配信日時 2020/03/26 08:00

【我が国の歴史を振り返る ─日本史と世界史に“横串”を入れる─(78)】「大東亜戦争」の戦争戦略 宗像久男(元陸将)

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
合わせは以下よりお気軽にどうぞ
 
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WEB http://wos.cool.coocan.jp
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こんにちは、エンリケです。

「我が国の歴史を振り返る
 ―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は78回目です。

宗像さんと同じく、自分も陸軍に対する見方が、
完全に一変しました!

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大東亜戦争について持っていた
「重大な疑問」それも最大の疑問

「なぜわが軍は、本気でインド、インド洋方面に西
進しなかったんだ?」

が、今回の記事で解決したからです!


詳細はイマスグ記事をお読みください。


さっそくどうぞ

エンリケ



ご意見・ご感想はコチラから
 ↓
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(78)

 「大東亜戦争」の戦争戦略

宗像久男(元陸将)
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□はじめに

昭和20年8月14日、日本政府は、閣議で「ポツ
ダム宣言」受諾を決定するとともに、重要機密文書
の焼却を決定します。「ポツダム宣言」に「戦犯の
処罰」が記述されていたので、「戦犯にかかわるよ
うな文書を全部焼いてしまおう」との意思が働いた
といわれます。

この決定を受けて、陸軍省や参謀本部など陸軍の中
枢機関が所在した市ヶ谷台では数日にわたり大量の
文書が焼却されました。その結果、不幸にも「歴史
の真実」を語る貴重な資料の大半を失ってしまいま
す。

しかし、占領軍に押収された資料も少なくなかった
のでしょう。最近、米国スタンフォード大学フーヴ
ァー研究所の西鋭夫教授が、それら占領軍が押収し
た歴史資料などを発掘し、鋭い角度で「歴史の真実」
を解き明かしています。

時々、私も西教授の解説を勉強させていただいてい
ますが、それらによると、私などはまだまだ歴史の
真相の“上澄み”を漁っているだけなのかも知れな
い、との思いに駆られます。

読者の皆様にも、日本の命運を狂わした「大東亜戦
争」の真相にはまだまだ感知し得ない部分があるこ
と、そして、本メルマガは、これまで私が“知り得
た情報”に基づき、現時点でこれが“史実”だろう
と判断していることを要約していることをご理解い
ただきたいと願っております。

▼我が国の戦争指導組織―陸海軍の対立

「大東亜戦争」を振り返る時、我が国の失敗の要因
として必ず指摘されるのが「陸海軍の対立」です。
改めて触れておきましょう。

 まず、我が国と対比される米英の戦争指導組織で
すが、英国は、第1次世界大戦の苦い経験から、大戦
後の1918年、早くも「王立空軍」を独立させ、
1924年に国防会議付属機関として三軍参謀総長
会議を設置します。1940年にチャーチルが首相
になると、国防大臣を新たに設置して自ら兼務し、
シビリアンコントロールの体制を整備します。そし
て三軍参謀総長会議の下部組織として統合計画幕僚
部・統合情報委員会・統合行政計画幕僚委員会等を
設け、チャーチルは三軍参謀総長会議を活用して戦
争指導を行ないました。

米国は、英国との連合作戦を協議するために英国に
倣って統合幕僚会議ならびにその下部組織を整備し
て、ルーズベルト大統領が戦争指導に活用します。
さらに、真珠湾攻撃の後には、その教訓から太平洋
や欧州などの主要戦域の指揮権を統一した「統合部
隊」を設けます。

我が国の陸海軍が明治初期の生い立ちからして違っ
たことは何度も述べました。その結果、陸海軍がド
イツと英国の国防思想・作戦思想・政治との関係な
どすべてをそれぞれ別個に模倣することになり、相
互不信と対立を生み出す土壌が出来上がっていまし
た。

それでも明治18年に「国防会議」を設置し、皇族
を議長として陸海軍の将官を議員とする会議を立ち
上げますが、明治22年に創設された海軍参謀本部
が海軍省の隷下に入ったため、統合された参謀本部
は解消されてしまいます。

一方、「戦時大本営条例」が制定され、戦時の軍令
は“陸軍参謀本部の下で統合”されます。この態勢
で「日清戦争」を戦いましたが、戦争後、海軍側の
主張によって「戦時大本営条例」が改正され、“参
謀総長・軍令部総長が並列した大本営”で天皇を輔
弼(ほひつ)するシステムに改められます。日露関
係が風雲急な情勢下で、陸軍は海軍を協議に引き出
すための手段として改訂したといわれます。

