荒木先生の最新刊
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と用兵思想』
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こんにちは。エンリケです。
きょうも、実に興味深い歴史ばなしです。
さっそくどうぞ。
エンリケ
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自衛隊警務官(6)
陸軍憲兵から自衛隊警務官に(6)
徴兵制と近衛兵
荒木 肇
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□ご挨拶
あまり雪が降らないとか。観光業の方々は大変で
す。また、春、夏に豊かな水がなくてはならない米
作地帯の方々も心配されておられませんか。心より
お見舞いを申し上げます。
中東問題も大変ですね。桜林さんも「夕刊フジ」
などで論陣を張られていますが、タンカーの安全
確保は私たちの産業、生活に大きな影響があります。
いま、海外から我が国へ石油をはじめ多くの物資を
運ぶ外航船舶の乗組員の多くは外国人です。このこ
とから思考を始めなければなりません。
□はじめに
壮兵といわれた各藩兵あがりの常備軍、そうして
薩・長・土の3藩兵を集めてつくられた御親兵のお
話で進行がゆっくりとなりました。それは憲兵がど
うして導入されたか、そのもととなった兵隊たちの
不規律な様子から描けるかなと思っています。歴史
の教科書には、すんなりと徴兵制が実施されたよう
に書かれていますが、実態を調べるとなかなかそう
は行かなかったようです。
▼御親兵が近衛兵に
1872(明治5)年3月に御親兵は近衛(この
え)兵に改称された。近衛とは由緒ある名前で10
00年近い歴史をもっている。平安時代の六衛府
(ろくえふ)の1つから始まった、まさに天皇の身
辺に最も近づく護衛兵である。現在、埼玉県大宮市
に駐屯する陸自第32普通科連隊は、隊内では「近
衛連隊」と言っている。これはもともと、新宿区市
谷駐屯地(現在の防衛省)に開隊したことに由来す
る。当時は旧陸軍の近衛兵は消滅していたが、皇居
に一番近い駐屯地にあるということから誇りにした
ものだろう。
翌6年の1月9日には東京、大阪、鎮西、東北の
4鎮台が廃止された。東京、仙台、名古屋、大阪、
広島、熊本の6鎮台制度になった。のちに鎮台から
師団に改編されたときに、この順番で番号がついた。
仙台は第2師団であり、広島が第5師団となったの
は、ここからである。
このときの編制は、歩兵14個聯隊(すなわち4
2個大隊)、騎兵3個大隊、砲兵18個小隊、工兵
10個小隊、輜重兵6個隊、海岸砲兵9個隊で、定
員が3万1680人で戦時には4万6350人とな
るはずだった。兵科は歩兵、騎兵、砲兵、工兵、輜
重兵の5つである。兵科の決定はどうも自己申告だ
ったらしい。ただ淘汰もされたわけで、砲兵などは
数学的素養がなくてはならず、工兵もまた理系の能
力が必要だった。
そうして陸軍省職制と条例の中には、憲兵の文字
が存在した。しかし、まだ実員が生まれたわけでは
ない。当時、戊辰戦争の後始末で軍の予算は少なく、
とても戦闘兵科以外には手が回らなかったのではな
いか。
一応の体裁はこしらえたものの、実員の総兵力はと
いえば、各鎮台の兵はみな壮兵(旧藩兵の志願兵)
で近衛隊を合わせて1万2000名あまりという少
数だった。6年末には1万6200人余りだから初
めての徴兵による入営者が増えたものだろう。
▼「寅兵」が入営する
それが、この年の4月に、初めての徴兵が衛門をく
ぐった。この人たちは安政元年の寅(とら)年生ま
れだったので、民間からも「寅兵」と呼ばれていた。
この入営兵の族称を示すデータがない。族称とは
華・士族、平民の区別をいう。華族とは大名や上級
公家の家柄をいい、士族は江戸時代の士分、平民と
は足軽といわれた卒族(一代限りの抱え)と農民、
商人、工人(技術職)のことをいう。
これが大変だった。なにぶん前時代からの「武士が
偉い、庶民は下」という意識が残っている。これに
加えて官尊民卑(かんそん・みんぴ)意識もそれに
拍車をかけた。官人である軍人は、一般国民より上
位にいる。世間もまた、お武家さまへ遠慮する気分
が、色濃く残っていた。
現在のような人権感覚など一切ない。100年違え
ば、当時の常識は今では非常識、現在の当たり前は、
昔だったら秩序無視になる。入隊したら平等だった
・・・などと言うのは、明治の末期から大正にかけ
て以降の話である。
兵営の中は、罵声と殴打しきりだったという。体罰
も当たり前、士官が下士を殴るという後の軍隊では
考えられないことばかり起きていた。悪名高い「内
務班のリンチ(私刑)」も、このあたりが発祥だろ
う。ついこの間までのお武家様が士官・下士である。
