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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
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こんにちは、エンリケです。
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は84回目です。
冒頭文でおっしゃる
「ポストコロナ」
の視点が、今のわが国には朝野挙げてありませんね。
平和ボケの証左でしょう。
敗戦時のおはなしや、マッカーサーをめぐる話も
実に面白いです。
いつも思いますが、
知られざる歴史の真実を知るのは
やはり愉しいです。
生きてて良かったと思う至福の瞬間です。
さっそくどうぞ
エンリケ
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(84)
終戦とマッカーサー来日
宗像久男(元陸将)
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□はじめに
「緊急事態宣言」が、まるで当初から予定していた
ように大した議論もなく延長になりました。5月4日、
新型コロナ専門家会議の尾身副座長が「私たちは経
済の専門家ではない」と本音を披露しておりました
が、これまで政府内に「経済に関する専門家会議」
がなかったことは驚きでした。私の驚きとは、なか
ったこと自体よりも安倍首相の周辺の誰もその設置
の必要性を具申しなかったことです(真相はわかり
ませんが)。
私は、新型コロナウイルスに対する政府や地方自治
体や国民の自粛など、これまでの所はほぼ合格点だ
ったと思っています。色々と物議を醸しております
が、それでも欧米諸国と比べ、感染者も死者も2桁
も違うことは対処が成功したことを物語っています。
最大の問題点は、ボールの周りに全員が密集する
“小学生のサッカー”をやってしまったことで、こ
のたびの国家の危機管理の欠陥を暴露してしまいま
した。4月7日の宣言前に、経済の専門家を招集し、
感染防止と経済活動のバランスをしっかり議論して
おけば、“大阪モデル”のようなものがことさらに
脚光を浴びることはなかったのではないでしょうか。
国際社会は、すでに“ポストコロナ”に関心が行っ
ています。人類の歴史は、今回のような全人類を巻
き込んだ“パニック”の後には、必ずやそれまでの
世界観や価値観が180度変わることを繰り返して
います。いつかとりあげてみましょう。
▼天皇陛下の決断・降伏
前回に続く我が国の終戦の状況です。2度の原爆
投下とソ連参戦の後の8月9日、ようやく鈴木首相
は戦争指導会議を開きます。その席で、東郷外相は
「ポツダム宣言」受け入れの条件として「天皇の国
法上の地位を変更しない」だけを主張しますが、阿
南陸相らはそれに加え、「占領は小範囲で短期間」
「武装解除は自分の手で」「戦犯処理は自分の手で」
の4条件を主張します。
その夜の午後1150頃から御前会議を開かれます。
議題はひとつ、「ポツダム宣言」を外相の1条件で
受け入れるか、それとも阿南陸相らの4条件をつけ
るか、でした。
異例の御前会議においても、両派は意見を述べ合う
ばかりで意見の一致をみられませんでしたが、日付
が変わった10日午前2時を回ったところで、鈴木
首相は「まことに異例で畏れ多いことでございます
が、ご聖断を拝しまして、聖慮をもって本会議の結
論といたしたいと存じます」と天皇の決断を仰ぎま
す。
天皇は「それならば自分の意見を言おう。自分の意
見は外務大臣と同意である」として次のような発言
をされました。陛下の切なる思いをご理解いただく
ために、長くなりますが、大筋を紹介しましょう。
「大東亜戦争が始まってから陸海軍が実施して来た
ことを見ると、どうも予定と結果が大変違う場合が
多い。先程も両大臣・総長が申したように本土決戦
の準備をしており、勝つ自信があると申しているが、
自分はその点について心配している・・・そのよう
な状態で本土決戦に突入したらどうなるか、自分は
非常に心配である。あるいは日本民族が皆死んでし
まわなければならなくなるのではなかろうかと思う。
そうなったら、どうしてこの日本という国を子孫に
伝えることができるか、今日となっては一人でも多
くの日本人に生き残っていて貰って、その人達に将
来再び起き上がって貰うほかに、この日本を子孫に
伝える方法がないと思う。それにこのまま戦いを続
けることは世界人類にとっても不幸なことである。
自分は、明治天皇が三国干渉の時のお心持を考え、
自分のことはどうなっても構わない。堪え難きこと、
