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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
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こんにちは、エンリケです。
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は72回目です。
歴史と向き合うにあたって、
忘れてはならない視座を教えてくれます。
現在から過去を裁くことの愚かさ、情けなさ、
恥ずかしさを痛いほど感じさせられます。
ではきょうの記事、
さっそくどうぞ
エンリケ
ご意見・ご感想はコチラから
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https://okigunnji.com/url/7/
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(72)
日米戦争への道程(その3)
宗像久男(元陸将)
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□はじめに(「状況戦術」について)
現役時代、戦略や戦術教育において、“最も戒め
るべきこと”として「状況戦術に陥るな」と何度も
教わりました。一般の方には聞きなれない言葉だと
思いますが、「状況戦術」とは、言うなれば、“自
分の確固たる意思(戦略や戦術)を持たないで、周
りの情勢や状況に振り回されて受動に陥ったまま作
戦を遂行すること”です。
言葉を換えれば、「将来の情勢を的確に見積り、
我が意思を確固たるものにして主動的に作戦を遂行
する」ことが重要であり、この考え自体は、東西を
問わず、戦略や戦術を司る者にとって“普遍の真理”
と考えますが、実際にそれができず、戒(いまし)
めの事例として使われるのが、国内では、まさに支
那事変から日米戦争に至る一連の状況判断でした。
当時、刻々変化する欧州や中国の情勢に応じて名前
を覚えきれないほど様々な対処計画を作り、情勢の
変化ですぐ使い物にならなくなり、また修正してだ
んだん深みにハマって行きます。
その後の歴史の動きがわかった後から振り返り、
「何が正しい判断で、何を失敗したのか」などと指
摘するのは簡単です。しかし、あの当時の我が国の
立場に立ってよくよく周りを見渡してみると、欧州
戦場の千変万化する状況や米国の態度の変化などの
情勢の一寸先を読み切ることは、何人をもってして
もおよそ不可能だったのではないでしょうか。だか
らこそ国論が割れたのでした。
よく指摘されるように、明治以降、ようやく欧米諸
国と肩を並べた我が国の「経験不足」と言えばそれ
までですが、上記の視点を欠いた、“したり顔”の
昭和史研究家などの表面をなぞるような指摘や批評
には、それぞれの歴史観も透けて見えてどうしても
違和感を持ってしまいます。
無責任な言い方もしれませんが、人間の一生に運命
があるように、その良し悪しは別にして、「国家に
も避けられない運命がある」と私は思うことにして
います。
本メルマガでも、我が国が置かれた立場、特にその
「時点」に立って、史実を振り返ろうといつも努め
ておりますが、その視点が読者に伝わることを祈り
つつ、先を急ぎます。
▼ヒトラーのイギリス侵攻延期決定
前回、「欧州情勢は、陸軍が期待したようには進展
しなかった」と結びました。フランスを占領してか
らフランスの空港使用が可能となったドイツは、1
940(昭和15)年7月中旬ごろから本格的な対
英航空攻撃を開始し、イギリス本土上空で独英空軍
が全力で衝突した大規模な航空戦が行なわれます
(「バトル・オブ・ブリテン」として知られます)。
そして、イギリス空軍の頑強な抵抗にあった結果、
ドイツ空軍は制空権を掌握できず、ヒトラーは、イ
ギリス侵攻を翌春(1941年)まで延期すること
を決断します。
日本国内では、陸軍は「米英可分」、海軍は一貫し
て「米英不可分」との考えていたと一般にはいわれ
ますが、史実は違います。少なくとも昭和15年7
月ごろまでは陸海軍合意のもとに「世界情勢の推移
に伴う時局処理要領」を採択し、陸海軍ともに「米
英可分」と判断していました。
しかし、ドイツの英上陸作戦が延期された以降、海
軍は「米英不可分」の立場を明確に打ち出します。
つまり、海軍は、独英間の戦争が長期戦の様相を呈
してくると、対英戦にアメリカの介入が不可避とと
らえ、「米英絶対不可分論」を唱えたのでした。
▼田中新一作戦部長誕生!
