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実に人間臭い歴史ばなしです。
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エンリケ
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自衛隊警務官(7)
陸軍憲兵から自衛隊警務官に(7)
近衛兵の離職と川路(かわじ)大警視
荒木 肇
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□ご挨拶
大きな災害が中国・武漢で起きています。あわせ
て中国の春節でもあり、彼の国からの観光客が押し
寄せるという時期に重なりました。ところがキャン
セルが続き、観光業界では大きな打撃になるとの報
道もあります。実際、その通りでしょう。しかし、
何より、わが国への病原菌の侵入を許すことがない
よう、関係当局のご努力に期待します。
▼征韓論と近衛兵
近衛兵の6割を占めたのは薩摩人だった。薩摩系
近衛士官の多くは旧城下士であり、下士は、郷士出
身が多かった。1873(明治6)年10月24日、
征韓論に敗れた西郷隆盛が参議・近衛都督(このえ・
ととく=長官)を辞職して薩摩に帰ると、彼らも次
々と辞表を叩きつけていっしょに帰郷してしまうと
いう事態が起きた。
また、土佐藩の大物だった板垣退助も参議を辞職。
政府を去ったが、土佐系の近衛兵も辞職した者が多
い。これだけを見ても、彼らが天皇の軍隊の一員と
いうより、同郷の偉人の子分であるという意識が大
きかったことが分かる。
もちろん、長州系の近衛士官たちは行動をともに
しなかった。近衛以外の軍隊や官衙、学校に勤務す
る薩摩系士官たちも動揺はしたが、全員が辞職した
わけではなかった。村田銃の開発者、村田経芳大尉
も辞職することはなかった。しかし、以後、長州人
による陸軍支配が高まったといっていい。
1875(明治8)年1月、「近衛兵編成竝(な
らび)に定額」が出されたのは、このためでもある。
『陸軍省沿革史』によれば、「近衛兵は全国諸兵の
上に位せしめ、其俸給を増加す」とされ、各鎮台の
常備兵、熟練者から強壮で行状正しい者を選ぶとあ
る。現役兵の2年兵、もしくは3年兵から選ばれた
わけである。そして、近衛兵を拝命すると5カ年の
現役延長になった。これはたいへんな負担増になっ
たわけだ。ただし、一般兵役者のような5年間の後
備役は免除するとあった。
▼征韓論破裂の影響による暴動事件
この薩摩系軍人たちの辞職騒ぎはほかにもある。
「陸海軍騒動史」によれば、1873(明治6)年
12月21日から翌日にかけて、熊本鎮台では第1
1大隊の将兵が暴動を起こし、兵営を破壊し、放火
するといった暴動を起こした。
また、陸軍史上、空前絶後といった事件もあった。
それは1874(明治7)年の12月のことらしい。
何日なのかは文献を欠くと松下博士も書いている。
事件は鹿児島分営で起こった。所属の兵士たちが暴れ、
しかも勝手に脱営して帰郷してしまったのだ。ここの
兵士たちはみな鹿児島藩兵出身の壮兵(志願兵)であ
ったので、西郷のもとに馳せ参じようとしてこの行動
を起こしたのだろう。
この分営の司令官は、陸軍少佐貴島清だった。また
付将校として陸軍大尉相良吉之助がいたが、両人と
も事件の責任を取って辞職する。後に西南戦争では、
貴島は薩摩軍大隊長として、相良は同中隊長(薩摩
軍では官軍でいう中隊長を小隊長とした)として勇
戦、戦死している。
このときの熊本鎮台司令長官(師団に改編されるま
では司令官をこういった)は、のちに熊本籠城戦の
指揮をとった陸軍少将谷干城(たに・たてき、18
37~1911年)だった。谷は土佐藩士出身で、
戊辰戦争でも奥州方面を歴戦した。優秀な軍隊指揮
官という定評があった。
谷は事件当時、在京していたが急いで熊本に戻っ
た。このとき谷と同行したうちに陸軍大主理山川浩
(やまかわ・ひろし、1845~1898年)がい
る。山川は会津藩重役として、戊辰戦争を戦った。
藩が青森県斗南(となみ)に移されて大参事(藩の
高級行政職)に就任、よく後進の面倒を見た。この
頃、谷の勧めによって陸軍に文官(主理は判任官だ
から下士相当官)として在籍していた。すぐ後に佐
賀の乱(1874年2月)で少佐に任用され、以後、
武官としてのコースを歩む。
▼明治初めの閥外人
この会津の俊才と、谷干城という土佐出身の反薩長
閥を標榜した硬骨漢については、長い物語が書ける。
しかし、この稿では少しだけ明治人材論について寄
り道をするくらいにしておこう。谷は土佐藩兵の監
軍、指揮官として戊辰戦争で戦ううちに、旧幕府軍
の高級指揮官たちのうちに、山川の軍人としての優
秀さを見出したのだろう。谷は「賊軍」出身の山川
をまず、曹長相当の陸軍文官として任用し、つづい
て熊本鎮台に参謀(少佐)として招いた。
山川少佐は翌年の、元参議江藤新平(えとう・しん
ぺい)が起こした「佐賀の乱」の鎮圧部隊に鎮台所
属の参謀として活躍する。そこでも少ない兵力をよ
く指揮して、軍人としての優秀さをまたも示した。
この乱そのものは、近代軍事知識・経験の少ない不
平士族と、不手際だらけの政府軍の戦いだった。
「器械戦争」という声もあったように、銃砲弾によ
る戦闘が中心になった。その中で有名人が活躍して
いる。
その1人は、大尉奥保鞏(おく・やすかた、日露戦
争で第2軍司令官・後元帥)である。奥は旧小倉藩
士で、佐幕派の賊軍であるものの明治陸軍にすぐに
入り、ただちに大尉に任用された。このとき、熊本
鎮台の中隊長だった。
佐賀城(県庁があった)に進出して占拠したが、士
