荒木先生の最新刊
『日本軍はこんな兵器で戦った-国産小火器の開発
と用兵思想』
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評判が非常にいいです。
あなたも、もう読まれましたよね?
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こんにちは。エンリケです。
今年最後の荒木先生の記事は、
江戸、明治草創期の警察組織をめぐる
非常に面白い話です。
さっそくどうぞ。
エンリケ
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自衛隊警務官(3)
陸軍憲兵から自衛隊警務官に(3)
遅れた憲兵の登場
荒木 肇
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□ご挨拶
令和元年の暮れも近づきました。今年をふり返る
と、台風による風水害の多さに驚かされます。わた
したちは、ついつい大地震にばかり関心をもち、そ
れへの備えについての議論ばかりをしてきました。
それはそれで間違ってはいませんが、それよりも蓋
然性というか起こる可能性が高かった風水害への備
えを「うかつにも」忘れてきたのではなかったかと
考えます。
防衛問題も同じです。たしかに北朝鮮の核ミサイ
ルも大きな脅威ですが、尖閣諸島への中国の主権侵
害行為も重要なのではありませんか。さらにはロシ
アによる漁船5隻の連行も起きました。そうしたこ
とへの備えに「うかつさ」があっていいわけではあ
りません。もちろん、各所で懸命に対策を練ってお
られる方々も当然、現場から離れているわたしたち
も忘れないようにしたいものです。
来年は明るい希望に満ちた年であって欲しいと願
っております。
▼明治初めの警察の事情
歴史の教科書だけを読むと、近世(江戸時代)が
終わると近代(明治時代)が始まります。徳川幕府
が滅び、明治新政府ができる。社会の変化がこれで
もか、これでもかと書かれています。しかし、その
中で暮らす人々は、わたしたちとどれほど違うので
しょうか。後世からみれば、いまの私たちだって、
大変な変化の時代にいるように書かれるかもしれま
せん。
変化はたしかに突然訪れますが、人は案外保守的で、
それまでの暮らしやしきたりを急に大きく変えられ
るものではありません。たとえば、江戸(東京・と
うけい)や京、大坂などの治安を守ったのは誰でし
ょうか。それはやはり、旧幕府時代からの江戸町奉
行所、京町奉行所、大坂町奉行所の仕組みであり、
与力や同心、町役人といった人々だったのです。
兵隊たちはどうしたのでしょう。よく知られている
ように、明治4(1871)年7月14日に廃藩置
県の大命が布告される前は、各藩(大名領の組織や
機構)が独自の軍隊(藩兵)をもっていました。各
藩は大名がその統治権をもっていたからです。だか
ら明治維新を成し遂げた官軍とはいうものの、天皇
の手持ちの兵力などは1人もなく、各藩の有志連合
軍だったのです。
廃藩置県の前には1871(明治4)年4月23
日には東山道鎮台(本営は現在の宮城県石巻市)と
西海道鎮台(本営は現在の北九州市小倉、分営は福
岡県博多と大分県日田市)を置いて、8月20日に
は、東京・大阪・鎮西・東北の4個鎮台となります。
このとき、各藩の士族兵は解散され、志願者から選
ばれた人だけが近くの鎮台に入りました。
そのときに置かれたのが3府302県、そうして統
廃合が進み、すぐに3府72県となりました。この
とき、各藩の独自兵力はなくなり、志願した者は壮
兵(そうへい)といわれて新しい陸軍の将兵となり
ます。この後は、いよいよ徴兵令です。その前には
1972(明治5)年11月に「徴兵の詔勅」が下
り、翌年1月には徴兵令が発布されて、士族以外の
平民(商・工・農)もまた現役兵として鎮台に入営
することになりました。
それでは、3府をはじめとして各県の警察業務は誰
が行なっていたのでしょう。
▼江戸時代の警吏(けいり)
各種の捕物帳(とりものちょう)シリーズや、
「鬼平犯科帳(おにへい・はんかちょう)」などの
時代小説でよく知られているように、幕府直轄の大
都市にはどこでも「町奉行」が置かれていた。大坂、
京都、奈良、長崎、伏見ほかである。
町奉行所は行政、司法を扱うところで、どこでも高
級旗本がその長官となって江戸から赴任していた。
その下には、親代々の勤めを続ける騎乗格の与力
(よりき)と足軽格の同心(どうしん)がいて奉行
の職務の支援を行なった。