同年8月、松岡外相とフランス駐日大使との間で日
本軍の進駐と航空基地使用などを認める協定が成立
した矢先の9月、日本軍は、援蒋ルートの遮断を目
的に北部仏印(北ベトナム)に進駐を開始します。
この日本軍部隊の独断越境事件により現地交渉が停
滞しますが、現地指導に入った参謀本部の富永恭次
作戦部長は、強引に武力進駐を実施、フランス軍と
交戦状態に入り、交戦は2日間続きます。
この事件によって、強硬派の富永作戦部長は更迭さ
れ、後任として田中新一作戦部長(武藤章軍務局長
と同期)が誕生します。しばらく中央から離れてい
た東條陸相が独自の構想を持っていなかったため、
これ以降の陸軍の構想と政策は、武藤軍務局長と田
中作戦部長によって牽引されます。同じ統制派系の
この両雄による世界戦略を巡る激しい対立が始まる
のです。
▼「日独伊三国同盟」締結
一方、ドイツの英上陸作戦延期決定後の9月27日、
「日独伊三国同盟」が近衛首相の支持のもと松岡洋
介外相の主導で締結され、日本政府は、独伊側に立
って欧州戦争に本格的にコミットする姿勢を明確に
します。松岡が外務省内の幹部らだれとも相談せず、
ほぼ独断で推し進めた結果でした。
このように、この時点の「日独伊三国同盟」締結は
必ずしも陸軍がリードしたものではありませんでし
たが、「南方武力行使の際には、独伊との軍事同盟
が必要」とする陸軍中央もそれを容認します。それ
以上に、当時の新聞はじめ世論の大多数も早期締結
を熱狂的に支持しました。
松岡は、対米英軍事同盟を念頭に置き、「日独伊三
国同盟」にソ連を加え、アメリカの参戦を阻止しよ
うと考えていました。陸軍は、あくまで、対英軍事
同盟にとどまる意向でしたが、アメリカの参戦阻止
については一致していました。
これに対して、米英両国の反日的態度は先鋭化し、
両国は緊密な連携のもとに対日攻勢を策しつつあり、
ソ連を米英陣営に引きこもうとします。この時点で
は、ソ連は、米英と日独伊の間で中立的な態度をと
っていました。
日本は、ソ連の赤化宣伝への警戒を忘れないように
しながらも、あくまで自給自足の経済圏をつくるた
めに南方資源の獲得が必須との考えから、ソ連との
国交を調整して一時ソ連との提携も必要と考えてい
ました。中でも陸軍は、「日独伊三国同盟とソ連と
の提携は、日米戦争を目的とするものではなく、あ
くまでそれを回避するためのもの」と考えていたよ
うです。
▼「英米可分」から「英米不可分」へ
さて、田中は作戦部長に就任するや、自ら「支那
事変処理要領」を起案します。その基本方針は、米
英の援蒋行為禁絶、対ソ国交の調整など、あらゆる
手段をもって重慶政府を屈服させることにありまし
た。
ただ、あくまで「大東亜秩序の建設」、つまり南方
武力行使によって米英依存経済から脱却した自給自
足の経済圏を目指すことを最優先し、直接的な重慶
政府屈服は第2義的なものでした。
この考えに基づき、作戦部は、翌昭和16年1月、
「大東亜長期戦争指導要領」を作成し、陸軍内で非
公式な承認を得ます。その概要は、(1)仏印・タイ
を大東亜共栄圏の骨幹地域とする、(2)ソ連に関し
てはさしあたり静謐(せいひつ)保持を方針とする、
ものでした。つまり、ドイツが英本土作戦を延期し
たこの段階においても、作戦部は、好機捕捉による
南方武力行使を維持していたのでした。
同時に、作戦部は「対支長期作戦指導計画」を作
成します。それは、日中戦争をそれ自体として解決
することを断念し、より大きな国際情勢の変化を利
用して解決しようとするもので、これにより、当時
約75万の在華日本軍を大幅に削減しようとします。
この計画は、陸軍省部でも正式決定され、天皇に上
奏されます。
また1月末、「対仏印、泰(タイ)施策要領」が
大本営連絡会議で海軍合意のもとに決定されます。
これに基づき、田中は「3月末までは南部仏印(南
ベトナム)進駐を実施すべき」と考え、武藤局長も
同意しますが、この時点では、松岡外相が「対英米
戦争を誘発する」として反対します(実際には7月
に南仏進駐が実施されます)。
なお、「大東亜共栄圏」という言葉は、昭和15
年8月に松岡外相によってはじめて使われましたが、
公式文書として使われたのはこの「対仏印、泰(タ
イ)施策要領」が初めてでした。
▼「日ソ中立条約」締結
その松岡は、昭和16年3月、「日ソ不可侵条約」
を締結するため、欧州へ旅立ちます。ソ連との不可
侵条約によってアメリカに圧力をかけて譲歩を引き
出そうというのが狙いでした。
松岡は、「日ソ不可侵条約」を提案すると、ソ連の
回答を待たず、ベルリンに向かいます。ベルリンで