今なら、人の生まれ育ちをタネにした話題を出した
だけで、失礼で人権無視という非難の嵐が吹き荒れ
るだろう。「平民などが武士(軍人)になれるか」
ということが「社会の常識」だったのである。
世の中は旧武士が生活に困ることは多かった。家
禄を失い、職もなくした士族が多かった。教科書に
も載る「士族の商法」でせっかくの公債もなくして
しまう。せめて兵営での軍人暮らしで家族を養う人
も多かったのである。庶民あがりが壮兵の地位をお
びやかす、そういった憎しみもあっただろう。
▼警官との争闘
兵営の外の治安は一手に警察が守った。兵営の内
部は一応、風紀衛兵がいるが、外出しての事件が多
かった。松下博士の『日本陸海軍騒動史』(197
4年・土屋書店)からいくつか引いて紹介しよう。
1874(明治7)年1月18日、日曜日のこと、
本郷三丁目(現・文京区)を巡査が警邏中、鎮台兵
が路上で小便をしていた。このことはたいして驚く
ことではない。筆者が小学生の頃などは、街のあち
こちに「立ち小便禁止」という貼り紙があった。ま
た、盛り場ではいつも小便くさい臭いが立ち込めて
いたものだ。
しかし、当時の東京は外国人も多く歩いていたし、
欧米並みの文化国家を目指す政府としてはこれを見
のがせなかった。当時の不平等条約の原因となって
いた一つに「公衆道徳の低さ」が言われていたから
だ。巡査はすぐに鎮台兵に注意をした。ところが兵
士は酔っていたために素直ではなかった。口答えど
ころか、捕まえた腕を振り払い抵抗の姿勢をみせた
のである。もみ合いになった。
すると、そこへ近衛兵が20人余り現われて巡査
から兵士を奪おうとする。巡査にも応援が来たが、
5~60名の兵士たちが現われた。多勢に無勢、巡
査側にはけが人も出た。さらに争闘の規模は大きく
なり、巡査は3~40名、兵士たちは200名以上
が乱闘するという事態になった。巡査たちには多く
の負傷者が出た。兵士たちにどういう処罰が下され
たかは明らかではない。
東京郊外(江戸時代には「本郷までは江戸の内」
といわれた)とはいいながら、お茶ノ水や神田、上
野、湯島などの盛り場の近くで警官の制止を聞かず
に暴れる兵士たち。とても近代国家の軍隊とは言え
ないのではないか。そうしたことも憲兵の設置をう
ながしたに違いない。
これから間もない6月14日、今度は芝愛宕下
(しば・あたごした)である。現在の東京都港区、
東京タワーに近く、愛宕神社のそばで事件は起こっ
た。
やはり休日の昼下がり、巡邏中の少警部(巡査、警
部補の上で軍隊では士官にあたる)が人力車の上に
乗って、大声で歌っている酔った兵士3人を発見し
た。見苦しいと少警部は説教したのだろう。言うこ
とを聞くはずがない。暴言を吐いたというから、ど
うせ「薩摩の郷士のくせに」くらいのことは言った
のだろう。当時、警察幹部のほとんどは元薩摩藩士
だった。
少警部が3人を捕まえたところ、通りがかりの兵士
が30人ばかり集まり、周囲を囲み、道をふさいだ。
そこで慎重に説諭して彼らを納得させ、主犯の1人
を巡査屯所に引きいれたところ、200人ばかりの
兵士がそこを襲ったのである。投石、窓を壊す、ド
アを引きはがし、制止する警官数名を銃剣で傷つけ
もした。警視庁は鎮台と陸軍省にかけあって、陸軍
裁判所で犯人たちは裁かれることになった。
翌8年3月にも上野公園で兵士と巡査の衝突があり、
4月にも同じような事件があった。4月の事件はそ
の場で兵士が逮捕されたが、その仕返しだといって
兵士たちは警官を罠にかけた。数人がわざと服装を
乱して騒ぐ、20人あまりの警官が取り囲むと、周
囲に隠れていた数百名の兵士がそれを襲った。警棒
は奪われて折られ、警官の官帽は池に投げ込まれた
と新聞にも載った。
とにかく軍服を着た兵士たちは警察官などなんとも
思っていなかったのである。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
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●著者略歴
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同
大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露
戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍
教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行な
う。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』(並木書
房)がある。
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