配信日時 2020/07/02 08:00

【我が国の歴史を振り返る ─日本史と世界史に“横串”を入れる─(91)】情勢変化に伴う占領政策の変容  宗像久男(元陸将)

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
合わせは以下よりお気軽にどうぞ
 
E-mail hirafuji@mbr.nifty.com
WEB http://wos.cool.coocan.jp
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こんにちは、エンリケです。

「我が国の歴史を振り返る
 ―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は91回目です。

今日も読みごたえのある素晴らしい内容です。

「目に見えない戦争、国史、歴史」
を日本人のためにいかに妥当に可視化するか?

にチャレンジするこの連載は、
今生きる日本人としてなすべき
仕事、義務のひとつを果たした
「わが誇り」のひとつである。

それほど大きな取り組みを
宗像さんはこの連載でなさっている。

私はそう思っています。

その取り組みの大変さを
読み手に感じさせることなく
頂門の一針のごとく
さらりと軽くピンポイントで
真実を伝えていらっしゃる姿勢にも、
尊敬の念が止みません。

だからこのコンテンツを
多くの人に手に読んでほしいし、
多くの人に知ってほしいです。

「井の中の蛙」日本人から脱却できる
極めて貴重なコンテンツだからです。


さっそくどうぞ


エンリケ


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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(91)

情勢変化に伴う占領政策の変容

宗像久男(元陸将)
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□はじめに

先週もN様から貴重なご所見をいただきました。ま
ずは心より御礼申し上げます。内容は、司馬遼太郎
氏に関することで、大のファンであったのが、途中
から「司馬史観」に違和感を覚えたというものでし
た。
 かくいう私も学生の頃、司馬氏の歴史小説を手当
たり次第に読み、あたかもそれらが「史実」と思い
込んでいた時がありました。しかし、大人になるに
つれ、小説とは違う「史実」があることに気づき、
以来、読み方が変わりました。

先週はこの話題について深入りすることを避けたの
ですが、せっかく読者反響をいただきましたので、
少し補足させていただきます。司馬(本名:福田定
一)氏は、1943年、学徒出陣で陸軍に入隊し、
兵庫県小野市の青野ヶ原にあった戦車部隊に配属さ
れます。その後、満州の戦車学校に入校しますが、
成績優秀なグループは内地に返されたらしく、司馬
氏は久留米の戦車部隊の小隊長に赴任し、陸軍少尉
として終戦を迎えます。

終戦後、司馬氏は「なんとくだらない戦争をしたの
か」と悩まれたそうですが、一度も実戦を経験して
いませんし、失礼ながら、「戦争」とか「軍事」の
本質を学ぶ機会もなく、十分理解しないまま、小説
家になったものと推測します。だから、どろどろし
た背景を含め、「戦争」とか「軍事」を取り上げな
ければ小説にならない「昭和史」なればこそ、“書
く気にならなかった”と勝手に理解しております。

余談ながら私は、20数年前、司馬氏の初任地であ
った、陸上自衛隊青野原駐屯地の駐屯地司令として
勤務した経験があります。かつて三島由紀夫氏が兵
隊検査を受検した場所ということは知っていました
が、(当時すでに有名な作家だった)司馬氏の初任
地だったことは話題にもなっていませんでした。

 さて、前回取り上げましたが、「国民政府はなぜ
共産党に敗れたか?」「アメリカがなぜ蒋介石を見
捨てたか?」などについて、改めて、日本の著名な
昭和史研究家、学者、外交官などの著書を調べてみ
ましたが、目についたものはありませんでした。以
前に紹介しました「日中共同研究」においても、終
戦時に中国大陸に取り残された軍人や民間人の“そ
の後の足取りを追う”ことに留まっています。

また知る限りにおいて、中国史の専門家の著書にも、
その時期の大陸の事情については、共産党とソ連の
緊密な関係の言及はありますが、米国の政策に関す
るものを見つけることは出来ませんでした。

