配信日時 2020/01/08 09:00

【自衛隊警務官(4)】陸軍憲兵から自衛隊警務官に(4)―ポリスと近衛兵の対立― 荒木肇

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あけましておめでとうございます。
エンリケです。

今年もよろしくお願いいたします。

今年最初の荒木先生の記事は、
個人的に大変興味惹かれる内容でした。

明治以前の軍事組織の歴史が
明治建軍の折にも引き継がれた事実。

江戸期の軍事組織の実態

・・・

細かな面白い事実が
わがワクワクに火をつけてなりません、、

冒頭文には
うれしいお知らせもあります。

さっそくどうぞ。


エンリケ


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自衛隊警務官(4)
陸軍憲兵から自衛隊警務官に(4)

ポリスと近衛兵の対立


荒木 肇

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□新年のご挨拶

 明けましておめでとうございます。穏やかな新年
の訪れ、皆さまいかがお過ごしでしょうか。今年の
夏には1964(昭和39)年から半世紀以上も隔
たって開催される東京パラリンピック・オリンピッ
クが開催されます。話題になったのがマラソン競技
で、夏も涼しいということから札幌で開かれること
になりました。

 猛暑といえば、昨年に限ったことではありません
が、大型台風の本州直撃も多い年でした。それによ
る被害もたいへんなことで、多くの方々が命を落と
され、生活の基盤を破壊されるということがありま
した。

 このことについて、親しい元自衛官で、ある自治
体の防災担当をしている人が次のようなことを語っ
てくれました。わたしたちは防災といえば、関東や
東海沖の直下型地震を第一に考えて、それに備えて
多くの力を注いできた。

それはかなりできていて、ことが起きれば、「東日
本大震災」での学びも生かされ、多くの人々の安全
に寄与できる。しかし、その努力や備えの裏で、
「うかつ」にも見逃してきたことがある。

 それは身近な、インフラの未整備による「水害」
だった。大規模地震に比べれば、起きる確率でいえ
ば、はるかに高いのが身近な川の氾濫、地すべりに
ちがいない。そうしたことを「うかつさ」で見逃し
てきた・・・というのです。

 いろいろ考えさせられることばかりでした。そう
した折もおり、拙著『東日本大震災と自衛隊-自衛
隊はなぜ頑張れたか?』(並木書房・2012年)
に注目された大手出版社から寄稿の依頼がありまし
た。毎月発行の月刊誌に自衛隊と災害派遣について
書いてほしいとの話です。とりわけ拙著の中身に描
かれた隊員の様子について、詳しく知らせてほしい
という趣旨でした。

 あの取材の時といえば、まだ復興もままならず、
主に東北地方、福島県には多くの自衛官が活動を続
けていました。陸上幕僚監部の協力でアンケートを
取らせていただき、現地に飛んで、隊員や家族と面
談し、リアルな未曾有の災害派遣の実態を描けたと
自負しています。不眠不休で、「自分たちにしかで
きないことだ」と歯をくいしばり、「被災者に寄り
添うのが自分たちの姿勢だ」と互いに言い聞かせ、
「仲間がいるからこそできた」と語ってくれた隊員
たちがいました。

 その基本は、いまも少しも変わっていません。若
い隊員の中には、あの震災の時には被災者だった、
あるいは遠い地域にいて実態は知らないという人も
増えました。しかし、規模こそ違え、多くの隊員が
昨年の災害でも活躍してくれたのです。

 それを支えたものは何か。そうして、関心はあま
りもたれないが、本務である国防の訓練にも励み、
海外にも派遣され、代休も消化できないという隊員
たちの実態もあります。もちろん、不慮の怪我や病
気もありました。

「ありがとう自衛隊さん」の声に喜びを感じ、駐屯
地へ帰還するときには子供さんまでが手を振ってく
れることに満足し、自分の存在の大切さを確かめる、
そういった事実は多くあります。しかし、自衛隊の
本務は国防なのです。彼らの本務が十分に果たされ
るよう応援し、その環境を整えるのが政治と国民の
役目でありましょう。

 そんなことを書くつもりだと、打ち合わせでは編
集担当者に語ろうと思います。

▼上等士官と下等士官

 人の意識はなかなか変わらない。明治初めには軍
隊や軍事というのは、それまでの武士階級だけのも
のだった。武士階級といっても、いわゆる士分と足
軽ではずいぶん違うものである。士分の中にも大き
な区分があって、いわゆる上士、中士、下士という。

上士というのは戦国時代では侍大将や物頭(ものが
しら)である。中士あるいは平士というのは騎乗の
武士であって、自分の家来を連れている。下士の多
くは徒(かち)であり、足軽は槍組や弓組、鉄炮組
などに編入されて戦った。

