配信日時 2019/12/12 08:00

【我が国の歴史を振り返る ─日本史と世界史に“横串”を入れる─(67)】「ノモンハン事件」に至る日ソ対立の背景 宗像久男(元陸将)

───────────────────
ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
合わせは以下よりお気軽にどうぞ
 
E-mail hirafuji@mbr.nifty.com
WEB http://wos.cool.coocan.jp
───────────────────

こんにちは、エンリケです。

「我が国の歴史を振り返る
 ―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は67回目です。

毎回毎回目からうろこの記事が続きます。

冒頭の「違和感」には全く共感しますね。

戦後社会では、とかくイデオロギーに基づく
戦前のわが国と軍事への蔑視が大々的に行わ
れていますので、よほど注意しないと、日本
人らしからぬ間抜けなバカにさせられますw

微力ですが、弊メルマガも蓄積戦略で
その試みに対抗したいものです。

ではきょうの記事をさっそくどうぞ


エンリケ


追伸
戦後日本で吹聴され、歴史の真実を固く
覆ってきた「歴史常識」が粉々に粉砕さ
れる悦びは大きいですねw


ご意見・ご感想はコチラから
 ↓
https://okigunnji.com/url/7/


───────────────────────
我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(67)

 「ノモンハン事件」に至る日ソ対立の
  背景

宗像久男(元陸将)
───────────────────────

□はじめに

 現役時代に戦史研究の一つとして学んだ記憶もあ
って、今回は、いきなり「ノモンハン事件」に入る
つもりでしたが、今まで目を通すことがなかった
『ノモンハンの夏』(半藤一利著)にはどのように
記載されているかを知りたくなり、急遽読破しまし
た。

そこでまず、本書の率直な印象を“正直に”述べて
みたいと思います。著者は、さすがに事件に関連す
る書籍をよく調べ、事件の背景や事件の細部まで詳
しく、しかもわかりやすく書いておられます。特に、
背景にあるスターリンの対日政策の考えや日本政府
が三国同盟をめぐって大議論する様子などは全くそ
のとおりと思いますので、本メルマガでもその一部
を引用させていただいております。

(元自衛官の立場の)私がどうしても違和感を持つ
のは、著者は、執筆前から陸軍、特に関東軍を“悪
玉”と決めつけるあまり、関東軍が取ったすべての
作戦や戦闘を否定的にみることに“専念”している
ように見えることです(真意は違うのかも知れませ
んが)。

歴史資料などは見方によって、いかようにも使えま
す。しかもすべての資料は“後出し”です。情報も
同じです。相対する敵と味方のすべての情報が判明
した後に、「我の行動は適切だったか?」とか「こ
うすべきだった」などの評価は意味がありません。
戦場では、敵の情報は簡単にわからないもので、そ
れが“戦場の実相”だからです。

また、戦場においては、我の損害を知るのは簡単で
すが、敵の損害を知るのは極めて困難なことも“戦
場の常識”です。今は衛星やドローンなどの監視手
段がありますが、当時は、目の前で撃破した戦車や
航空機数などはすぐにカウントできても、後方の砲
火による損耗などは簡単にはわかりませんでした。
よって、相対している敵の攻撃衝力(我を押し出す
力)が弱くなった、などの“事象”により彼我の相
対的な損害(残存戦力)を判定するしかなかったの
です。

しかし、敵側に増援兵力があれば、攻撃衝力のよう
なものは変わりません。のちに触れますが、8月大
攻勢時のソ連兵力は関東軍の4~5倍ありました。
この圧倒的な戦力によって関東軍を殲滅したかと思
いきや、関東軍はかなり敢闘しました。その結果、
事件全体のソ連・蒙古軍の総損耗は、関東軍の約1
万9800人よりも多い約2万4500人だったこ
とがソ連崩壊後に明らかになっています。

当然、当時からスターリンはソ連軍の損耗を知って
います。質・量ともに圧倒的に勝るソ連軍にこれほ
どの損耗を与えた日本軍に対する恐怖心が再び蘇り、
日本が本格的な対ソ戦は考えていないと知るや、欧
州正面に集中するための対日停戦協定締結を決断す
るに至ったのではないでしょうか。