は、約30万人の群衆で埋め尽くされ、元首級のも
てなしを受けたようです。ドイツの狙いは、日本を
対英戦に巻き込むことであり、シンガポール攻撃を
求めたのでした。松岡はヒトラーとも謁見し、日本
の奮起を促されます。
その後、ローマに向かった松岡は、ここでもムッソ
リーニから異例の歓迎を受けたのち、「日ソ不可侵
条約」の締結のためにモスクワに戻ります。訪独中、
独ソ関係が急速に冷え込み、ドイツの斡旋は得られ
ませんでしたが、日独の挟撃を恐れたソ連は、松岡
の不可侵条約と北樺太の買収提案は拒否したものの、
最終的には北樺太問題を棚上げして、「日ソ中立条
約」の締結で妥協します。4月13日、この締結は
世界中を驚かせました。
ちなみに、相互に侵略行為を行なわないことは共通
している「不可侵」と「中立」には日・ソそれぞれ
の思惑があったと考えます。日本側が求めた「不可
侵」は、仮に日本が米国と戦争になった場合、ソ連
が交戦国に一切援助を行なわないことを求めたのに
対して、ソ連が求めた「中立」は、仮にソ連がドイ
ツと交戦状態になった時、日本が中立を維持するこ
とを求めたものでした。
▼「日米諒解案」をめぐる混乱
陸海軍は、田中がリードする陸軍主導のもとで、
上記の「対仏印、泰(タイ)施策要領」によって、
外交による仏印・タイのとりこみと蘭印との経済関
係強化を企図した「対南方施策要領」を作成し、4
月17日に最終合意します。この時点では、「米英
不可分」の見方が陸海軍共有の認識として明確にな
っていたようです。背景に、この頃からアメリカが
大規模な対英武器援助を行なう姿勢を明らかにした
ことがありました。
他方、「対南方施策要領」の陸海軍合意の翌日、
つまり「日ソ中立条約」締結から5日後、野村吉三
郎駐米大使から「日米諒解案」が打電されてきます。
それは、日米両国の友好関係の回復をめざす全般的
協定を締結しようとするもので、(1)中国の独立と
日本軍の撤兵、満州国の承認などを条件に米政府が
蒋政権に和平を勧告する、(2)日本が武力による南
進を行なわないことを保証し、米国は日本の必要な
物資入手を協力する、(3)新日米通商条約を締結し、
通商関係を正常化する、というものでありました。
最終的に野村大使がハル国務長官と会談した際、
ハルは「領土保全」「主権尊重」「内政不干渉」
「機会均等」の“現状不変更”の「ハル4原則」を
アメリカの基本的態度として示しました。
野村大使が本国に「日米諒解案」を打電しました
が、「ハル4原則」については触れませんでした。
このことが、その後の日米交渉の展開に少なからぬ
混乱を与えることになります。
「日米諒解案」について、近衛首相や海軍は日本に
とって容認すしうるものだと歓迎し、武藤ら陸軍も
日中戦争解決に資するものと歓迎しました。武藤は、
戦後の回想で「はなはだ満足すべきもので、これで
日本は救われたと思った」と述べています。
他方、田中作戦部長は、「日米諒解案はアメリカに
よる対独参戦のための“時間稼ぎ”だ」と分析し、
依然として「対米戦は不可避」と判断していたよう
ですが、諒解案は歓迎しました。
海軍の穏健派は、上記のように諒解案に賛意を示し
ましたが、日米開戦を念頭においた海軍の中には和
平工作を毛嫌いする者がおり、日米交渉の動きを阻
害しようとしました。ワシントン在住の海軍武官に
は、早くから和平推進グループを監視・牽制するよ
う指令が出ていたことも明らかになっています。
「日米諒解案」をめぐる混乱はまだまだ続きます。
(以下次号)
※お知らせ
私は現在、ボランテイアですが、公益社団法人自衛
隊家族会の副会長の職にあります。今回紹介いたし
ます『自衛官が語る 海外活動の記録』は、自衛隊
家族会の機関紙「おやばと」に長い間連載してきた
「回想 自衛隊の海外活動」を書籍化したものです。
その経緯を少しご説明しましょう。陸海空自衛隊は、
創設以降冷戦最中の1990年頃までは、全国各地
で災害派遣や警備活動を実施しつつ、「専守防衛」
の防衛政策のもとで国土防衛に専念していました。
憲法の解釈から「海外派兵」そのものが禁止され
ており、国民の誰しも自衛隊の海外活動は想像すら
しないことでした。当然ながら、自衛隊自身もその
ための諸準備を全く行なっていませんでした。
ところが、冷戦終焉に伴う国際社会の劇的な変化に
よって、我が国に対しても国際社会の安定化に向け
て実質的な貢献が求められるようになりました。
こうして、湾岸戦争後の1991(平成3)年、海
上自衛隊掃海部隊のペルシア湾派遣を皮切りに、自
衛隊にとって未知の分野の海外活動が始まりました。
