配信日時 2020/04/09 08:00

【我が国の歴史を振り返る ─日本史と世界史に“横串”を入れる─(80)】「ミッドウェー作戦」の真実 宗像久男(元陸将)

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
合わせは以下よりお気軽にどうぞ
 
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WEB http://wos.cool.coocan.jp
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こんにちは、エンリケです。

「我が国の歴史を振り返る
 ―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は80回目です。

「真珠湾の真実」が、
簡潔明瞭に整理整頓されてます。

<そろそろ「史実」をしっかり見極める時期に来て
いるのではないでしょうか。>

と書かれていますが、ホントそう思います。


本編ですが、
読み進むほどになんとも情けなくなりました。

詳細はイマスグ記事をお読みください。


さっそくどうぞ


エンリケ



ご意見・ご感想はコチラから
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(80)

 「ミッドウェー作戦」の真実

宗像久男(元陸将)
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□はじめに

記念すべき第80話ですが、暗いニュースから入り
ます。新型コロナウイルス(COVID-19)が
世界中に蔓延していますが、この機会に、だいぶ前
に本メルマガで取り上げました「第1次世界大戦」
の最中の1918年頃に蔓延したインフルエンザ・
パンデミックを振り返っておきましょう。通称、
「スペインインフルエンザ」、日本では「スペイン
風邪」と呼ばれるものです。

当時、約19億人といわれた世界人口の約27%に
相当する約5億人が感染し、死者は、1700万人
から5000万人(1億人との分析もあります)に
及びました。日本でも人口約5500万人の0.7%
に相当する39万人が死亡しました。

コロナウイルスは、4月5日現在、世界中の感染者が
約120万人、死者が約6万5千人といわれていま
すので、現時点で比較するとまさに桁違いの惨事だ
ったことがわかります。

 第1次世界大戦の犠牲者の総計は、約3700万
人と記録されていますが、その約3分の1はスペイ
ンインフルエンザなどの疾病によるものだったとさ
れています。これらの数字をみると、当時の人々の
絶望感に胸が痛みます。

このインフルエンザは、元々はアメリカのイリノイ
州が発祥地のようで、1915年頃にはすでにアメ
リカ国内の肺炎による死亡者が増加していました。
発生源など不明のまま、米国の戦争参戦とともに大
西洋を渡り、ヨーロッパで大流行したのですが、な
ぜか「スペインインフルエンザ」と呼ばれます。

その理由は、戦争に参戦していたイギリス、フラン
ス、アメリカ、そしてドイツまでも兵士の士気を維
持するために死亡者数の発表を最小限に抑え、報道
統制もしていましたが、中立国スペインは、インフ
ルエンザ流行について自由に報道できた結果、「ス
ペインが特に被害が大きかった」と誤った印象を与
えてしまい、名称まで生み出したのでした。

後世の研究によると、スペインインフルエンザはそ
れまでのものと比較してさほど攻撃性が強いわけで
はなく、戦時下にあった当時の劣悪な衛生状態、栄
養失調、過密な医療キャンプや病院などが重複感染
を促進し、この重複感染によって犠牲者が増大した
との分析があります。これらもあって、今のコロナ
ウイルスと全く逆で、高齢者よりも若年者が高い死
亡率を示しました(この原因は他にもあるようです)。

歴史の中では、特に戦争がクローズアップされ、天
変地異やこの種パンデミックはなぜかあまり話題に
ならないのですが、幾度となくこれらの艱難辛苦
(かんなんしんく)を乗り越えて今日に至ってい
る“壮絶な人類の歴史”に改めて思いが至ります。

幸い、現在は戦時下でありません。各国が協力して
人類の叡智を結集して有効な治療薬やワクチンが開
発・実用化されるまでの間、私たちは、政府や自治
体の施策や要請を信じ、ひとり一人が“できること”
“しなければならないこと”を最大限に注意深く実
施するしかないと考えます。お互いに強い忍耐力を
もって頑張りましょう。

▼アメリカ側からみた「真珠湾攻撃」

前回の続きですが、「真珠湾攻撃」の奇襲はみごと
に大成功します。直ちに第1次攻撃隊指揮官の淵田
中佐から第1航空戦隊旗艦「赤城」宛に有名な「奇
襲成功セリ」(暗号略号 トラ・トラ・トラ)が打
電されます(電報のコピーを保持していますが、日
付は12月8日0322とあります)。

報告された戦果は、「敵主力艦2隻轟沈、4隻大破、
巡洋艦約4隻大破以上確実、飛行機多数撃破 我飛
行機損害約30機」とあります。所在しているはず
の空母が不在だったことが判明しますが、この瞬間、
この戦果を「予期どおり」と判断したかどうかは不
明です。

