こんにちは、エンリケです。
「戦略航空偵察」十回目です。
わが周辺で、
かくも多くの偵察機が撃墜されていたのですね。
情報史は、歴史の闇を照らし、
後世に生きるものが歴史から養分を得る核心になる。
改めてそう感じます。
さっそくどうぞ
エンリケ
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戦略航空偵察(10)
日本周辺における偵察機の活動と悲劇(その1)
西山邦夫(元空将補)
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□ご挨拶
メルマガ「戦略航空偵察」の今回分からしばしば
SIGINT(シギント:電波情報)に言及する部分が出
てきます。SIGINTは本来厳重な秘匿がかけられてい
る情報で、各国とも厳重に保全していす。CIAは2010
年台前半に冷戦期のSIGINTを含む歴史の記録の一部
を秘密解除し、公開しました。本メルマガもこれら
公開された資料の一部を参考にしています。
三沢基地にはかつて象のオリと呼ばれたアンテナが
ありました。6920保全群と呼ばれる部隊がSIGINT収
集活動をしていましたが、その業務は厳重に秘匿さ
れ、公表されることはありませんでした。今回のメ
ルマガではその一端に触れます。
また、撃墜された偵察機の多くは日本を発進基地と
しており、6例が横田基地、1例が厚木基地を発進し
ていました。
▼ソ連戦闘機の米偵察機攻撃
ソ連防空軍の戦闘機が米軍偵察機を攻撃した最初
の事例は、1949年10月22日に日本海でRB-29が攻撃さ
れた事例で、当該機は被害なく横田へ帰投しました。
それ以降、二十数年間に米軍偵察機に対し、30回を
超える戦闘機の機銃による攻撃が繰り返され、米国
の同盟国の航空機に対しても10回以上実行されまし
た。The U.S. intelligence communityの著者ジェ
フリ・リッチェルソンの分析によれば、この間に13
回の撃墜事例が発生しています。
これらの事例は米国など西側諸国の通信電子情報
(SIGINT)傍受網によってその一部がカバーされて
いました。たとえば、ソ連側がレーダーで何を見て
いたか、戦闘機と地上管制所がどんな会話をしてい
たかなどを知ることができる場合がありました。樺
太の大韓航空機撃墜事件における、自衛隊によるソ
連戦闘機の会話の傍受も同種の行動です。
▼撃墜事例 その1 1951年11月6日 P-2V 日本海
1951年11月6日、日本海ウラジオストク沖で米海軍の
P-2Vネプチューンが撃墜され、乗員10名が失われま
した。P-2Vは1945年に生産が始まり、長距離無着陸
飛行の記録を作った機体で、海上自衛隊も対潜哨戒
機として日本向けに改装した機体を1994年まで運用
していました。
この事例に関して、米側のSIGINTサイトは、ソ連戦
闘機とさらに2機の戦闘機に護衛されたソ連偵察機の
対地上短波ボイス通信を傍受していました。それに
よれば、ソ連はネプチューン型の航空機を発見し、
撃墜したと言っていました。その後、ウラジオスト
クの管制所は全ての航空機に無線封止で帰投せよ、
と放送しました。それ以上の詳細は不明のままにな
りました。
▼撃墜事例その2 1952年6月13日 RB-29 ウラジ
オストク沖
2回目は、1952年6月13日に日本海上でRB-29が撃墜
され、12名のクルーが失われた事例です。傍受され
たSIGINTによれば、「0706Zから0739Z(世界標準時)
の間にオストロノエ岬の南を飛行中の航空機に警告
が送られた、これがRB-29の撃墜と関係しているかは
確認できないが、ソ連第5空軍の戦闘機2機が地上管
制官の指示で当該機へ指向された」とのことでした。
撃墜された地点は、海岸から75マイル離れていま
した。当時は朝鮮戦争が進行中であり、その戦域に
含まれる北朝鮮の元山沖の東朝鮮湾では同じ6月に、
B-26天候偵察機と米海軍PB4Y2がソ連機の攻撃を受け
る事例が発生していました。RB-29の撃墜は、朝鮮
戦争に関連した日本海方面におけるソ連の一連の防
空活動であると考えられます。
▼撃墜事例その3 1952年10月7日 RB-29 根室沖
6月に起きたわずか4カ月後、米空軍のRB-29が北海
道東端、根室沖で撃墜されました。SIGINTなどによ
る情報は「ソ連対空警戒レーダーはRB-29を撃墜する
1時間前から追尾していたが、ソ連戦闘機の航跡は報
じていなかった。しかし、根室の米軍レーダーは撃
墜の20分前からソ連戦闘機の航跡を捉え、RB-29に警
告していた。RB-29は警告を確認した後、さらに1時
間現場で活動すると報告した。」ということでした。
30分が経過し、ソ連の警戒レーダーは、RB-29が東
へ針路を取り、ソ連が領有を主張しているエリアへ
侵入するのを追尾しました。その時、RB-29は
”May day”(救難信号)を発信したのです。米軍の
通信情報(COMINT)は、ソ連レーダーが三沢を発進
した米空軍のF-84戦闘機をRB-29が撃墜される10分前
から捕捉したことを探知しており、さらに救難活動
の航空機についても同様に把握しているのを掌握し
ていました。
▼アイゼンハワー大統領の登場
1952年11月、ドワイト・アイゼンハワーが大統領
に選出されましたが、彼は情報に関して大きな関心
を持っており、事後の偵察関連の事態の推移に著し
い影響を及ぼした大統領です。彼が就任後、偵察飛
行が3回続いて攻撃される事象が発生しました。