しかも、中には国を挙げての応援態勢がないままで
の海外活動も求められ、派遣隊員や残された家族の
やるせない思いやくやしさは募るばかりでした。
それでも隊員たちは、不平不満など一切口にせず、
「日の丸」を背負った誇りと使命感を抱きつつ、厳
正な規律をもって今日まで一人の犠牲者を出すこと
なく、与えられた任務を確実にこなしてきました。
この間、実際に派遣された隊員たちのご苦労は想像
するにあまりあるのですが、寡黙な自衛官たちは本
音を語ろうとしませんでした。
かくいう私も、陸上幕僚監部防衛部長時代、「イラ
ク復興支援活動」の計画・運用担当部長でしたので、
決して公にはできない様々な経験をさせていただき
ました(墓場まで持っていくと決心しております)。
このような海外活動の実態について、隊員家族をは
じめ広く国民の皆様に知ってもらうことと自衛隊の
海外活動の記録と記憶を後世に伝え残したいという
願いから、「おやばと」紙上でシリーズ化し、各活
動に参加した指揮官や幕僚などに当時の苦労話、経
験、エピソードを寄せてもらいました。
連載は、2012年8月から2014年11月まで
約2年半続き、その後も行なわれている「南スーダ
ン共和国ミッション」や「海賊対処行動」などにつ
いてはそのつど、関係者に投稿をお願いしました。
このたび、シリーズ書籍化第1弾の『自衛官が語る
災害派遣の記録』と同様、桜林美佐さんに監修をお
願いして、その第2弾として『自衛官が語る 海外
活動の記録』が出来上がりました。
本書には、世界各地で指揮官や幕僚などとして実際
の海外活動に従事した25人の自衛官たちの脚色も
誇張もない「生の声」が満載されております。
遠く母国を離れ、過酷な環境下で、ある時は身を挺
して、限られた人数で励まし合って厳しい任務を達
成した隊員たち、実際にはどんなにか辛く、心細く、
不安だったことでしょうか。
しかし、これらの手記を読む限り、そのようなこと
は微塵も感じられないばかりか、逆に派遣先の住民
への愛情や部下への思いやりなどの言葉で溢れてお
り、それぞれ厳しい環境で活動したことを知ってい
る私でさえ、改めて自衛隊の精強さや隊員たちの素
晴らしさを垣間見る思いにかられます。
また、桜林さんには、海外活動の進化した部分とか
依然として制約のある法的権限などについて、わか
りやすく解説し、かつ問題提起していただきました。
皆様にはぜひご一読いただき、まずはこれら手記の
行間にある、隊員たちの「心の叫び」を汲み取って
いただくとともに、自衛隊の海外活動の問題点・課
題などについても広くご理解いただきたいと願って
おります。また、前著『自衛官が語る 災害派遣の
記録』を未読の方は、この機会にこちらもぜひご一
読いただきますようお願い申し上げ、紹介と致しま
す。
『自衛官が語る 海外活動の記録─進化する国際貢献』
桜林美佐監修/自衛隊家族会編
発行:並木書房(2019年12月25日)
https://amzn.to/384Co4T
(むなかた・ひさお)
宗像さんへのメッセージ、ご意見・ご感想は、
このURLからお知らせください。
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【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学
校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロ
ラド大学航空宇宙工学修士課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕
僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、
第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て
2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』
などに投稿多数。
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謝しています。
そして、メルマガを作る機会を与えてくれた祖国に、
心から感謝しています。ありがとうございました。
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(代表・エンリケ航海王子)
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