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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
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こんにちは、エンリケです。
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は71回目です。
歴史とは、評価する対象ではなく、
今に活かす「目に見えない大切なもの、こと」を学
ぶ対象。
改めてそう思わせてくれる記事です。
ではきょうの記事、
さっそくどうぞ
エンリケ
ご意見・ご感想はコチラから
↓
https://okigunnji.com/url/7/
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(71)
日米戦争への道程(その2)
宗像久男(元陸将)
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□はじめに
年初めから“きな臭い”中東情勢について、本メ
ルマガでも機会を見つけてトピックスとして取り上
げようと考えておりますが、今回は、イラン軍によ
るウクライナ旅客機の撃墜に触れてみましょう。
現役時代の私は、「高射特科」と言いまして、対空
ミサイルや対空機関砲によって敵の航空攻撃から地
上の重要な施設や我が部隊を防護することを主任務
とする職種に属しておりました。
そのような経験もあって、1月8日、イランによる米
軍基地へのミサイル攻撃の直後、あのニュースが流
れた瞬間、「やったな」との思いが脳裏に浮かびま
した。そしてしばらく後に、破片がバラバラになっ
ている墜落現場の映像を観て、(原因はさておき)
空中で爆破したに違いないと確信しました。エンジ
ン不調などによる一般的な墜落の場合、通常、機体
の一部は壊れてももっと大きな残骸が残るからです。
当時、ミサイル攻撃への米軍の報復に対処するため、
イラン全軍に最高レベルの警戒態勢を敷き、なかで
も防空(高射)部隊には“至上命令”として米軍の
巡航ミサイル攻撃対処が発令されていたと考えます。
防空部隊には、味方の航空機や民間旅客機を誤射、
いわゆる“友軍相撃”を避けるためにいくつかの手
順が定められています。
事柄の性格上細部は省略しますが、一般的な手順は、
(1)民間航空機の飛行経路は射撃禁止、(2)味方
識別装置(IFFといわれます)による敵味方の判
定、(3)目視による機体の大きさ、飛行方向、飛
行要領などの確認です。
この手順に基づき、悲劇が起こった原因を探ってみ
ましょう。(1)については、ウクライナ旅客機の
出発が1時間ほど遅れたらしく、その事実がイランの
防空部隊に伝わっていなかった可能性があります。
しかし、ウクライナ旅客機は通常のフライトコース
を飛んでいることから、これを誤射の原因とするこ
とには無理があります。
(2)について、どの国の対空ミサイルシステムも味
方識別装置を標準装備していると考えます。しかし、
スイッチをONにしていなければ作動しないことは
言うまでもありません。
当時、不意急襲的に現れる可能性が高い巡航ミサイ
ルに対するリアクションタイムを最小限化するため、
射撃モードを「自動射撃」(人間が介在せずシステ
ムのコンピュータが判定し、最も短い時間で発射す
るモード)にしていた可能性もあります(イランの
ミサイルシステムにそのモードがあるかどうかは不
明です)。
このモードの使用は、味方機や旅客機がまったく飛
行していないことが判明している、いわゆる“戦場”
に限られ、空港が近くにあるような今回の場合、ま
さに友軍相撃防止を優先し、使用されることはない
と考えますが、イラン軍がどう設定していたかはわ
かりません。
次に(3)ですが、システムの操作員は、レーダーに
映る映像から目標の大きさとか飛行方向とか機数な
どがわかります。当然ながら、巡航ミサイルと旅客
機の映像の差異は明白です。しかも、今回のように
遠行目標(遠ざかっていく目標)は、我の脅威には
ならないので、射撃しないのが一般的です。
その他、射手がパニックをおこして発射ボタンを
押してしまったことも考えられますが、日頃からし
っかり訓練してシステムや射撃要領などに熟練して
おれば、このような間違いはしないものですし、2
発発射されたことから意図的な射撃だったと考える
のが適切でしょう。
結論から言えば、上級部隊の命令付与や現場指揮官
の判断を含め、イランの防空部隊があまりにレベル
に低かったため、今回の悲劇が起きたものと考えざ
るを得ないのです。
東西を問わず、軍の軽率・稚拙な行動が国の命運を
狂わせたことは、人類の歴史上枚挙に暇がありませ
んが、現場指揮官をはじめ関係者は今頃、厳罰に処
されていると推測します。
イラン政府は、当初から上記のような誤射の事実を
分かった上で、本事件を隠ぺいしようとしましたが、
誤射の証拠があまりに明々白々であったためすぐに
観念しました。これら不誠実極まりない対応に、国
際社会はもとより国民が反感を持つのは当然と考え
ます。改めて犠牲者のご冥福をお祈り申し上げたい
と思います。
さて本論です。前回紹介しました「日米通商航海条
約」破棄後の情勢をしばらく追ってみようと思いま
す。“なぜ日米戦争に陥ったのか?”を理解するた
めに、あまりスキップしないで振り返ります。長く
なりますが、我慢してお付き合い下さい。
▼武藤章軍務局長誕生!
