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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
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こんにちは、エンリケです。
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は82回目です。
冒頭の「東條への評価」に目を拓かれる方は多いの
ではないでしょうか?
また、現状に関する指摘、
<首相でさえ迷うその根本は、憲法に緊急事態条項
がないこと、つまり我が国がいかなる事態になって
も、“他国のように国家が強権を発動して私権を制
限する”ことができないことにあるのは明白です。
このような本質を無視して、・・・・>
はまったくそのとおりではないでしょうか?
今回のコロナ禍をめぐる政治迷走の本質はここにあ
るのではないでしょうか?
この本質をきちんと伝え、啓蒙する・できるマスメ
ディア、影響力ある知識人がいない。
この余りに卑怯な現実に、情けないを通り越して寂
しさを覚えています。思いを共有できる国史の先人
たちに思いをはせるばかりです。
さてきょうの本編も実にためになります。
国史を視る視座視野がまったくリフレッシュされま
すね。ありがたいことです。
さっそくどうぞ
エンリケ
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(82)
「絶対国防圏」が粉砕して「捷号作戦」へ
宗像久男(元陸将)
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□はじめに
今回、本文で取り上げます東條英機は、「日米戦争」を決意
して以来、3年9カ月間の首相として、昭和19年2月から5
カ月間は陸軍大臣と参謀総長を兼務して国家の舵取りと戦争を
指導しました。
よって、その戦争責任を追及する内外の評価は厳しいものがあ
ります。中には、「日本のヒトラー」と冠した書籍もあります。
しかし、史実を正確に振り返りますと、首相としての権力・権
限の低さは驚くばかりで、ヒトラーと比較するようなレベルで
はなかったことは明白です。緒戦の「真珠湾攻撃」の計画さえ
直前まで知らされず、知った後でもそれを阻止できなかった首
相の権限はその事実を物語っています。
自分の意志に反して、その資質から“適任”とは言えない首相
という職務に就かざるを得なかった一面もあり、その点では
“気の毒な軍人”ではなかったか、とさえ思ってしまいます。
さて現在です。安倍総理が迷走しているように見えます。これ
だけ先が読めない事態に直面すれば、一度決心した政策であっ
ても、状況の変化や国民の評判などを理由に変更することにつ
いて、「柔軟性がある」と評価するか「優柔不断だ」と評価す
るか、意見が分かれる所だろうと思います。「露出しすぎる」
と批判され、姿が見えないと「顔が見えない」とも批判されま
す。
国のリーダーはいつの時代も大変ですが、戦前のリーダーた
ちも世論に振り回されて決心を変更したことが何度かありまし
た。ほとんどの場合、それは正しい判断ではなかったように思
います。
それにしても、首相でさえ迷うその根本は、憲法に緊急事態
条項がないこと、つまり我が国がいかなる事態になっても、
“他国のように国家が強権を発動して私権を制限する”ことが
できないことにあるのは明白です。このような本質を無視して、
今回の特措法に基づく「要請」を大東亜戦争時の「特攻」と似
ているとした論文をネットで発見し、呆れました(世間に名前
をさらすなら「もっと勉強しろ!」と言いたいです)。
表現の自由とはいえ、フェイクニュースを流したり、購読率
や視聴率至上主義で、結果として世論を煽るだけのマスコミに
「いいかげんにしろ!」と言いたい国民も多いのではないでし
ょうか。個人的には、いつになっても変わらない日本人の“体
質(本質)”に頭を抱えてしまいます。
▼絶対国防圏粉砕・東條退陣
本文です。昭和19年になると、今度は、航空機の生産割当を
めぐり陸海軍が対立します。海軍は「(己の消耗を顧みず)大
東亜戦争は海洋戦であり、海を制するものが戦争に勝つ。制海
は制空を前提とする」と陸軍の倍を要求します。これに対して
陸軍は「(海軍の作戦を批判した後)陸上基地を枢軸として陸
海空の三位一体の戦闘こそが残された唯一の戦闘法である」と
して「もはや太平洋の主人公は海軍ではない」と譲らず、結局、
陸軍が2万7120機、海軍が2万5750機の生産で妥協し
ます。
海軍はいたずらに損耗を重ねましたが、陸軍も無謀なインパー
ル作戦(3月~7月)を強行して、主力3個師団がいずれも7