これが平時では上士は家老や中老などといわれ、大
名家中の政治を行ない、中士もまたその下僚となっ
て役職に就いていた。もっとも上士と中士の差はそ
れほどでもない。上士の次三男が分家すれば、その
多くは中士になり、嫁取り、婿取りも両階級の間で
は普通に行なわれた。大きな断絶は下士と上・中士
の間にあり、下士が中士に取り立てられることはま
ずなかった。

この制度が明治初めの「上等士官」と「下等士官」
といわれる区別につながっていた。新しい陸海軍で
も「下士官」といわれた階層の呼び方はここから始
まった。上・中士は奏任官である上等士官になり、
天皇直属の旗本という気分をもった。下等士官は以
前の下士であり、長官が採用や階級付与の権を持つ
判任官となった。一代限りの抱え(契約といってい
い)だった足軽は卒とされた。戦国以来の旧い言葉
だが、「軍兵士卒(ぐんぴょう・しそつ)」という
区分が生き残っていたのだ。

▼廃藩までの常備軍

廃藩置県までは各藩に常備軍があった。戊辰戦争に
出征した各藩の部隊の構成や規模は、のちの制度で
いう戦時だけの「動員体制」である。およそ1万石
の経済力で250人から300人の兵力が維持可能
と計算したのは、明治陸軍の戦史研究部門だった。
だから、約80万石の薩摩・大隅2カ国をもつ島津
家の動員数は、約2万人と計算することができる。
戦争が終わって復員すれば、各藩の財政事情による
平時体制の常備軍にもどった。

手元には美濃大垣藩(戸田家、旧幕時代10万石)
の常備軍の編制表がある。それによると、藩軍は
1個大隊、2個歩兵中隊と1個大砲隊だった。歩兵
隊には大尉2人(中隊司令)、中尉2人(小隊司令)、
少尉4人(半隊司令)がいて、それぞれを上等士官
とした。

朝廷官位では大尉が正七位、中尉が従七位、少尉が
正八位と、のちの叙位基準と同じである。各半隊に
は下等士官として権曹長(ごんのそうちょう・曹長
より格下になる)が各1人、軍曹が第1~第4まで
各1人、伍長が2個中隊全部で21人だった。曹長
は定員がない。1等兵卒が小銃手220人、喇叭
(らっぱ)卒12人、2等兵卒が20人となってい
る。

砲兵隊は中尉が1人(分隊司令)で上等士官。下等
士官は火工長を兼ねる権曹長1人、第1軍曹3人、
第2軍曹1人、伍長6人である。1等兵卒になる砲
手45人、喇叭卒2人、2等兵卒が馭者(ぎょしゃ)
6人、築造卒(土木作業担当)15人となっている。
砲は2門だった。

 その採用規定もおもしろい。まず、兵卒には年齢
規定がある。満18歳から37歳、ただし強健な者
は例外があってよい。上等士官の年齢は不問だが、
20歳以下は俊秀(しゅんしゅう)な者でなければ
任用しない。

意外なのは、この大垣藩では互いに選挙をして役職
を決めようとしたところだ。同じような例では、北
海道に政権を立てようとした榎本武揚が率いた幕府
脱走軍が、その幹部を選挙で選んだことがある。時
代の中では先進的な「民主的」な発想だった。

ただし、上等士官は上等士官同士で互選する。兵卒
の選挙(この場合は選抜すること)は、「武学校」
で督学(とくがく)教授が数名を選抜し、欠員があ
る隊の隊員が、その候補者について入札(いれふだ・
投票)して行うとある。

 この「武学校」は藩立のフランス式軍事伝習を行
なうものだった。督学とは教官の束ねをし、学業の
成績を判定する役員である。興味深いのは、やはり
上等士官は、徳川時代の身分だった上士と中士の中
で互選したものだろう。下等士官もまた、旧幕の時
代の下士=徒士から選ばれた者に違いない。

 こうした旧身分意識に縛られた軍隊は、国民国家
の近代軍とはとうてい言えなかった。一応の能力主
義採用とはいうものの、上等士官、下等士官と卒
(もと足軽や同心)の区別は厳格なものだったのだ。

▼鹿児島藩軍の構成

 初期、首都警察である警視庁のポリスには鹿児島
藩旧郷士(外城士・とじょうし)が多く採用された。
対して近衛兵の前身である「御親兵」は主に同藩の
城下士だった。この薩摩島津家の軍隊制度は、城下
士と郷士の差別が厳格だったことが知られている。