細部は本文で触れますが、確かに、陸軍中央と関東
軍の確執は目に余るものがあります。この源は、明
治初期プロシア参謀のメッケルによって教えられた
部隊運用における独断専行(予測しなかった状況に
直面した場合、第一線指揮官の責任において自主的
に部隊を運用する)との教えにあります。

「ノモンハン事件」1年前の「張鼓峰(ちょうこほ
う)事件」の経験から、関東軍は「国境線が不明確
な地域では、防衛司令官は自主的に国境線を認定し、
第一線部隊に明示する」旨の「国境紛争処理要綱」
を指示していました。これも批判がありますが、ソ
満国境防衛の任務を有する関東軍としては、国境線
が不明確な現地の状況から、適切な処理要綱だった
のではないでしょうか。

日清・日露戦争、それに満州事変や支那事変に比し
て、「ノモンハン事件」は、日本軍が初めて経験し
た“本格的な近代戦”でした。今様の言葉で言えば、
“技術奇襲”を受けたのでした。

このような情勢下でもあらんかぎりの戦力を駆使し
て国境線を死守しようとした関東軍の奮闘、なかで
も圧倒的な量と質を誇るソ連軍に対して、自らの命
を懸けて果敢に立ち向かって任務を遂行し、そして
散って逝った約2万人の将兵たちに、日露戦争時の
旅順攻撃と同じような“軍人魂”を感じ、私は涙が
流れます。

高名な著者には大変失礼ながら、『ノモンハンの夏』
の中で、関東軍や散って逝った将兵に関する、あの
切り捨てたような描写はいったいどこから来るのか、
という素朴な疑問が沸き上がりました。関東軍や将
兵を散々こき下ろし、最後に、前述したように“日
本軍よりソ連軍の損耗が多かった”との事実をわず
か数行の紹介で済ましていることにも“違和感”を
感じます。

歴史や軍事を知らない読者はこの本から何を学び、
何を理解するのでしょうか。戦前の日本人の考えや
行動が正しく伝わるのでしょうか。(無理にお勧め
するわけではありませんが)未読の方にはぜひこの
“違和感”を味わっていただきたいと願っておりま
す。

 長くなりました。「ノモンハン事件は欧州情勢を
抜きにして語ることができない」ことだけは半藤氏
と一致します。その視点から本論に入りましょう。

▼日ソ対立の背景―ソ連側

前回の補足にもなりますが、日ソ対立の要因をまと
めて振り返ってみましょう。まずソ連側の要因です。

欧州と東アジアと地理的には遠く離れていますが、
スターリンにとってはいずれもその動向が気になり
ます。スターリンは、地球儀を見ながら戦争を指導
したといわれますが、小さな地球儀上では、欧州と
東アジアは“目と鼻の先の近さ”に見えたのでしょ
う。

当時、日露戦争やシベリア出兵の経験などから、一
般にロシア人には日本人に対するコンプレックス
(恐怖心)あったようですし、その逆(日本人のロ
シア人への侮り)もあったようです。

スターリンとて例外でなく、ドイツと日本の双方か
ら挟撃されれば、ソ連がひとたまりもなく崩壊する
という“悪夢”を常に有していたのでした。もし、
ドイツとの対決を避けられなければ、少なくとも日
本との戦争は避けなければならないと考えるのは当
然だったのです。

しかし、「満州事変」以来、ソ連と日本は長い「国
境線」を挟んで直接対峙することになります。日本
は満州国(東北3州)の地歩を固めた後に、内蒙古、
外蒙古方面へ勢力拡大を図っていました。蒙古は、
ソ連にとって致命的な地政学上の利益をともなう場
所であることからよけいに神経質になります。特に
ソ連の保護国となった外蒙古は、ソ連からすれば対
日本帝国主義侵攻の防波堤の役割を担っていたので
す。

