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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
合わせは以下よりお気軽にどうぞ
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こんにちは、エンリケです。
ことしはじめの
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は70回目です。
明治と昭和の陸軍の間に感じる違和感を
考察するにあたって、
こういう物差しを使われるのか~
と非常に感心しました。
ではきょうの記事、
さっそくどうぞ
エンリケ
ご意見・ご感想はコチラから
↓
https://okigunnji.com/url/7/
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(70)
日米戦争への道程(その1)
宗像久男(元陸将)
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□はじめに(令和2年の配信スタート)
皆様、遅ればせながらあけましておめでとうござ
います。今年1回目の発信です。年賀状や年賀メー
ルで多くの知人・友人などから「メルマガ読んでい
ます。目から鱗です」などと感想を寄せていただき
ました。中には、「毎回の『はじめに』の話題がお
もしろい」との感想もありました。本当にありがた
い限りです。
正直、「豚もおだてりゃ木にのぼる」の心境です(笑)。
皆様、どうぞ今年もよろしくお願いいたします。
今回は、記念すべき第70話となりました。新年
早々、中東の方では“きな臭い年明け”となりまし
た。いずれ本メルマガでも触れたいと思いますが、
本論では、いよいよ我が国の戦前の歴史のクライマ
ックスというべき「日米戦争」を何回かに分けて取
り上げます。
「日米戦争」の見方は本当に諸説あります。私自
身も長い間、これら諸説を学んできました。正月休
暇を利用して体系づけて整理してみようと試みまし
たが、「非力な私には無理」という結論に達しまし
た。
そこで、これまでどおり、努めて“史実”を重視し、
「支那事変」後半から「日米戦争」に至るプロセス
について、主に日本側から見た道程を振り返り、そ
の後、アメリカ側の対日戦略を振り返ることとしま
す。そして最後に、これら諸説のうちの代表的なも
のを紹介しようと考えています。
実は、このあたりから“史実重視”そのものが意外
に難しいことも事実です。年末の大掃除の合間、N
ETFLIXの最新作『WWII最前線─カラーで甦
る第二次世界大戦』を観る機会がありました。第二
次世界大戦の有名な戦い(作戦)をカラー化した映
像で紹介し、それに合わせてアメリカや欧州の有名
な歴史家たち(?)が解説するシリーズでした。
驚いたのは、「真珠湾攻撃」の背景解説でした。著
名な歴史家とおぼしき人が「東條(英機)が満洲事
変を起こした」旨の解説を真面目に語っていたので
す。すっかり“興ざめ”してしまいましたが、私に
は、「東京裁判において東條英機を絞首刑にした勝
者・連合国の判断は正しかった」と、何としてもそ
の“正当性を主張”しているように見えました。
改めて、世界の歴史学のレベルに呆れるとともに、
“後世の人々が勝手に創作する”歴史の怖さに思い
が至ることでした。しかし、「だからこそ、本メル
マガの価値がある」と気持ちを取り直して、当時の
歴史のページを開いてみたいと思います。
なお、1月10日、海上自衛隊に中東地域への派遣
命令が発出され、再び新たな自衛隊の海外活動が始
まります。いずれこの話題も取り上げるつもりです
が、今回は、文末に『自衛官が語る 海外活動の記
録』(桜林美佐監修、自衛隊家族会編)を紹介して
あります。メルマガが長くなって恐縮ですが、皆様
には、実際にこれまで海外活動に参加した自衛官た
ちの脚色のない“生の声”から、彼らの「心の叫び」
を汲み取っていただき、自衛隊が行なう海外活動に
ついてご理解を深めていただきたいと願っておりま
す。
▼重慶爆撃の真相
さて第65話で、1938(昭和13)年11月、
近衛内閣の「東亜新秩序」声明が世界に拡散したこ
とを紹介しました。特に、昭和13年12月頃から
陸海軍の爆撃機によって行なわれた重慶爆撃は欧米
