配信日時 2020/03/25 09:00

【自衛隊警務官(15)】陸軍憲兵から自衛隊警務官に(15)―日清戦争と憲兵― 荒木肇

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自衛隊警務官(15)
陸軍憲兵から自衛隊警務官に(15)

日清戦争と憲兵

荒木 肇

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□はじめに

 日清戦争は「初めて国民をつくった」といわれる
ほどの衝撃的な国難でした。大東亜戦後から(とき
に今でも)、「大陸進出への第一歩」とか、「侵略
の始まり」などと評価されてきましたが、よく検討
すると、そうした中国・朝鮮は善玉、日本が悪玉と
いう考え方は、事実を基に検討し直さねばなりませ
ん。

 陸軍は地域防衛型の「鎮台(ちんだい)」から、
機動力や兵站を重視した「師団」に改編されまし
た。鎮台とは読んで字のごとく、周辺地域を「しず
める」ためのものです。西南戦争(明治10年)以
後、士族などによる反政府暴動はほぼ終息しまし
た。その代わり、人々の心をとらえたのは、「自由
民権運動」でした。内戦による経済の混乱、不平等
条約による外国債務の負担、殖産興業の施策の鈍
り・・・庶民の暮らしを直撃したのです。

 明治10年代(1877~86年)は、自由民権
運動と、それにつづく憲法制定への要望とが「まず
国家建設」を目標とする政府との戦いでした。

 清国は清国で、一部の改革から大艦隊を建造し、
陸軍兵力を増やし、朝鮮への影響を強めてきまし
た。その頃、わが陸軍は長大な海岸線をもち、鉄道
建設もままならないといった状況でした。清国海軍
のドイツに発注した新式大型艦をもった「北洋水師
(威海衛を基地とした)」は黄海を支配するどころ
か、わが国沿岸の安全まで十分に脅威を与えていま
した。

 国内を戦場にしたくない。国民を守りたいと願っ
た陸軍が朝鮮半島に進出し、積極的防衛方針に出た、
これが「侵略」と簡単に片づけていいでしょうか。

▼山縣有朋軍司令官の呼びかけ

 日清戦争は「文明と野蛮の戦い」と福澤諭吉は言
い、新渡戸稲造は「義戦」であると声明した。開戦
の経緯はともかく、野戦軍司令官である山縣有朋大
将の部下将校への訓示を見てみよう。以下は『捕虜
の文明史』(吹浦忠正氏)からの引用である。

 山縣は『申告』といわれる文書の中で、「敵とす
べきもの」を規定した。いつものとおり、現代語訳
してみよう。

「我々が敵とするのは、ただ敵軍のみである。その
他の人民は、わが軍隊を妨害し、もしくは加害をし
ようとする者以外は敵視するものではない。たとえ
敵国の軍人であっても、降伏する者は殺してはなら
ない」

 ただし、こうしたことも山縣は言っている。「敵
国は昔からきわめて残忍の性質がある。戦闘にあっ
て誤って敵の手に落ち『生け捕り』になったら、必
ず残酷で死に勝る苦痛を与えられ、ついには野蛮で
むごたらしい行為によって、その命を奪われる」

 だから、決して生きて捕虜になるな、潔く一死を
遂げよ。そうして日本男児の気性を示し、日本男児
の名誉を全うすべきだ、と言葉は続いていった。吹
浦氏は、これをのちの昭和陸軍が出した『戦陣訓』
の「生きて虜囚の辱を受けず・・・」につながると
指摘されている。とはいえ、敵兵と住民と捕虜を区
別し、協力的な住民と捕虜は保護すべきだと指導し
たことは評価できる。

▼大山巌の「命令」

 第2軍軍司令官は大山巌(おおやま・いわお)で
ある。元薩摩藩士、砲兵の権威であり、西郷隆盛の
従弟として知られている。大山は「降人俘虜傷者の
ように、我に敵対しない者に対しては愛撫せよ」と
命じ、「敵国の一般住民については、我々の妨害を
しない限り、これに接する時には『仁愛』の心で接
するように」と説いた。また、略奪(りゃくだつ)
を厳禁し、服や食物、器具などについて緊急に必要
があるときは、相当する代価を支払って購入せよと
も命じている。

 わが軍は仁義をもって行動して、文明によって戦
うのだというのが大山の心だった。1886(明治
19)年にわが国が敵味方の区別なく、傷病者を救
護するといった「ジュネーブ条約(1864年)に
加盟したときのことである。陸軍大臣だった大山は、
解説書をつくり普及に心を尽くした。大山はヨーロ
ッパに出かけ、普仏戦争の現場も観察し、国際法へ
の関心が高く、日本陸軍を世界標準の軍隊にしたか
ったのである。