後日、空母の乗組員水兵による「12月5日の朝、
空母3隻だけ土日の演習命令が出て外出禁止にな
り、上官に文句を言った。後日、パールハーバーに
帰ってきて『なぜ空母だけを助けたのだ』と不思議
に思った」旨の証言が残っています。

アメリカ海軍史上、日曜日に演習したのはこの時が
最初で最後だったといわれますが、この演習が何を
意味するかは明白でしょう。

一方で、アメリカ側もオアフ島北端のレーダーが日
本軍機を発見していながらもB17爆撃機と誤認し、
何らの措置を取らなかったとの判断ミスがあります。

これらもあって、米太平洋艦隊司令官のキンメル大
将と米陸軍ハワイ管区司令官ショート中将は退役さ
せられますが、のちにキンメル大将は「事前に真珠
湾攻撃があることを知りながら、故意に連絡してこ
なかった」とルーズベルト大統領を告発します。

その根拠として、1941年1月以来、グルー大使
から国務省宛に送られた暗号電報(時期は、海軍が
真珠湾攻撃の検討を始めた頃と一致)に始まり、東
京―ハワイ・ホノルル総領事間の176通に及ぶ暗
号電文のほとんどを米国陸海軍諜報部が傍受してい
たのにもかかわらず、ハワイに何らに通報がなかっ
たことを挙げています。

また、「真珠湾攻撃」がはじまる前に、ルーズベル
ト大統領に13部までの解読文が渡り、「これは戦
争だ」と発言していたこと、そして4時間前に、ス
ターク海軍作戦部長やマーシャル陸軍参謀総長も
14項目全部の暗号解読文が届き、スターク提督が
キンメル大将に知らせようとすると、マーシャルは
それを制止し、攻撃から2時間後に普通電話で知ら
せたこともわかっています。マーシャル参謀総長の
これらの言動は、今でも不可解とされています。

このぐらいにしておきましょう。もっと詳しく知り
たい方は、『世界が語る大東亜戦争と東京裁判』(*)
(吉本貞昭著)をご一読下さい。

(*)https://amzn.to/2RctQ5M

こうして、チャーチル首相に「私は、宣戦はしな
い。戦争を作るのだ」と語ったといわれるルーズベ
ルト大統領の“術中”に見事にはまる形で「日米戦
争」の火ぶたが切られたのでした。

今なお、「日本は汚い攻撃をした」と信じて疑わな
い人たちが日米両サイドにたくさんおりますが、そ
ろそろ「史実」をしっかり見極める時期に来ている
のではないでしょうか。

▼緒戦の連戦連勝

「真珠湾攻撃」以外の日本軍の緒戦の快進撃を要約
します。12月8日未明、日本軍は南方の英国植民
地でも行動を開始します。陸軍の第25軍(山下奉
文司令官、3万5千人)が行動を開始すると、これ
を阻止しようとする英国東洋艦隊がシンガポールか
ら出撃しますが、10日午後、仏印の飛行場から飛
び立った海軍航空隊が英戦艦「プリンス・オブ・ウ
エールズ」と巡洋艦「レバレス」を撃沈させ、開戦
3日目にして太平洋の制空権、制海権を握ります。

 報告を受けたチャーチルをして「すべての戦争を
通じてこれ以上直接的な衝撃を受けたことはなかっ
た」と言わせた瞬間でした。

第25軍は、マレー半島に上陸し、銀輪部隊で知ら
れる追撃作戦を実施し、シンガポールに向かって猛
烈な勢いで半島を南下します。そして55日間で約
1100kmも進撃し、翌年1月末にはシンガポール
を臨むジョホールに到達します。

 2月8日からシンガポールへの上陸作戦を敢行し、
熾烈な戦闘の結果、15日にはシンガポールを占領
します。ここに100年以上にわたった大英帝国ア
ジア植民地の牙城が陥落することになります。

 我が国の重鎮らは日米開戦に最後まで反対してお
り、国民の一部も慎重論を唱えていたのですが、シ
ンガポール陥落の頃には国中が戦勝気分に沸いたよ
うです。

引き続き、陸海軍は、ラバウル、ジャワ島、フィリ
ピンなど次々に占領して宣戦を拡大してきます。あ
まりの快進撃に対して天皇が「戦果が早く挙がり過
ぎる」と内大臣につぶやかれたとの記録も残ってい
ます。

