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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
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こんにちは、エンリケです。
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は92回目です。
今日も読みごたえのある素晴らしい内容です。
毎回ショックを受けていますが、
今回のは桁外れでした、、、
さっそくどうぞ
エンリケ
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(92)
「東京裁判」の結果と評価
宗像久男(元陸将)
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□はじめに
はじめに、前回の続きを少し補足しておきましょう。
ジャパン・ロビーに「日本の占領は、失敗に次ぐ失
敗だった」と指摘され、大統領選挙を意識した上、
人一倍プライドの高いマッカーサーは、「大統領選
がらみの政治的陰謀だ」と激しく反発します。しか
し、米本土の方針は、この時点で「日本経済の早期
復興の促進」に固まりつつあったようです。
しかも、1948(昭和23年)の大統領選挙の共
和党候補は、マッカーサーの期待に反して、トマス・
E・デューイに決まります。ようやく、マッカーサ
ーの政治的野心は絶たれ、リベラルな世論に迎合す
る必要もなくなります。
“アメリカの大統領選挙の帰趨にGHQの占領政策
が振り回されていた”とは、にわかには信じがたい
ですが、この後の占領政策は、その“行き過ぎの是
正”に向かって加速されます。その結果、財閥解体
や警察力の地方分権化、そして公職追放などが見直
されることになります。
▼天皇退位論
周辺情勢などをよそに、この間も「東京裁判」は
続けられましたが、その終盤、「天皇の退位論」が
浮上し、重大な局面を迎えました。発端は、昭和2
3年5月、初代最高裁判所長官の三淵忠彦が「陛下
はなぜに自らを責める詔勅をお出しにならないのか」
との発言が海外に誤伝されたのをきっかけに、東京
大学南原茂総長が退位を公言するなど、当時の芦田
均首相も浮き足立ったといわれます。
この頃の天皇は、自らの「不徳」を認識しつつも最
後まで国民と苦楽を共にしようと決意されていたと
いわれますが、その心境は穏やかではなかったもの
と推測されます。
このような中、皇位を守ったのは大多数の国民でし
た。昭和23年8月の読売新聞の世論調査では「天
皇制度があった方がいい」が90.3%、退位問題
については「在位された方がいい」が68.5%と
なり、「皇太子に譲られた方がいい」の18.4%
を圧倒的に上回るなど、新聞に出てくる著名人が退
位論を振りかざすなか、一般国民は全く逆の意見を
持っていたのでした。
当惑したのはGHQでしたが、9月、(1)天皇は依
然最大の尊敬を受け、近い将来退位するようなこと
は考えられない、(2)天皇退位のうわさは共産党や
超国家主義者の宣伝によるものである、(3)天皇の
統治を受けることが日本国民及び連合国の最大の利
益になる、と発表し、退位論は沈静化します。
▼「東京裁判」の結果と打ち切り
さて、第89話で紹介しましたような日程で裁判は
進み、昭和23年11月、判決が言い渡されます。
その結果、A級戦犯28名のうち、7名の絞首刑を
はじめ全員(病死、精神障害などを除き)が有罪判
決となりますが、判決理由はありませんでした。無
罪判決とその理由と証拠を明らかにしたのは、11
名の判事中、有名なパール判事ただ一人でした。
ちなみに、B級戦犯は、横浜やマニラなど世界49
カ所で軍法法定が開かれ、被告人総数は約5700
名、うち死刑984名、無期刑475名、有期刑2
944名、無罪1018名の判決が下さました。
また、実際のA級戦犯容疑の逮捕者は、軍の高官の
みならず政財界から幅広くリストアアップされ、第
1次から第4次戦犯指名まで総勢126名(15名
の外国人含む、うち5名は逮捕前に自殺)を数えま
した。しかし、昭和23年12月、ニュージーラン
ドが裁判の打ち切りを主張し、アメリカもそれに同
調、極東委員会で承認されたような格好で翌年6月、
裁判は打ち切られます。
“冷戦の激化で裁判どころではなかった”というの
が真相と考えますが、幸運にも裁判を免れ、無罪放
免された戦犯リストには、戦後の政界、財界、マス
コミ会などにおいて、“戦犯容疑で逮捕された事実”
などなかったかのような大物ぶりを発揮した人たち