5%以上の死傷者を出すなど、自ら絶対国防圏を弱める結果を
招きます。
昭和19年6月には、マリアナ沖海戦で日米艦隊が激突し、空
母3隻を失う惨敗に終わり、7月には、サイパンが約1万人の
在留邦人とともに玉砕します。
このようにして1年も経たずに絶対国防圏は破られます。さす
がの東條首相も自信を失いつつあり、それでも内閣改造によっ
て打開を図ろうとします。しかし最後は、岸信介国務相の反乱
に遭ったような格好で7月、ついに退陣します。後継に小磯国
昭首相、そして米内光政海相が復帰し、事実上の連立内閣が成
立します。
▼「捷1号作戦」の発動と失敗
さて、第4期(昭和19年7月から終戦までの約1年1カ月)
を振り返りましょう。小磯内閣のもとで、和平をたぐりよせる
期待を込めた一大決戦が「捷1号作戦」でした。
大本営は、絶対国防圏の破綻によって縮小した新国防要域の
防備を急速に強化し、要域のいずれかの方面に敵が来攻した場
合に、陸海空戦力を結集して決戦すると企図し、この作戦名を
「捷号(しょうごう)作戦」と名付けます。そして、捷1号が
フィリピン、捷2号が台湾・南西諸島、捷3号が本州・四国・
九州、捷4号が北海道と区分します。
連合艦隊の中核である第1機動部隊がほとんど使いものにな
らず、ようやく陸海軍航空部隊の統一指揮も準備されますが、
この時期の最大の問題は航空攻撃の主目標の選定でした。
海軍側は空母機動部隊の撃滅を期すことを主張しますが、陸軍
側はその可能性が少ないので、広域に分散退避させて極力航空
戦力を温存し、より脆弱な敵上陸船団の撃滅を主目標にすべき
と主張します。この結果、海軍が空母攻撃、陸軍が攻略部隊攻
撃と陸戦の航空支援とその役割を分担します。
そして、昭和19年10月、米軍のフィリピン・レイテ島への
進出を受けて、「捷1号作戦」が発動されます。フィリピン在
住の陸海空戦力を集中し、大打撃を与えるという決戦構想で、
主戦場となるルソン島には30万人の兵士を投入する計画でし
た。
その作戦経過は省略しますが、海軍航空部隊が当初の計画通り、
台湾沖に出現した空母17隻、戦艦6隻を含む大艦隊を攻撃、
大本営海軍部は「空母11隻、戦艦2隻など大打撃を与えた」
と発表し(10月19日)、久しぶりに国民は熱狂します。
しかし、まもなく撃沈したはずの空母が台湾沖を航行している
のが判明します。海軍は「今更取り消すわけにもいかない」と、
またしても陸軍にさえ伝えませんでした。それがのちに未曽有
の悲劇を生みます。
大本営発表を信じた南方軍はマッカーサー率いる米軍を過小評
価したまま、レイテ島に戦力を投入します。ここで「捷1号作
戦」が発動されますが、栗田艦隊がレイテ湾まであと80kmま
で迫ったところで“謎の反転”(その真相は今もって不明です)
を実施し、作戦はまたしても失敗に終わります。
神風特別攻撃隊も組織され、初戦果を挙げたのもこの海戦でし
たが、連合艦隊の損害が大きく、「大和」を除く主力艦の大半
を失い、艦隊として決戦力を喪失します。
▼欧州正面の大勢決着
その頃、欧州正面は独伊の敗戦が濃厚になってきました。すで
にイタリアは、1943(昭和18)年の7月にムッソリーニ
が解任、逮捕されて、9月には降伏、王政が廃止されて共和制
に移行しました。
ドイツも敗走を重ね、1944年6月、連合国は「ノルマンデ
ィー上陸作戦」を敢行し、8月にはパリを解放。東部戦線でも
ソ連軍が史上最大の反撃戦「バグラチオン」を発動し、ソ連領
内からドイツ軍を追い払います。
12月、ヒトラーの最後の賭けと言われた「バルジの戦い」で
連合国に打撃を与えましたが、反撃されて1945年1月撤退
します。
▼東京大空襲
戦争最後の年、昭和20年の新春を迎え、天皇は歴代首相ら
7人の重臣を集め、意見聴取をします。軍部を刺激しないよう
に、一人一人参内して内々に話を聞くという形式をとりました。
天皇は重臣のだれかが「一日も早く終戦すべき」と進言するの
を待っておられたようですが、唯一「即時和平」を口にしたの
は近衛文麿でした。
この席上、近衛は、本メルマガでも以前に取り上げました
「近衛上奏文」を基に拳上します。近衛は「最も憂慮すべき事
態は、敗戦よりも共産主義革命である」として、(1)ソ連が戦
争に乗じて欧州で共産主義を浸透させていること、(2)統制派
が牛耳る軍部内にも共産主義の一味が存在すること、(3)戦争
終結のためには軍部の立て直しが必要であることを進言します。
天皇は近衛の発言が終わるのを待って、「軍部の粛清が必要と
いうことか、近衛はどう考えるか」と問われ、近衛は、皇道派
の山下奉文(フィリピンで激戦中)か派閥色のない阿南惟幾
(これちか)を推薦したといわれます。近衛は、この時点では
まだ「条件付き講和」を想定していたようですが、ルーズベル
トは無条件降伏に固執していました。
そのような中の3月10日、初めての東京大空襲が実施されま
