配信日時 2020/02/27 08:00

【我が国の歴史を振り返る ─日本史と世界史に“横串”を入れる─(76)】日米戦争への道程(その7)「ついに開戦決定」 宗像久男(元陸将)

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
合わせは以下よりお気軽にどうぞ
 
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WEB http://wos.cool.coocan.jp
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こんにちは、エンリケです。

「我が国の歴史を振り返る
 ―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は76回目です。

大東亜戦争開戦に至る歴史の流れが
この連載のおかげで、すっきりとつかめた気がします。

なお、著者多忙のため、
本連載はしばらくの間お休みをいただきます。
よろしくお願いします。

では今日の記事を
さっそくどうぞ


エンリケ



ご意見・ご感想はコチラから
 ↓
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(76)

 日米戦争への道程(その7)
 「ついに開戦決定」

宗像久男(元陸将)
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▼つぶされた「暫定協定案」

いきなり本論に入ります。前回の続きです。対米交
渉の「甲案」と「乙案」は、1941(昭和16)
年11月4日、野村大使に打電されます。野村は、
11月7日にまず甲案をアメリカ側に提示しますが、
拒否されます。20日には乙案が提示されますが、
乙案には、フィリピンなどの戦力増強のため、対日
戦の先延ばしの時間的猶予を得ることを望むアメリ
カ側も関心を示したといわれます。

後でわかるのですが、この時点でアメリカ側は日本
の秘密暗号電報を解明していた(有名な「マジック
情報」です)といわれ、日本の“手の内”を知って
いたのでした。

ハル長官は、“石油禁輸などの経済制裁を3か月間
解除し、さらに延長条項を設ける”「暫定協定案」
を提案し、「英蘭中などの同意を得たうえで提示す
る」と述べました。

この「暫定協定案」に対して、オランダは賛成、中
国は強硬に反対します。特に蒋介石は「もしアメリ
カが日本となんらかの妥協をすれば、それは中国を
犠牲にすることになる」と危惧していたのです。チ
ャーチルは、「これ以上の戦争は欲しないが、中国
に対して少し冷たいのではないか」という内容の電
文を送りましたが、「暫定協定案」の手交そのもの
には反対していなかったといわれます(資料によっ
ては、「反対した」とするものもあります)。

11月25日、ホワイトハウスにハル長官の他、陸
海軍長官、陸軍参謀総長、海軍作戦部長が集められ、
ハル長官が「暫定協定案」を説明しますが、「対日
関係の議論の中で主要なことは“我々自身が過大な
危険にさらされないで、最初の1弾を撃たせるよう
な立場に、日本をいかに誘導していくか”であった」
とスチムソン陸軍長官は日記に残しています。この
時点では、「暫定協定案」は日本側に提示される予
定だったのです。

ところが、翌26日朝、「暫定協定案」は放棄され
ます。その原因として2つの説があります。まず、
「日本軍の南方移動の情報」が陸軍情報部からスチ
ムソン陸軍長官にあげられ、“通常の行動”として
いたにもかかわらず、それが長官からルーズベルト
大統領になぜか誇張して伝わり、大統領が“烈火の
ごとく立腹”して放棄しという説と、ハルが(細部
の理由は不明ですが)一夜にして放棄を決断し、ス
チムソン陸軍長官に説明し、その裏付けとして上記
の情報が大統領に伝えられたとの説です。どちらが
正しいか、調べ得る限りでは不明でした。

▼「ハル・ノート」の提示

 実は、アメリカは“最初から1ミリも日本に譲歩
する気はなかった”との説も有力で、当然ながら2
5日の時点では「ハル・ノート」はすでに出来上が
っており、11月26日、ハル長官から野村・来栖
大使に対して手交されます。

その概要は、(1)中国と仏印より全陸海軍及び警
察力の撤退、(2)重慶政府(蒋介石政府)以外の
いかなる政府の不支持、(3)日独伊三国同盟の実質
的破棄を求めるなどの10項目からなる過酷なもの
でした。