がたくさんおります。
▼「東京裁判」の評価
裁判打ち切りという“不公平”からしても、「東京
裁判」がいかにひどい裁判だったかは明白ですが。
中でも、最大の欠陥は、「平和に対する罪」の訴因
第1の文言である「“共同謀議”で数々の不法な戦
争を行った」として、「共同謀議者は政府を支配し、
その目的を達成するために計画された侵略戦争に向
かって、国民の精神と物的資源を準備し、組織を統
制した」との判決の要旨です。
このため、「田中上奏文」という“偽書”まで引用
しますが、この疑いに対して、どの被告も冷笑し、
苦笑し、憫笑(びんしょう)したとされ、被告誰一
人として納得したものはおりませんでした。
その光景が目に浮かぶようですが、素人の目からみ
ても、裁く側が被告人から、“あわれみ、さげすま
されて笑われる”裁判のどこに正義があるのか、と
考えたくなります。
そのはずです。昭和初期以降の日本政府には、一貫
した政策やきちんとした計画など全く存在せず、そ
の場その場で「国益に照らして良かれ」と思ったこ
とをどうにか実施してきただけで、言葉を代えれば、
“時の政府の最大の怠慢”と言っていい事実と判決
要旨は全く相反していたのでした。
GHQの情報部長のウイロビーは「この裁判は史上
最悪の偽書である」と語ったとの記録も残っていま
すが、当時からGHQ内にさえ、この裁判に疑問を
持つスタッフがかなり存在していました。
いつの時代も戦争の勝敗は“時の運”が左右し、正
義とか不正義とかは別次元の問題です。勝利したが
ゆえに正義というわけではありません。正義を決定
付けるのは法で、国と国の関係では国際法です。
「東京裁判」も当初、「国際法にのっとって裁く」
と宣伝しましたが、国際法には「戦争そのものを犯
罪とする」との規定はどこにもありません。
人類の歴史上、戦争そのものは国際法の領域外にお
かれているからです。まして戦争を計画し、準備し、
遂行したとの廉(かど)で個人が裁かれるというよ
うな規定はどこにも存在しません。
「法律のないところに裁判はなく、法律のないとこ
ろに刑罰はない」というのが法治社会の初歩的な原
則です。“法律なくして人を裁く”のは野蛮時代の
私刑(リンチ)と変わらないはずです。
唯一、「日本無罪論」を主張したインドのパール判
事は、「連合国は、東京裁判によって、日本が侵略
戦争を行ったことを歴史にとどめることによって、
欧米列国による侵略を正当化し、日本に過去の罪悪
の烙印を押すことが目的だった」と欧米列国の植民
地支配の“非”を責め立てました。
さらに、「復讐の欲望を満たすために、単に法律
の手続きを踏んだに過ぎないというようなやり方は、
国際正義の観念とはおよそ縁遠い。このような儀式
化された復讐は、瞬時に満足感を得るものだけであ
って、究極的には後悔をともなうことは必然である」
と厳しく批判しました。
▼「東京裁判」の後遺症と総括
「東京裁判」は、南京大虐殺など、事実と異なる被
害者規模を支持する判決を下すなど、中国のプロパ
ガンダが色濃く反映された一面もあり、裁判の後遺
症として、戦後の日本に「自虐史観」を植え付ける
結果となりました。
また、多くの国民が「ともかく、あのような無謀な
戦争をしでかしたのだから、その責任者(軍人ら)
が処刑されるのは当然」と考えたのは理解できない
わけではないですが、それは一般的な感情論であり、
道義の問題です。
道義と法律は別であり、それを混同するのは明らか
に間違いなのですが、裁判のもう一つの後遺症とし
て、戦後の日本の「反軍思想」に影響を及ぼすこと
にもなりました。
「東京裁判」に臨んだ被告たち全員が一致していた
のは「天皇に責任が及ばさないこと」だったといわ
れます。清瀬一郎氏の弁護方針も(1)天皇擁護、(2)
に国家の弁護、(3)の個人の弁護は(1)と(2)の範囲内
において行なうとしていたといわれます。
裁判においても、「すべて軍の責任」とする証言も
あったように、確かに軍の責任は随所にありました。
しかし、“史実”を子細にみれば、中国や米国の挑
発や陰謀に加え、マスコミの愛国的な扇動に煽られ
た世論に抗すべくもなかった実情、それに近衛首相
の軽率な政策や松岡外相の独断などもあって、「す
べてを軍だけの責任に帰するのはあまりにも雑駁な
論である」(岡崎久彦氏)との見方もあることを紹
介しておきましょう。
「東京裁判」について、まだまだ私たち日本人が知
っておくべきことがたくさんあると考えますが、細
部は他の書籍などに任せることにします。
最後に、マッカーサー司令官さえ、帰国後、トルー
マン大統領に「東京裁判は間違いだった」と報告し
ていることをつけ加えておきましょう。また、裁判
が終わってから数年後、キーナン首席検事をはじめ、
