配信日時 2020/02/13 08:00

【我が国の歴史を振り返る ─日本史と世界史に“横串”を入れる─(74)】日米戦争への道程(その5) 宗像久男(元陸将)

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
合わせは以下よりお気軽にどうぞ
 
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WEB http://wos.cool.coocan.jp
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こんにちは、エンリケです。

「我が国の歴史を振り返る
 ―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は74回目です。

今回の日米開戦前夜の話。
実に考えさせられ、思うところ大きいものでした。

さっそくどうぞ


エンリケ


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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(74)

 日米戦争への道程(その5)

宗像久男(元陸将)
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□はじめに

久しぶりに読者反響がありました。しかも「史実を
世界に発信する」ためにご活躍されている高名なM
先生からいただきました。専門家のM先生から素人
の私などに貴重なご意見を賜り、大変恐縮しており
ます。身の引き締まる思いで拝読させていただきま
した。

ご意見は、第62話(昨年11月7日発信)の「ト
ラウトマン和平工作」について、メルマガの「蒋介
石もこの案を支持したのに、杉山陸相が陸軍内の強
硬派の突き上げをうけて一夜にして約束を反故にし
た」とは何を意味するのか、というものでした。

私の視点は、「せっかくの『トラウトマン和平工作』
がなぜ失敗し、日中の和解につながらなかったのか」
にありました。上記の表現そのものは、『百年の遺
産』(岡崎久彦著)219ページから引用していま
すが、実際に関連書籍を調べてみて、昭和12年1
0月頃から13年1月頃まで数次にわたり実施され
た交渉経緯の概要を次のように理解しました(少し
長くなりますが)。

上海の戦闘が困難を極めた昭和12年10月、近衛
内閣は、首相、外相、陸相、海相の4相会議で一定
の講和条件を定め、戦争の早期解決を図ることを申
し合わせます。その条件を要約すると、(1)華北・
上海における非武装地帯の設定、(2)満州国承認、
(3)日中防共協定、華北での鉄道・鉱業その他の
日中合弁事業の承認などでした。

これに基づく日中間の和平斡旋をドイツに委託し、
それを受けてトラウトマン駐華大使が直接、蒋介石
に伝えます。蒋介石は、当初、ブリュッセルで行な
われた9か国条約会議の結果に期待していたのです
が、会議は対日制裁を回避し、無期延期になります。
これらから、トラウトマンは、領土・主権の保全を
前提に日本側の和平案を話し合いの基礎として受け
入れることを蒋介石に示唆します。

12月初旬、トラウトマンがこの条件で交渉してい
いかと日本側に再確認し、外相、陸相、海相会議で
了承しますが、翌朝、杉山陸相がこの仲介を断り、
近衛内閣は、和平条件をより厳しいものに変更する
ことを閣議決定します。

当時の陸軍首脳部は、参謀本部が多田駿参謀次長
(参謀総長は閑院宮親王でした)や石原莞爾作戦部
長(途中で左遷)などが慎重派だったのに対して、
陸軍省のメンバーは、杉山元陸相、梅津美治郎陸軍
次官、町尻量基軍務局長、田中新一軍事課長で構成
されており、実務の中核は、対中強硬派の田中課長
でした。また、米内光政海相も強硬派、近衛首相や
広田外相も強硬派でした。

一般には、参謀本部が強硬派で陸軍省は穏健派、陸
軍が強硬派で海軍は穏健派、あるいは統帥部は強硬
派で政府・外務省は穏健派のイメージがありますが、
この頃は全く逆で、参謀本部が最も慎重派だったと
理解しています。

これらの事実をとらえ、岡崎久彦氏は、近衛、広田、
杉山を「大日本帝国を滅ぼした責任者はこの3人」
として厳しい評価をしていますが、私も全く同意で
す。

なお、上記トラウトマン工作関連については、『百
年の遺産』の他、『昭和陸軍の軌跡』(川田稔著)、
『多田駿伝』(岩井秀一郎著)『地ひらく』(福田
和也著)、『決定版日中戦争』(波多野澄雄ら共著)、
『日中戦争は侵略ではなかった』(黄文雄著)、
『真実の中国史』(宮脇淳子著)、『シナ大陸の真
相』(K・カール・カワカミ著)などを参考にしま
したが、出典によっては、確かに「日本から提起さ
れていたトラウトマン和平工作を通して当面和平を
模索することを検討したが、最終的に蒋介石は幕僚
の反対にもかかわらず南京を死守することを決定・・・」
(『決定版日中戦争』)のような微妙な表現で解説
しているものもあります。