その上、約4000kmに及ぶソ満国境は、3900
kmが河川や湖沼で、特に歴史的に国境の目安とされ
たアムール川やその支流は、水量の影響で川の流れ
が変わるなど事態を複雑にしていました。

こうして、1937年の「カンチャンズ島事件」か
ら「張鼓峰事件」、そして1939年の「ノモンハ
ン事件」に至る事件をはじめとして、「満州事変」
以降、約200件の国境紛争が起きていました。

そして、のちに「三国同盟」発展する「日独防共協
定」(1936〔昭和11〕年)の締結は、その秘
密文書の中に対ソ軍事同盟の性格を持っていました
ので、スターリンをさらにいら立たせ、日ソの緊張
は高まります。

スターリンはまた、中国情勢についても「中国国民
政府の圧力がなくなれば、日本は後顧の憂いなく対
ソ攻撃に踏み切る」として強く警戒していました。
「西安事件」で処罰を望んだ毛沢東と激しく対立し
たのは、蒋介石がいなくなると中国の対日戦線が破
城することを恐れたためでした。

その危惧を背景にして、(前回触れましたように)
「中ソ不可侵条約」(1937年)を結び、中国に
対して数千万ドルに及ぶ借款や武器を提供します。
ソ連は、対独戦争の脅威にさらされているなかにあ
って、蒋介石軍に対して飛行機297機、戦車82
両、大砲425門など、英米よりもはるかに実質的
な支援を行なっていたのです。

▼日ソ初の本格衝突「「張鼓峰事件」

こうしたなか、日本軍が「支那事変」開戦以来最大
の兵力をもって漢口作戦を実施していた時に起こっ
たのが、日ソ間の最初の本格的な戦闘となった「張
鼓峰事件」です(1938〔昭和13〕年7月)。

当初国境を越えて侵入したのはソ連兵でしたが、関
東軍の第19師団は夜襲をもって国境線を回復しま
す。大本営は、「支那事変」の処理への影響を考慮
し、国境線回復後は、専守防衛の方針を示し、外交
交渉による解決に努めます。しかし、ソ連は再び航
空機の支援のもとに逆襲に転じ、日本軍は苦戦しま
す。

結局、両軍が対峙している位置をもって停戦合意さ
れ、その後の現地交渉によって双方とも80メート
ルずつ離れて対峙することで決着しました。本事件
は、ソ連の圧倒的な火力の反撃にあって日本軍が一
方的に撃破されたようとなっていましたが、日本側
が戦死約530人、負傷約910人だったのに比し、
ソ連崩壊後の資料によると、ソ連側の戦死約240
人、負傷約610人となっています。戦いは五分五
分だったのです。

本事件によって、日本軍は、ソ連の火力徹底思想や
戦法の軽易な改善などの実態を初体験しました。

▼日ソ対立の背景―日本側

再び、日ソ対立の背景を日本側からみてみますと、
特に陸軍は、明治以来伝統的にロシアを仮想敵国の
筆頭に挙げ、対ソ戦争を最も警戒していたこと、ま
た満州国建設の目的の一つも対ソ防衛戦のための地
歩(縦深)の確保があったことはすでに紹介した通
りです。

昭和13年夏ごろ、ドイツから「日独防共協定」を
ソ連だけにとどまらず、他国にまで広げて“軍事同
盟”に切り替えようという強い申し出があります。
ヒトラーは、「ポーランド併合を企てた際、同盟国
の英仏は黙ってはいないだろう。日本の強力な海軍
力をもって両国を牽制してほしい」と期待したので
した。「欧州戦争に参加するのが嫌なら、名目だけ
でもいいから『日独伊の三国同盟』を世界に発表し
よう」と促がしたようですが、これ以降、この「参
戦」条項をめぐって政府内で大議論することになり
ます。

ソ連の脅威に直面している当時の陸軍中央(主に作
戦課)は、「ドイツと同盟を結ぶことで、ドイツの
軍事力をもってソ連の背後から強力に牽制できる」
と考え、またこれによって「ソ連からの攻撃の心配
なしに中国に対して全兵力を行使することが可能に
なり、この勢いをもって蒋介石を和平に応じさせる
ことができる」とも考え、「泥沼の日中戦争を早急
に解決するため」とこの画策に乗ります。

