一方、「自主防衛できない日本は守り切れない」
として“日本切り捨て論”も出たといわれます。前
年の昭和23年3月、米政府は在韓米軍撤退を内定
していましたので、日本撤退も実際にあり得たので
した。

▼「ドッジ・ライン」の弊害

 占領後半の日本経済について、もう少し触れてお
きましょう。日本経済が回復基調にあったことはす
でに述べましたが、激しいインフレによって、国民
生活の“窮乏”に拍車がかかっていました。

 昭和24年2月、ジョセフ・ドッジが来日します。
デトロイト銀行頭取を務めたドッジは、占領下のド
イツの通貨改革に辣腕を振るったことがトルーマン
に評価され、マッカーサーの財政顧問に指名されま
す。しかも、GHQを飛び越えて采配を振うことが
できる“公使”という資格を得ておりました。

古典的な自由経済論者のドッジは、さっそく、日本
経済の自立と安定を目的として“財政金融引き締め
政策”(いわゆる「ドッジ・ライン」)を強行しま
す。代表的なものは、公共事業費は日本政府予算案
の半額を削減、所得税減税や取引高税廃止のとりや
め、鉄道・郵便料金の5、6割の値上げ、などでし
た。

この結果は、生産の停滞、滞貨の激増、中小企業の
倒産、賃金の切り下げ・不払い・遅配などを招きま
す。大企業は、人員整理を余儀なくされ、27万人
近い官公庁労働者も首切り対象になります。

たちまち、「ドッジ・ライン」は裏目に出て、国民
生活はより深刻さを増します。昭和23年に26万
人だった失業者は、朝鮮戦争直前までの1年半に4
3万人に増加します。当然、社会不安が拡大し、
「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」などの怪事
件が相次いで発生、労働運動にも大打撃を与えます。

それらをGHQの権威のもとで抑えつけますが、
「吉田内閣の権力の基盤は、究極的にはGHQの権
力である」ことが如実に実証された例とされていま
す。

このように、朝鮮特需で一息つくまでのこの時期は、
国民全体が敗戦の結果として窮乏の辛酸をなめた
“最後のドン底”だったのです。他方、緊縮財政の
効果が表れ、インフレは急速に収まります。GHQ
は、1ドル360円の「単一為替レート」を与えて
日本の国際経済への復帰を許し、我が国は、自らの
手で経済再建の道を歩むことになります。


(以下次号)


(むなかた・ひさお)

※お知らせ
私は現在、ボランテイアですが、公益社団法人自衛
隊家族会の副会長の職にあります。今回紹介いたし
ます『自衛官が語る 海外活動の記録』は、自衛隊
家族会の機関紙「おやばと」に長い間連載してきた
「回想 自衛隊の海外活動」を書籍化したものです。

その経緯を少しご説明しましょう。陸海空自衛隊は、
創設以降冷戦最中の1990年頃までは、全国各地
で災害派遣や警備活動を実施しつつ、「専守防衛」
の防衛政策のもとで国土防衛に専念していました。

 憲法の解釈から「海外派兵」そのものが禁止され
ており、国民の誰しも自衛隊の海外活動は想像すら
しないことでした。当然ながら、自衛隊自身もその
ための諸準備を全く行なっていませんでした。

ところが、冷戦終焉に伴う国際社会の劇的な変化に
よって、我が国に対しても国際社会の安定化に向け
て実質的な貢献が求められるようになりました。

こうして、湾岸戦争後の1991(平成3)年、海
上自衛隊掃海部隊のペルシア湾派遣を皮切りに、自
衛隊にとって未知の分野の海外活動が始まりました。
しかも、中には国を挙げての応援態勢がないままで
の海外活動も求められ、派遣隊員や残された家族の
やるせない思いやくやしさは募るばかりでした。

それでも隊員たちは、不平不満など一切口にせず、
「日の丸」を背負った誇りと使命感を抱きつつ、厳
正な規律をもって今日まで一人の犠牲者を出すこと
なく、与えられた任務を確実にこなしてきました。
この間、実際に派遣された隊員たちのご苦労は想像
するにあまりあるのですが、寡黙な自衛官たちは本
音を語ろうとしませんでした。

かくいう私も、陸上幕僚監部防衛部長時代、「イラ
ク復興支援活動」の計画・運用担当部長でしたので、
決して公にはできない様々な経験をさせていただき
ました(墓場まで持っていくと決心しております)。

このような海外活動の実態について、隊員家族をは
じめ広く国民の皆様に知ってもらうことと自衛隊の
海外活動の記録と記憶を後世に伝え残したいという
願いから、「おやばと」紙上でシリーズ化し、各活
動に参加した指揮官や幕僚などに当時の苦労話、経
験、エピソードを寄せてもらいました。

連載は、2012年8月から2014年11月まで
約2年半続き、その後も行なわれている「南スーダ
ン共和国ミッション」や「海賊対処行動」などにつ
いてはそのつど、関係者に投稿をお願いしました。

このたび、シリーズ書籍化第1弾の『自衛官が語る 
災害派遣の記録』と同様、桜林美佐さんに監修をお
願いして、その第2弾として『自衛官が語る 海外
活動の記録』が出来上がりました。

本書には、世界各地で指揮官や幕僚などとして実際
の海外活動に従事した25人の自衛官たちの脚色も
誇張もない「生の声」が満載されております。

遠く母国を離れ、過酷な環境下で、ある時は身を挺
して、限られた人数で励まし合って厳しい任務を達
成した隊員たち、実際にはどんなにか辛く、心細く、
不安だったことでしょうか。

しかし、これらの手記を読む限り、そのようなこと
は微塵も感じられないばかりか、逆に派遣先の住民
への愛情や部下への思いやりなどの言葉で溢れてお
り、それぞれ厳しい環境で活動したことを知ってい
る私でさえ、改めて自衛隊の精強さや隊員たちの素
晴らしさを垣間見る思いにかられます。

また、桜林さんには、海外活動の進化した部分とか
依然として制約のある法的権限などについて、わか
りやすく解説し、かつ問題提起していただきました。

皆様にはぜひご一読いただき、まずはこれら手記の
行間にある、隊員たちの「心の叫び」を汲み取って
いただくとともに、自衛隊の海外活動の問題点・課
題などについても広くご理解いただきたいと願って
おります。また、前著『自衛官が語る 災害派遣の
記録』を未読の方は、この機会にこちらもぜひご一
読いただきますようお願い申し上げ、紹介と致しま
す。

『自衛官が語る 海外活動の記録─進化する国際貢献』
桜林美佐監修/自衛隊家族会編
  発行:並木書房(2019年12月25日)
  https://amzn.to/384Co4T







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【著者紹介】

宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学
校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロ
ラド大学航空宇宙工学修士課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕
僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、
第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て
2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』
などに投稿多数。


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