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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
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こんにちは、エンリケです。
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は83回目です。
いつも思いますが、
知られざる歴史の真実を知るのは
やはり愉しいです。
生きてて良かったと思う至福の瞬間です。
さっそくどうぞ
エンリケ
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(83)
「ポツダム宣言」と広島・長崎原爆投下
宗像久男(元陸将)
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□はじめに
今回は、「ポツダム宣言」と「原子爆弾」が主要
テーマですが、「ポツダム宣言」が発表されたポツ
ダム市は、ベルリン市の西南方向25キロほどの郊
外にあります。会談が行なわれた場所は、ツェツィ
ーリエンホーフ宮殿といわれ、あたり一面に宮殿や
庭園があることから、現在は世界遺産となっている
宮殿群のひとつです。当時はソ連の占領下にあった
地域でした。
10年ほど前になりますが、私は、欧州出張の折
に現地を訪れた経験があります。会談が行なわれた
部屋には、日本語によるイヤフォンガイドもあり、
当時の状況を詳しく説明してくれました。
部屋にはドアが3個ありましたが、会談の際には、
各ドアから米英ソの3首脳らが同時に入ったことと
か、トルーマンが原子爆弾実験成功をスターリンに
耳打ちした時の二人の様子などです(実は、すでに
スターリンはその情報を知っていたのでしたが)。
その場に立って、戦後処理や終戦後の主導権争いな
ど米英ソの駆け引きが彷彿してきたことをよく覚え
ています。
また、40年ほど前になりますが、人類初の原子
爆弾の実験が成功した米国ニューメキシコ州のアラ
モゴルド空軍基地周辺を通過し、基地を概観したこ
とがあります。
基地は、ニューメキシコ州最大の工業都市アルバカ
ーキから200キロほど離れた砂漠地帯のど真ん中
に所在していますが、当時、「人が住んでいるエリ
アからあまり離れていない場所で実験したものだ」
と意外に思ったことが頭から離れず、今でも強く印
象に残っています。
▼トルーマン大統領誕生
さて、1945(昭和20)年4月27日、欧州で
は、ムソリーニがパルチザンに捕らえられ、処刑さ
れます。ドイツは国内を米英ソに蹂躙され、4月3
0日、ヒトラーが自殺、5月7日、無条件降伏しま
す。これらをもって欧州戦線がすべて決着します。
その少し前の4月12日、ルーズベルト大統領が急
死します。欧州戦線でも太平洋戦線でも勝利がゆる
ぎないところでまで来て、この機会に肖像画を描き
たいとポーズをとっていた時に突然、頭を抱えて前
のめりに倒れ、約2時間後に息を引き取ったのでし
た。死因は脳出血、63歳でした。
無条件降伏に拘(こだわ)ったルーズベルトの急死
によって我が国を取り巻く情勢も様変わりします。
ふたたび、「歴史にif」ですが、ルーズベルトが
もう少し長生きしたら、日本の命運はかなり違った
ものになっていたのかも知れません。
後任には、トルーマン副大統領が昇格します。ミズ
ーリ―州出身のトルーマンは、副大統領時代、ニュ
ーヨークの超エリート大金持ちのルーズベルトから
まったく相手にされなかったのは有名な話です(真
偽は不明ですが、二人は就任式以来、一度も会わな
かったというエピソードが残っています)が、日本
にとって幸いしたのは、ルーズベルトほど無条件降
伏に拘っていませんでした。
トルーマンはまた、ルーズベルトほどソ連を信用し
ていませんでした。沖縄戦後の九州上陸作戦で最終
的な損害が約50万人から100万人に達する分析
があると聞くや、すでに大勢が決着したと思ってい
た戦争でこれほどの米国人の犠牲者が出ることに驚
愕し、「これではソ連を利するだけ」と判断します。
ただちに、ホワイトハウスに首脳を集め、戦略会議
を開きます。軍首脳は上陸作戦決行で一致しますが、
会議後、無条件降伏要求の修正を持ち出されます。
「戦争の早期解決には、国家としての生存と立憲君
主制という条件で天皇の保持を認めてやること」と
の陸軍次官補マックロイの意見にトルーマンは相槌
を打ちます。
こうして、スチムソン陸軍長官やグルー国務次官
(前駐日大使)らが中心となって日本への降伏勧告
案が検討されます。この時点で、降伏勧告があれば、
歴史は変わっていたのでしょうが、ある理由で降伏
勧告声明は見送られます。その理由となったのが原
子爆弾の開発でした。トルーマンは、「原子爆弾が