その背景には、「持たざる国」(日独伊)が「持て
る国」(英仏)とのアンバランスを崩して世界秩
序を打ち立てるという希望を実現するため、「三国
同盟は我が国の国際的地位向上につながる国家戦略」
だとする考えがありました。

板垣陸軍大臣は、「職を賭しても三国同盟を成立さ
せる」と約束します。陸軍省内にも「中国大陸でど
ろ沼の戦いを続け、かつ極東ソ連軍の強大化に怯え
ながら、その上に英仏と戦う余力があるのか、英仏
の対立は対アメリカとの戦争にもつながる」と反対
する意見もありましたが、完全に無視され、政界の
一部や外務省、それに宮廷内にも賛意を示す意見が
増えていきます。

平沼首相は外交にはまったく門外漢でしたので、陸
軍の弾圧に屈することが多いなか、真正面から立ち
ふさがったのは海軍省首脳(米内光政海軍大臣、山
本五十六次官、井上成美軍務局長)でした。

特に山本は、「日本の海軍軍備の現状をもってして
は対米英戦争に勝算は全くない。自動参戦などとん
でもない」とし、この同盟は「ソ連への牽制という
点では有効であっても、ヒトラーに引きずられ、日
本は、英仏はおろかアメリカとの大戦争に巻き込ま
れる」と大反対します(同じ人物が日米戦争の発端
となる真珠湾攻撃を強行するのですから歴史は不思
議です。細部はのちほど触れましょう)。

このようななか、5相会議(首相、外相、陸相、海
相、蔵相)が1939(昭和14)年1月から4月
といつ果てるともなく続き、数十回を数えますが、
合意に達しようとしません。そのうち、天皇が明確
に「三国同盟の参戦条項に反対」の意思を表明され
ていることが伝わってきてきます。

「三国同盟」は、それから1年後の昭和15年9月、
第2次近衛内閣時の外相松岡洋右の剛腕によって締
結されます。松岡は、我が国の外交史で「日本を滅
ぼした外務大臣」として筆誅を加えられています。
また、ここに至るまで様々な紆余曲折が続きますが、
それらは次号以降に取り上げましょう。


 
(以下次号)


(むなかた・ひさお)


宗像さんへのメッセージ、ご意見・ご感想は、
このURLからお知らせください。

https://okigunnji.com/url/7/


 
【著者紹介】

宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学
校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロ
ラド大学航空宇宙工学修士課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕
僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、
第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て
2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』
などに投稿多数。


▼きょうの記事への、あなたの感想や疑問・質問、
ご意見をここからお知らせください。
 ⇒ https://okigunnji.com/url/7/


▼本連載のバックナンバーサイトを、
お知り合いに伝えてください。
 ⇒ https://munakatahistory.okigunnji.com

 
 
PS
弊マガジンへのご意見、投稿は、投稿者氏名等の個
人情報を伏せたうえで、メルマガ誌上及びメールマ
ガジン「軍事情報」が主催運営するインターネット
上のサービス(携帯サイトを含む)で紹介させて頂
くことがございます。あらかじめご了承ください。
 
PPS
投稿文の著作権は各投稿者に帰属します。
その他すべての文章・記事の著作権はメールマガジ
ン「軍事情報」発行人に帰属します。
 
 
最後まで読んでくださったあなたに、心から感謝し
ています。
マガジン作りにご協力いただいた各位に、心から感
謝しています。
そして、メルマガを作る機会を与えてくれた祖国に、
心から感謝しています。ありがとうございました。

 
●配信停止はこちらから
https://1lejend.com/d.php?t=test&m=example%40example.com 
 
 
---------------------------------------------- 
発行:
おきらく軍事研究会
(代表・エンリケ航海王子)
 
メインサイト
https://okigunnji.com/
 
問い合わせはこちら
https://okigunnji.com/url/7/
 
 ---------------------------------------------

Copyright(c) 2000-2019 Gunjijouhou.All rights reserved