 1869(明治2)年3月には鹿児島藩では軍務
局を置いて常備隊を編成した。8小隊を集めて1個
大隊とした。この大隊の兵数は約800人、常備銃
隊が4個大隊、大砲隊2大隊、兵具隊2大隊が編成
された。

銃隊の1番大隊長は桐野利秋(きりの・としあき)、
2番同は川村純義(かわむら・すみよし)、3番同
は篠原国幹(しのはら・くにもと)、4番同野津鎮
雄(のづ・しずお)、大砲隊の1番大隊長は大山巌
(おおやま・いわお)である。

 このメンバーを見れば、当時の人事上の特徴がす
ぐ分かる。全員が城下士であり、西郷隆盛らととも
に政治活動をし、軍人として戊辰戦争を戦い抜いた
人々である。桐野と篠原は、のちに西南戦争(18
77年)で薩摩軍指揮官元陸軍少将として戦死し、
川村は後に海軍大将、野津も同じく陸軍中将、大山
もまた元帥陸軍大将と栄進した経歴をもった(なお
元帥陸軍大将野津道貫は鎮雄の実弟)。

 1870(明治3)年には鹿児島城下の常備銃隊
4個大隊、大砲隊4座(1座はのちの中隊にあたる
8門)があった。そして外城(とじょう)常備銃隊
が14個大隊、大砲隊は3座半(28門)があり、
銃隊総員1万4400、砲隊800人というのが総
兵力だった。鹿児島藩は他藩と比べても士族の率が
高く、兵員を集めるのに苦労は要らなかったのであ
る。

 1871(明治4)年には廃藩置県が断行され、
各藩の独自の軍隊は廃止された。それは戊辰戦争の
勝者だった薩摩・長州・土佐・肥前の軍隊も同じで
ある。新しい国家の軍隊に志願し採用されたのは、
鹿児島藩軍では城下士が多かった。

▼村田経芳の場合

国産小銃の開発者だった村田経芳(むらた・つねよ
し)は1838(天保9)年に生まれた。父親は小
姓組勘定方小頭(こしょうぐみ・かんじょうがた・
こがしら)というから下士である。小銃製造や射撃
に才能を現し、戊辰戦争では「外城一番隊(とじょ
う・いちばんたい)」という郷士で編成された小銃
隊を指揮して転戦する。ただ、幕末以前から西郷や
大久保利通といったメンバーとは面識があったらし
い。

この外城(とじょう)というのは、鹿児島城下の内
城(うっじょう)に対する名前である。中心の鶴丸
城(つるまるじょう)を内とし、その外側の防衛シ
ステムを外城といった。関ヶ原の戦い(1600年)
に敗れて、領地を削られた上杉氏や毛利氏なども大
きな家臣団を維持するのが難しくなった。薩摩・大
隅の2カ国に押し込められた島津家も同じ。そこで
島津家では、開墾に従事させつつ、軍隊編制を崩さ
ないシステムを考えた。

これが郷士を中核にすえた外城制であり、城下士を
優遇し、エリート意識を育てることになった。城下
士は郷士を「隔日兵児(ひして・へこ)」とバカに
した。つまり1日おきにしか武士ではない、農業を
行なうから武士としては半端な存在だということだ。
のちに城下士の身分に登用され、陸軍少将となった
桐野利秋なども若いころ、城下でずいぶんなイジメ
に遭ったらしい。

村田は外城士で編成された銃隊小隊長として戦った。
その実戦においての有能さと実績で、1871(明
治4)年には大尉に任用される。しかし、このとき
幕末に城下士に身分を直された桐野利秋は少将だっ
た。戊辰戦争の論功行賞が加味された人事とはいえ、
村田の年齢や経歴からいえば、大尉とは軽いものだ
ったと見えないだろうか。

▼薩摩の郷士が集められたポリス

 近代警察の父としていまも顕彰される薩摩人がい
る。郷士出身の川路利良(かわじ・としよし)であ
る。川路は与力(よりき)の家に1834(天保5)
年に生まれた。この与力というのは徳川幕府の騎乗
の士である与力とは違っていた。足軽よりは上だが、
郷士の格としても高くはない。

 川路はやはり勇敢で有能な軍隊指揮官であり、戊
辰戦争の戦功で西郷たちに知られることになった。
その川路は西郷から命じられて、近代警察制度を欧
州各国から学んだ。首都警察である警視庁と内務省
が管轄する地方警察を一手に握り、司法と行政を区
別する精神は川路によって具体化された。

 次回は発足当時のポリスと近衛兵の対立、そして
憲兵の誕生などについて知ろう。



(以下次号)


(あらき・はじめ)

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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同
大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露
戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍
教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行な
う。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』(並木書
房)がある。
 
 
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