この「ハル・ノート」という言葉は正式な名称では
なく、正しくは「合衆国及び日本間協定の基礎概略」
といい、正式なアメリカ政府の提案ではなく、ハル
国務長官の“覚書”ともいうべき「ノート」でした。
後世の研究者達は「1941年11月26日のアメ
リカ提案」と呼称し、東京裁判あたりから「ハル・
ノート」と呼称されるようになります。

その東京裁判において、唯一「日本無罪論」の論陣
を張った有名なパール判事は、「ハル・ノート」を
「同じ通牒を受けた場合、モナコ公国、ルクセンン
ブルク公国のような国であってもアメリカに対して
武器を取って立ち上がったであろう」として、「ア
メリカ政府は日本が受託するとは考えていなかった。
この通牒は最後通牒であり、宣戦布告にも等しいも
のである」と論破しました。

当然ながら、戦後になってアメリカ側が「最後通牒
ども宣戦布告でもなかった」と抗弁していますが、
パール判事は「アメリカ政府は、手交した翌日、日
本側の回答を待つことなく、戦争の警告を諸指揮官
に発した」として、この時点、つまり、「11月2
7日から太平洋戦争が始まった」ことを立証してい
ます(細部はのちほど触れることにしましょう)。

▼日米開戦決定

「ハル・ノート」を知った東條内閣は、その内容に
愕然とし、東郷外相も激しい失望を感じます。両者
とも「もはや交渉の余地なく、開戦を決意するしか
ない」と判断しますが、田中作戦部長だけは、「ハ
ル・ノート」を“好機到来”として、日本にとって
国論を一致して開戦するため“天祐”だとみたよう
です。

11月29日、戦争回避の思いを捨てきれない天皇
は、宮中に首相経験者を集めて懇談形式で意見を聞
きます。重臣の多くは避戦を示唆しましたが、「ハ
ル・ノート」を突き付けられた以上、「開戦あるの
み」とする政府と統帥部の決定を覆すことはできま
せんでした。

こうして、12月1日の御前会議において、「11
月5日決定の『帝国国策遂行要領』に基づく対米交
渉は遂に成立するに至らず、帝国は米英蘭に対し開
戦す」として対英米蘭開戦が正式に決定されます。
昭和天皇は一言も発言されませんでした。

会議の席で、「『ハル・ノート』の中国(英語表記
はCHINA、日本は「支那」と呼称)に満州が含
まれているのかどうか」について、またしても原枢
密院議長から東郷外相に問いかけがあります。外相
は「これまでは含まれていなかったが、重慶政府を
唯一の政府としていることからすると、前言を否定
しているかもしれない」と意味不明なことを答えま
す。

「満州国の承認」あるいは「満州国に所在する関東
軍の撤去は含まれない」ことが担保できれば、まだ
交渉の余地があっただけに、これほど重要な問題に
米国側に質問した形跡がなく、日本が勝手に解釈し
て開戦に踏み切ったというのは驚くばかりです。

戦後、元大本営参謀の瀬島龍三氏は、その著『大東
亜戦争の実相』の中で、「ハル・ノートは対日強硬
派のモーゲンソー財務長官の特別補佐官ハリー・デ
キスター・ホワイトによって起草されました。その
原案では「支那(満州を含む)となっております。
発出にあたりその括弧内が削除されたのは、満州を
含まない意向とも取れますし、含まれるのは自明の
理であるから削除されたともとれるものであります」
と説明していますので、これが当時の陸軍の認識だ
ったと考えます。

「ハル・ノート」に込められたミステリーを解明す
るのは私の知見を超えますので専門家にまかせたい
と考えますが、概要のみ少し補足しておきましょう。

まず確かに、不成立に終わった「日米諒解案」の時
点では確かに「満州国の承認」は盛られていました
が、それが最終的に「ハル・ノート」のような表現
になったのかは不思議です。実はここにこそ「何と
しても日米和平案をつぶし、日米開戦に追い込め!」
とする“ソ連の意図”が働いたというのです。