完成すれば、ソ連の参戦がなくとも日本に降伏勧告
できる」と考え、完成を待つことになったのです。
そもそもトルーマンは、原子爆弾製作に関する「マ
ンハッタン・プロジェクト」についても全く知らさ
れていなかったようで、大統領に就任した後になっ
て初めて、20億ドルの巨額を注いで開発が行なわ
れていること(たぶん、完成間近であることも)を
スチムソン陸軍長官から聞かされたのでした。
▼「対ソ交渉」に頼る
昭和20年6月8日、我が国は御前会議で「今後
採るべき戦争指導の基本大綱」を決定しますが、
「あくまで戦争を完遂し、もって国体を護持し、皇
土を保衛し、聖戦の目的の達成を期す」、つまり本
土決戦態勢を強化する内容でした。この段階ではま
だ「終戦」という言葉は一言も出てきませんでした
が、「民心の動向」に関する発言もあり、国民の厭
戦気分の充満は無視できないとの認識を深めたよう
です。
6月22日、天皇が首相、外相、陸海両相、両総長
を宮内庁に呼び、懇談会を開きます。その席上で天
皇は「戦争の終結について速やかに具体的研究をし
て、その実現に努力することを望む」と発言されま
す。
この言葉を受け、鈴木内閣は、何を勘違いしたのか、
「対ソ交渉」に取り組みます。米英によって無条件
降伏以外の直接交渉の道が閉ざされていたため、残
された唯一の選択だったとは言え、当時すでに「ヤ
ルタ秘密協定」で“「日ソ中立条約」を破棄して
「対日参戦」を約束し、南樺太や千島列島を奮い取
る万全の準備をしていた”ソ連に我が国の命運を託
そうとしたのです。
その後の歴史を知る立場からみると滑稽な動きに見
えますが、それだけ追い込まれていたというのは明
白です。天皇も日に日に激しさを増す空襲の下、食
糧難も深刻化するなかにあって、“藁にもすがりた
い”思いから、対ソ交渉の督促と特使の派遣を提案
され、近衛文麿に内諾を得るところまで話が進んで
いきます。
さっそく、駐ソ大使に特使の受け入れと「戦争を速
やかに終戦することを願っている。米英が無条件降
伏を固執する限り、日本は戦い抜くしかなく、これ
によって彼我の流血が大きくするのは不本意なので、
人類の幸福のためにすみやかに平和を克復すること
を希望する」との「聖旨」を極秘で伝えるように訓
令します。
しかし、ソ連は、この「聖旨」を握りつぶし、「近
衛特使の使命が明瞭でない」として対日参戦の準備
が整うまで時間稼ぎをします。
▼「ポツダム宣言」
「ポツダム会談」は7月17日から8月2日までの間、
主に第2次世界大戦の戦後処理を決定するために開催
されます。連合国3首脳による会談は、テヘラン、
ヤルタに続き、これが3度目でした。
トルーマン大統領は外交も全く素人で、本会談にお
いても、海千山千のチャーチルやスターリンと交渉
するために、国務省が用意した分厚いQ&Aを携え
て会議に出席したようです。
会談の主なテーマは、ヨーロッパの戦後処理でし
たが、ポーランド問題、賠償問題、そして旧枢軸国
内に成立した各政府(東欧諸国)の扱いをめぐって
イギリスとソ連が激しく対立します。
会談の最中、イギリスの総選挙が行なわれ、保守
党が大敗し、チャーチルは首相の座を追われたため
途中で帰国してしまい、労働党のアトリーが首相と
して会議に残ります。イギリスの主張は変わらず、
英ソの対立は頂点に達し、あわや決裂の危機に陥り
ますが、ようやくアメリカが示した「3条件」(ポ
ーランド国境、ドイツの賠償、旧枢軸国政府問題)
を英ソが受け入れ、決裂は免れます。
日本に関しては、会談が始まる前の7月15日、
トルーマンはスターリンから対日参戦の確約を得ま
すが、7月18日、原爆実験が成功したとの報告を
受けたトルーマンは、「ソ連が参戦しなくとも勝利
できる」と確信し、ソ連の影響力が増大する前に日
本に降伏勧告しようと決意したといわれます。
その決断の背景には、“日本がソ連を仲介して和平
工作を進展中”との情報を得たスチムソン陸軍長官
が対日降伏勧告をポツダム会議で行ない、“ソ連が
日本の懐に飛び込むことを防ごう”としたこともあ
ったようです。
宣言の当初案には、「現皇統による立憲君主制を
排除しない」と入っていたようですが、ソ連や中国
などに根強かった「天皇退位論を考慮すべき」とす
る対日強硬派の巻き返しによって削除されてしまい
ます。
しかし、「吾らは日本国政府が直ちに“全日本国軍
隊の無条件降伏”を宣言す」となっているように、
国家に対する降伏ではなく、“軍隊の降伏を求め”、
国体そのものについて明文化はされませんでしたが、
主権は保証されており、対等の主権国家間の合意と
いう形をとっていると読み取ることができます。
チャーチルも一部修正した上で同意し、降伏勧告
案が完成します。なお、当時日本と交戦していなか
ったソ連側の介入はほとんどなく、蒋介石は一度も
参加しておらず、チャーチルも帰国してしまったた
め、宣言そのものは、トルーマンが3人分の署名を
行ないます。同時に、トルーマンは原爆投下命令も