なかでも将軍のひざ元であり、人口も100万人を
超す大都会の江戸町奉行の権威は高かった。犯罪の
種類も規模も大きく、小は荷物の置き引き、かっぱ
らい、スリ、空き巣から始まり、博打(ばくち)、
喧嘩、傷害、恐喝、誘拐、殺人、強盗、詐欺、公文
書偽造といった破廉恥罪から幕藩体制に弓を引こう
という思想犯まで、その範囲の大きさはまったく現
代と変わらない。
犯罪捜査の現場には「岡っ引き」とか「御用聞き」
といわれた庶民出身の協力者がいた。フィクション
の世界では大活躍して、朱房(しゅぶさ)の十手
(じって)などを振り回すが、あれは誇張されすぎ
ている。彼らは幕府から正式に存在を求められたこ
とはない。あくまでも同心の私的な雇い人でしかな
かった。その収入の主となっていたのは、窃盗犯な
どの裁判に関わることだった。
裁判に被害者として呼び出されるのは大きな負担に
なっていた。町役人(ちょうやくにん)といわれた
大家(おおや)やその代理人に付き添ってもらい、
食事を出し、礼もする。それならいくらか出して、
なかったことにしてもらおう。そう考えるのが普通
である。そこで自分の親しい御用聞きに頼んで、被
害の実態そのものを消してしまう。消してもらうた
めには、犯罪者を捕まえた御用聞きに交渉して、金
で買い取ることになる。
奉行所では犯罪の捜査や容疑者の補縛にあたるのは
三廻り同心(さんまわりどうしん)の仕事である。
いつも町を巡回する「定廻り(じょうまわり)」、
「臨時廻り」、それに「隠密廻り(おんみつまわり)」
だった。
犯罪者の取り調べや捜査書類作成にあたるのは与力
の中でも吟味方(ぎんみがた)である。多くの案件
は、彼らによって調べられ、過去の判例と比べられ、
奉行のもとに判決書が出された。
▼野戦憲兵だった「鬼の平蔵」
また、「鬼平」として知られた長谷川平蔵(はせが
わ・へいぞう)は実在の御先手頭(おさきてかしら)
だった。現在の考え方では軍事警察に近い役割を果
たした。先手とは徳川家の軍団では先鋒(せんぽう)
に配置された足軽部隊である。
先手弓組、先手鉄炮組の先手頭(さきてかしら)、
持弓組、持筒組の持頭(もちがしら)のうちから指
名を受けて「火附盗賊改め(ひつけとうぞくあらた
め)」になった。「頭(かしら)」が火盗改め(か
とうあらため)に指名を受けると、配下の与力や同
心もそのまま任務に就いた。
町奉行所の与力・同心は文官だった。それに対して、
火盗改めは武官である。元来、戦国時代の定法では、
敵の城下町に放火し、あるいは物盗りをして治安を
乱すのは常識だった。したがって火盗改めが創設さ
れた17世紀の江戸の町の治安を保つのは、軍隊の
「先手」の任務でもあったのである。だから、取り
調べが荒っぽかったり、「手にあまれば斬り捨てよ」
という指示もあったりするには当然のことだった。
町奉行所は今でいう東京都庁、警視庁、東京高等
裁判所を兼ねていた。だから、与力の仕事にはそれ
ぞれの担当があり、同じく同心にも仕事の区分があ
った。その中で庶民の犯罪捜査にあたるのは俗に
「三廻り(さんまわり)」といわれる少ない人たち
だった。たったの28人でしかなかった。幕末の話
だが、手先(てさき)といわれた岡っ引きが400
人、その下の下っぴき(したっぴき)といわれた子
分が1000人いたという。
ところで、同心の私的雇いの岡っ引きや御用聞きに
は、ろくに手当てなどがつかなかった。その前に町
奉行所の与力や同心など、やたら地位が低かったの
だ。武士とは「戦場に立つ者」という気分が多く、
庶民の犯罪などに関わることは「不浄(ふじょう)」
とされていた。与力の俸禄はおよそ200石であり、
蔵米取りの200俵に相当する。しかも馬乗り身分
である。それなのに、将軍への目通り(めどおり)
の資格はなく、しかもあくまでも建て前は「一代抱
え」だった(実際は実子相続がふつうの慣例だった
が)。
▼首都の治安は「邏卒(らそつ)」がになった
明治2(1869)年12月、東京府に「府兵(ふ
へい)」がおかれた。それまでは当然、官軍の兵で
ある各藩兵が治安を維持していたのだが、次々と故
郷に復員する。そのため、彼らのうちから志願を募
って、東京府から給与を与え、警察業務にも携わら
せたらしい。各県でもこれにならって「県兵」とか
「区兵」といっていた。翌年には「取締(とりしま
り)」と改称され、大阪でも設けられたという
(『日本陸海軍騒動史・松下芳男・1974年・土
屋書店』)
1971(明治4)年10月23日に「ら卒30
00人を置く」という方針を示した。この「ら」は