本メルマガの第64話で紹介しましたように、冷戦
終焉後の1995年、アメリカ国家安全保安局が
「ヴェノナ文書」の公開に踏み切り、これによっ
て、第2次世界大戦前後、アメリカ国内におけるソ
連の工作員達の活動の詳細が明らかになり、それま
での近現代史の歴史観を根底から揺るがす事態とな
りました。

瀬島氏がその事実を知っていたかどうかは不明です
が、前述の財務長官の特別補佐官ハリー・ホワイト
は、「ヴェノナ文書」でソ連情報部の協力者であり、
ホワイトが工作した作戦は、その名に由来して「雪
(SNOW)作戦」と命名されていたことまで明ら
かになっています。

1997年、「ヴェノナ文書」にも名前が出てくる
元ソ連軍NKDV(のちのKGB)のビタリー・グ
リゴリエッチ・パブロフは、NHKの特別番組の取
材に応じ、「ソ連が『ハル・ノート』の母体となっ
たホワイト文書の作成に関与していた」ことを明ら
かにしております(細部は『ハル・ノートを書いた
男』(須藤眞志著)参照)。

2017年には、「ヴェノナ文書」に基づく「雪作
戦」の細部やゾルゲや尾崎秀実などによる日本国内
の「南進論」への誘導などについても明確になって
います(『日本は誰と戦ったのか』江崎道朗著)。

これらによると、ホワイトハウスのラフリン・カリ
ー大統領補佐官や蒋介石顧問のオーウイン・ラティ
モアまでソ連の工作員だったことが明らかになって
おり、「暫定協定案」放棄につながる公電や強硬な
「ハル・ノート」の作成にまで関与していることが
明白になっています。

それ以外にも、ルーズベルト側近として「ヤルタ会
談」を取り仕切ったアルジャー・ヒスもソ連の工作
員だったことが判明しています。のちほど触れます
が、このように、ホワイトハウスは当時、ソ連の工
作員や協力者に乗っ取られていたのでした。興味の
ある方はぜひこれらの書籍を参照にしていただきた
いと思います。

これら米国の内部事情について当時の日本が預かり
知らぬことではありましたが、日本側に、開戦の責
任の一端を「ハル・ノート」に求めようとする傾向
から、「満州を含む全中国からの撤兵」という表現
を使っているとの指摘があることも紹介しておきま
す。

次いでながら、第73話で、日本が日米戦争を決意
した4日後、つまり真珠湾攻撃の3日前の12月5
日、ヒトラーがモスクワまであと30キロというと
ころまで近づきながら、攻撃を中止して翌日から敗
走、独ソ戦の“潮目”が変わったことを紹介しまし
た。

12月1日の御前会議以降であっても、欧州情勢に
ついて継続的に議論し、考慮すべきだったと考えま
すが、あれほど欧州情勢に振り回された政府・陸海
軍に「ドイツの攻撃中止」の情報が入っていなかっ
たのか、「この時点の欧州情勢について議論した」
とする資料を見つけることはできませんでした。

他方、「ヴェノナ文書」には、(開戦に反対してい
た)マーシャル陸軍参謀総長は「もし日本が12月
7日に真珠湾攻撃をせず、翌年1月1日までこの協
定が維持されていたとしたら、その頃は独ソ戦の反
攻が始まっていたので、日本は対米開戦に踏み切ら
なかった可能性がある」との発言も記されていると
のことです。

米国側にも当時、日米衝突回避のために日米和平の
実現に向けてぎりぎりまで模索していた人たちもい
たことは事実だったようで、「我が国がこの時点で、
冷静に、立ち止まって情勢判断をしておれば」と何
とも悔やまれます。

▼米国側からみた「日米戦争への道程」

「日米戦争への道程」を振り返る時、だれもが「歴
史のif」が頭をよぎると考えます。(1)「日米諒
解案」を松岡外相が一蹴しなかったら、(2)近衛
首相とルーズベルト大統領の首脳会談が実現してい
たら、(3)アメリカの「暫定協定案」が日本に示さ
れていたら、(4)「ハル・ノート」に日本がもう少
し受け入れ可能な条件を提示し、日本側が冷静に受
け止めていたら・・・などです。