す。270機のB-29が約1万6千トンの焼夷弾を投下し、東
京、特に下町の住宅密集地を狙い撃ち、一夜にして死者約10
万人超、被災家屋26万棟超、罹災者百万人超の大被害が発生
しました。
無差別爆撃は、明確な国際法違反であったにもかかわらず、ル
ーズベルトは躊躇しませんでした。終戦まで延べ約3万3千機
のB-29が累計約14万7千トンの焼夷弾を本土の主要都市に
投下し、幼児を含む非戦闘員約80万人超が犠牲になります。
米軍は、本土への無差別攻撃を本格化するために、サイパンと
東京のほぼ中間に位置する硫黄島の確保を企図し、勝者の損害
が敗者を上回るという硫黄島の死闘が行なわれます。
▼最後の戦いになった「沖縄戦」
そして、終戦前の最後の戦いが「沖縄戦」でした。これについ
ても詳しく触れる必要はないと思いますが、4月1日から米軍
が上陸開始し、筆舌に尽くしがたい死闘を繰り返して米軍を苦
しめます。米軍が1カ月で終了すると見積った戦いは、6月1
9日まで約3カ月弱続きました。
この間、日本軍の戦死約6万5千人、県民の犠牲者約10万人
に達します。最後の戦艦「大和」も壮絶な最後を迎えます。こ
れに対して、米軍も戦死7600人、戦傷3万1800人超に
及び、空母13隻、戦艦10隻など368隻が損傷しました。
この死闘が米国をして無条件降伏要求の見直しを迫られるよう
になったといわれます。
米軍が沖縄に上陸した4日後の4月5日、小磯内閣が全閣僚
の辞表とともに天皇に拝謁します。後継者選びのために開かれ
た重臣会議は激しい議論の末、枢密院議長(元侍従長)鈴木貫
太郎に大命が下りました。
この場に及んでも、陸軍はなお強気で、(1)あくまで戦争を
完遂すること、(2)陸海軍を一体化すること、(3)本土決戦
のために諸施策を躊躇なく実行すること、など3条件を求めま
す。これまで陸海軍の統合に対して、海軍側には常に「統合す
れば陸軍に飲み込まれる」という警戒感が根底にあったといわ
れますが、主戦力がすでに焼失した海軍はもはや抵抗する力も
なかったのでした。
▼「ヤルタ会談」
「ヤルタ会談」や「ヤルタ秘密協定」に関する実態については
すでに紹介していますが、昭和20年2月、クリミア半島のヤ
ルタに米英ソ首脳が集まり、「ヤルタ会談」を実施します。
表向きはドイツ降伏後の処置でしたが、対日問題では、
(1)ドイツ降伏後2~3カ月後にソ連が対日戦に参加する、
(2)南樺太及び隣接する島嶼はソ連に返還する、(3)旅順港
の租借を回復する、(4)千島列島はソ連に引き渡す、などの
「ヤルタ秘密協定」が交わされます。
あまりにソ連寄りのこの秘密協定にルーズベルト大統領がなぜ
そこまで譲歩したかの真意は今もって不明ですが、「ヴェノナ
文書」で明らかになっているようなソ連スパイの活動に加え、
この頃のルーズベルトはすでに正常な判断ができなかったとの
説もあります。
アメリカ国内でもこの内容を知って憂慮したのが知日派のグル
ー国務次官でした。グルーは、ソ連参戦前の日本降伏の早期実
現を考えたといわれます。
しかし不覚にも、この秘密協定を我が国が全く察知できていな
かったのでした。当時の状況から、外務当局の情報収集力の非
力として責めるのは酷というものでしょうが、これが後日、ま
たしても我が国の判断を狂わせます。
▼特攻について
硫黄島の戦い以降、日本兵の命を懸けた神風特別攻撃隊と陸軍
特別攻撃隊(特攻隊)が多用されるようになり、「カミカゼ」
として米軍を震え上がらせます。終戦まで出撃し、散華した特
攻隊は約2600機、うち420機以上が米軍艦船に命中、ま
たは至近命中し、大損害を与えたといわれます。
天皇陛下も特攻隊の報告を受ける時は必ず立ち上がり、敬礼さ
れたとの記録が残っていますが、祖国の平和を愛する家族の幸
せのために身をもって守ることを光栄とした特攻隊員の手記を
読むたびに、ただただ頭が下がるばかりです。
このくだりを多く引用させていただいている『立憲君主 昭和
天皇』(上下)の著者・川瀬弘至氏は「先の大戦で230万人
もの日本の軍人軍属が戦死した。約6千人の特攻隊員をはじめ、
地雷を抱えて敵の戦車に突っ込んだ日本兵は数知れない。戦争
被害者、あるいは犠牲者と呼んでしまえば、先の大戦は理解で
きないだろう」と述べていますが、全く同感です。
(以下次号)
(むなかた・ひさお)
※お知らせ
私は現在、ボランテイアですが、公益社団法人自衛
隊家族会の副会長の職にあります。今回紹介いたし
ます『自衛官が語る 海外活動の記録』は、自衛隊
家族会の機関紙「おやばと」に長い間連載してきた
「回想 自衛隊の海外活動」を書籍化したものです。
その経緯を少しご説明しましょう。陸海空自衛隊は、
創設以降冷戦最中の1990年頃までは、全国各地
で災害派遣や警備活動を実施しつつ、「専守防衛」
の防衛政策のもとで国土防衛に専念していました。