承認します。
このような経緯を経て、7月26日、「ポツダム宣
言」は、米英中3国による共同宣言として発表され
ます。
宣言自体は13項目からなり、その6番目に、宣言
によって示された戦争観として「日本の人々をだま
し、間違った方向に導き、世界征服に誘った影響勢
力や権威・権力は排除されなければならない。無責
任な軍国主義が世界からなくなるまでは、平和、安
全、正義の新秩序は実現不可能である」と日本の軍
国主義者を平和的な世界秩序の破壊者・侵略者とし
て断定していること、10番目に「全ての戦争犯罪
人に対しては厳重なる処罰を行うものとする」と戦
争犯罪人を裁くことを明示しています。
これらを含め、終戦後の進駐軍による占領政策の
考え方のほとんどは、この「ポツダム宣言」に拠っ
ています。
▼原子爆弾の投下
翌朝27日、東郷外相から天皇陛下に対して「ポツ
ダム宣言」の内容が報告されますが、この時点では、
まだ対ソ交渉による終戦工作を捨てていなかった外
務省は調整に動かず、陸海軍は「ポツダム宣言」に
反発します。
軍部の突き上げをうけた鈴木首相は、28日の記者
会見で「ポツダム宣言に重大な価値があるとは考え
ない。戦争完遂の既定方針に変更なし」と宣言無視
を表明します。
この表明により「日本が宣言を拒否した」と判断し
たアメリカは非情な措置をとります。こうして、
8月6日、人類史上初の原子爆弾が広島に投下され
ます。原爆投下については、米政府内でも各方面か
ら疑念の声が挙がったといわれますが、前述のよう
に、最終的にはトルーマン大統領が決定したことで
す。
その3日後の9日、ソ連が対ソ交渉をないがしろに
して突如、満州に侵攻します。同じ日、今度は、長
崎に原爆が投下されます。広島に投下されたウラン
235の原爆の約1.5倍の威力があるプルトニウ
ム239を使用した原爆でした。
ちなみに、広島・長崎の当時の犠牲者は、両市合わ
せて最大約24万6千人とされていましたが、その
後も被爆の後遺症が続き、2019年8月現在、5
0万1787人の戦没者が登録されています。
トルーマンは、「2発の原爆投下は、日本への侵攻
を防ぐ一助となり、日米の将兵約50万人の命が救
われた」とする一方で、それを正当化するために
「日本軍の真珠湾攻撃で米国は不意を突かれた」こ
とにも言及し、まさに西部劇の“仇討”のような理
由も述べています。
1945年のギャラップ調査では、85%の米国人
がトルーマン大統領の決断を支持しましたが、20
18年の調査では、「日本への原爆使用は正当化で
きる」は56%にとどまっています。
▼我が国に“勝ち目”はなかったのか
「大東亜戦争」の歴史的意義などについては、占領
政策を振り返ったのちに総括しようと考えています。
一体全体、この戦争は無謀な戦争だったのでしょう
か、つまり日本側に“勝ち目”はなかったのでしょ
うか。少し長くなりますが、総括しておきます。
元自衛官の私としては、開戦に踏み切らざるを得
なかった当時の為政者や軍人たちの決心の背景とな
った、“勝たないまでも負けない見通しや戦略”に
関心を持って探求してきましたが、我が国の戦争戦
略としての「腹案」を知ることとなりました。
しかし、実際に行なわれた戦争は「腹案」とは全く
別の戦争だったことを知り、我が国の敗戦の根本要
因は、戦争戦略とは全く別次元のものだったと結論
づけ、本メルマガでも度々紹介してきました。
最近、米国側の「日本に勝利の可能性があった」と
する書籍を発見しました。『「太平洋戦争」は無謀
な戦争だったのか』(ジェームズ・B・ウッド著、
茂木弘道訳)です。帯には「歴史の常識は覆された」
とあります。
書籍の細部を振り返り、鋭い指摘を紹介する余裕は
ありませんが、一度も兵役に服していないウッド氏
がこれほど“軍事”に詳しいことに圧倒され、我が
国の多くの“軍事音痴”の歴史家・評論家と比較し
つつ読ませていただきました。当時の戦争のみなら
ず、現在においても「敗戦は必至」との感慨を抱き
ましたが、ぜひご一読いただきますようお勧めいた
します。
(以下次号)
(むなかた・ひさお)
※お知らせ
私は現在、ボランテイアですが、公益社団法人自衛
隊家族会の副会長の職にあります。今回紹介いたし
ます『自衛官が語る 海外活動の記録』は、自衛隊
家族会の機関紙「おやばと」に長い間連載してきた
「回想 自衛隊の海外活動」を書籍化したものです。
その経緯を少しご説明しましょう。陸海空自衛隊は、
創設以降冷戦最中の1990年頃までは、全国各地
で災害派遣や警備活動を実施しつつ、「専守防衛」
の防衛政策のもとで国土防衛に専念していました。
憲法の解釈から「海外派兵」そのものが禁止され
ており、国民の誰しも自衛隊の海外活動は想像すら
しないことでした。当然ながら、自衛隊自身もその
ための諸準備を全く行なっていませんでした。
ところが、冷戦終焉に伴う国際社会の劇的な変化に