 これらの背景となった、中国の撤兵問題、三国同
盟問題、南部仏印進駐と対日石油全面禁輸などの日
米の根本的な利害の対立点はあったにせよ、上記の
「if」中で、(1)は明らかに日本側の問題である
ことは明白ですが、前述の「ヴェノナ文書」により
暴露された工作員の活動を含め、(2)(3)(4)に
ついては明らかに米国側にも“そうはさせなかった
要因”があることは否定できないと考えます。

 本メルマガの創刊準備号で、「侵略したのはアメ
リカであり、アメリカに日本を裁く資格はない」と
米国を真っ向から批判して、長い間、発刊禁止にな
っていた『アメリカの鏡:日本』(ヘレン・ミアー
ズ著)を紹介しました。

かように、長い間、米国においては、ルーズベルト
大統領を批判するのは「歴史修正主義」とのレッテ
ルを張られ、タブー視されて来ました。しかし、戦
後の時間の経過とともに、米国の史実を暴く書籍や
発言が次々に明らかになってきました。

上記の「ヴェノナ文書」以外に、米国の国防政策専
門家ジェフリー・レコード氏は「ルーズベルト大統
領が日本を『戦争か、米国への隷属か』の二者択一
へと追い詰めた」として米国の外交政策の過失を暴
くレポートを2009年に、「米国陸軍戦略研究レ
ポート」に発表しています。

その中で、レコード氏は、「日本がアメリカとの戦
いを決意した動機は、1つは日本の“誇り”の問題
であり、もう1つはアメリカによってもたらされた
“経済の破綻”であった」として、日本の非合理的
な決断を強要した「米国の外交が大きな間違いを犯
した罪から逃れることはできない」と結論づけてい
ます。

2011年には、フーバー元大統領の回想録『裏切
られた自由』と題した大著がフーバー研究所によっ
て刊行され、世界中に話題になりました。その中で、
フーバー氏は、「狂人の欲望が日米戦争を起こした」
としてルーズベルト大統領の罪状を暴きます。

フーバーはまた、ソ連の脅威について警鐘を鳴らし
続けるなど、ルーズベルト大統領の政策に警告し続
け、親しかったトルーマン大統領にも早期講和など
を進言しますが、無視され続けます。しかし、大戦
後の国際社会は、フーバーが懸念したとおりになっ
ていると考えます。米国内にもこのような慧眼の持
主がいたのでした。

国内でもフーバー回顧録の解説を試みた『日米戦争
を起こしたのは誰か』(加瀬英明、茂木弘道氏ら共
著)、『太平洋戦争の大嘘』(藤井厳喜著)、『日
米戦争を策謀したのは誰だ!』(林千勝著)などの
他、『戦争犯罪国はアメリカだった』(英国人ジャ
ーナリスト・ヘンリー・S・ストークス著)などは
米国側の要因を研究する参考になると考えます。ス
トークス氏は英国人記者ですが、長く日本に滞在し
て、「日本を戦争犯罪国家とした連合国の戦勝史観
は間違いだった」との論陣でもその先頭に立って活
動されています。

これら書籍の視点とか内容については、引き続き引
用する予定にしています。興味のある方はこれらの
書籍をぜひご一読下さい。しばし充電期間を頂いた
のち、いよいよ「大東亜戦争」を振り返ってみまし
ょう。



(以下次号)


(むなかた・ひさお)

※お知らせ
私は現在、ボランテイアですが、公益社団法人自衛
隊家族会の副会長の職にあります。今回紹介いたし
ます『自衛官が語る 海外活動の記録』は、自衛隊
家族会の機関紙「おやばと」に長い間連載してきた
「回想 自衛隊の海外活動」を書籍化したものです。

