配信日時 2019/12/10 20:00

【わが国の情報史(46)】秘密戦と陸軍中野学校(その8)━ 陸軍中野学校の精神養育と国体学 ━ 上田篤盛

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官で
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こんにちは、エンリケです。

感激しました。
涙が溢れました。

こんな面白い
インテリジェンス、国史ばなしを、
読んだことありません。

読みたい古典もまた増えました。

感謝です。


さっそくどうぞ。

エンリケ


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わが国の情報史(46)
秘密戦と陸軍中野学校(その8)

陸軍中野学校の精神養育と国体学

インテリジェンス研究家・上田篤盛(あつもり)
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□はじめに

 12月に入りました。あと1か月弱で今年も終わ
りです。今年は平成から令和に元号が変わった節目
の年です。

 そこで、「平成とはどんな時代であったのか」に
ついて自分自身の答えを探すために、私は現在、
「平成の回顧録」なるものに挑戦しています。これ
は、特別なニーズに迫られたものではありませんが、
これから先には絶対にやらないような気がして、
「今やらねば」と奮起した次第です。

 その主な作業手順を申します。

 インターネット上で「時事ニュース・ドットコム」
を開きます。そこに「【図解・社会】平成を振り返
る」という題目で、平成30年間の「10大ニュー
ス」が年別に掲示されています。

 年ごとの「10大ニュース」を読み、前後の関連
性を考えながら「政治」「経済」「社会・文化」
「科学技術」の枠組み、いわゆる「PEST」で再
整理しています。知らないこと、関連することがあ
れば調べています。

 次に1990年代、2000年代、2010年代
の3つ年代にわけて、重要事項を整理して総括して
います。

 最後に「平成とはどんな時代か?」「昭和とはと
のような違いがあるか?」私なりの言葉で2~3頁
にまとめようと思います(まだ取りかかっていませ
ん)。

 年ごとの「10大ニュース」を読むのが「虫の目」、
年代ごとに総括するのが「魚の目」、そして平成全
体としての一つの答えをだすのが「鳥の目」という
感じです。

 この作業がハンパなく大変!すでに相当な時間を
かけていますが、まだ半ばという具合です。正直、
やり始めたことを少し後悔しているくらいです。

 平成年間は、私のほぼ30代から50代にあたり
ますので、実際に目にしたことや、耳にした記事が
ほとんどのはずなのですが、いやいや、知らなかっ
たこと、忘れていたことがほとんどなのです。

 新たな発見もありますし、堂々巡りの日本の政治
にも辟易することがあります。現在、「桜を見る会」
で野党批判が高まっている安倍政権ですが、それで
も、かつての政権の“烏合離散”の時代よりは安定
性があり、外にも内にも前を向いて進んでいるよう
な気がします。

 前回は中野学校卒業生に求められる精神要素につ
いて解説しましたが、今回はそのための精神機育、
すなわち国体学について解説します。

▼吉原政巳教官による国体学とは

 第1期生から国体学の授業は行なわれたが、第2
期生の途中からは吉原政巳教官が中野学校に赴任し、
1945年8月に富岡で閉校になるまで吉原が本校
での国体学の教育に携わった。
 
 吉原は中野学校に来てくれないかとして勧誘され
た時、30歳(満で29歳)であった。そこで、彼
は己れの未熟さを自覚したうえで全軍から選り抜き
の中野学校の秀英を国士として養成する任務の重さ
を認識し、教育を引き受ける上で、以下の3つの提
案を行なった。

1)楠公社(なんこうしゃ)を建て、朝夕ここに詣
(もう)で、楠公の忠誠を偲(しのぶ)と共に、自
分の魂を省察点検できるようにする。
2)記念館(室)を設け、明治以来の先輩、秘密戦
士の遺品・遺影、その他の関係資料を掲げて、ここ
に講堂をあてる。
3)単に講堂の授業で終わらず、国事に殪(たお)
れた先烈の士の遺跡を訪ね、現地で精神的結晶の総
仕上げを試みる。(吉原『中野学校教育-教官の回
想』)

