※今朝配信した内容の一部を修正しましたので、
修正した内容を再送します。
修正前:「推移に伴う国防国策大綱」陸軍案とがまとめられます。」
修正後:「推移に伴う国防国策大綱」陸軍案がまとめられます。」
───────────────────
ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
合わせは以下よりお気軽にどうぞ
E-mail
hirafuji@mbr.nifty.com
WEB
http://wos.cool.coocan.jp
───────────────────
こんにちは、エンリケです。
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は73回目です。
こういう視座はこれまでなかった感じがします。
非常に新鮮で、納得感が大きいですね。
戦後日本で生きてきて、
歪みに歪んだ歴史の時間軸を
修正してもらえている感も大きいです。
実に明晰な解説も、誠に分かりやすいです。
ではきょうの記事、
さっそくどうぞ
エンリケ
ご意見・ご感想はコチラから
↓
https://okigunnji.com/url/7/
───────────────────────
我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(73)
日米戦争への道程(その4)
宗像久男(元陸将)
───────────────────────
□はじめに
ここまでくると(2月1日現在)、新型コロナウ
イルス問題に触れないわけにはまいりません。日々
新たなニュースが世の中にあふれ出し、あたかも中
国発の新型ウイルスが急激に蔓延し、明日にも人類
社会が大パニックになるような雰囲気すら感じます。
SARSが大流行した時、北京で勤務していた元外
務官僚の宮家邦彦氏はその経験から「中国の実態は
発表の10倍」と指摘しています。2月1日現在、
中国の患者は約1万人、死者259人との発表です
から、実態はその10倍と推測すれば、患者10万
人、死者約3千人弱ということになるでしょう。し
かも日々これらの数字が増え続けていまし、映像な
どをみるに、発症地の武漢などは悲惨な状況にある
のは間違いないでしょう。
しかし、冷静に考えてみましょう。毎年発生する
インフルエンザは、予防注射などの医療体制が完備
しているのにもかかわらず、世界中で毎年の死亡者
は約25~50万人を数え、日本でも約1000万
人が感染し、約1万人が死亡していると推定されて
います。しかし、毎日のようにその状況が報道され、
社会現象になることはほとんどありません。
ネットを覗くと、「怖いのはインフルエンザ」と声
をあげる専門家の投稿も散見されます。確かに、現
時点では新型ウイルスに対するワクチンなどもなく、
不安でないと言えば嘘になりますが、やがて人類の
英知によってワクチンも開発されることはまず間違
いないでしょう。
専門家は、「大したことはないと言い切るのはいけ
ないが、さりとて、過度に騒ぎ立て不安をあおるよ
うな報道とそれに過敏に反応するのは問題」と指摘
しています。今、大方の国民に求められているのは、
「侮らず、冷静に対処する」ことであろうと思いま
す。
私は、これまでの人生に一度もインフルエンザに
り患した経験がなく、最近は予防注射も打たなくな
りました。しかし今年は、地下鉄など人ごみの中で
はマスクをすることや手洗いを普段より多くするこ
となどを心がけてだいぶ前から実践しています。自
分自身の免疫力を信じつつしばらくはそれで充分と
思っています。
さはさりながら、このような国民の最大関心事の
前に、相変わらず些末な問題に明け暮れる先生方を
処方するワクチンはないものかと呆れますが、皆様、
「侮らず、しかし冷静に」対処しましょう。
▼松岡外相が「日米諒解案」をつぶす
前回に続き「日米諒解案」の顛末を取り上げましょ
う。「日米諒解案」については、当然ながら、昭和
天皇も素直に喜ばれたようですが、近衛首相には、
訪欧日程を終えて帰国する松岡外相がどのように反
応するか、一抹の不安が残ります。そこで、「自分
で説得しよう」と思い立ち、松岡を出迎えるため立
川飛行場まで赴きます。
一国の総理大臣が外務大臣を迎えるためにわざわざ
立川まででかける姿はあまりに滑稽です。振り返れ
ば、天皇のご意向に逆らって松岡を閣内に取り込ん
だ近衛でしたが、まさに自縄自縛(じじょうじばく)
となり、その上、主従が逆転し、二人の距離は大き
く開いてしまっていたのです。
立川で近衛の目に入ったのは、「日ソ中立条約」を
調印し、凱旋将軍気取りでカメラのフラッシュを浴
びる松岡の姿であり、近衛はそのパフォーマンスに
うんざりして説得を大橋忠一外務次官に任せてしま
います。
案の定、松岡は、外相である自分が関与しないとこ
ろでまとめられた「日米諒解案」に対しては「盟邦