南京陥落後のトラウトマン修正案については、M先
生のご指摘の通りと思いますが、それまでに至る過
程においては、「戦争拡大か交渉か、日中双方とも
迷い、葛藤の中で決断できないまま戦域が拡大して
いった」というのが史実であろうと理解しました。

なお私は、日本史と世界史に“横串”を入れて、歴
史を振り返ることを信条にしていますが、どうして
も日本史の研究が中心となって中国側の研究が不十
分なことは否定できません。しかし、双方の史実を
探索した自分なりの結論としましては、戦場が支那
大陸だったために声高に主張できない側面があるに
しても、M先生や上記の先生方同様、「日中戦争は、
日本の一方的な侵略ではなかった」、つまり中国側
にもかなりの責任(原因)があったと考えているこ
とを付け加えさせていただきます。

現在、日米戦争への道程を進行中ですが、いずれ日
中戦争についてもその視点で総括しようと考えてお
ります。

▼松岡更迭と対ソ武力行使断念

さて、前回に続く日米交渉の経緯ですが、米国から
修正案が届いたのは独ソ戦勃発の前日、昭和16年
6月21日でした。そこには、「日独伊三国同盟」
を従来以上に無力化することを強調する内容に加え、
松岡更迭を促す口述書も添付されていました。

近衛首相は、陸海軍ともに日米交渉の継続を望んで
いることから、独断で「口述書拒否」の電報を発出
した松岡を排除するため、閣内不一致の理由で総辞
職を奏上し、7月18日、新たに豊田貞次郎元海軍
次官を外相に迎えて第3次近衛内閣を発足させます。
これにより、ようやく松岡の政治生命が絶たれたの
でした。

再三申し上げますが、松岡外相は歴史上、評価に値
しない人物だったことに異論の余地はないと考えま
す。そして最近の言葉でいう「任命責任」を考えま
すと、近衛の松岡起用に至る“ふし穴”を含め、こ
のような二人が日本の運命を大きく狂わしたことは
何とも残念至極でした。その意味では、終始強硬論
者だった田中新一を軍事課長から作戦部長に任命し
た陸軍首脳部にも同様の責任があるのは明白です
(戦後、その田中がいずれの戦犯に問われないのも
不思議です。いずれ取り上げましょう)。

さて、田中ら参謀本部は、この後も北方武力行使に
こだわり、在満部隊を総勢85万人まで大動員しま
すが、独ソ戦の厳しさにかかわらず、日本の参戦を
強く警戒していたソ連は、極東ソ連軍の兵力を田中
らが期待するほど削減しませんでした。こうして、
8月9日、ようやく参謀本部は年内の対ソ武力行使
を断念します。

▼南部仏印進駐と米国の対日石油全面禁輸

一方、南方武力行使については、武藤ら軍務局は、
米英と戦争にならない範囲で南進し、“南部仏印を
進駐の限度”と考えていたようで、7月28日、南
部仏印進駐を発動します。しかし、実際には日仏間
の協定が進駐以前に成立し、武力行使を伴わない平
和進駐となります。それにもかかわらず、アメリカ
は、対日石油全面禁輸措置を発動します。

進駐時点では、陸海軍はアメリカのこの措置を全く
予期していなかったといわれますが、野村大使から
「何かあれば、全面禁輸の断行は躊躇しないだろう」
との情報が入っていたようで、武藤ら軍務局は一連
の経済圧迫を予期していたようです。

また、南進の拡大が対米英軍事衝突を意味すること
も知っていたにもかかわらず、軍務局が南部仏印進
駐の実施を容認した背景には、「参謀本部がしゃに
むにソ連に飛び掛かりそうなのでそれを防ぐのが狙
いだった」(武藤の回顧録より)とする参謀本部と
陸軍省の情勢判断の差異が影響していました。

陸軍省は「北は希望、南は必然、北をやれば南に必
ず火がつく」、つまり、「大東亜共栄圏の建設のた
め、資源を求めての南方進出は“必然”だが、北方
武力行使によるソ連の排除は“実現できれば望まし
い”」ぐらいに考えていたようです。

他方、田中ら参謀本部は、対ソ戦遂行のための資源
確保のためにも南方作戦の重要性を認識していまし
た。田中らは「もし米英が南部仏印に先手を打って
確保すれば国防計画は南から崩れていく。しかし、
米英はまだ本格的準備ができていない。よって、
“自存自衛”のために北方武力行使を中止して南方
作戦を実行しよう」と考えていたのです。

アメリカ国内においても、日本の南部仏印進出への
対応については意見が分かれます。対日強硬派が
「対日圧力をかければ日本が最終的に譲歩する」と
判断していたのに対し、グルー駐米大使ら知日派は
「日本を追い詰めると開戦に踏み切る可能性がある」
と警告していました。