各国から批判されます。
重慶爆撃についてもう少し詳しく触れてみましょう。
当初は米英などの第三国への被害は避けるように厳
命されていたのですが、重慶の気候は霧がちで曇天
の日が多いため、目視による精密爆撃は難しく、だ
んだん目標付近を絨毯(じゅうたん)爆撃するよう
になります。
この後半の絨毯爆撃作戦は海軍主導で行なわれ、中
国方面艦隊の井上成美参謀長が日中戦争の早期終結
を目的に提言した作戦でした。しかし、陸軍はその
無意味さや非人道性を確認し、爆撃参加を中止しま
す。
この絨毯爆撃に対して、ルーズベルト大統領は、
「無差別爆撃は戦時国際法違反だ」と激しく抗議し、
その延長で米国の対日制裁が次々に発令され、拡大
していきます。日米の直接対立に至ったきっかけの
1つもこの重慶爆撃でした。
この戦略爆撃はやがて、連合軍によってドイツや日
本への都市爆撃に応用されますし、終戦にあたり、
米国によって「非人道的な侵略、戦闘行為を繰り返
した悪質な軍事国家・日本を倒した」と重慶爆撃は
歴史の誇張例としても使われました。
その提言は、海軍の“良識派”といわれた井上成美
でしたが、その事実は、なぜか歴史の記録(記憶)
から葬り去られてしまっています。改めて、だいぶ
前に読んだ阿川弘之著の有名な『井上成美』を流し
読みしましたが、重慶爆撃について触れている個所
を見つけることはできませんでした。
次いでながら、(第61話で紹介しましたように)
第2次上海事変を前に、米内光政海軍大臣が不拡大
派から拡大派に豹変した事実についても、阿川氏の
著書『米内光政』の中で見つけることはできません
でした。読みが浅いのかも知れませんが、どちらも
“不都合な真実”としてあえて書かなかったのか、
不思議でなりません。
話を戻しましょう。蒋介石軍は、米国製の多くの対
空砲台を飛行場付近や軍事施設から市街地域に移動
させたため、日本軍はやむなく市街地域の絨毯爆撃
を実施したという事情もありました。明らかに一般
市民を巻き添えにするこの処置自体も“明確な国際
法違反”でしたが、この事実も葬り去られています。
なお、重慶爆撃は、1943(昭和18)年8月ま
で続き、その犠牲者は、中国側の発表によると1万
2千人(一説にはもっと少ない)といわれますが、
東京大空襲や原爆投下の犠牲者と桁違いなのは明ら
かです。
▼我が国は「日米戦争」をいつの時点で決心したか?
さて本題です。我が国は「日米戦争」をいつの時
点で決心したのか、に視点を変えましょう。当時、
我が国の国家としての意思決定は、「御前会議」
(天皇陛下の面前で臣下が重要政策を決定する会議)
で行なわれましたが、「日米戦争」の最終決心に至
る大きな結節は2回、1941(昭和16)年9月
6日の御前会議における「帝国国策遂行要領」の決
定と11月5日の再決定でした。
9月6日の御前会議においては、内閣側から近衛
首相、原枢密院議長、東條陸相、豊田外相、小倉蔵
相、及川海相、鈴木企画院総裁に加え、統帥部側か
ら杉山参謀総長、永野軍令部長、塚田参謀次長、伊
藤軍令部次長が出席していました。
「本案文を一瞥通覧すると、戦争が主で外交が従の
ように見えるが、外交が不成功の場合に開戦すると
いう理解でよいか?」と確かめた原嘉道(よしみち)
枢密院議長の質問に、及川海相が「できる限り外交
交渉を行う」と発言し、原案は可決されました。
会議をまさに終了しようとした時、慣例上、御前会
議で発言することはほとんどない天皇が「重大事に
つき、一言も発言しなかった両統帥部長を質問する。
それはなぜか、両統帥部長より意思の表示がないこ
とを遺憾に思う」と述べられた後、天皇は懐から一
枚の紙を取り出し、日露戦争が始まった明治37年
に詠まれた明治天皇御製の和歌「四方(よも)の海
皆同胞(はらから)と思ふ世に などあだ波の立騒
ぐらむ」を詠み上げられたのです。
ちなみに上記の句で、明治天皇の御製は「波風」
となっていたものを昭和天皇はわざと「あだ波」と
詠まれ、対米戦争反対の意思を強く表明されたとす
る解説があることを紹介しておきましょう。
「帝国国策遂行要領」は、当然ながら、海軍の同
意を得ていましたが、その原案は陸軍が作成したも
のです。ここに至る背景は複雑で様々な紆余曲折が
ありましたが、この「帝国国策遂行要領」の策定を
含めた国の“舵取り”は、主に陸軍主導によって行
なわれていたことは間違いありませんでした。