の独伊に対して不信極まりない」と不快感を示しま
す。
そして翌日、松岡は、大本営政府連絡懇談会で驚く
べき行動に出ます。「帰国後の歓迎会で飲まされた」
とろれつが回らないほど酔って現れ、訪欧の自慢話
を吹きまくったのです。近衛が「“原則了解”と打
電したい」と発言すると、「2週間ぐらい考えさせ
てほしい」とさっさと引き上げてしまいます。
後日、松岡は「アメリカの役割は、和平勧告のみに
とどめ、日中間での平和条件の具体的内容には立ち
入らせない」旨の独自の修正案を作成し、アメリカ
側に提示させます。
松岡の修正案にアメリカが歯牙にもかけなかったの
は言うまでもありません。野村とハルの日米交渉が
スタートしますが、不信を強めたアメリカの要求は、
「日米諒解案」をはるかに超えて硬化し、両国間の
隔たりが鮮明になっていきます。米国の要求は、
(1)日中交渉の相手は蒋介石政権のみとし、
(2)間接的に満州国を否認し、さらには(3)日本
軍の中国駐兵を認めず、(4)「東亜新秩序」の否定、
まで及びます。万事休す!でした。
松岡は天皇にも強硬論を唱え、天皇は松岡の正気を
疑います。松岡退室の後、木戸内大臣に「外相を取
り換えてはどうだか」と打診されたようです。ちょ
うどその頃(6月)、アメリカは、その年の3月に
議会を通過させてイギリスに適用していた「武器貸
与法」を中国に適用させます。
▼裏切りの「独ソ戦」
松岡の強硬姿勢によって再び日米開戦の危機が迫っ
た頃でした。そのタイミングを見計らったように、
日米の亀裂をさらに決定的なものにする新たな事態
が欧州で発生します。ヒトラーが、有名な「バルバ
ロッサ作戦」を発動し、独ソ戦が勃発したのです
(6月22日)。
独軍の総勢300万人、約2700機の航空機、約
3550両の戦車がモスクワに向けて攻撃前進し、
不意を衝かれたソ連軍は総崩れとなります。
ヒトラーが対ソ連戦を決意したのは、「日独伊三国
同盟」締結される2か月前の1940(昭和15)
年7月末だったとされます。その秘密会議で「英国
の希望はロシアとアメリカである。ロシアが打倒さ
れると、英国の最後の望みも消滅するだろう。その
暁にはドイツはヨーロッパとバルカンの支配者にな
れる」と豪語したのです。
他方、アメリカについては日本に牽制してもらうの
がヒトラーの魂胆でした。「日独伊三国同盟」締結
時に「日本とソ連の橋渡しをする」と口約束しなが
ら、腹の底では真逆の陰謀を画策していたのでした。
ドイツはまた、独ソ戦の開始を日本に事前通告しま
せんでした。これを“背信行為”として同盟を空文
化し、一気に日米交渉を加速させることの可能だっ
たのでしょうが、「日米諒解案」亀裂直後だっただ
けに、軌道修正は困難だったと推測されます。独ソ
戦前後の我が国の対応を振り返ってみましょう。
▼「独ソ戦」への我が国の対応
独ソ戦が始まる2週間ほど前、大島浩駐独大使から
「独ソ開戦は確実」との情報が入り、政府・陸軍と
もにその対処に忙殺されます。
田中ら作戦部は、またしても「ドイツの侵攻は短期
間でソ連を崩壊させる」と見積もり、これを好機と
して北方武力行使、つまり対ソ戦への強い意志を持
ち主張します。そして「独ソ戦になれば、米英ソの
連携は強化されるだろうから、西太平洋での米英の
動きに備え、仏印とタイを包摂しておかなければな
らない」と南方武力行使も主張します。
「ソ連が屈服すれば、日本への北方からの脅威を取
り除くとともに、イギリスの対独戦意思を破砕して
大東亜共栄圏形成の最大の障害を取り除き、南方作
戦を容易にする。このことは、米国に対しても強い
軍事的圧力となって、対独参戦を背後から牽制する
効果を持つ」と考えた結果だったようです。
田中らは、この時点で“独伊枢軸”か“対米英連携
化”か、を改めて自問した上で、自らの情勢分析と
して“独伊枢軸”を選択したのです。昭和陸軍は、
ドイツとの同盟を固定的に考えていたわけではなく、
“米英連携”も選択肢に入れていたことは事実でし
た。
この考えは松岡外相とおおむね一致し、松岡もソ連
と即時開戦すべきこと、早晩、ソ米英3国と同時に
戦わなければならないことを主張します。
これに対して、武藤軍務局長らは「ソ連の広大な領
土と資源、それに一党独裁の強靭が政治組織から容
易には屈服しないだろう」と判断、「独ソ戦をドイ
ツの勝利で短期に集結する可能性は低く、長期持久
戦になる」と見積もっていたようです。
それゆえ、「独ソ戦については事態を静観し、情勢
の展開を見守る」という姿勢でした。よって、対ソ
武力行使は否定的で、「日米交渉をさらに力を注ぎ、
それを活用して日中戦争の解決を促進すべき」と考
え、田中と激しく対立します。
田中らも、独ソ戦が必ずしも短期間に終了しない場
合も想定し、その際には「極東ソ連軍の動向によっ
ては武力行使し、ドイツと東西からソ連を挟撃しよ
う」と考えていたようです。
こうして、独ソ戦に伴う国策案について、陸軍省内