 以上の3つは、学校当局の賛同を得て関係者の並々
ならぬ実現に向けた努力が払われた結果、予算化が
なされ、めだてたく完全実施に至った。

▼楠木正成、大江氏から「孫子」を学ぶ

 楠公(なんこう)とは鎌倉時代の武将・楠木正成
のことである。彼は1334年の「建武の中興」の
立役者である。

 当時、鎌倉幕府の長である北条高時を打倒し、天
皇の権限を強化しようと後醍醐天皇が立ち上がった。
そこに馳せ参じたのが、忍者の系統を持つ「悪党」
のリーダー、河内の土豪であった正成であった。

 正成は、農業や商業に従事する500騎の地侍を
率い、智謀を駆使して圧倒的に優勢な幕府軍に立ち
向かった。そこには「孫子」の兵法を応用した悪党
流のゲリラ戦法が発揮された。

 正成に「孫子」は伝授したのは大江時親(ときち
か、毛利時親ともいう)であるとされる。大江家は
世々代々、兵法書を管理する家柄であった。中国か
らわが国に伝来した「孫子」などは、「人の耳目を
惑わすもの」として大江家が厳重に管理していたの
である。

 大江家の初期の祖である大江維時(おおえのこれ
とき、888年~963年)は930年頃に唐から
兵書『六韜(りくとう)』『三略』『軍勝図(諸葛
孔明の八陣図)』を持ち帰った。大江家はこれらの
ほかに『孫子』『呉子』『尉繚子(うつりょうし)』
などを門外不出の兵法書として管理した。

 大江家第35代の大江匡房(まさふさ 1041~
1111年)は、河内源氏の源義家(八幡太郎)に
請われて兵法を教えた。兵法を伝授された義家は
「前九年の役」(1056~1064年)、「後三
年の役」(1083~1086)で奥羽の安倍氏を
討伐した。

 その後も「孫子」は大江家によって厳重に管理さ
れ、第42代の時親が、河内の観心寺で楠木正成に
「孫子」の兵法を伝授したとされる。

▼正成に伝えられたもう一つの兵法

 正成が後世において敬仰(けいぎょう)されるよ
うになるのは、「孫子」に裏打ちされた智謀だけで
はない。

 後醍醐天皇のために殉死した湊川(兵庫県神戸市)
における正々堂々の戦いや、「七生報告」(「何度
生まれ変わっても国のために尽力する」という意味)
にみられる主君に対する忠誠心が人の心をとらえて
離さなかったのである。

 正成は足利尊氏の軍に敗れて、「七生報告」を誓
って、弟の正季(まさすえ)と刺し違えて自刃した。

 こうした正成の忠誠心滅は「兵は詭道である」と
説く「孫子」の解釈では説明できない。

 実は、そこには匡房が確立した、わが国古来の兵
法書「闘戦経」の教えがあった。匡房は「孫子」は
優れた書物ではあるが、必ずしも日本の文化や伝統
に合致せず、正直、誠実、協調と和、自己犠牲など
の日本古来の精神文化を損なう危険性があると認識
した。そこで自ら「闘戦経」を著し、「孫子」を学
ぶ者は、同時に「闘戦経」を学ばなければならない
と説いたとされる。

 大江時親が楠木正成に観心寺で兵法を伝授した時、
同時に「闘戦経」も伝授したと伝えられている。つ
まり「孫子」のわが国風土における欠落を「闘戦経」
で補完したわけである。それが楠木流兵法であった。

 「闘戦経」の特徴のひとつが、戦いに勝つために、
戦場における「兵は詭道なり」はあってもよいが、
戦略上はすべて謀略に頼るのではなく、時には正々
堂々とよく戦うことも重要である、という点である。

 こうした教えの下で「湊川に戦い」において“負
け戦”と分かっていながら、尊氏軍に対する16度
の突撃が繰り返されたのである。

▼楠木正成への敬仰

 正成の忠戦は、その死後からわずか35年後に著
された『太平記』によって描かれている。

 吉原は、「『太平記』は正史ではなく、記事の資
料にも難があるといわれる。しかし、虚実を超えた
真ともいうべきものを、強く人に訴えてやまない書
であり、当時の公卿から武士、庶民にいたるまで、
広く読まれて、日本人の心の中に、深く影響を残し
てゆくのである」と述べている。(吉原『中野学校
教育―教官の回想』)