当時、日本は占領下にあり、当然ながら外交権も保
持していません。よって、国家としての必要な国外
情報も収集できない時期にあり、GHQを通じて、
最小限の情報を得ていたものと思われます。

国民の生活救済やGHQに強要された大幅な国家改
造など、国内対応で精一杯だったと推測されますが、
改めて、“外交権を失うことの意味”を思い知らさ
れるような気がしています。

▼マーシャルの不思議な行動(続き)

ソ連軍は1946年3月、満州から撤退を始めます
が、4月には共産党軍がハルピン、長春、チチハル
など主要都市を占領します。その翌月、国民党軍が
長春や吉林を回復しますが、8月、共産党は満州に
勝手に政府を作ります。10月、アメリカは、中国
がソ連の影響下に入らないように、国民党と共産党
両者に中国を振り分ける休戦提案を行ないますが、
共産党はこれを拒否します。

その結果、1946年11月、アメリカと国民党は、
共産党を無視して「米華友好通商航海条約」を結び
ますが(この条約締結にマーシャルがどのように関
与したかは不明です)、1947年1月、マーシャ
ルは、国務長官に就任するため中国を離れます。

半年後の7月、再びウェデマイヤーはトルーマン大
統領から中国と朝鮮に派遣され、「政治・経済・民
情・軍事」状況の調査を命ぜられます。そして2か月
の調査の後、「中国は、ソ連の手先になっている中
国共産党によって危機にさらされている」旨の有名
な『ウェデマイヤー報告書』(1947年9月)を
提出します。しかし、報告書はその後2年間、封印
されたままになりますが、これを無視したのはマー
シャルだったといわれます。

マーシャルは、国務長官に就任後、「マーシャル・
プラン」という欧州復興計画を発表します。しかし、
アジア正面では、自らの中国復興計画と和平調停が
破綻してしまったこと(その原因は蒋介石側にある
と判断したこと)に対する制裁なのか、あるいは彼
自身の信念なのか、議会が決定した国民党への支援
を故意に遅延させるなど、共産党を利する政策を取
り続けます。

米国内においては、陸軍省(軍事情報部)などは中
国共産党の実態を正しく把握していたといわれます
が、一人の元将軍の怨念のような、かたくなな政策
によって共産党政権の誕生を許す結果となったとい
う指摘は、それが“史実”だったと言っても過言で
はなさそうです。

それにしても、日本軍の占領政策にあれほど注意を
注いだ米国が、そして歴史を振り返れば、日本と争
いつつ“中国進出”を目指してきたその米国が、こ
の時期、嘘のように中国への関心を失っていた(よ
うに見えた)のは、実に奇妙です。

当然ながら、国務長官といえども、マーシャル一人
の力ではアメリカの政策を左右できないことは明白
です。これについては、フーバー元大統領の回顧録
には「政治的野心を持った国務省の陰謀だった」と
記載され、トルーマン政権内、特に国務省内のニュ
ーデーラーたちが意図的に中国の共産政権の誕生を
容認したと指摘しています。

また、1950年、「マッカーシズム」(赤狩り)
の発端となったマッカーシーの問題発言「国務省に
所属し、今もなお勤務し政策を形成している250
人の共産党党員のリストを持っている」などからも、
当時の米国国務省の暗躍が浮き彫りになります。

マッカーシーの摘発の真意については、「世界を自
由主義と共産主義に分割し、意図的に両陣営を対立、
拮抗させることで利益を得る者たちがいる。彼らに
抜擢され操られ上手に使われた政治家が、ジョージ・
マーシャル国務長官その人である」と少し別な指摘
もあることを付記しておきましょう。

“歴史を動かす”要因は常に複雑です。蛇足ながら、
“〇〇史観”といわれるものに色濃く染まる人たち
は、その史観を信奉するあまりそれ以外の“歴史の
見方に盲目になる”傾向にあるようです。“歴史を
学ぶ時のいましめ”と私はいつも自らに言い聞かせ
ております。