問題は、「陸軍の誰が主導したか?」です。明治と
比較して昭和の陸軍に何とも言えない違和感を持つ
のは、明治時代は、山縣有朋や児玉源太郎という、
いわゆる陸軍のトップクラスが判断して軍や国政を
動かしたのに対し、昭和時代は、陸軍のトップクラ
スの顔が見えないまま、中堅クラス、中でも「二・
二六事件」以降は、統制派のキーパーソンであった
永田鉄山、石原莞爾、武藤章、田中新一などが“実
権”を持っていたことです。
“下剋上”という言葉ももてはやされましたが、
「二・二六事件」のような暗殺やテロの恐怖もあっ
たものと考えます。事実、三国同盟に体を張って反
対した山本五十六海軍次官などは「一死君国に報ず
るは素より武人の本懐のみ」と始まる遺書まで残し
ています。
これらから、陸軍(主に中堅クラス)が「当時の千
変万化する情勢をどのように分析し、結果として
『日米戦争』に至った国策をどのように考え、この
難局に立ち向かおうとしたか」を中心に、昭和14
年から16年頃の内外情勢と“我が国の命運を決定
づけた”その道程について、長くなりますが、ポイ
ントをあぶり出しながら振り返ってみようと思いま
す。
▼米国の「日米通商航海条約」破棄
前回紹介しましたように、北支那方面軍(武藤章は
参謀副長)は1939(昭和14)年6月、天津租
界の封鎖を断行します。これに対してイギリスは、
緊迫する欧州情勢に備えるため、日本との紛争回避
をめざして外交交渉による解決を望み、日本軍の妨
害となる行為を差し控えることを受け入れます。
このイギリスの決心について、中国(蒋介石)が強
く抗議します。そのような矢先でした。突如、アメ
リカが「日米通商航海条約」の破棄を通告してきま
す(同年7月)。「東亜新秩序」声明や重慶爆撃に
加え、日本によるイギリスへの譲歩強要を“重大な
事態”と考えたルーズベルト大統領の警告処置でし
た。
この破棄通告によって、条約失効の6か月後からい
つでも「対日経済処置」を実施し得ることを示した
のでした(実際に、翌昭和15年1月、「日米通商
航海条約」は失効します)。
この米国の破棄声明によって、イギリスは、一転し
て全面譲歩姿勢から強硬姿勢に決心変更し、交渉は
無期延期となりますが、武藤らは、一貫してイギリ
スに対して強硬姿勢を示します。
天津封鎖問題は、日本(陸軍)にとっては2つの意
味を持っていたといわれます。第1には、中国に大
きな既得権益と経済的影響力を持つイギリスと衝突
することが浮き彫りになったこと、第2に、アメリ
カのイギリス重視が明らかになったこと、でした。
どちらも日本にとって重大な影響を持つ可能性があ
ったのですが、特に石油類の75%、鉄類の49%
など、多くの重要物資をアメリカからの輸入に依存
していたことから、破棄通告によって、戦争遂行の
ための戦略的重要物資の供給途絶の可能性が明確に
なったのでした。
(以下次号)
※お知らせ
私は現在、ボランテイアですが、公益社団法人自衛
隊家族会の副会長の職にあります。今回紹介いたし
ます『自衛官が語る 海外活動の記録』は、自衛隊
家族会の機関紙「おやばと」に長い間連載してきた
「回想 自衛隊の海外活動」を書籍化したものです。
その経緯を少しご説明しましょう。陸海空自衛隊は、
創設以降冷戦最中の1990年頃までは、全国各地
で災害派遣や警備活動を実施しつつ、「専守防衛」
の防衛政策のもとで国土防衛に専念していました。
憲法の解釈から「海外派兵」そのものが禁止され
ており、国民の誰しも自衛隊の海外活動は想像すら
しないことでした。当然ながら、自衛隊自身もその
ための諸準備を全く行なっていませんでした。
ところが、冷戦終焉に伴う国際社会の劇的な変化に
よって、我が国に対しても国際社会の安定化に向け
て実質的な貢献が求められるようになりました。
こうして、湾岸戦争後の1991(平成3)年、海
上自衛隊掃海部隊のペルシア湾派遣を皮切りに、自
衛隊にとって未知の分野の海外活動が始まりました。
しかも、中には国を挙げての応援態勢がないままで
の海外活動も求められ、派遣隊員や残された家族の
やるせない思いやくやしさは募るばかりでした。
それでも隊員たちは、不平不満など一切口にせず、
「日の丸」を背負った誇りと使命感を抱きつつ、厳
正な規律をもって今日まで一人の犠牲者を出すこと
なく、与えられた任務を確実にこなしてきました。
この間、実際に派遣された隊員たちのご苦労は想像