第66話で紹介しましたように、1939(昭和1
4)年8月、「独ソ不可侵条約」が締結され、平沼
内閣が三国同盟交渉を打ち切りました。あれほど紛
糾した「三国同盟」が陸軍にとって無意味になった
瞬間でしたが、その後の歴史をみれば、陸軍が「三
国同盟」を諦めたことを意味したわけではありませ
んでした。
余談ですが、旧陸軍は明治初期のメッケル招聘以来、
ドイツ陸軍を師としたためか、どうしてもドイツに
対するシンパシーが根強く残っていたと思います。
それが、イギリスを師とした海軍との差となって、
陸・海軍対立の根本原因となったのではないでしょ
うか。明治初期当時の状況から限られた選択肢しか
なかったとは言え、建軍精神の重要性に思いが至り
ます。
話を戻しますと、1939年9月1日、ドイツがポ
ーランドを侵攻して第2次世界大戦が勃発します。
「日米戦争」が始まる約2年半前に欧州で大戦が始
まったのです。この“タイムラグ(時間的ズレ)”
が我が国の歴史上とても重要な意味を持つことにな
ったと私は考えます。
欧州で第2次世界大戦が勃発した頃、日本の国民
生活は窮乏の一途をたどり、前年の昭和13年5月か
ら施行された「国家総動員法」のよる統制経済とと
もに思想統制も強まりました。そのような中、武藤
章が北支那方面軍参謀副長から陸軍省軍務局長に就
任し、内外の難しい情勢の中、陸軍をリードするこ
とになります。
他方、元陸軍大将の阿部信行内閣は国民の求心力
を失い、力不足とみなされます。一部の政党から内
閣不信任案と辞職を勧告され、民政党と政友会から
内閣に善処を求める決議まで行なわれました。この
時点では、帝国議会はまだ機能していたのでした。
年が明けた昭和15年1月、阿部首相は出身母体
の陸軍からも見放されて総辞職、後任には海軍大将
の米内光政内閣が成立します。米内自身は断るつも
りで参内したところ、陛下から懇願されたというの
が真相のようです。
米内首相は、阿部内閣同様、米英重視の外交路線を
引き継ぎますが、欧米情勢の激しい変化に加え、生
活物資の不足が目立ったことから「コメナイ内閣」
と呼ばれたりした国内事情から、倒閣運動が組閣そ
の日から始まるなど、首相として腕をふるうことを
許される情勢ではなかったようです。
▼陸軍の「綜合国策十年計画」の策定
武藤局長がリードする陸軍は、欧州の大戦勃発に対
して「不介入」の態度をとる一方で、“国家総力戦”
に向けた「国防国家体制の確立と日中戦争の早期解
決」を当面の課題と考えます。この考えの真意は、
統制派の先輩・永田鉄山の考えを継承したもので、
「欧州の戦火は、いずれは世界中に拡散し、日本も
その去就を決めなくてはならない」とした所にあり
ました。
日中戦争については、重慶政府と直接交渉により日
中平和を追求しようとします(「桐工作」といわれ
ます)。一般には、日中戦争の解決が困難になって、
その状況を打開するために、陸軍は南方進出し、さ
らに対米戦へ進んで行ったとの見方がありますが、
そもそも“次期大戦にどのように対応するか”が先
にあり、日中戦争の早期解決もそのためのものだっ
たのです。
こうしたなか、陸軍は「綜合国策十年計画」を作成
し、1940(昭和15)年6月、これをまとめ上
げます。その概要は、(1)日本・満州・華北・内
蒙古を「自衛的生活圏」とし、それを軸に(2)日
満中による「東亜新秩序」、(3)「大東亜を包含
する協同経済圏」の三重構造から出来上がっていま
す。
この「協同経済圏」には、東南アジア地域が“資源
の自給自足”の観点から含まれており、やがて「南
進論」となり、「大東亜生存権」につながって行き
ます。
▼第2次近衛内閣誕生と「基本国策要綱」策定
欧州では、同1940年5月10日、ドイツが西方
攻撃を開始し、オランダ、ベルギー、さらにフラン
スに侵攻し、破竹の勢いで周辺国を占領しようとし
ていました。その電撃攻撃によって5月27日には
イギリスのダンケルク撤退、6月14日にはパリ陥
落、6月22日、ついにはフランスがドイツに降伏
します。
国内では、昭和13年夏ごろから近衛新党結成の動
きが強まっていましたが、昭和15年5月下旬ころ
から、近衛文麿、木戸幸一、有馬頼寧(よりやす)
らが会合し、近衛首班の想定のもとの新党結成の動
きが活発になります。
欧州情勢の激しい変化もあって、武藤がリードする
