配信日時 2020/07/01 09:00

【自衛隊警務官(29)】陸軍憲兵から自衛隊警務官に(29)― 旅順口閉塞(へいそく)隊員の行方― 荒木肇

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自衛隊警務官(29)
陸軍憲兵から自衛隊警務官に(29)

旅順口閉塞(へいそく)隊員の行方

荒木 肇

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□はじめに

 依然としてコロナ禍の中、令和2年も半分を過ぎ
て、もう7月になります。例年ならボーナスや、夏
休みの計画等の話題から明るい気分の頃です。それ
が今年は、消費の落ち込みや、感染者の増加への恐
れなどで、一向に元気がでません。


 それでも先日の土曜日、わたしの横浜市内の幹線
道路を通ったら、湘南海岸へ向かう東京や他県の車
がたくさん走っていました。大磯の港や、小田原の
海岸も多くの方々が訪れたようです。少し明るい気
分になりました。


▼閉塞船隊は銃砲火の中を進んだ

 予定自沈地点に5隻の旧式汽船は近づいていった。
武装はまったくないので、ただひたすら進むだけで
ある。要塞からはサーチライトが照らされ、砲台か
らは砲弾が飛んできた。ロシア軍からすれば、射的
場の移動目標である。乗り組んでいる閉塞隊員から
すれば、真っ白な強烈なサーチライトの光に包まれ
て、何も見えない。

 ひたすら前を進む船の航跡をたどって進んだ。方
角と陸岸との距離もつかめない。そうしているうち
に午前3時33分という。指揮船天津丸は針路を西
に取り過ぎて、老鉄山東方の崖下の岩礁(がんしょ
う)に乗り上げ、擱坐(かくざ)してしまった。2
番船は広瀬少佐が指揮する報国丸である。広瀬少佐
の回顧によれば、このとき天津丸指揮官有馬中佐の
声が聞こえたと言う。

「面舵(おもかじ)に取れぇ、おもーかぁじ!」。
その声を聞いて、広瀬少佐は操舵員に舵を右に切ら
せた。3番船仁川丸も針路を右にとって、報国丸と
平行する針路になった。4番船武揚丸も5番船武州
丸は、座礁した天津丸のマスト高く白色灯が揚がっ
ているのを確認した。これは「自沈位置近し」の合
図である。

 ところが、どうもおかしいと4番船武揚丸指揮官
正木義太大尉は考えた。周囲を確認するとどうも見
える地物からみて場所が変だ。悩んでいるうちに天
津丸の白色灯は赤色灯に変わった。やはり違うと思
ううち、5番船武州丸がすっと前に出て、天津丸の
横に並んで船体を爆発させた。後から調べると、武
州丸は舵機を撃たれてしまった。針路を変えようも
ないので、ここでやるしかないと爆弾に火を点けた
という。

 これを見た正木大尉も2隻が沈んだのだから、こ
こが自沈地点かと判断した。真っ暗闇の中で強烈な
探照灯の中での決心である。命令された乗員は急い
で船底のキングストン弁を開けた。この弁は開ける
と海水が奔騰してくるように船内に入ってくる。船
は一気に沈み始めた。


 この間に2隻はさらに前進する。報国丸と仁川丸
である。要塞からは盛大な銃砲火を放ってくる。進
むうちに2隻の距離は開いてきた。左側の報国丸は
戦艦レトウィザンを目指して進み、仁川丸は黄金山
のサーチライト目指して進んだ。黄金山の真下で湾
口に方向転換しようとしたのである。

仁川丸はうまく進んだ。ただし、方向転換をした瞬
間に、船底を岩にぶつけて停止してしまった。指揮
官斎藤七五郎大尉は錨を投げ込み、爆薬に点火する
ことを命令した。乗員は右舷船尾に集まった。その
うち、爆発が起こり、船は大きく傾き始めた。斎藤
大尉はじめ乗員は全員がボートに乗り移ることがで
きた。ただし、乗員のうち1機関兵は敵弾にさらわ
れ海中に沈んでいった。

広瀬少佐の報国丸は、確実に戦艦レトウィザンに接
近していった。しかし、戦艦からと陸上砲台から銃
砲火が集中する。船首に火災が起こり、舵機を撃ち
抜かれたのは戦艦の手前約300メートルの地点だ
った。少佐は脱出ボートを用意させ、爆薬に点火を
命じた。ボートに全員が移乗したときに少佐は短剣
をブリッジに忘れたことに気がついた。ブリッジに
戻り、引き返してくる間に砲弾は爆薬の導火線を切
断してしまった。しかし、同時に命中弾によって積
荷のマグネシウムと粉炭が燃え始めた。