この体制で「日露戦争」を戦い抜き、統合運用は戦
後の課題となったようですが、戦後、児玉源太郎が
急逝したため、この課題は果たされることなく時が
過ぎてしまいます。逆に、明治末期には「長派陸軍」
「薩派海軍」と言われたように、藩閥抗争も災いし
て、陸海軍の対立の根っこは、容易には抜き差しな
らぬ“深み”にはまっていきます。

我が国はまた、第1次世界大戦には限定的参加にと
どまったため、英国のように、欧州戦場で展開され
た戦争やその教訓を学ぶ機会がなく、考えや立場を
異にする陸海軍が激しい対立を繰り返しながら「支
那事変」から「日米戦争」を迎えることになります。

ようやく、昭和18年頃、窮迫する戦況を打開する
決め手として陸海軍合一論が中央統帥部などで議論
されますが、「時すでに遅し」でした(細部は後述
します)。

▼「大東亜戦争」という呼称

 1941(昭和16)年12月8日、日本軍はハ
ワイの真珠湾を攻撃するとともに、英領マレー半島
に上陸し、ここに「大東亜戦争」の火ぶたが切られ
ます。12月12日、東條内閣は、「支那事変」を
含めて「大東亜戦争とする」と閣議決定します。よ
って、「大東亜戦争」の開始は1937(昭和12)
年7月7日(盧溝橋事件勃発の日)ということにな
ります。

 その理念は、「欧米諸国によるアジアの植民地を
解放し、大東亜共栄圏を設立してアジアの自立を目
指す」ことであり、この理念を貫こうとしたこの名
称は、アジアの植民地の宗主国を中心に構成された
連合国にとって都合が悪かったため、GHQによっ
て使用禁止となり、「太平洋戦争」という呼称が代
わって用いられるようになります。

その後、マスコミでは「大東亜戦争」の呼称が意図
的に控えられていますが、逆に「大東亜戦争」の呼
称を使用すべきとの主張もあります。のちほど触れ
ますが、我が国が目指した戦争計画そのものからし
ても、「太平洋戦争」と呼称すべきものでなかった
ことがわかります。本メルマガにおいては、“閣議
決定した呼称を使うべき”と立場でこれまでも「大
東亜戦争」という呼称を使用してきましたし、今後
も使用するつもりです。

 ちなみに、本戦争に関する書籍は巷に溢れていま
すが、使われている呼称だけで「どちらの立場か」
がただちに判明できるという便利さがあります。そ
して一読するとすぐ納得します。

▼「陸軍省戦争経済研究班」(秋丸機関)の戦争研究

「大東亜戦争」に臨む我が国の戦争戦略・計画は、
確かに1941(昭和16)年11月15日の大本
営政府連絡会議で「対米英蘭蒋戦争終末促進に関す
る腹案」(以下、「腹案」)として決定されます。
当然ながら海軍も同意しました。

その内容は、「陸軍省戦争経済研究班」(以下、
「研究班」)が昭和14年秋以降、およそ2年間か
けて研究した成果を継承・編集したものでした。本
研究班は、これを率いたのが秋丸次郎中佐だったこ
とから「秋丸機関」と呼ばれています。

 研究班は、軍人のみならず、大学教授、企画院、
外務省・農林省・文部省などの少壮官僚に加え、民
間企業、業界団体、金融機関の精鋭など、総勢2百
名に及ぼうとする巨大な組織でした。中には、治安
維持法違反で検挙され保釈中の身であった東大助教
授(休職中)のマルクス経済学者・有沢広己のよう
な異色な人物も含まれていました。

 冒頭に述べましたように、大本営政府連絡会議に
おいて決定された「大東亜戦争」の戦争戦略は、そ
の存在自体も歴史の中で埋もれ、長い間完全にベー
ルに包まれていました(私個人は未確認ですが)。
なぜか防衛研究所戦史室が編纂した『戦史叢書』
(全102巻)にも一切触れられていないようです。

恥ずかしながら、元幹部自衛官の私でさえ、その概
要は、『日米開戦 陸軍の勝算―「秋丸機関」の最
終報告書』(*)(林千勝著:2015年初版発行)
で知ることになりました。興味のある方はご一読願
います。細部は省略せざるを得ませんが、戦後、語
られているイメージと全く違い、陸軍がいかに科学
的かつ合理的だったかが理解できます。

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特に、我が国やドイツ、それに米英の戦争遂行能力
(研究班は「経済抗戦力」と呼称)の分析はかなり
的確でした。例えば、ドイツについては、ドイツの
勝利を妄信していた大方の陸軍参謀達と違い、ドイ
ツの経済抗戦力は独ソ戦最中の昭和16年がピーク
と見積もり、生産力確保のためにはソ連占領が必要
なこと、しかも対ソ連戦が膠着状態になる可能性が
あること、それがドイツにとって大きなリスクにな
ることまで分析していました。