で意見調整が行なわれ、田中が主張する「北方武力
行使と南方武力行使については、陸軍省軍務局も容
認しうる場合に限定する」という妥協案で「情勢の
推移に伴う国防国策大綱」陸軍案がまとめられます。
この間、松岡は「ただちにドイツと共同してソ連を
攻撃すべき」と主張し、独断で天皇に上奏しますが、
天皇は松岡の判断には否定的で、それを知った近衛
は、この機会に「三国同盟の前提が崩れた以上、こ
れを無効化してアメリカとの交渉を進め、中国に和
平を勧告してもらうしか道はない」と考えます。
大本営政府連絡懇談会においては、松岡の北進論、
陸海軍の南進論が対立、激しい議論の応酬となりま
す。両者ともドイツの快進撃に目がくらみ、近衛の
同盟破棄論は全く問題となりませんでした。
これらの結果を受けて、「情勢の推移に伴う帝国国
策要綱」陸海軍案として「(1)大東亜共栄圏建設の
方針堅持、(2)自存自衛のための南方進出の歩を
進め、情勢の推移に応じて北方問題を解決する」と
の方針を決定します。この場において、武藤同様、
北方武力行使に慎重だった海軍から初めて「対米英
戦を辞せず」との強い表現が示されます。7月2日、
陸海軍案どおり御前会議で正式決定されます。
この決定は、その後の日本の進路の方向付けをした
ものとして重要な意味を持っていました。特に、
「独ソ戦の動向をにらんで対ソ武力準備を整える」
ことが公式に認められ、田中ら作戦部は対ソ戦強化
に向けて動きだすことになります。
▼「独ソ戦」の背景と結果
最後に、「『独ソ不可侵条約』を破って、なぜヒト
ラーがソ連を攻撃したか」についてまとめておきま
しょう。
これには様々な見方がありますが、その根本は、ヒ
トラーは「東方に、豊富な資源や農地を有する空間、
つまり『生存権』を確保しなければゲルマン民族は
生き残れない」と確信し、対英戦争が膠着状態に陥
る中、ドイツ軍部も同調して開戦に踏み切ったとい
うのが真相のようです。
その背景に、1937年頃からスターリンが軍部を
「大粛清」して軍が弱体化していたことがありまし
た。それもあって、ドイツは、当初は「短期決戦に
よる圧勝」と確信していましたが、ソ連がコミュニ
ズムとナショナリズムを足した「大祖国戦争」と銘
打って、犠牲者をいとわず(実際に2700万人が
犠牲となります)予備役を大量投入して抵抗したた
めに手こずります。
そしてナポレオン同様、とうとう“冬将軍”に遭遇
し、モスクワまであと30キロというところまで近
づいた12月5日、攻撃を中止し、翌日から敗走し
ます。
のちに触れます「真珠湾攻撃」の3日前のできごと
でした。なぜこのような欧州情勢の大きな転換点を
目の前にして、「真珠湾攻撃」を敢行したか、など
についてはいずれ振り返ってみましょう。
このように、独ソ戦は単なる「植民地獲得」にとど
まらず、「収奪戦争」「世界観戦争」だったとし、
「満蒙は我が国の生命線」とした日中戦争と類似す
るとの見方があることを付記しておきます。
(以下次号)
※お知らせ
私は現在、ボランテイアですが、公益社団法人自衛
隊家族会の副会長の職にあります。今回紹介いたし
ます『自衛官が語る 海外活動の記録』は、自衛隊
家族会の機関紙「おやばと」に長い間連載してきた
「回想 自衛隊の海外活動」を書籍化したものです。
その経緯を少しご説明しましょう。陸海空自衛隊は、
創設以降冷戦最中の1990年頃までは、全国各地
で災害派遣や警備活動を実施しつつ、「専守防衛」
の防衛政策のもとで国土防衛に専念していました。
憲法の解釈から「海外派兵」そのものが禁止され
ており、国民の誰しも自衛隊の海外活動は想像すら
しないことでした。当然ながら、自衛隊自身もその
ための諸準備を全く行なっていませんでした。
ところが、冷戦終焉に伴う国際社会の劇的な変化に
よって、我が国に対しても国際社会の安定化に向け
て実質的な貢献が求められるようになりました。
こうして、湾岸戦争後の1991(平成3)年、海
上自衛隊掃海部隊のペルシア湾派遣を皮切りに、自
衛隊にとって未知の分野の海外活動が始まりました。
しかも、中には国を挙げての応援態勢がないままで
の海外活動も求められ、派遣隊員や残された家族の
やるせない思いやくやしさは募るばかりでした。
それでも隊員たちは、不平不満など一切口にせず、
「日の丸」を背負った誇りと使命感を抱きつつ、厳
正な規律をもって今日まで一人の犠牲者を出すこと
なく、与えられた任務を確実にこなしてきました。
この間、実際に派遣された隊員たちのご苦労は想像
するにあまりあるのですが、寡黙な自衛官たちは本
音を語ろうとしませんでした。
かくいう私も、陸上幕僚監部防衛部長時代、「イラ
ク復興支援活動」の計画・運用担当部長でしたので、
決して公にはできない様々な経験をさせていただき
ました(墓場まで持っていくと決心しております)。
このような海外活動の実態について、隊員家族をは
じめ広く国民の皆様に知ってもらうことと自衛隊の