広瀬少佐はボートを船から離し、戦場からの離脱を
命じた。艇首に立てた竿には、白いハンカチを結び
つけた。迎えの水雷艇への目印のためである。天津
丸、武揚丸の乗員のボートは水雷艇鵲(かささぎ)
と出会い、安全に収容された。広瀬少佐の乗艇も午
前5時35分に水雷艇隼に出会うことができた。

▼収容されなかった乗員たち

 それでは座礁した指揮船天津丸の横に沈んだ武州
丸の乗員たちはどうなったか。また、斎藤大尉の仁
川丸の乗員たちはどこに行ったのだろうか。第1、
第5l駆逐隊、第9、第14水雷艇隊は必死に探し
まわった。しかし、夜明け少し前になっても、島崎
中尉たち14人の武州丸乗員は見つからなかったの
である。

 島崎中尉はあらかじめ指示にあったように、清国
チーフー(芝罘)に向かった。そこには日本領事館
があったからだ。山東半島北岸である。艇は用意し
た帆を揚げて、南に向かった。

 帆走ができた武州丸乗員はまだよかった。仁川丸
の斎藤大尉以下には帆の準備がなかった。南東を目
指して6本のオールで漕ぎ進んだが、北東の風と潮
流に流されて早朝には老鉄山の南方洋上に漂ってい
た。ここから彼らは撓漕(とうそう、オールだけで
漕ぐこと)のみで南西の廟島列島線の先にある山東
半島を目指したのだ。

 午後2時過ぎにはようやく北隍城島(こうじょう
じま)にたどり着いた。廟島列島の最北端の島であ
る。みな上陸すると、底に倒れ、喘ぐしかできなか
った。するとそこに日本語の声が聞こえてきた。武
州丸の島崎中尉たちである。

▼チーフー(芝罘)での手違い

 2隻の乗員29人は傭船契約をしたジャンク(中
国の船)4隻に分乗して、午後4時ころ島を出発し
た。しかし、またもや強風に押し流され、翌日の2
5日午前5時ころ、チーフーの西方にある登州(と
うしゅう)に漂着してしまった。

 指揮官斎藤大尉は、とにかく漂着をチーフーの日
本領事館に電話で報告した。ところが、領事も駐在
武官の海軍中佐も、それが何のことか分からなかっ
た。閉塞作戦について、何も知らされていなかった
からだ。

 だが、登州の中国側官憲からは領事館に連絡が入
った。「貴国海軍軍人らがチーフーに上陸した」。
この連絡を受けて、水野領事は外務大臣に電報で報
告した。斎藤大尉たちはさらに登州でジャンクを雇
おうとしたが、風向きも悪く応じる船主もなかった。

 しかたなく、斎藤大尉、島崎中尉らは陸路を取っ
てチーフーに向かうことにした。現地の清国軍は好
意的で、護衛兵をつけてくれた。

 翌日、2月26日、一行はチーフー領事館巡査と
出会った。海軍武官が古洋服をもたせて、迎えに寄
こしたのだ。みな軍服が外から見えないようにし、
ばらばらに歩いて夜の9時には領事館に入ることが
できた。士官2人は領事館に、27人の下士・兵は
港内の日本船にひそやかにかくまった。

▼「宣誓」をするかどうか

 チーフーへの上陸を許した清国はロシア、日本の
どちらの同盟国でもない。中立国である。当時の国
際法では、交戦国の兵員その他が中立国に入れば、
それを捕らえなければならない。武装を解除するだ
けではなく、身柄を拘束し、戦争が終わるまで抑留
するのがふつうである。

 清国政府はそれに気づいた。もし、日本海軍軍人
をそのまま帰国させれば、ロシアから中立国の義務
を果たしていないと抗議を受けてしまう。そこで、
清国政府は「宣誓書」を出させて、国外に退去させ
ようと考えた。


「宣誓による捕虜」の解放ともいわれる制度である。
今後、戦闘行為に参加することはないと宣誓すれば、
身柄は釈放され、故国に帰ることができた。わが国
でも、開戦時に撃沈されたロシア巡洋艦ワリヤーグ
の乗員のうち、捕虜となった者に適用した例があっ
た。

 結局、斎藤大尉を筆頭にして、大尉以外は偽名と
でたらめな階級を書いた人員表を出した。いかにも
適当な「活戦に従うことはない」という文言の文書
を出して、全員が艦隊に合流したと児島氏の「日露
戦争」にはある。

 次回からいよいよ陸戦に戻ろう。
 


(以下次号)


(あらき・はじめ)


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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同
大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露
戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍
教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行な
う。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』(並木書
房)がある。
 

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