族軍に包囲され弾薬・食糧の補給が遅れて、ひどく
困った。その時である。北門外にある倉庫の1つが
武器・弾薬庫だったことが分かった。決死隊を募っ
て、その指揮を執り、弾薬・糧食を運びこんだ。腕
を撃たれ、続いて胸に被弾したが生還した。
山川は谷によく私淑していた。自らを見出してくれ
たという恩義に報いるというところもあったろうし、
個人的な親しみも深かったに違いない。このことが
山川をあやうく軍令違反で処罰されそうになった事
件を起こした。西南戦争の熊本攻囲戦末期のことで
ある。熊本城を、政府軍は八代方面から進撃する部
隊によって救援しようとした。このとき、大隊を指
揮していた山川は旅団長の停止命令を無視して、敵
中を果敢に突破し、ついに熊本城の城壁に迫り、城
内の部隊と連絡をとった。
このことは、長州人の旅団長をひどく怒らせ、その
殊勲も無視された。戦後の論功行賞でも、まったく
考慮されなかった。それでも陸軍は彼を無視できな
かった。大佐に進み名古屋鎮台参謀長、さらに少将
になり陸軍省人事局長などを務めた。教育界にも転
身して、東京高等師範学校(のちの東京教育大学、
筑波大学)長、東京女子高等師範学校(のちのお茶
の水女子大学)長、貴族院勅選議員を務め、男爵も
授けられた。
▼大警視(だいけいし)川路利良(かわじ・としよし)
「文明はポリスこそこれを広める」といった行政警
察の思想を主張したのは、旧薩摩藩士川路利良であ
る。また、よくこうも言ったらしい。「国家にポリ
ス無くして人民の幸福はあり得ようか」。
川路は1834(天保5)年、薩摩藩与力(よりき)
の家に生まれた。与力だから身分は低い。当然、郷
士である。幕末に活動し、禁門の変(御所警備の長
州藩との衝突・1864年)、鳥羽・伏見の戦い
(1868年)では勇戦し、その軍隊指揮官の才能
を西郷や大久保に認められた。
維新が成ると、官に入り、1872(明治5)年
には新設の「邏卒(らそつ)総長」になった。すぐ
に司法省警保寮(けいほりょう)発足に伴い、次官
の警保助(けいほのすけ)兼ねて大警視に就任する。
首都警察の長官である。彼の警察行政についての主
張は、「警保寮職制章程」にある。『国中を安静な
らしめ人民を健康し保護する為め』に現われている。
川路は西郷にも信頼され、1872(明治5)年に
はヨーロッパに各国警察制度の調査に出かけた。翌
年帰国するや、大久保利通(おおくぼ・としみち)
の主導する内務省設置を背景として東京警視庁を創
設によって彼の構想は具体化されたのである。
▼大警視という階級
大警視という階級は警察のトップであるが、187
7(明治10)年当時の内務省警察官の階級は以下
のようになっていた。大警視、中警視、権中警視
(ごんのちゅうけいし)、少警視、権少警視、1・
2・3等大警部、同前中警部、同前少警部、警部補、
1・2・3・4等巡査である。全部で19階級にも
分かれていた。
ただ、現在も使われている階級名と序列はほぼ同じ
である。現在の警察官は、警視総監、警視監、警視
長、警視正、警視、警部、警部補、巡査部長、巡査
という階級に分かれている。すべてで9階級になる。
巡査長は「巡査長たる巡査」であり、正式には階級
には数えない。軍隊でいえば、巡査部長は下士官、
巡査長と巡査は兵になる。
警視総監、警視監、警視長、警視正は胸に着けた階
級章もベタ金で将官にあたる。警視、警部、警部補
が士官ということだ。明治の初めは警視、警部、警
部補、巡査という大きく4ランクに分かれていたと
いっていい。巡査の中の1等がいまの巡査部長にあ
たるだろう。当時の川路が就いた大警視とは、全国
でただ一人であり、それは現在の警視総監と同じで
ある。
川路の凄味は、「大西郷との恩義は公私でいえば私
にしか過ぎない」と主張し、それを薩摩系のポリス
の前でも高らかに言明したことである。当時の平均
的な士族の常識や感覚では、自分を引きたててくれ
た恩人に報いるのは当然だった。それに加えて郷党
的意識がきわめて高く、「大西郷」の影響下にある
薩摩士族にとっては、官職を辞し、西郷と行動を共
にするのは正義の中の正義だった。それを「国家を
背負うのはポリスの責務であり、西郷に従うのは間
違っている」と公言したのだから、よほどの思想家
だとしか思えない。
もちろん、川路に反対する薩摩系ポリスもいた。そ
ういう人々はおよそ100名余りが辞職したという。
全体ではおよそ900名の勢力だったというから、
幹部級のポリスのうち、川路の統制に服さなかった
のは、約1割強にしかならない。たいした指導力と
いうべきだろう。
次回はいよいよ西南戦争のポリスと戦場の無法につ
いて語ろう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
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●著者略歴
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同
大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露
戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍
教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行な
う。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』(並木書
房)がある。
PS
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