忍び難きことであるが、この戦争を辞める決心をし
た」
10日午前7時、中立国スイスとスウェーデンの日
本公使あてに、「ポツダム宣言」を受諾するとの電
報が送られ、両公使によって降伏の意思がアメリカ、
中国、イギリス、ソ連に伝達されました。
そして午後7時、日本政府の対外情報発信を担って
いた「同盟通信社」は、対外放送で日本降伏受け入
れ意思を表明しますが、このニュースは日本国民に
伏せられていました。
8月14日の御前会議において、天皇は「皇軍将兵、
戦没者遺族、戦災者の心中を思うと、胸奥の張り裂
ける心地するが、時運の赴くところ如何ともしがた
い」と涙ながらに仰せられて降伏を宣言されました。
一同、御前も憚らずどっと泣き伏し、中には身を悶
える者もあったといわれます。翌8月15日、日本
は戦争に負けます。
映画や小説で『日本の一番長い日』として有名にな
りましたが、無事、「終戦の詔書」が「玉音放送」
としてラジオで全国放送されます。今、詔書を読み
返しますと、無念さとともに、終戦の決断に至った
天皇の想いが伝わってきて涙がこぼれます。
本詔書を起案された安岡正篤(まさひろ)氏は、長
い間の沈黙を破り、昭和39年頃、当時の秘話を披
露しています。安岡氏がこだわったのは、「日本の
天皇なればこそという権威の言葉を選びたかった」
として「万世の為に太平を開く」の部分と、「力尽
きて仕方なく降伏するのではなく、道義の命ずると
ころ、良心の至上命令に従って降伏する」とした
「義命の存する所」の2点でした。しかし後者は閣
僚達に「時運の赴く所」に修正されたと暴露してい
ます。
氏はまた、詔書を起案したことは名誉ではなく、永
遠に拭(ぬぐ)うことができない恨事であり、深く
心と魂を傷つけたとも語っています(当時はまだこ
のような賢人が存在していたのでした)。
天皇の詔書に続き、2日後の8月17日、東久邇宮
稔彦王は皇族として初めて首相になり、ラジオで陸
海軍に自制を呼びかけるとともに、朝香宮鳩彦王、
竹田宮恒徳王、閑院宮春仁王を中国、満州、南方の
各方面司令部に派遣して終戦の聖旨を伝達し、軍隊
の団結と有終の美を求めます。
占領軍の急激な日本改造を避けるために、先手を打
って武装解除を試みた結果だったといわれています
が、我が国の歴史上、このように皇族が自らイニシ
アチブをとり、依然として血気盛んな軍人らを慰撫
(いぶ)するために行動されたのは初めてだったと
考えます。
▼マッカーサーの「人間像」
いよいよ、終戦から進駐軍の占領政策を振り返る
ところまで来ました。何回かに分けて振り返ってみ
ましょう。
我が国は、終戦後、マッカーサーを最高司令官とし、
米極東軍を主体とする連合国軍(通称、進駐軍)に
約7年間も占領されます。その司令部の正式名称は、
「連合国軍最高司令官総司令部」ですが、一般にG
HQと呼称されているのはご承知のとおりです。
マッカーサーが連合国最高司令官として日本陸軍
厚木航空基地へ愛機「バターン号」でやって来たの
は、昭和20年8月30日でした。その第一声で
「メルボルンから日本までの道のりはとてつもなく
長く険しい道であった」 と、フィリピンからオー
ストラリアへ避難し、再びフィリピンを取り戻した
後、日本の敗戦でようやく日本へたどり着いた率直
な感想を述べています。
その言葉の裏には、フィリピンで一旦は日本軍に敗
北し、部下を見捨ててオーストラリアまで逃亡を余
儀なくさせられた屈辱感と復讐心が微妙な割合で混
じっていたことは明白でした。
その後、マッカーサーは厚木から横浜へ向け移動し
ますが、沿道には、約2個師団の日本兵がマッカー
サーに対して敬意を示すために彼の車に背を向けて
拝謁しました。こうして、マッカーサーは、「力」
を誇示ながら皇居前の第一生命ビルに入ります。
まず、マッカーサーは、軍人として、そして人間と
してどうだったのか、について振り返りますと、士
官学校はトップ入学・トップ卒業でした。歴史上、
マッカーサー以上の成績で卒業した者はこれまで2
人しかいないといわれるほど優秀だったようです。
父は陸軍中将アーサー・マッカーサー。母メアリー
は息子を溺愛し、心配のあまり士官学校在学中は近
くのホテルに移り住んだとの有名な逸話が残ってお
り、出世や任地(補職)にあたっては、むしろ母親
の影響力が大きかったようです。
その父は、日露戦争の観戦武官として日本に赴任し
ますが、戦争終了後、マッカーサー中尉も副官とし
て日本で勤務します。その際、東郷平八郎、大山巌、
乃木希典ら日露戦争で活躍した司令官たちと面談し、
感銘を受けたとの回想記が残っています。
若い将校時代のマッカーサーは様々な紆余曲折があ
りましたが、50歳の最年少で陸軍参謀総長に抜擢