するにあまりあるのですが、寡黙な自衛官たちは本
音を語ろうとしませんでした。
かくいう私も、陸上幕僚監部防衛部長時代、「イラ
ク復興支援活動」の計画・運用担当部長でしたので、
決して公にはできない様々な経験をさせていただき
ました(墓場まで持っていくと決心しております)。
このような海外活動の実態について、隊員家族をは
じめ広く国民の皆様に知ってもらうことと自衛隊の
海外活動の記録と記憶を後世に伝え残したいという
願いから、「おやばと」紙上でシリーズ化し、各活
動に参加した指揮官や幕僚などに当時の苦労話、経
験、エピソードを寄せてもらいました。
連載は、2012年8月から2014年11月まで
約2年半続き、その後も行なわれている「南スーダ
ン共和国ミッション」や「海賊対処行動」などにつ
いてはそのつど、関係者に投稿をお願いしました。
このたび、シリーズ書籍化第1弾の『自衛官が語る
災害派遣の記録』と同様、桜林美佐さんに監修をお
願いして、その第2弾として『自衛官が語る 海外
活動の記録』が出来上がりました。
本書には、世界各地で指揮官や幕僚などとして実際
の海外活動に従事した25人の自衛官たちの脚色も
誇張もない「生の声」が満載されております。
遠く母国を離れ、過酷な環境下で、ある時は身を挺
して、限られた人数で励まし合って厳しい任務を達
成した隊員たち、実際にはどんなにか辛く、心細く、
不安だったことでしょうか。
しかし、これらの手記を読む限り、そのようなこと
は微塵も感じられないばかりか、逆に派遣先の住民
への愛情や部下への思いやりなどの言葉で溢れてお
り、それぞれ厳しい環境で活動したことを知ってい
る私でさえ、改めて自衛隊の精強さや隊員たちの素
晴らしさを垣間見る思いにかられます。
また、桜林さんには、海外活動の進化した部分とか
依然として制約のある法的権限などについて、わか
りやすく解説し、かつ問題提起していただきました。
皆様にはぜひご一読いただき、まずはこれら手記の
行間にある、隊員たちの「心の叫び」を汲み取って
いただくとともに、自衛隊の海外活動の問題点・課
題などについても広くご理解いただきたいと願って
おります。また、前著『自衛官が語る 災害派遣の
記録』を未読の方は、この機会にこちらもぜひご一
読いただきますようお願い申し上げ、紹介と致しま
す。
『自衛官が語る 海外活動の記録─進化する国際貢献』
桜林美佐監修/自衛隊家族会編
発行:並木書房(2019年12月25日)
https://amzn.to/384Co4T
(むなかた・ひさお)
宗像さんへのメッセージ、ご意見・ご感想は、
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【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学
校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロ
ラド大学航空宇宙工学修士課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕
僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、
第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て
2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』
などに投稿多数。
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くことがございます。あらかじめご了承ください。
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最後まで読んでくださったあなたに、心から感謝し
ています。
マガジン作りにご協力いただいた各位に、心から感
謝しています。
そして、メルマガを作る機会を与えてくれた祖国に、
心から感謝しています。ありがとうございました。
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おきらく軍事研究会
(代表・エンリケ航海王子)
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