ウイリアム裁判長、アンリ・ベルナール仏代表判事、
ベルト・レーリング蘭代表判事など、裁判にかかわ
った多くの人が「この裁判は間違いだった」と告白
しています。
これらから、たぶん後世、“東京裁判は人類史上最
悪の裁判だった”と言われることは間違いないだろ
うと思われます。しかし、戦後の日本の法律家はだ
れひとり、この裁判を検証しようとしないのも不思
議です。裁判が終了してから数後年、パール判事が
日本で講演し、日本の法律家に「なぜ沈黙を守って
いるのか」と奮起をうながしましたが、誰一人動き
ませんでした。
「東京裁判は、国家の名誉のためにも、処刑された
人々の名誉のためにも何らかの形で清算してもいい」
と岡崎久彦氏は述べています。全く同感ですが、岡
崎氏のような方が法曹界に現れないのは我が国の不
幸としか言えようがありません。素人の口出しする
ことではありませんが、この世界も「骨の髄までマ
インドコントロールされている」ということなので
しょうか。
▼再び、中国・朝鮮半島情勢
さて、「東京裁判」判決前後の周辺情勢を再び振
り返っておきましょう。まず中国です。当初は、国
民党が圧倒的に優位を保持し、共産党の約3倍の兵
力・地域・人口を支配していたのが、徐々に共産党
が優位になり始めたことは、その原因を含め、すで
に述べました。
1948年9月から、有名な「遼瀋戦役」「淮海戦
役」「平津戦役」の“三大戦役”で共産党軍が勝利
し、1949(昭和24)年1月末には、国民党軍
は北京を放棄し、共産党軍が無血入城します。その
後、国民党首脳は広州、さらに重慶に逃れて抵抗し
ますが、各地で降伏するなど力を失います。
同年10月1日、毛沢東は、北京で「中華人民共
和国」の樹立を宣言します。国民政府要人は台湾に
逃れ、翌50年3月1日、蒋介石は台北で総統に復
帰、「中華民国」を存続させます。こうして、長か
った国共内戦がついに決着します。
その頃の朝鮮半島情勢も振り返っておきましょう。
1948年8月、李承晩が「大韓民国」独立を宣言
します。それに対抗するように、9月、金日成が
「朝鮮民主主義人民共和国」を宣言し、占領境界線
の38度線を国境にして北側と南側にそれぞれ別の
国家が誕生します。
この結果、朝鮮半島は、北をソ連などの社会主義
陣営が支援し、南をアメリカなどの資本主義陣営が
支援するという、東西冷戦の両陣営がにらみ合う
“最前線”となります。
その後、金日成は、李承晩を倒して統一政府を樹立
するため、スターリンに南半部への武力侵攻の許可
を求めますが、アメリカとの直接戦争を望まないス
ターリンは許可せず、同年12月、ソ連軍は、軍事
顧問を残し、朝鮮半島から撤退します。
翌49年6月、アメリカ軍も軍政を解き、軍事顧問
団を残し撤収しますが、それを受けて北朝鮮は「祖
国統一民主主義戦線」を結成します。同年10月、
「中華人民共和国」が成立すると、金日成は、“朝
鮮半島でも社会主義による統一を実現しよう”と決
意したといわれます。
こうした情勢の中の1950年1月、アメリカの
ディーン・アチソン国務長官が「アメリカが責任を
持つ防衛ラインは、フィリピン―沖縄―日本―アリ
ューシャン列島までである」という奇妙な発言をし
ます。つまり、朝鮮半島や台湾はアメリカの“防衛
ラインの外である”と明言したのです。
アチソン発言には、「アメリカの国防政策上、西
太平洋の制海権だけは絶対に渡さない」という意味
があったといわれますが、前回取り上げましたマー
シャルの後任の国務長官アチソンもニューデーラー
のリストに挙がっていることなどから、彼の発言に
は何らかの意図があったと考えるべきでしょう。
実際に、この発言が金日成をさらにその気にさせ、
同年5月、金は毛沢東から中華人民共和国の援助の
約束を取り付けます。これによって、北朝鮮の南侵
の環境はすべて整ったことになります。
(以下次号)
(むなかた・ひさお)
※お知らせ
私は現在、ボランテイアですが、公益社団法人自衛
隊家族会の副会長の職にあります。今回紹介いたし
ます『自衛官が語る 海外活動の記録』は、自衛隊
家族会の機関紙「おやばと」に長い間連載してきた
「回想 自衛隊の海外活動」を書籍化したものです。
その経緯を少しご説明しましょう。陸海空自衛隊は、
創設以降冷戦最中の1990年頃までは、全国各地
で災害派遣や警備活動を実施しつつ、「専守防衛」
の防衛政策のもとで国土防衛に専念していました。
憲法の解釈から「海外派兵」そのものが禁止され
ており、国民の誰しも自衛隊の海外活動は想像すら
しないことでした。当然ながら、自衛隊自身もその
ための諸準備を全く行なっていませんでした。
ところが、冷戦終焉に伴う国際社会の劇的な変化に
よって、我が国に対しても国際社会の安定化に向け