され、その後引退します。引退後はフィリピンの軍
事顧問として赴任し、大戦勃発後、アメリカ極東軍
司令官として現役復帰します。
軍人としての評価は二分されます。最大の汚点は、
やはり上記のフィリピン脱出でした。マッカーサー
は、自尊心、虚栄心、誇大妄想狂、復讐心などその
人間性にも問題があったとの指摘もあります。その
上、人種差別・宗教差別主義者でもあったようです。
ちなみに、マッカーサー家は元々スコットランドの
貴族の家柄で、祖父の時代に米国に移民しました。
チャーチルやルーズベルト(のちのダイアナ妃やブ
ッシュ大統領も、との説があります)とも遠戚関係
にあります(意外なところで血筋が繋がっているの
です)。
そのようなマッカーサーを最高司令官として指名
したトルーマンは、マッカーサーに対して「(1)天皇
と日本政府の統治権は、連合軍最高司令官のマッカ
ーサーに隷属する。よって、権力を思う通りに行使
せよ、(2)日本の支配は、満足すべき結果が得られれ
ば日本政府を通じて行われるべきであるが、必要な
ら直接行動してもいい。武力行使を含めて必要な方
法で実行せよ」と史上空前の権力を与えます。この
権力は、「アメリカ史上、一人の手にこれほど強大
で絶対的な権力が握られた例はなかった」(政治顧
問ウイリアム・シーボルト)と評されています。
▼マッカーサーの「日本観」
若い頃に来日の経験があり、明治の軍人たちに感銘
を受けたマッカーサーでしたが、再来日したマッカ
ーサーの「日本観」は当初から厳しいものがありま
した。日本を勉強し、理解しようとする意欲もなか
ったといわれます。
マッカーサーは、「征服者の風格」を保つために、
国家行事を除き決して日本人と同席しませんでした
し、朝鮮戦争が開始した1950年6月までの間、
東京を離れたのはわずかに2度だけだったようです。
当然ながら、アメリカの土は14年間一度も踏みま
せんでした。
また、執務室に電話も引かず、秘書も置きませんで
した。日本人と会ったのは、天皇陛下、首相、外相、
両院の議長ぐらいで、それも公式の仕事上、必要な
時だけに限定されていました。
そして、「日本の奴隷的な封建主義が“日本の悲劇”
をもたらした」と断言し、逆に「アメリカの“民主
主義”が今日のアメリカの強さをもたらした」とし
て「日本の降伏を軍事的敗北だけでなく、“信仰の
崩壊”とみなし、この崩壊によって日本国民の中の
道徳的、精神的、更に肉体的に生じた完全な空白に
民主主義を注ぎ込こもうとした」(西鋭夫氏)ので
した。
そのようなマッカーサーが試みた占領政策のうち
当初から重視したのが、実は、キリスト教の伝道で
した。
マッカーサーは、日本人の魂の空白を埋めるために、
キリスト教の伝道を広めようとします。マッカーサ
ーは、「後世の歴史家に“連合国の軍人”としてで
はなく、“キリスト教を日本にもたらした人物”と
書かれたい」と語ったといわれます。
この手段として、愛国心、誇り、道徳、歴史、文化
など長い年月をかけて育まれ脈々と受け継がれた日
本の「心」を奪い取り、キリスト教を流し込め始め
ます。
そのため、3000人を超える宣教師を自身の権力
を使って呼び寄せ、当時の人口7200万人に対し、
約1000万冊の聖書を惜しげもなくばらまきます。
国民は聖書を喜んで受領したそうです。
マッカーサーの狙いが的中したかのように見えまし
たが、当時、紙そのものがほとんどありませんでし
たので、大人の多くは“聖書を煙草を巻くペーパー”
として本来の目的以外に使用したのです(風刺絵に
なりそうな光景が目に浮かびます)。
国際基督教大学も設立しますが、結果として、日本
のキリスト教信者は、現在においても、200万人
未満(人口の約1.6%程度)にとどまっています。
次回以降、GHQの占領政策に焦点を当てて振り返
ってみましょう。
(以下次号)
(むなかた・ひさお)
※お知らせ
私は現在、ボランテイアですが、公益社団法人自衛
隊家族会の副会長の職にあります。今回紹介いたし
ます『自衛官が語る 海外活動の記録』は、自衛隊
家族会の機関紙「おやばと」に長い間連載してきた
「回想 自衛隊の海外活動」を書籍化したものです。
その経緯を少しご説明しましょう。陸海空自衛隊は、
創設以降冷戦最中の1990年頃までは、全国各地
で災害派遣や警備活動を実施しつつ、「専守防衛」
の防衛政策のもとで国土防衛に専念していました。
憲法の解釈から「海外派兵」そのものが禁止され
ており、国民の誰しも自衛隊の海外活動は想像すら
しないことでした。当然ながら、自衛隊自身もその
ための諸準備を全く行なっていませんでした。
ところが、冷戦終焉に伴う国際社会の劇的な変化に
よって、我が国に対しても国際社会の安定化に向け
て実質的な貢献が求められるようになりました。