また、米英の英国の経済抗戦力や動員力、それに弱
点までもほぼ的確に見積り、大きなリスクを負いな
がらも、“これら弱点を突く方策はある”と極めて
科学的に見積もっています。また、米国による対日
原油全面禁輸がいかに我が国を“絶望の淵”に追い
込んだかもよくわかります。

個人的な印象を隠さずに言わせていただけば、私は
この書籍を通じて、ようやく旧陸軍の“あの戦争に
かけた乾坤一擲の戦略(本音)”に触れたような気
がして、以来、私の“陸軍観”は180度変わりま
した。それが本メルマガスタートのきっかけにもな
りました。

ちなみに、国家総力戦に関する基本的な調査研究と
各省庁や民間などから選抜された研究生に対する教
育と訓練を目的に設立された内閣総理大臣直轄の
「総力戦研究所」は、この「秋丸機関」とは別物で
す。

こちらは、『日本人はなぜ戦争をしたのか 昭和
16年夏の敗戦』(猪瀬直樹著)で詳細に紹介され
ておりますが、林千勝氏は「この演習では、総力戦
に対する深い洞察も、敵の弱点の研究・検討もなか
った。この最も大事な点を、猪瀬氏は致命的に見過
ごし、誤解したまま、短絡的な文脈に基づく著作を
世に出してしまった。世間を誤った方向に誘導した」
と指摘しています。2冊を比較すると、その違いは
一目瞭然です。

▼戦争戦略の概要

さて、我が国の戦争戦略(「腹案」)の内容に触れ
てみましょう。「腹案」は「方針」と「要領」にわ
かれます。その「方針」は、まず第1段階として
「速やかにアメリカ、イギリス、オランダの極東の
拠点を叩いて南方資源地帯を獲得し、自存自衛の体
制を確立する」として「大東亜共栄圏という広域経
済圏の獲得」を掲げています。

そして第2段階として「比較的脆弱な西正面と蒋介
石政権を屈服し、ドイツ、イタリアと連携してイギ
リスを封鎖・屈服する。アメリカについては、合作
相手のイギリスの屈服により戦争継続の意思を喪失
せしめる」としています。この内容は、明らかに
「秋丸機関」による研究成果の最終報告から導き出
されたものでした。

次にその「要領」です。第1段作戦は、長期自給自
足態勢の確立を掲げるとともに、アメリカ海軍主力
については、日本から積極攻勢に出るのではなく、
逆にこちらへ誘い込んで撃破する」という日本海軍
の伝統的な“守勢作戦思想”を掲げています。まさ
に「日露戦争」時の「日本海海戦」の再現です。

第2段階作戦の核心は、イギリスの屈服をはかるた
めに西向きの方策、つまり「西進」が記されていま
す。日本はまず、インドやオーストラリアに対して
攻略や通商破壊などの手段によって、イギリス本国
と遮断して離反を図ります。そしてビルマの独立を
促進し、インドの独立を刺激します。

さらに日本と呼応して、ドイツとイタリアが近東・
北アフリカ・スエズに侵攻して、西アジアに向かう
作戦を展開します。イギリスの封鎖・屈服のために
は、日本によるインド洋やインドでの作戦が極めて
重要とされました。

アメリカに対しては、この段階もあくまで“アメリ
カ海軍主力を極東近くに誘い込んで叩く”のであり、
日本が積極的に東進して積極攻勢に出ることは全く
意図していないことを繰り返し述べています。

 それ以外、蒋介石政権の屈服については、特にア
メリカ・イギリスの援助の遮断に力点が置かれ、ソ
連に対して、南方進出の関係から戦争を回避する方
針でした。

 以上が、我が国の「大東亜戦争」に臨む戦争戦略
でした。実際の戦争経緯は、当初の予定になかった
「真珠湾攻撃」や「ミッドウェー海戦」などが生起
したのに加え、ドイツとイタリアが早期に敗北して、
日本が描いた戦略環境は大幅に狂いますが、昭和1
6年当初の戦略としては、当時の状況からけっして
“無謀極まるものではなかった”ことがわかります。

 これまで何度も触れてきました武藤ら陸軍省と田
中ら参謀本部の考えもほぼ同様でした。つまり、
「対米英蘭戦は長期戦になる。よって、先制奇襲攻
撃によって戦略上優位な態勢を確立し、重要資源地
域及び主要交通路を確保して長期自給自足の体制を
整える」ことを目指していました。