陸軍は、親軍的新党結成の動きに賛成し、8月、第
2次近衛内閣が発足します。しかし、新党は天皇の
統治権を制約する“幕府的存在”だとする批判が起
きます。その批判を受け、近衛らは新党結成を断念、
“行政を補完する精神運動組織”としての「大政翼
賛会」の設置に変更、10月中旬、閣議決定を経て
「大政翼賛会」を発足します。
独自の政治基盤を持たない近衛は、陸軍の力を背景
にせざるを得なかったことに対して、陸軍も、親軍
的新党によって陸軍が望む国策を実現しようとして
いました。その背景には、当然ながら近衛の高い国
民的人気がありました。
こうして、武藤らが作成した「綜合国策十年計画」
は、近衛内閣の組閣直後、「基本国策要綱」として
反映されます。中でも、日満支の結合による「大東
亜の新秩序」の建設が明確になります。
▼「米英可分」と「世界情勢の推移に伴う時局処理
要領」決定
陸軍は、上記のような欧州情勢を“日中戦争を解決
する好機”としてとらえ、「“南方武力行使”は、
その対象を極力“英国のみ”として、対米戦は努め
て“避ける”」よう方針変更し、陸海軍合意の共に
「世界情勢の推移に伴う時局処理要領」を決定しま
す。
米英の密接な連携を承知しながら「米英可分」と判
断したのは、「ドイツの英本土攻撃上陸によってイ
ギリスが崩壊すれば、アメリカは戦争準備の未整備
と孤立主義的国内世論の中で南方への軍事介入のチ
ャンスを失う。また、英国が崩壊すれば、その植民
地のために日本との戦争を賭してまでアメリカは軍
事介入しないだろう」と考えた結果でした。
そして、仏印(フランス領インドシナ)については、
フランスの降伏によって援蒋ルートの遮断が可能と
判断し、また蘭印(インドネシア)については、そ
の本国オランダ政府はイギリスに亡命する形で存続
はしているものの、蘭印の対応によっては石油資源
確保のために武力行使の可能性も視野に入れていま
した。
武藤ら陸軍は、「世界は今や歴史的な一大転換期」
にあると認識し、「ドイツや日本などの“現状打破
国”と米英など“現状維持国”との争いは避けられ
ない。ドイツは、次々に欧州の強国を征服している。
日本の使命は、“大東亜生存権”を建設し、“白人
帝国主義”のもとの奴隷的境遇からアジアを解放す
ることだ」と考えるようになります。
この背景には、ドイツの快進撃のあまり、独ソ不可
侵条約で棚上げにされた「三国同盟」の動きが再燃
し、「バスに乗り遅れるな!」の世論の大合唱があ
りました。
しかし、その後の欧州情勢は、陸軍が期待したよう
には進展しませんでした。その細部は次回振り返り
ましょう。
(以下次号)
※お知らせ
私は現在、ボランテイアですが、公益社団法人自衛
隊家族会の副会長の職にあります。今回紹介いたし
ます『自衛官が語る 海外活動の記録』は、自衛隊
家族会の機関紙「おやばと」に長い間連載してきた
「回想 自衛隊の海外活動」を書籍化したものです。
その経緯を少しご説明しましょう。陸海空自衛隊は、
創設以降冷戦最中の1990年頃までは、全国各地
で災害派遣や警備活動を実施しつつ、「専守防衛」
の防衛政策のもとで国土防衛に専念していました。
憲法の解釈から「海外派兵」そのものが禁止され
ており、国民の誰しも自衛隊の海外活動は想像すら
しないことでした。当然ながら、自衛隊自身もその
ための諸準備を全く行なっていませんでした。
ところが、冷戦終焉に伴う国際社会の劇的な変化に
よって、我が国に対しても国際社会の安定化に向け
て実質的な貢献が求められるようになりました。
こうして、湾岸戦争後の1991(平成3)年、海
上自衛隊掃海部隊のペルシア湾派遣を皮切りに、自
衛隊にとって未知の分野の海外活動が始まりました。
しかも、中には国を挙げての応援態勢がないままで
の海外活動も求められ、派遣隊員や残された家族の
やるせない思いやくやしさは募るばかりでした。
それでも隊員たちは、不平不満など一切口にせず、
「日の丸」を背負った誇りと使命感を抱きつつ、厳
正な規律をもって今日まで一人の犠牲者を出すこと
なく、与えられた任務を確実にこなしてきました。
この間、実際に派遣された隊員たちのご苦労は想像
するにあまりあるのですが、寡黙な自衛官たちは本
音を語ろうとしませんでした。
かくいう私も、陸上幕僚監部防衛部長時代、「イラ