▼数字で見る日清戦争

 日清戦争と陸軍をおさらいしておこう。まず、開
戦直前の人口は、男性2091万人、女性2048
万人、合計で4139万人となる(概数である)。
1889(明治22)年に出された徴兵令では、徴
兵の対象となる壮丁(そうてい)は、検査の年の前
年12月1日から当年の11月30日までに満20
歳の誕生日がある者をいう。入営は12月1日とな
る。だから、戦後のドラマや映画で、みんな小学校
の同級生だったというのは明らかな間違いである。
学校の学齢の規定は、前年4月2日から当年4月1
日に生まれた者が同級生となる。

 さて、この壮丁が徴兵検査を受けた。合格すると、
常備兵役になった。満3年(海軍は4年)の現役と
満4年(海軍は3年)の予備役に服した。この常備
兵役7年を終えると、後備兵役に編入された。後備
兵役は5年間だった。この他に満17歳から満40
歳までの男子が編入されたのが国民兵役である。

 徴兵検査の結果、甲種合格者と乙種合格者が順に
抽籤(ちゅうせん)を引き、落選した者は1年間の
予備徴員(よびちょういん)となった。丙種合格者
と予備徴員を終えた者は、国民兵役に服した。予備
徴員の制度は、のちに補充兵役となり服役年数も増
えた。

 日清戦争に動員(戦時編制の軍隊に入ること)さ
れたのは、現役兵と予備役、後備役の者だった。だ
から兵卒は満20歳から32歳までである。当時の
兵役人口はざっと424万人だった。全国人口のお
よそ10%にあたる。

 大江志乃夫氏の『東アジア史としての日清戦争』
(1998年・立風書房)によれば、1893(明
治26)年の壮丁数は43万2340人、うち20
歳以上は4万7804人、20歳の壮丁が38万4
536人だった。20歳以上は前年検査で翌年の再
検査に回された者、中等学校以上に在学中などで徴
集猶予を得ていた者である。

 壮丁のうち入営したのは志願兵780人、籤にあ
たった者が1万9845人だった。合計2万625
人。予備徴員は10万675人になった。海軍は現
役から459人、予備徴員が426人でしかなかっ
た。海軍は、そのほとんどを志願兵でまかなってい
たからだ。

▼予備役・後備役がいなかった憲兵

 現役軍人の数は、将官とその相当官(軍医、経理
などの各部相当官)が63人、佐官と相当官が62
6人、尉官と前同が3780人、准士官49人、下
士1万2987人、兵卒25万1847人、諸生徒
2181人の合計27万1623人だった。

 予備役と後備役は、将官同相当官の予備23人、
後備23人、佐官同予備104人、後備同161人、
尉官同は予備460人、後備同760人。下士は予
備4054人、後備6780人だった。予備役の兵
卒は歩兵約6万、騎兵約1300、砲兵約6300
人、工兵約2700人、輜重兵約1400人である。
その他約1万8000人で、合計は約9万人だっ
た。その他というのは輜重輸卒や衛生卒・同助卒、
砲兵輸卒・同助卒などの雑卒(ざっそつ)といわれ
た人たちである。後備役は約10万4000人だっ
た。だからフルに動員したら、当時の陸軍は総兵力
46万人あまりとなるはずだ。ただし、実際は予備
役・後備役の召集は、彼らの体調の問題や、社会で
の彼らの役割などから「得員率」は不明だが、おそ
らく40万人あまりになったに違いない。

 現に大江志乃夫氏の推計によれば、内地約6万9
000人、外地は約17万8000人が服務したと
いわれている。

▼憲兵隊の人員

 さて、軍令憲兵といわれた野戦軍付きの憲兵はど
れだけいたか。憲兵の任務は、たいへん範囲が広か
ったが、主に占領地の治安維持、捕虜の護送・監
視、進撃路にあたる地域の偵察、司令部の警衛など
である。さらに、進撃した軍隊の後方を進み、落伍
兵や遅留兵の収容、救護などだった。

 日清戦争には689人の憲兵が野戦に出た。当然、
不足し、戦時補助憲兵という制度を発足させた。短
期講習である。2カ月の教育で、憲兵は次々と出征
した。また、部隊ごとに、その単位のまま補助憲兵
に編入するという施策もされた。

 憲兵の業務は広い範囲に及ぶが、駐留軍中では宿
営地の風紀、軍紀の維持、特に暴行や略奪の防止、
敵のスパイの摘発、倉庫や物資集積所の警戒が重要
視された。さらに、当時の戦争では、戦死よりも病
死が多かった。衛生環境を整えたり、清潔法といわ
れた法規の順守をさせるなどが重要な任務となった。

 次回は捕虜の問題についてさらに調べてみよう。




(以下次号)


(あらき・はじめ)


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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同
大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露
戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍
教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行な
う。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』(並木書
房)がある。
 
 
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