こうして、湾岸戦争後の1991(平成3)年、海
上自衛隊掃海部隊のペルシア湾派遣を皮切りに、自
衛隊にとって未知の分野の海外活動が始まりました。
しかも、中には国を挙げての応援態勢がないままで
の海外活動も求められ、派遣隊員や残された家族の
やるせない思いやくやしさは募るばかりでした。
それでも隊員たちは、不平不満など一切口にせず、
「日の丸」を背負った誇りと使命感を抱きつつ、厳
正な規律をもって今日まで一人の犠牲者を出すこと
なく、与えられた任務を確実にこなしてきました。
この間、実際に派遣された隊員たちのご苦労は想像
するにあまりあるのですが、寡黙な自衛官たちは本
音を語ろうとしませんでした。
かくいう私も、陸上幕僚監部防衛部長時代、「イラ
ク復興支援活動」の計画・運用担当部長でしたので、
決して公にはできない様々な経験をさせていただき
ました(墓場まで持っていくと決心しております)。
このような海外活動の実態について、隊員家族をは
じめ広く国民の皆様に知ってもらうことと自衛隊の
海外活動の記録と記憶を後世に伝え残したいという
願いから、「おやばと」紙上でシリーズ化し、各活
動に参加した指揮官や幕僚などに当時の苦労話、経
験、エピソードを寄せてもらいました。
連載は、2012年8月から2014年11月まで
約2年半続き、その後も行なわれている「南スーダ
ン共和国ミッション」や「海賊対処行動」などにつ
いてはそのつど、関係者に投稿をお願いしました。
このたび、シリーズ書籍化第1弾の『自衛官が語る
災害派遣の記録』と同様、桜林美佐さんに監修をお
願いして、その第2弾として『自衛官が語る 海外
活動の記録』が出来上がりました。
本書には、世界各地で指揮官や幕僚などとして実際
の海外活動に従事した25人の自衛官たちの脚色も
誇張もない「生の声」が満載されております。
遠く母国を離れ、過酷な環境下で、ある時は身を挺
して、限られた人数で励まし合って厳しい任務を達
成した隊員たち、実際にはどんなにか辛く、心細く、
不安だったことでしょうか。
しかし、これらの手記を読む限り、そのようなこと
は微塵も感じられないばかりか、逆に派遣先の住民
への愛情や部下への思いやりなどの言葉で溢れてお
り、それぞれ厳しい環境で活動したことを知ってい
る私でさえ、改めて自衛隊の精強さや隊員たちの素
晴らしさを垣間見る思いにかられます。
また、桜林さんには、海外活動の進化した部分とか
依然として制約のある法的権限などについて、わか
りやすく解説し、かつ問題提起していただきました。
皆様にはぜひご一読いただき、まずはこれら手記の
行間にある、隊員たちの「心の叫び」を汲み取って
いただくとともに、自衛隊の海外活動の問題点・課
題などについても広くご理解いただきたいと願って
おります。また、前著『自衛官が語る 災害派遣の
記録』を未読の方は、この機会にこちらもぜひご一
読いただきますようお願い申し上げ、紹介と致しま
す。
『自衛官が語る 海外活動の記録─進化する国際貢献』
桜林美佐監修/自衛隊家族会編
発行:並木書房(2019年12月25日)
https://amzn.to/384Co4T
宗像さんへのメッセージ、ご意見・ご感想は、
このURLからお知らせください。
↓
https://okigunnji.com/url/7/
【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学
校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロ
ラド大学航空宇宙工学修士課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕
僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、
第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て
2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』
などに投稿多数。
▼きょうの記事への、あなたの感想や疑問・質問、
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ン「軍事情報」発行人に帰属します。
最後まで読んでくださったあなたに、心から感謝し
ています。
マガジン作りにご協力いただいた各位に、心から感
謝しています。
そして、メルマガを作る機会を与えてくれた祖国に、
心から感謝しています。ありがとうございました。
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