よって、我が国に対しても国際社会の安定化に向け
て実質的な貢献が求められるようになりました。
こうして、湾岸戦争後の1991(平成3)年、海
上自衛隊掃海部隊のペルシア湾派遣を皮切りに、自
衛隊にとって未知の分野の海外活動が始まりました。
しかも、中には国を挙げての応援態勢がないままで
の海外活動も求められ、派遣隊員や残された家族の
やるせない思いやくやしさは募るばかりでした。
それでも隊員たちは、不平不満など一切口にせず、
「日の丸」を背負った誇りと使命感を抱きつつ、厳
正な規律をもって今日まで一人の犠牲者を出すこと
なく、与えられた任務を確実にこなしてきました。
この間、実際に派遣された隊員たちのご苦労は想像
するにあまりあるのですが、寡黙な自衛官たちは本
音を語ろうとしませんでした。
かくいう私も、陸上幕僚監部防衛部長時代、「イラ
ク復興支援活動」の計画・運用担当部長でしたので、
決して公にはできない様々な経験をさせていただき
ました(墓場まで持っていくと決心しております)。
このような海外活動の実態について、隊員家族をは
じめ広く国民の皆様に知ってもらうことと自衛隊の
海外活動の記録と記憶を後世に伝え残したいという
願いから、「おやばと」紙上でシリーズ化し、各活
動に参加した指揮官や幕僚などに当時の苦労話、経
験、エピソードを寄せてもらいました。
連載は、2012年8月から2014年11月まで
約2年半続き、その後も行なわれている「南スーダ
ン共和国ミッション」や「海賊対処行動」などにつ
いてはそのつど、関係者に投稿をお願いしました。
このたび、シリーズ書籍化第1弾の『自衛官が語る
災害派遣の記録』と同様、桜林美佐さんに監修をお
願いして、その第2弾として『自衛官が語る 海外
活動の記録』が出来上がりました。
本書には、世界各地で指揮官や幕僚などとして実際
の海外活動に従事した25人の自衛官たちの脚色も
誇張もない「生の声」が満載されております。
遠く母国を離れ、過酷な環境下で、ある時は身を挺
して、限られた人数で励まし合って厳しい任務を達
成した隊員たち、実際にはどんなにか辛く、心細く、
不安だったことでしょうか。
しかし、これらの手記を読む限り、そのようなこと
は微塵も感じられないばかりか、逆に派遣先の住民
への愛情や部下への思いやりなどの言葉で溢れてお
り、それぞれ厳しい環境で活動したことを知ってい
る私でさえ、改めて自衛隊の精強さや隊員たちの素
晴らしさを垣間見る思いにかられます。
また、桜林さんには、海外活動の進化した部分とか
依然として制約のある法的権限などについて、わか
りやすく解説し、かつ問題提起していただきました。
皆様にはぜひご一読いただき、まずはこれら手記の
行間にある、隊員たちの「心の叫び」を汲み取って
いただくとともに、自衛隊の海外活動の問題点・課
題などについても広くご理解いただきたいと願って
おります。また、前著『自衛官が語る 災害派遣の
記録』を未読の方は、この機会にこちらもぜひご一
読いただきますようお願い申し上げ、紹介と致しま
す。
『自衛官が語る 海外活動の記録─進化する国際貢献』
桜林美佐監修/自衛隊家族会編
発行:並木書房(2019年12月25日)
https://amzn.to/384Co4T
宗像さんへのメッセージ、ご意見・ご感想は、
このURLからお知らせください。
↓
https://okigunnji.com/url/7/
【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学
校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロ
ラド大学航空宇宙工学修士課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕
僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、
第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て
2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』
などに投稿多数。
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くことがございます。あらかじめご了承ください。
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最後まで読んでくださったあなたに、心から感謝し
ています。
マガジン作りにご協力いただいた各位に、心から感
謝しています。
そして、メルマガを作る機会を与えてくれた祖国に、
心から感謝しています。ありがとうございました。
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