その経緯を少しご説明しましょう。陸海空自衛隊は、
創設以降冷戦最中の1990年頃までは、全国各地
で災害派遣や警備活動を実施しつつ、「専守防衛」
の防衛政策のもとで国土防衛に専念していました。

 憲法の解釈から「海外派兵」そのものが禁止され
ており、国民の誰しも自衛隊の海外活動は想像すら
しないことでした。当然ながら、自衛隊自身もその
ための諸準備を全く行なっていませんでした。

ところが、冷戦終焉に伴う国際社会の劇的な変化に
よって、我が国に対しても国際社会の安定化に向け
て実質的な貢献が求められるようになりました。

こうして、湾岸戦争後の1991(平成3)年、海
上自衛隊掃海部隊のペルシア湾派遣を皮切りに、自
衛隊にとって未知の分野の海外活動が始まりました。
しかも、中には国を挙げての応援態勢がないままで
の海外活動も求められ、派遣隊員や残された家族の
やるせない思いやくやしさは募るばかりでした。

それでも隊員たちは、不平不満など一切口にせず、
「日の丸」を背負った誇りと使命感を抱きつつ、厳
正な規律をもって今日まで一人の犠牲者を出すこと
なく、与えられた任務を確実にこなしてきました。
この間、実際に派遣された隊員たちのご苦労は想像
するにあまりあるのですが、寡黙な自衛官たちは本
音を語ろうとしませんでした。

かくいう私も、陸上幕僚監部防衛部長時代、「イラ
ク復興支援活動」の計画・運用担当部長でしたので、
決して公にはできない様々な経験をさせていただき
ました(墓場まで持っていくと決心しております)。

このような海外活動の実態について、隊員家族をは
じめ広く国民の皆様に知ってもらうことと自衛隊の
海外活動の記録と記憶を後世に伝え残したいという
願いから、「おやばと」紙上でシリーズ化し、各活
動に参加した指揮官や幕僚などに当時の苦労話、経
験、エピソードを寄せてもらいました。

連載は、2012年8月から2014年11月まで
約2年半続き、その後も行なわれている「南スーダ
ン共和国ミッション」や「海賊対処行動」などにつ
いてはそのつど、関係者に投稿をお願いしました。

このたび、シリーズ書籍化第1弾の『自衛官が語る 
災害派遣の記録』と同様、桜林美佐さんに監修をお
願いして、その第2弾として『自衛官が語る 海外
活動の記録』が出来上がりました。

本書には、世界各地で指揮官や幕僚などとして実際
の海外活動に従事した25人の自衛官たちの脚色も
誇張もない「生の声」が満載されております。

遠く母国を離れ、過酷な環境下で、ある時は身を挺
して、限られた人数で励まし合って厳しい任務を達
成した隊員たち、実際にはどんなにか辛く、心細く、
不安だったことでしょうか。

しかし、これらの手記を読む限り、そのようなこと
は微塵も感じられないばかりか、逆に派遣先の住民
への愛情や部下への思いやりなどの言葉で溢れてお
り、それぞれ厳しい環境で活動したことを知ってい
る私でさえ、改めて自衛隊の精強さや隊員たちの素
晴らしさを垣間見る思いにかられます。

また、桜林さんには、海外活動の進化した部分とか
依然として制約のある法的権限などについて、わか
りやすく解説し、かつ問題提起していただきました。

皆様にはぜひご一読いただき、まずはこれら手記の
行間にある、隊員たちの「心の叫び」を汲み取って
いただくとともに、自衛隊の海外活動の問題点・課
題などについても広くご理解いただきたいと願って
おります。また、前著『自衛官が語る 災害派遣の
記録』を未読の方は、この機会にこちらもぜひご一
読いただきますようお願い申し上げ、紹介と致しま
す。

『自衛官が語る 海外活動の記録─進化する国際貢献』
桜林美佐監修/自衛隊家族会編
  発行:並木書房(2019年12月25日)
  https://amzn.to/384Co4T







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【著者紹介】

宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学
校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロ
ラド大学航空宇宙工学修士課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕
僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、
第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て
2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』
などに投稿多数。


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