海外活動の記録と記憶を後世に伝え残したいという
願いから、「おやばと」紙上でシリーズ化し、各活
動に参加した指揮官や幕僚などに当時の苦労話、経
験、エピソードを寄せてもらいました。
連載は、2012年8月から2014年11月まで
約2年半続き、その後も行なわれている「南スーダ
ン共和国ミッション」や「海賊対処行動」などにつ
いてはそのつど、関係者に投稿をお願いしました。
このたび、シリーズ書籍化第1弾の『自衛官が語る
災害派遣の記録』と同様、桜林美佐さんに監修をお
願いして、その第2弾として『自衛官が語る 海外
活動の記録』が出来上がりました。
本書には、世界各地で指揮官や幕僚などとして実際
の海外活動に従事した25人の自衛官たちの脚色も
誇張もない「生の声」が満載されております。
遠く母国を離れ、過酷な環境下で、ある時は身を挺
して、限られた人数で励まし合って厳しい任務を達
成した隊員たち、実際にはどんなにか辛く、心細く、
不安だったことでしょうか。
しかし、これらの手記を読む限り、そのようなこと
は微塵も感じられないばかりか、逆に派遣先の住民
への愛情や部下への思いやりなどの言葉で溢れてお
り、それぞれ厳しい環境で活動したことを知ってい
る私でさえ、改めて自衛隊の精強さや隊員たちの素
晴らしさを垣間見る思いにかられます。
また、桜林さんには、海外活動の進化した部分とか
依然として制約のある法的権限などについて、わか
りやすく解説し、かつ問題提起していただきました。
皆様にはぜひご一読いただき、まずはこれら手記の
行間にある、隊員たちの「心の叫び」を汲み取って
いただくとともに、自衛隊の海外活動の問題点・課
題などについても広くご理解いただきたいと願って
おります。また、前著『自衛官が語る 災害派遣の
記録』を未読の方は、この機会にこちらもぜひご一
読いただきますようお願い申し上げ、紹介と致しま
す。
『自衛官が語る 海外活動の記録─進化する国際貢献』
桜林美佐監修/自衛隊家族会編
発行:並木書房(2019年12月25日)
https://amzn.to/384Co4T
(むなかた・ひさお)
宗像さんへのメッセージ、ご意見・ご感想は、
このURLからお知らせください。
↓
https://okigunnji.com/url/7/
【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学
校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロ
ラド大学航空宇宙工学修士課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕
僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、
第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て
2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』
などに投稿多数。
▼きょうの記事への、あなたの感想や疑問・質問、
ご意見をここからお知らせください。
⇒
https://okigunnji.com/url/7/
▼本連載のバックナンバーサイトを、
お知り合いに伝えてください。
⇒
https://munakatahistory.okigunnji.com
PS
弊マガジンへのご意見、投稿は、投稿者氏名等の個
人情報を伏せたうえで、メルマガ誌上及びメールマ
ガジン「軍事情報」が主催運営するインターネット
上のサービス(携帯サイトを含む)で紹介させて頂
くことがございます。あらかじめご了承ください。
PPS
投稿文の著作権は各投稿者に帰属します。
その他すべての文章・記事の著作権はメールマガジ
ン「軍事情報」発行人に帰属します。
最後まで読んでくださったあなたに、心から感謝し
ています。
マガジン作りにご協力いただいた各位に、心から感
謝しています。
そして、メルマガを作る機会を与えてくれた祖国に、
心から感謝しています。ありがとうございました。
●配信停止はこちらから
https://1lejend.com/d.php?t=test&m=example%40example.com
----------------------------------------------
発行:
おきらく軍事研究会
(代表・エンリケ航海王子)
メインサイト
https://okigunnji.com/
問い合わせはこちら
https://okigunnji.com/url/7/
---------------------------------------------
Copyright(c) 2000-2020 Gunjijouhou.All rights reserved