▼第2期作戦―「ミッドウェー海戦」をめぐる議論
と結果

 さて第2期です。昭和17年4月頃から18年6月
頃までの約1年2カ月で、「我が陸海軍が連合国軍
とほぼ互角に戦争をしていた時期」でした。

この期間も海軍統帥部と連合艦隊の確執が続きます。
緒戦の「真珠湾攻撃」で中途半端に勝った結果とし
て、さらに組織的欠陥の傷を大きくするのです。実
情を知らないメディアの山本賞賛の後押しなどもあ
って、この後、日本から遠いミッドウェーへの攻撃、
ガダルカナルへの進出など、「腹案」と逆を行く山
本長官の作戦を阻止できず、その結果、大敗します。
その概要を振り返ってみましょう。

海軍が「真珠湾攻撃」で緒戦を飾り、陸軍がマレー
半島からシンガポール占領など東南アジアの作戦を
ほぼ計画通りに進捗した昭和17年3月頃、大本営
政府連絡会議で「今後採るべき戦争指導の大綱」が
決定されます。

ここで、「既得の成果を拡充して長期不敗の攻勢態
勢を整えつつ、“機を見て積極的の方策を講ず”」
という文言が併記されます。当初の守勢的戦略をあ
わよくば攻勢的戦略に転換しようとしていたのでし
た。

この文言は、連合艦隊に引きずられた海軍の「大東
亜戦争の主作戦は終始一貫、太平洋正面にある」と
立場を考慮したものだったと参謀本部の田中作戦部
長が回想しています。

陸軍は“攻勢の限界を超える”ことを恐れ、ジャワ
占領をもって長期持久態勢を固め、連合艦隊主力を
インド洋に指向すべきと主張します。

海軍も同年2月頃までは、インド洋作戦の図上演習
を実施するなど、その時点では陸軍と同様の戦略を
保持していました。ところが、4月、我が国を震撼
させた奇襲爆撃が発生します。「ドゥーリトル空襲」
です。

「ドゥーリトル空襲」とは、空母ホーネットから
ドゥーリトル中佐率いる16機のB25が東京方面
等を空襲したことです。この空襲は、実際の損害以
上に我が国の中枢部に直撃弾を浴びせた格好になり
ます。

日本軍のメンツは丸つぶれになり、特に海軍に与え
た衝撃は甚大で、中でも山本長官のプライドは大き
く傷つきました。これによって、「ミッドウェー作
戦が必要だ」とする山本長官の説明が説得力を増し
てしまったのです。

こうして、4月に決定された海軍の第2段作戦計画
には、インド洋の作戦やオーストラリア攻略に通ず
るサモア諸島やニューカレドニアなどの作戦に加え、
ミッドウェー島攻略、さらにはハワイ攻略まで盛り
込まれました。

これによって、明治以来、迎撃戦を基礎としてきた
海軍は、今まで研究はおろか考えたこともない作戦
様式の戦闘を続けることになります。その結果、
「真珠湾攻撃を除き、百戦百敗は当然だった」との
分析もあります。

当然ながら、軍令部は、本作戦に大反対していまし
たが、再び「計画が受け入れられなければ長官の職
にはとどまれない」との山本長官の主張に対して
「真珠湾攻撃の英雄を辞めさせるわけにはいかない」
と作戦を了承します。“頭に血が上った”山本長官
らには、「ドゥーリトル空襲」に込められたアメリ
カの“したたかな意図”を見抜けなかったのでした。

ミッドウェー作戦((昭和17年6月5~7日)の
結果についての説明は必要ないと考えますが、日本
は主力空母4隻と艦載機、搭乗員を一挙に失い、山
本長官の連続決戦構想は破綻します。

開戦以来一度も変えていない暗号はすでに米英に解
読され、米軍は日本人の八木秀次氏が発明した「八
木アンテナ」を使用して待ち構えていたこともあっ
て「負けるべくして負けた」のでした。その上、こ
ともあろうか海軍は、この大敗北と破壊的損害を陸
軍側には長く知らせていなかったのです。

ミッドウェー海戦の結果について永野軍令部長かか
ら奉上を受けた天皇は「損害により士気のそごうを
来さないように、また今後の作戦が消極退嬰(たい
えい)にならないように」と語られたことが『昭和
天皇実録』に記載されています。

その後もインド洋作戦、つまり「腹案」への回帰の
チャンスがありました。昭和17年6月、ドイツが
ようやくリビアにあるイギリス要塞を陥落させ、エ
ジプトへ突入します。誰が見ても日独伊枢軸側の
“勝機”でした。これを受けて、海軍は再編した連
合艦隊を投入してインド洋作戦を決定し、陸軍参謀
本部もセイロン島攻略を進言します。