唯一の差異は、田中らが依然として南方資源を確保
した段階で、対ソ武力行使を行なうことを意図して
いたのに比し、武藤らは、対ソ武力行使には否定的
でした。


(つづく)

(むなかた・ひさお)

※お知らせ
私は現在、ボランテイアですが、公益社団法人自衛
隊家族会の副会長の職にあります。今回紹介いたし
ます『自衛官が語る 海外活動の記録』は、自衛隊
家族会の機関紙「おやばと」に長い間連載してきた
「回想 自衛隊の海外活動」を書籍化したものです。

その経緯を少しご説明しましょう。陸海空自衛隊は、
創設以降冷戦最中の1990年頃までは、全国各地
で災害派遣や警備活動を実施しつつ、「専守防衛」
の防衛政策のもとで国土防衛に専念していました。

 憲法の解釈から「海外派兵」そのものが禁止され
ており、国民の誰しも自衛隊の海外活動は想像すら
しないことでした。当然ながら、自衛隊自身もその
ための諸準備を全く行なっていませんでした。

ところが、冷戦終焉に伴う国際社会の劇的な変化に
よって、我が国に対しても国際社会の安定化に向け
て実質的な貢献が求められるようになりました。

こうして、湾岸戦争後の1991(平成3)年、海
上自衛隊掃海部隊のペルシア湾派遣を皮切りに、自
衛隊にとって未知の分野の海外活動が始まりました。
しかも、中には国を挙げての応援態勢がないままで
の海外活動も求められ、派遣隊員や残された家族の
やるせない思いやくやしさは募るばかりでした。

それでも隊員たちは、不平不満など一切口にせず、
「日の丸」を背負った誇りと使命感を抱きつつ、厳
正な規律をもって今日まで一人の犠牲者を出すこと
なく、与えられた任務を確実にこなしてきました。
この間、実際に派遣された隊員たちのご苦労は想像
するにあまりあるのですが、寡黙な自衛官たちは本
音を語ろうとしませんでした。

かくいう私も、陸上幕僚監部防衛部長時代、「イラ
ク復興支援活動」の計画・運用担当部長でしたので、
決して公にはできない様々な経験をさせていただき
ました(墓場まで持っていくと決心しております)。

このような海外活動の実態について、隊員家族をは
じめ広く国民の皆様に知ってもらうことと自衛隊の
海外活動の記録と記憶を後世に伝え残したいという
願いから、「おやばと」紙上でシリーズ化し、各活
動に参加した指揮官や幕僚などに当時の苦労話、経
験、エピソードを寄せてもらいました。

連載は、2012年8月から2014年11月まで
約2年半続き、その後も行なわれている「南スーダ
ン共和国ミッション」や「海賊対処行動」などにつ
いてはそのつど、関係者に投稿をお願いしました。

このたび、シリーズ書籍化第1弾の『自衛官が語る 
災害派遣の記録』と同様、桜林美佐さんに監修をお
願いして、その第2弾として『自衛官が語る 海外
活動の記録』が出来上がりました。

本書には、世界各地で指揮官や幕僚などとして実際
の海外活動に従事した25人の自衛官たちの脚色も
誇張もない「生の声」が満載されております。

遠く母国を離れ、過酷な環境下で、ある時は身を挺
して、限られた人数で励まし合って厳しい任務を達
成した隊員たち、実際にはどんなにか辛く、心細く、
不安だったことでしょうか。

しかし、これらの手記を読む限り、そのようなこと
は微塵も感じられないばかりか、逆に派遣先の住民
への愛情や部下への思いやりなどの言葉で溢れてお
り、それぞれ厳しい環境で活動したことを知ってい
る私でさえ、改めて自衛隊の精強さや隊員たちの素
晴らしさを垣間見る思いにかられます。

また、桜林さんには、海外活動の進化した部分とか
依然として制約のある法的権限などについて、わか
りやすく解説し、かつ問題提起していただきました。

皆様にはぜひご一読いただき、まずはこれら手記の
行間にある、隊員たちの「心の叫び」を汲み取って
いただくとともに、自衛隊の海外活動の問題点・課
題などについても広くご理解いただきたいと願って
おります。また、前著『自衛官が語る 災害派遣の
記録』を未読の方は、この機会にこちらもぜひご一
読いただきますようお願い申し上げ、紹介と致しま
す。

『自衛官が語る 海外活動の記録─進化する国際貢献』
桜林美佐監修/自衛隊家族会編
  発行:並木書房(2019年12月25日)
  https://amzn.to/384Co4T







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このURLからお知らせください。

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【著者紹介】

宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学
校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロ
ラド大学航空宇宙工学修士課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕
僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、
第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て
2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』
などに投稿多数。


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