これに対して、ルーズベルトが対日石油全面禁輸に
踏み切った判断は、「独ソ戦においてソ連が極めて
危険な状況にあり、仮にソ連が敗北すれば、ドイツ
は本格的なイギリス侵攻に向かうだろう。その結果、
イギリスに本格的な危機が訪れれば、アメリカはヨ
ーロッパの足掛かりを失う」との危機意識を持ち、
日本の対ソ戦開戦を阻止するために、「全面禁輸」
という最大限の強硬措置に踏み切ったのでした。

一般には、アメリカの対日石油全面禁輸は、日本の
さらなる南方進出を抑制するための判断だったとさ
れますが、それ以上に「北方での本格的な対ソ攻撃
を阻止」、その延長で「イギリスの崩壊の絶対阻止」
があったのでした。つまり、アメリカの対日石油全
面禁輸とその後の対日戦決意は「イギリスの存続の
ために行なわれた」と結論付けることができますが、
これらは今だから言えるのであって当時、日本がこ
こまで深読みしていた気配はなかったようです。

▼日米交渉継続か開戦決定か

こうして、我が国政府と陸海軍にとって、「対米対
応」が第一義的な外交問題として浮上し、対ソ戦を
優先的に考えることができなくなります。

イギリスやオランダもアメリカに追随し(いわゆる
「ABCD包囲網」です)、石油をはじめ軍需物資
輸入の道はほぼ閉ざされ、近衛の耳にも開戦の足音
がはっきりと聞こえ始めたのでした。

8月4日、近衛は、中国からの撤兵も辞さない覚悟
で、ハワイでルーズベルト大統領と首脳会談を決意
し、陸海軍の頭越しに野村大使に訓電します。首脳
会談の申し出に、ハル長官は冷淡でしたが、ルーズ
ベルト大統領は「アラスカではどうか?」と前向き
な姿勢を示し、野村を喜ばせました。

これには裏がありました。8月上旬に米英首脳会談
が行なわれ、対日強硬論策を求めるチャーチルに対
して、ルーズベルトは「私にまかせてほしい。3か
月ぐらいは彼ら(日本)を“あやしておける”と思
っている」と発言しています。アメリカにとって、
この時点の日米交渉は、もはや“開戦準備を完了す
るまでの時間稼ぎ”となりつつあったのです。

この近衛の日米首脳会談構想に対して、武藤ら陸軍
省は現政策の履行を条件に同意します。内心では首
脳会談に期待をかけていました。しかし、田中ら参
謀本部は、近衛が三国同盟を弱める方向でルーズベ
ルトと妥協することを危惧して強硬に反対します。

武藤らは、「反対すれば近衛が内閣を投げ出す可能
性がある。そうすればその責任は陸軍が負うことに
なる」と田中を説得します。田中は、やむなく「三
国同盟を弱める約束をしない」という条件で了解し
ます。

▼「大西洋憲章」発表

日本側から首脳会談の提案がアメリカ側に示された
頃、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相が会
談し、8月14日、米英共同宣言として「大西洋憲
章」が発表されます。

その概要は、(1)合衆国と英国の領土拡大意図の否
定、(2)領土変更における関係国の人民の意思の尊
重、(3)政府形態を選択する人民の権利、(4)自
由貿易の拡大・経済協力の発展、(5)恐怖と欠乏か
らの自由の必要性などに続き、のちの「国際連合」
設立の根拠とされた「一般的安全保障のための仕組
みの必要性」も謳われています。

ルーズベルトが「この原則が世界各地に適用される」
と考えたのに対し、チャーチルは「ナチス・ドイツ
占領下ヨーロッパに限定される」、つまり、アジア・
アフリカのイギリス帝国の植民地にはこの原則が適
用されるのを拒絶していました。

そのルーズベルトも「あくまでドイツに主権を奪わ
れていた東欧白人国家について述べたもので、(ア
ジアの)有色人種のためのものではない」と語った
とのことですが、 憲章には日本を名指しはしていな
いものの、侵略的膨張主義への批判が表明されてい
ました。

チャーチル回顧録によれば、ルーズベルトとは約1千
通の交信があったとのことですから、互いの本音を
わかった上での憲章だったと考えます。それにして
も、欧州戦線の帰趨が全く不明なこの時期に、巨大
な植民地を抱え、ややもすれば自国の“命取り”に
なるリスクを覚悟し、米国を参入させるために上記
の内容を含む憲章の宣言まで漕ぎつけたチャーチル
の戦略は「みごと」としか言いようがありません。
そして9月には、ソ連もこの共同宣言に加わります。