憲法の解釈から「海外派兵」そのものが禁止され
ており、国民の誰しも自衛隊の海外活動は想像すら
しないことでした。当然ながら、自衛隊自身もその
ための諸準備を全く行なっていませんでした。
ところが、冷戦終焉に伴う国際社会の劇的な変化に
よって、我が国に対しても国際社会の安定化に向け
て実質的な貢献が求められるようになりました。
こうして、湾岸戦争後の1991(平成3)年、海
上自衛隊掃海部隊のペルシア湾派遣を皮切りに、自
衛隊にとって未知の分野の海外活動が始まりました。
しかも、中には国を挙げての応援態勢がないままで
の海外活動も求められ、派遣隊員や残された家族の
やるせない思いやくやしさは募るばかりでした。
それでも隊員たちは、不平不満など一切口にせず、
「日の丸」を背負った誇りと使命感を抱きつつ、厳
正な規律をもって今日まで一人の犠牲者を出すこと
なく、与えられた任務を確実にこなしてきました。
この間、実際に派遣された隊員たちのご苦労は想像
するにあまりあるのですが、寡黙な自衛官たちは本
音を語ろうとしませんでした。
かくいう私も、陸上幕僚監部防衛部長時代、「イラ
ク復興支援活動」の計画・運用担当部長でしたので、
決して公にはできない様々な経験をさせていただき
ました(墓場まで持っていくと決心しております)。
このような海外活動の実態について、隊員家族をは
じめ広く国民の皆様に知ってもらうことと自衛隊の
海外活動の記録と記憶を後世に伝え残したいという
願いから、「おやばと」紙上でシリーズ化し、各活
動に参加した指揮官や幕僚などに当時の苦労話、経
験、エピソードを寄せてもらいました。
連載は、2012年8月から2014年11月まで
約2年半続き、その後も行なわれている「南スーダ
ン共和国ミッション」や「海賊対処行動」などにつ
いてはそのつど、関係者に投稿をお願いしました。
このたび、シリーズ書籍化第1弾の『自衛官が語る
災害派遣の記録』と同様、桜林美佐さんに監修をお
願いして、その第2弾として『自衛官が語る 海外
活動の記録』が出来上がりました。
本書には、世界各地で指揮官や幕僚などとして実際
の海外活動に従事した25人の自衛官たちの脚色も
誇張もない「生の声」が満載されております。
遠く母国を離れ、過酷な環境下で、ある時は身を挺
して、限られた人数で励まし合って厳しい任務を達
成した隊員たち、実際にはどんなにか辛く、心細く、
不安だったことでしょうか。
しかし、これらの手記を読む限り、そのようなこと
は微塵も感じられないばかりか、逆に派遣先の住民
への愛情や部下への思いやりなどの言葉で溢れてお
り、それぞれ厳しい環境で活動したことを知ってい
る私でさえ、改めて自衛隊の精強さや隊員たちの素
晴らしさを垣間見る思いにかられます。
また、桜林さんには、海外活動の進化した部分とか
依然として制約のある法的権限などについて、わか
りやすく解説し、かつ問題提起していただきました。
皆様にはぜひご一読いただき、まずはこれら手記の
行間にある、隊員たちの「心の叫び」を汲み取って
いただくとともに、自衛隊の海外活動の問題点・課
題などについても広くご理解いただきたいと願って
おります。また、前著『自衛官が語る 災害派遣の
記録』を未読の方は、この機会にこちらもぜひご一
読いただきますようお願い申し上げ、紹介と致しま
す。
『自衛官が語る 海外活動の記録─進化する国際貢献』
桜林美佐監修/自衛隊家族会編
発行:並木書房(2019年12月25日)
https://amzn.to/384Co4T
宗像さんへのメッセージ、ご意見・ご感想は、
このURLからお知らせください。
↓
https://okigunnji.com/url/7/
【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学
校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロ
ラド大学航空宇宙工学修士課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕
僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、
第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て
2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』
などに投稿多数。
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謝しています。
そして、メルマガを作る機会を与えてくれた祖国に、
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