▼朝鮮半島の分断

次に終戦後の朝鮮半島についても触れておきましょ
う。まず、朝鮮半島については、カイロ宣言で「朝
鮮は適当な時期に独立する」とされていましたが、
ヤルタ会談では、アメリカは「適当な時期」を20
~30年間とし、その間は「信託統治領とする」と
表明しました。

1945年8月、日本の敗北によって朝鮮は独立を
回復し、人々は解放を祝いました。日本支配下で独
立運動を続けていた呂運亨を中心に建国準備委員会
が結成され、国号は「朝鮮人民共和国」を予定して
いたといわれます。

ところが、満州を制覇したソ連が北朝鮮の国境を越
え、8月24日に平城に入ります。あわてたアメリ
カはソ連に北緯38度線で分割占領することを提案、
9月8日にマッカーサーが仁川に上陸し、「朝鮮を
米軍の軍政下に置く」との布告を出します。

1945年12月、モスクワで行なわれた米英ソ三
国外相会議で再調整した結果、「5年間の信託統治」
とすることで合意します。しかし、このような大国
の勝手な取り決めに朝鮮の民衆が反発、激しい「反
信託運動」が起こります。

その結果、朝鮮独立に関する米ソ共同委員会が開か
れますが、当時激しくなっていた中国の国民党と共
産党の国共内戦の影響を受け決裂してしまいます。
この間、北では抗日パルチザンで活躍した金日成が
地歩をかため、社会主義改革に着手しますが、南で
は米軍政のもとでインフレが進行し、ゼネストが起
こります。

このような流れの延長でやがて、済州島では民衆の
武装蜂起が起き、多数の島民が米軍と右派に殺され
るという「済州島四・三事件」(1948年4月)
などへ発展していきます。

そして、はじめは、米ソ軍の占領境界とした38度
線がいつの間にか国境のようになって南北に分断さ
れます。米ソ両国がそれぞれの立場で統一しようと
試みますが、顕在化しつつあった東西冷戦を反映し、
意見の一致はみられないまま時が過ぎていくのです。

▼占領下日本の“潮”の変わり目

 再び国内事情です。占領下にあった我が国の終戦
翌年(昭和21年)は、「まるで共産革命の前夜を
思わせるような一年間だった」(岡崎久彦氏)よう
です。

獄中18年の徳田球一や志賀義男が釈放され、中国
から野坂参三が帰国し、「赤旗」を再刊した共産党
の威勢は、占領軍の庇護下にあったことから天下に
憚(はばか)るものがありませんでした。一般国民
は共産党を猜疑の目で見ながらも「抵抗できない」
と感じていたのです。

労働組合の発展も目覚ましいものがあり、昭和20
年暮れには38万人だった組織労働者が21年暮れ
には560万人、23年のピーク時には670万人
まで膨れ上がりました。その労働組合の3分の2以
上を共産党が押さえ、かつ労働争議中の行為は刑法
上の責任を問われない状況だったのです。

戦争が社会の平等化をもたらし、民主化の基盤を広
げるのは世界共通の現象ですが、この後の占領軍の
急ブレーキがなかったら「日本の左傾化はもっと進
んだろう」といわれます。

しかし、共産党の威勢は長くは続きませんでした。
260万人を擁する政府・国営企業関係の組合は共
闘会議を組織して、「昭和22年2月1日を期して、
待遇改善を要求する無期限ストに入る」(二・一ス
ト)ことを決定します。鉄道も郵便も無期限に泊ま
るという非常事態です。巷では、人民内閣の閣僚名
簿なるものまで流布されたようです。

しかし、共産党の革命機運の昂揚期はこれがピーク
でした。GHQが介入を決意するのです。GHQは、
組合側の要求に対する政府側の妥協案を作らせ公表
します。そして、共闘会議議長に対して銃口の下の
威嚇と説得をもって「スト中止」を命じ、放送させ
ます。この結果、革命昂揚の波はたちまちにして引
いてしまいます。