て実質的な貢献が求められるようになりました。
こうして、湾岸戦争後の1991(平成3)年、海
上自衛隊掃海部隊のペルシア湾派遣を皮切りに、自
衛隊にとって未知の分野の海外活動が始まりました。
しかも、中には国を挙げての応援態勢がないままで
の海外活動も求められ、派遣隊員や残された家族の
やるせない思いやくやしさは募るばかりでした。
それでも隊員たちは、不平不満など一切口にせず、
「日の丸」を背負った誇りと使命感を抱きつつ、厳
正な規律をもって今日まで一人の犠牲者を出すこと
なく、与えられた任務を確実にこなしてきました。
この間、実際に派遣された隊員たちのご苦労は想像
するにあまりあるのですが、寡黙な自衛官たちは本
音を語ろうとしませんでした。
かくいう私も、陸上幕僚監部防衛部長時代、「イラ
ク復興支援活動」の計画・運用担当部長でしたので、
決して公にはできない様々な経験をさせていただき
ました(墓場まで持っていくと決心しております)。
このような海外活動の実態について、隊員家族をは
じめ広く国民の皆様に知ってもらうことと自衛隊の
海外活動の記録と記憶を後世に伝え残したいという
願いから、「おやばと」紙上でシリーズ化し、各活
動に参加した指揮官や幕僚などに当時の苦労話、経
験、エピソードを寄せてもらいました。
連載は、2012年8月から2014年11月まで
約2年半続き、その後も行なわれている「南スーダ
ン共和国ミッション」や「海賊対処行動」などにつ
いてはそのつど、関係者に投稿をお願いしました。
このたび、シリーズ書籍化第1弾の『自衛官が語る
災害派遣の記録』と同様、桜林美佐さんに監修をお
願いして、その第2弾として『自衛官が語る 海外
活動の記録』が出来上がりました。
本書には、世界各地で指揮官や幕僚などとして実際
の海外活動に従事した25人の自衛官たちの脚色も
誇張もない「生の声」が満載されております。
遠く母国を離れ、過酷な環境下で、ある時は身を挺
して、限られた人数で励まし合って厳しい任務を達
成した隊員たち、実際にはどんなにか辛く、心細く、
不安だったことでしょうか。
しかし、これらの手記を読む限り、そのようなこと
は微塵も感じられないばかりか、逆に派遣先の住民
への愛情や部下への思いやりなどの言葉で溢れてお
り、それぞれ厳しい環境で活動したことを知ってい
る私でさえ、改めて自衛隊の精強さや隊員たちの素
晴らしさを垣間見る思いにかられます。
また、桜林さんには、海外活動の進化した部分とか
依然として制約のある法的権限などについて、わか
りやすく解説し、かつ問題提起していただきました。
皆様にはぜひご一読いただき、まずはこれら手記の
行間にある、隊員たちの「心の叫び」を汲み取って
いただくとともに、自衛隊の海外活動の問題点・課
題などについても広くご理解いただきたいと願って
おります。また、前著『自衛官が語る 災害派遣の
記録』を未読の方は、この機会にこちらもぜひご一
読いただきますようお願い申し上げ、紹介と致しま
す。
『自衛官が語る 海外活動の記録─進化する国際貢献』
桜林美佐監修/自衛隊家族会編
発行:並木書房(2019年12月25日)
https://amzn.to/384Co4T
宗像さんへのメッセージ、ご意見・ご感想は、
このURLからお知らせください。
↓
https://okigunnji.com/url/7/
【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学
校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロ
ラド大学航空宇宙工学修士課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕
僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、
第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て
2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』
などに投稿多数。
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最後まで読んでくださったあなたに、心から感謝し
ています。
マガジン作りにご協力いただいた各位に、心から感
謝しています。
そして、メルマガを作る機会を与えてくれた祖国に、
心から感謝しています。ありがとうございました。
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