最初は、1952年11月米空軍のC-47輸送機がベルリ
ン飛行回廊で、次が1953年3月15日には米空軍RB-50
がカムチャツカ半島沖でそれぞれソ連戦闘機の攻撃
を受けたことです。3番目は、英空軍のリンカーン偵
察爆撃機が東独上空でソ連戦闘機により撃墜された
事象でした。
アイゼンハワー大統領は1953年から1961年まで大
統領職にありましたが、その在任期間を通じて対ソ
連偵察飛行に係わりました。1960年にはソ連ウラル
山中のスベルドルフスクでCIAが運用するU-2が撃墜
されて、米ソ関係が危機に瀕するなどの出来事があ
り、就任早々、米偵察機の被撃墜が続いたのは、ソ
連偵察に係わる彼の前途を暗示しているようにも思
えます。
▼撃墜事例その4 1953年7月29日 RB-50 日本海
1953年7月29日、日本海のウラジオストク沖70マイ
ル地点で17名が乗り組んだRB-50が撃墜されました。
このRB-50はRB-29の改造機で、エンジンを強化し、
SIGINT装置を搭載して1951年8月に横田基地に配備さ
れ、偵察任務を開始した機体です。
SIGINT収集にあたる偵察機にはNSA(国家安全保障
局)が関与することになっており、この機で収集し
たVHF通信のデータはNSAにより秘匿されました。撃
墜についてのソ連の短波通信はCOMINTで収集され、
位置は地図グリッドで、高度は音声で確認されてい
ました。また、ソ連戦闘機が通常使っていた短波の
ボイス通信は、この時点でVHF通信に切り替えられ
ているのが分かったと言います。
三沢基地にあった「象のオリ」と呼ばれる傍受施
設を運営する6920保全群がこの事態についてレポー
トを出しています。「撃墜について直接関係したCOM
INTは得られなかったが、ソ連のレーダーサイトが追
尾した航跡情報が得られている。これはRB-50が当初
予定したコースと外れており、北緯42度25分より北
を飛行していた」と。
SIGINTで得られたソ連防空軍のモールス通信と音声
通信によれば、0654Kから0930K(GMT)頃国籍不明機
が捕捉され、米軍のRB-50と推定された。さらに救難
機が捕捉された。通信状況から、RB-50は0721Kにピ
ョートル大帝湾で撃墜されたものと推定された、と
分析されています。
ソ連によるこのレポートは幾つかの不明確な部分が
ありますが、RB-50がウラジオストク沖で周回飛行を
し、その最後の数分間に回避行動をしているものと
推測されます。その後、米軍の救難機が飛行してい
るのを30分間捕捉していました。また、RB-50から反
撃を受けた戦闘機1機が損傷したと述べています。
撃墜事件の2週間後、NSAは航跡の記録を修正し、
通信情報のデータを加えてこの事件を包括するレポ
ートを出しました。撃墜の3時間後、少なくとも脱出
した6名の乗員が発見され、救難機が救命具を投下
しました。米巡洋艦と駆逐艦、オーストラリアの駆
逐艦が8時間後に現場へ到着し、救難活動にあたっ
たと記しています。ソ連も、巡洋艦カリーニン、駆
逐艦、潜水艦を含む17隻の艦艇を派遣した他、13機
の航空機で捜索活動を行なったとレポートは述べて
います。
その3年後、米国空軍保安局(USAFSS)が「撃墜の
約30分前に、ソ連のレーダーがカモーバ岬の12マイ
ル南でソ連領に侵入しようとしている米軍機を発見
した。これが、ソ連機が攻撃的になった理由だ」と
結論付けるレポートを出しています。このRB-50の
偵察飛行は、本メルマガの第9回に書いた、ルメイ
将軍の原爆攻撃計画の一端を担うものである可能性
があります。
▼RB-29乗員のその後
本事例で、機から脱出して行方不明になった13名の
乗員は、ソ連の哨戒艇により救出されていたことが
のちの1992年に判明しました。
1991年、冷戦が終結すると米・ロシア双方はタス
クフォース・ロシアという合同のコミッションを組
織することを合意しました。この合意の目的は、
第2次世界大戦以降ソ連に囚われている米国人の状
況を調査することにありました。その結果、不明者
の関係者が訪ロすることが可能になり、不明者の一
人であるサンダース少尉の息子であるブルース・サ
ンダース氏がモスクワを1992年に訪問しました。彼
は以前情報将校であり、現在軍の歴史学者になって
いるコロコフ氏と面会しました。彼は、サンダース
少尉を含む6名の軍人が捕えられ、KGBの尋問を受け
たが、ソ連への協力を拒否したためスパイと認定さ
れ、シベリアの収容所に送られた、と語りました。
(つづく)
(にしやま・くにお)
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□著者略歴
西山邦夫(にしやま・くにお)
1936年生まれ。防衛大学校卒(4期・空)。
情報関係略歴:航空幕僚監部調査2課収集1班長、航
空総隊司令部情報課長、陸幕調査別室主任調整官、
航空自衛隊幹部学校主任教官。著書に『肥大化する
中国軍(空軍部分を執筆)』(晃洋書房、2012年)、
『中国をめぐる安全保障(空軍部分を執筆)』(ミ
ネルバ書房、2007年)。研究論文に『中国空軍の戦
力構成とドクトリン』『中国空軍のSu-30MKKとイン
ド空軍のSu-30MKI』『韓国空軍の増強と近代化』
『中露合同軍事演習』『中国の主要航空兵器の装備
化実績と将来予測』『中国空軍の戦力とドクトリン』
『チベットにおける中国の軍事態勢整備』など多数。
PS
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