(以下次号)


※お知らせ
私は現在、ボランテイアですが、公益社団法人自衛
隊家族会の副会長の職にあります。今回紹介いたし
ます『自衛官が語る 海外活動の記録』は、自衛隊
家族会の機関紙「おやばと」に長い間連載してきた
「回想 自衛隊の海外活動」を書籍化したものです。

その経緯を少しご説明しましょう。陸海空自衛隊は、
創設以降冷戦最中の1990年頃までは、全国各地
で災害派遣や警備活動を実施しつつ、「専守防衛」
の防衛政策のもとで国土防衛に専念していました。

 憲法の解釈から「海外派兵」そのものが禁止され
ており、国民の誰しも自衛隊の海外活動は想像すら
しないことでした。当然ながら、自衛隊自身もその
ための諸準備を全く行なっていませんでした。

ところが、冷戦終焉に伴う国際社会の劇的な変化に
よって、我が国に対しても国際社会の安定化に向け
て実質的な貢献が求められるようになりました。

こうして、湾岸戦争後の1991(平成3)年、海
上自衛隊掃海部隊のペルシア湾派遣を皮切りに、自
衛隊にとって未知の分野の海外活動が始まりました。
しかも、中には国を挙げての応援態勢がないままで
の海外活動も求められ、派遣隊員や残された家族の
やるせない思いやくやしさは募るばかりでした。

それでも隊員たちは、不平不満など一切口にせず、
「日の丸」を背負った誇りと使命感を抱きつつ、厳
正な規律をもって今日まで一人の犠牲者を出すこと
なく、与えられた任務を確実にこなしてきました。
この間、実際に派遣された隊員たちのご苦労は想像
するにあまりあるのですが、寡黙な自衛官たちは本
音を語ろうとしませんでした。

かくいう私も、陸上幕僚監部防衛部長時代、「イラ
ク復興支援活動」の計画・運用担当部長でしたので、
決して公にはできない様々な経験をさせていただき
ました(墓場まで持っていくと決心しております)。

このような海外活動の実態について、隊員家族をは
じめ広く国民の皆様に知ってもらうことと自衛隊の
海外活動の記録と記憶を後世に伝え残したいという
願いから、「おやばと」紙上でシリーズ化し、各活
動に参加した指揮官や幕僚などに当時の苦労話、経
験、エピソードを寄せてもらいました。

連載は、2012年8月から2014年11月まで
約2年半続き、その後も行なわれている「南スーダ
ン共和国ミッション」や「海賊対処行動」などにつ
いてはそのつど、関係者に投稿をお願いしました。

このたび、シリーズ書籍化第1弾の『自衛官が語る 
災害派遣の記録』と同様、桜林美佐さんに監修をお
願いして、その第2弾として『自衛官が語る 海外
活動の記録』が出来上がりました。

本書には、世界各地で指揮官や幕僚などとして実際
の海外活動に従事した25人の自衛官たちの脚色も
誇張もない「生の声」が満載されております。

遠く母国を離れ、過酷な環境下で、ある時は身を挺
して、限られた人数で励まし合って厳しい任務を達
成した隊員たち、実際にはどんなにか辛く、心細く、
不安だったことでしょうか。

しかし、これらの手記を読む限り、そのようなこと
は微塵も感じられないばかりか、逆に派遣先の住民
への愛情や部下への思いやりなどの言葉で溢れてお
り、それぞれ厳しい環境で活動したことを知ってい
る私でさえ、改めて自衛隊の精強さや隊員たちの素
晴らしさを垣間見る思いにかられます。

また、桜林さんには、海外活動の進化した部分とか
依然として制約のある法的権限などについて、わか
りやすく解説し、かつ問題提起していただきました。

皆様にはぜひご一読いただき、まずはこれら手記の
行間にある、隊員たちの「心の叫び」を汲み取って
いただくとともに、自衛隊の海外活動の問題点・課
題などについても広くご理解いただきたいと願って
おります。また、前著『自衛官が語る 災害派遣の
記録』を未読の方は、この機会にこちらもぜひご一
読いただきますようお願い申し上げ、紹介と致しま
す。

『自衛官が語る 海外活動の記録─進化する国際貢献』
桜林美佐監修/自衛隊家族会編
  発行:並木書房(2019年12月25日)
  https://amzn.to/384Co4T




(むなかた・ひさお)


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【著者紹介】

宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学
校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロ
ラド大学航空宇宙工学修士課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕
僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、
第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て
2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』
などに投稿多数。


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(代表・エンリケ航海王子)
 
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