戦後の多くの日本人の記録も記憶にも残っていない
と推測しますが、我が国にも、戦前の反動ともいう
べき「革命前夜」と言われるような“一瞬”があっ
たのでした。

▼GHQ内の対立

さて、前回紹介しましたような国際社会の動き、す
なわちチャーチルの「鉄のカーテン」演説や「トル
ーマン・ドクトリン」の発表、さらには、中国大陸
では国共内戦の最中でもあって、GHQおよび米国
本国も異なる意見の対立が深まっていました。

つまり、理想主義的な考えをもとに、「過去の日本
をすべて悪ととらえ、抜本的な改造を強力に推し進
めよう」とした民生局のホイットニー局長やケーデ
ィスらに対して、「ソ連をはじめとする共産主義と
の対決をアメリカの対外政策の主要課題とする」と
の現実主義的な考えを持つ占領軍情報部(GII)の
ウイロビー部長や第8軍のマイケルバーガー司令官
らが対立し始めます。

その後の歴史を観れば、どちらの判断が正しかった
はあまりに明白ですが、この対立は、「二・一スト」
以降約2年間、ケーディスらが敗れて辞職するまで続
けられます。

では、理想主義者と現実主義者たちの間に立ってい
たマッカーサーの心境はどのようなものだったので
しょうか。当時のマッカーサーは、翌年(1948
年)の大統領選挙が頭にあり、“リベラル派からの
指示や批判も考え、様々な占領政策の手を打ってい
た”との事実が残っています。

たとえば、「二・一スト」時のGHQの労働担当官
をその後更迭し、本国の労働組合の支持の強い担当
官を任命します。再軍備論の論争も大統領選を睨ん
でいたといわれますが、マッカーサーは、ゼネスト
禁止3日後、新憲法下で初の総選挙の実施を吉田首
相に示唆します。この結果、同年4月25日、総選
挙が行なわれ、結果は、社会党143、自由党13
1、民主党124となり、吉田は野に下り、日本の
憲政史上唯一の社会党内閣である片山哲内閣が組閣
されます。

民生局にとっては待ちに待った政権で、組閣にも口
を出したようです。しかし、吉田が予想したように、
少数与党内閣はわずか3か月しか持たず命脈を絶た
れます。それでも民生局は、政権を吉田に渡さず、
「GHQのご意向」ということで芦田内閣が成立し
ます。その芦田内閣も昭電疑獄事件で倒れます。裏
に情報局の工作があったといわれていますが、この
ようにして、再び、吉田単独少数内閣が誕生します。

この頃、米国の対外政策は、冷戦の激化を反映して
急激に変わりつつありました。その推進力となった
のは、陸軍省、そして陸海軍を統合して新設された
国防総省、さらには国務省の政策企画室などでした。
当然ながら、ニューディーラーやリベラル派はこぞ
って抵抗します。そのような中、実際に米国の対日
政策を転換させたのは、元駐日大使のジョセフ・グ
ルーらのジャパン・ロビーだったとの分析もありま
す。

彼らは「日本の占領政策は、共産主義に対抗する
『極東の砦』としての日本の潜在的な能力を損ねて
しまった」として「日本の占領は、失敗に次ぐ失敗
だった」と断言するのです。



(以下次号)


(むなかた・ひさお)

※お知らせ
私は現在、ボランテイアですが、公益社団法人自衛
隊家族会の副会長の職にあります。今回紹介いたし
ます『自衛官が語る 海外活動の記録』は、自衛隊
家族会の機関紙「おやばと」に長い間連載してきた
「回想 自衛隊の海外活動」を書籍化したものです。

その経緯を少しご説明しましょう。陸海空自衛隊は、
創設以降冷戦最中の1990年頃までは、全国各地
で災害派遣や警備活動を実施しつつ、「専守防衛」
の防衛政策のもとで国土防衛に専念していました。