ク復興支援活動」の計画・運用担当部長でしたので、
決して公にはできない様々な経験をさせていただき
ました(墓場まで持っていくと決心しております)。
このような海外活動の実態について、隊員家族をは
じめ広く国民の皆様に知ってもらうことと自衛隊の
海外活動の記録と記憶を後世に伝え残したいという
願いから、「おやばと」紙上でシリーズ化し、各活
動に参加した指揮官や幕僚などに当時の苦労話、経
験、エピソードを寄せてもらいました。
連載は、2012年8月から2014年11月まで
約2年半続き、その後も行なわれている「南スーダ
ン共和国ミッション」や「海賊対処行動」などにつ
いてはそのつど、関係者に投稿をお願いしました。
このたび、シリーズ書籍化第1弾の『自衛官が語る
災害派遣の記録』と同様、桜林美佐さんに監修をお
願いして、その第2弾として『自衛官が語る 海外
活動の記録』が出来上がりました。
本書には、世界各地で指揮官や幕僚などとして実際
の海外活動に従事した25人の自衛官たちの脚色も
誇張もない「生の声」が満載されております。
遠く母国を離れ、過酷な環境下で、ある時は身を挺
して、限られた人数で励まし合って厳しい任務を達
成した隊員たち、実際にはどんなにか辛く、心細く、
不安だったことでしょうか。
しかし、これらの手記を読む限り、そのようなこと
は微塵も感じられないばかりか、逆に派遣先の住民
への愛情や部下への思いやりなどの言葉で溢れてお
り、それぞれ厳しい環境で活動したことを知ってい
る私でさえ、改めて自衛隊の精強さや隊員たちの素
晴らしさを垣間見る思いにかられます。
また、桜林さんには、海外活動の進化した部分とか
依然として制約のある法的権限などについて、わか
りやすく解説し、かつ問題提起していただきました。
皆様にはぜひご一読いただき、まずはこれら手記の
行間にある、隊員たちの「心の叫び」を汲み取って
いただくとともに、自衛隊の海外活動の問題点・課
題などについても広くご理解いただきたいと願って
おります。また、前著『自衛官が語る 災害派遣の
記録』を未読の方は、この機会にこちらもぜひご一
読いただきますようお願い申し上げ、紹介と致しま
す。
『自衛官が語る 海外活動の記録─進化する国際貢献』
桜林美佐監修/自衛隊家族会編
発行:並木書房(2019年12月25日)
https://amzn.to/384Co4T
(むなかた・ひさお)
宗像さんへのメッセージ、ご意見・ご感想は、
このURLからお知らせください。
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【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学
校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロ
ラド大学航空宇宙工学修士課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕
僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、
第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て
2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』
などに投稿多数。
▼きょうの記事への、あなたの感想や疑問・質問、
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▼本連載のバックナンバーサイトを、
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ています。
マガジン作りにご協力いただいた各位に、心から感
謝しています。
そして、メルマガを作る機会を与えてくれた祖国に、
心から感謝しています。ありがとうございました。
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おきらく軍事研究会
(代表・エンリケ航海王子)
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