巡邏(めぐってパトロールする)をする卒(兵士)
を表して、特定の官名ではなかった。むしろ、外来
語そのままに「ポリス」と呼んでいたらしい。集め
られた薩摩藩士族が2000人、その他藩人が10
00人だったという。
このポリスが持たされたのが「三尺棒」である。
このことは当然、士族出身のポリスの不満とする所
だった。当時、「御親兵」から改編された「近衛兵」
はその多くが、薩摩藩の城下士出身である。
対してポリスは同じ士族でも外城士(とじょうし)
といわれた薩摩郷士の出身者であった。旧藩時代か
ら互いに反目し合っていたのに、今度は首都の警備
にあたるポリスと薩摩出身近衛兵として対立するこ
とになった。これで帯刀させたら大変なことになる
と判断したのだろう。近衛兵は長大なスナイドル銃
剣を帯びている。
この銃剣は明治末期には砲兵の自衛用に支給され
「砲兵刀」ともいわれたものである。全長70セン
チ、柄長12~15センチほど、刃長は50センチ
を超すものだった。片手で振り回すが、江戸時代で
は1尺8寸の長脇差(ながわきざし)にもあたろう
というものである。
▼ポリスと兵卒の衝突
松下博士による『騒動史』に「本郷の争闘事件」
が書かれている。1874(明治7)年1月18日、
日曜日のことである。警視庁の1巡査(じゅんさ)
が本郷3丁目(現在の文京区本郷)付近を巡邏中、
鎮台兵の1人が路傍で立ち小便をしていた。当時の
風俗のことであるから、男性のそうした行為はよく
見られたが、文明国を標榜したいわが国にとっては
何とも都合が悪い。そこで巡査は当然、鎮台兵に注
意を与えたのである。
ところが、兵卒にとっては、自分は天皇陛下の旗
本になっている。不浄な役人のいうことなど聞いて
たまるものかと反抗する。しかも兵卒は泥酔してい
て、警察署に引致しようとしても抵抗した。そこで
捕まえてやれとなったら、そこに同じように外出中
の近衛兵が20人ほども現われた。
巡査もただちに増援を呼んだところ、今度は兵卒
が50~60名余り現われる。立ち小便の犯人は逃
げて、残りの兵卒たちは巡査にさんざんの暴行を加
えた。脱出した巡査の急報でさらに警官隊は増勢さ
れたが、兵卒側もさらに150名余りが駆けつけて
くる。こうして巡査40名余りを兵卒200名以上
が包囲して暴行を働いたのである。
こうした大事件の他にも多くの警察官と兵卒たち
のトラブルが多かった。4月29日には、東京の警
視庁から陸軍省に兵卒の検束方法を定めようという
申し入れがされた。それは当時の府内、軍隊外の警
察権はすべて警視庁が管轄していたからである。
それにしても正当な公務を執行しようとする警官
に対して、平然と反抗する兵卒たちの意識はかなり
のものである。士族兵ならもともと警官などは不浄
役人であり、平民から徴兵で兵卒となった者は、そ
の誇りをもたせようとした教育の結果の特権意識が
高じたものだろう。
6月には東京府下芝愛宕下町(あたごしたまち)
で鎮台兵による巡査屯所(とんしょ・現在の交番の
ようなもの)襲撃事件が起きた。これも酔って放歌
高吟(ほうかこうぎん)、人力車の上でご機嫌の兵
卒3名を巡回中の少警部がとがめたことから起こっ
た事件である。200名を超す兵卒が巡査屯所を包
囲し、中には銃剣を抜き、警察官を傷つける者もい
た。
こうしたことから、陸軍内に軍人による警察権を
行使する「憲兵」をおこうとする動きが高まってき
た。
次回は新年にあたり、いよいよ憲兵設置について
報告しよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
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●著者略歴
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同
大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露
戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍
教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行な
う。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』(並木書
房)がある。
PS
弊マガジンへのご意見、投稿は、投稿者氏名等の個
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