 憲法の解釈から「海外派兵」そのものが禁止され
ており、国民の誰しも自衛隊の海外活動は想像すら
しないことでした。当然ながら、自衛隊自身もその
ための諸準備を全く行なっていませんでした。

ところが、冷戦終焉に伴う国際社会の劇的な変化に
よって、我が国に対しても国際社会の安定化に向け
て実質的な貢献が求められるようになりました。

こうして、湾岸戦争後の1991(平成3)年、海
上自衛隊掃海部隊のペルシア湾派遣を皮切りに、自
衛隊にとって未知の分野の海外活動が始まりました。
しかも、中には国を挙げての応援態勢がないままで
の海外活動も求められ、派遣隊員や残された家族の
やるせない思いやくやしさは募るばかりでした。

それでも隊員たちは、不平不満など一切口にせず、
「日の丸」を背負った誇りと使命感を抱きつつ、厳
正な規律をもって今日まで一人の犠牲者を出すこと
なく、与えられた任務を確実にこなしてきました。
この間、実際に派遣された隊員たちのご苦労は想像
するにあまりあるのですが、寡黙な自衛官たちは本
音を語ろうとしませんでした。

かくいう私も、陸上幕僚監部防衛部長時代、「イラ
ク復興支援活動」の計画・運用担当部長でしたので、
決して公にはできない様々な経験をさせていただき
ました(墓場まで持っていくと決心しております)。

このような海外活動の実態について、隊員家族をは
じめ広く国民の皆様に知ってもらうことと自衛隊の
海外活動の記録と記憶を後世に伝え残したいという
願いから、「おやばと」紙上でシリーズ化し、各活
動に参加した指揮官や幕僚などに当時の苦労話、経
験、エピソードを寄せてもらいました。

連載は、2012年8月から2014年11月まで
約2年半続き、その後も行なわれている「南スーダ
ン共和国ミッション」や「海賊対処行動」などにつ
いてはそのつど、関係者に投稿をお願いしました。

このたび、シリーズ書籍化第1弾の『自衛官が語る 
災害派遣の記録』と同様、桜林美佐さんに監修をお
願いして、その第2弾として『自衛官が語る 海外
活動の記録』が出来上がりました。

本書には、世界各地で指揮官や幕僚などとして実際
の海外活動に従事した25人の自衛官たちの脚色も
誇張もない「生の声」が満載されております。

遠く母国を離れ、過酷な環境下で、ある時は身を挺
して、限られた人数で励まし合って厳しい任務を達
成した隊員たち、実際にはどんなにか辛く、心細く、
不安だったことでしょうか。

しかし、これらの手記を読む限り、そのようなこと
は微塵も感じられないばかりか、逆に派遣先の住民
への愛情や部下への思いやりなどの言葉で溢れてお
り、それぞれ厳しい環境で活動したことを知ってい
る私でさえ、改めて自衛隊の精強さや隊員たちの素
晴らしさを垣間見る思いにかられます。

また、桜林さんには、海外活動の進化した部分とか
依然として制約のある法的権限などについて、わか
りやすく解説し、かつ問題提起していただきました。

皆様にはぜひご一読いただき、まずはこれら手記の
行間にある、隊員たちの「心の叫び」を汲み取って
いただくとともに、自衛隊の海外活動の問題点・課
題などについても広くご理解いただきたいと願って
おります。また、前著『自衛官が語る 災害派遣の
記録』を未読の方は、この機会にこちらもぜひご一
読いただきますようお願い申し上げ、紹介と致しま
す。

『自衛官が語る 海外活動の記録─進化する国際貢献』
桜林美佐監修/自衛隊家族会編
  発行:並木書房(2019年12月25日)
  https://amzn.to/384Co4T







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【著者紹介】

宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学
校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロ
ラド大学航空宇宙工学修士課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕
僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、
第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て
2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』
などに投稿多数。


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