しかしながら、またしても山本長官がこのチャンス
を壊します。マラリア諸島やカロリン諸島などの攻
略を経てガダルカナルに固執します。そして、連合
艦隊は、ミッドウェー海戦をはるかに上回る決定的
大失態を南方方面で演ずることになります。



(つづく)

(むなかた・ひさお)

※お知らせ
私は現在、ボランテイアですが、公益社団法人自衛
隊家族会の副会長の職にあります。今回紹介いたし
ます『自衛官が語る 海外活動の記録』は、自衛隊
家族会の機関紙「おやばと」に長い間連載してきた
「回想 自衛隊の海外活動」を書籍化したものです。

その経緯を少しご説明しましょう。陸海空自衛隊は、
創設以降冷戦最中の1990年頃までは、全国各地
で災害派遣や警備活動を実施しつつ、「専守防衛」
の防衛政策のもとで国土防衛に専念していました。

 憲法の解釈から「海外派兵」そのものが禁止され
ており、国民の誰しも自衛隊の海外活動は想像すら
しないことでした。当然ながら、自衛隊自身もその
ための諸準備を全く行なっていませんでした。

ところが、冷戦終焉に伴う国際社会の劇的な変化に
よって、我が国に対しても国際社会の安定化に向け
て実質的な貢献が求められるようになりました。

こうして、湾岸戦争後の1991(平成3)年、海
上自衛隊掃海部隊のペルシア湾派遣を皮切りに、自
衛隊にとって未知の分野の海外活動が始まりました。
しかも、中には国を挙げての応援態勢がないままで
の海外活動も求められ、派遣隊員や残された家族の
やるせない思いやくやしさは募るばかりでした。

それでも隊員たちは、不平不満など一切口にせず、
「日の丸」を背負った誇りと使命感を抱きつつ、厳
正な規律をもって今日まで一人の犠牲者を出すこと
なく、与えられた任務を確実にこなしてきました。
この間、実際に派遣された隊員たちのご苦労は想像
するにあまりあるのですが、寡黙な自衛官たちは本
音を語ろうとしませんでした。

かくいう私も、陸上幕僚監部防衛部長時代、「イラ
ク復興支援活動」の計画・運用担当部長でしたので、
決して公にはできない様々な経験をさせていただき
ました(墓場まで持っていくと決心しております)。

このような海外活動の実態について、隊員家族をは
じめ広く国民の皆様に知ってもらうことと自衛隊の
海外活動の記録と記憶を後世に伝え残したいという
願いから、「おやばと」紙上でシリーズ化し、各活
動に参加した指揮官や幕僚などに当時の苦労話、経
験、エピソードを寄せてもらいました。

連載は、2012年8月から2014年11月まで
約2年半続き、その後も行なわれている「南スーダ
ン共和国ミッション」や「海賊対処行動」などにつ
いてはそのつど、関係者に投稿をお願いしました。

このたび、シリーズ書籍化第1弾の『自衛官が語る 
災害派遣の記録』と同様、桜林美佐さんに監修をお
願いして、その第2弾として『自衛官が語る 海外
活動の記録』が出来上がりました。

本書には、世界各地で指揮官や幕僚などとして実際
の海外活動に従事した25人の自衛官たちの脚色も
誇張もない「生の声」が満載されております。

遠く母国を離れ、過酷な環境下で、ある時は身を挺
して、限られた人数で励まし合って厳しい任務を達
成した隊員たち、実際にはどんなにか辛く、心細く、
不安だったことでしょうか。

しかし、これらの手記を読む限り、そのようなこと
は微塵も感じられないばかりか、逆に派遣先の住民
への愛情や部下への思いやりなどの言葉で溢れてお
り、それぞれ厳しい環境で活動したことを知ってい
る私でさえ、改めて自衛隊の精強さや隊員たちの素
晴らしさを垣間見る思いにかられます。

また、桜林さんには、海外活動の進化した部分とか
依然として制約のある法的権限などについて、わか
りやすく解説し、かつ問題提起していただきました。

皆様にはぜひご一読いただき、まずはこれら手記の
行間にある、隊員たちの「心の叫び」を汲み取って
いただくとともに、自衛隊の海外活動の問題点・課
題などについても広くご理解いただきたいと願って
おります。また、前著『自衛官が語る 災害派遣の
記録』を未読の方は、この機会にこちらもぜひご一
読いただきますようお願い申し上げ、紹介と致しま
す。

『自衛官が語る 海外活動の記録─進化する国際貢献』
桜林美佐監修/自衛隊家族会編
  発行:並木書房(2019年12月25日)
  https://amzn.to/384Co4T







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【著者紹介】

宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学
校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロ
ラド大学航空宇宙工学修士課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕
僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、
第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て
2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』
などに投稿多数。


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