 ようするに、史実であるかどうかということより
も、いかにのちの日本人の精神や生き方に影響力を
与えたかがより重要なのである。むしろ、それを知
ることが歴史の本質だと筆者は考える。

 約100年後の1467年には『太平記評判』が
著され、正成は兵法の神様として国民の間に尊敬を
高めていく。当時、足利幕府は正成を朝敵として扱
っていたが、正成の死後223年(1559年)に
して、その後裔の楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願した。
朝廷がこれを認め、正虎を河内守に復し、正五位下
に除した。

 江戸時代になり、水戸光圀などにより正成を敬仰
する動きが全国的に起こり、楠木精神は「武士道」
精神のなかに浸透していった。そして、幕末の吉田
松陰を通じて志士へと受け継がれ、倒幕の精神的原
動力になった。

 明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、
1880年(明治13年)、の明治天皇御幸の際、
正成は正一位を追贈された。

▼楠公社建立の願意

 吉原は正成を秘密戦士の理想像とした。吉原の要
請を受けて、学校当局者が楠公社の設立許可を陸軍
省から得て、学校から派遣した使者によって湊川神
社から分霊(わけみたま)が運ばれ、学内に公社が
建立された。

 楠公社建立の願意は、次のとおりであった。

1)醇乎(じゅんこ、混じりけのない)たる日本人
の代表としての楠公を祀り、日夜その遺烈を慕い学
ぶ。
2)うぶすなの神(筆者注:生まれた土地を守護す
る神)とし、われらが魂の誕生を告げ、且つ生涯に
亙(わた)って、ここに魂のふるさとを持つ。
3)中野学校卒業戦没殉職者を配祀し、永くこれら
英霊との語らいを続け、遺烈を継承する。
4)奇策縦横の智謀を学ぶべし、大敵・大軍にたじ
ろかぬ不適の大勇学ぶべし、そしてそれらが由って
発する所の、至忠至純の精神に、最も学ぶべし。

▼記念室での正座と座禅

 記念室には身近に先覚の遺影をかかげ、遺品が展
示された。また図書室には、できるだけ多くの関係
図書が揃えられた。日清戦争前における民間有志の
奮起や東亜同文会などの活躍を描いた『東亜先覚志
士記伝』、日露戦争時の『明石元二郎伝』、菅沼貞
風の『新日本の図南の夢』などがよく閲覧された。

 先覚の遺影には、日清・日露戦争時に大陸で情報
活動に従事した、荒尾静、根津一、岸田吟香、浦敬
一、菅沼貞風、沖禎介、横川省三らのほか、中野学
校における秘密戦士の理想とされた明石元二郎の遺
影がかかげられた。

 記念室は畳敷きであり、ここを講堂として学生は
各人が小さな机に向かって、座布団なしで正座し、
国体学の教育を受講した。すなわち、吉田松陰が塾
生に講義するスタイルがとられたのである。

 吉原は、「自分は和服だし正座は慣れていたが、
学生諸氏は窮屈な背広を着用し、若くて張り切った
大腿であったから、不慣れな正座は苦痛そのもので
あったとろう」との感想を述べている。

 その上で、吉原は「しかし私は、何の躊躇もなく
正座を要求した。正座の苦痛のために、私の講義が
耳に入らないこともあるのは、十分考えられること
であったが、それでもあえて正座講義を行なった。
人間の意志伝達は、耳や眼など以上に、体全体で受
け入れる方が大事と疑わなかったからである」と述
べている。

 実際に卒業生からはこの正座の厳しさが、戦後に
なっても懐かしい思い出ともなり、昔話しに花を咲
かせたようだ。他方、2期生は夏休みを利用して、
自主的に三浦半島の禅寺で1週間の座禅を研修し、
精神修養におおきな成果があったとされている。自
ら苦行を実践して、精神修練につとめたというわけ
だ。

 今日、暴力や強要がタブー視される傾向がより顕
著となっている。よって正座の強要などは精神修養
の手段とはなりえまい。しかし、人間は安きに流れ
るものである。精神面の鍛錬に肉体的な苦痛を伴う
ことは、時と場合によっては必要なのかもしれない、
このようにふっと考えることもある。

▼国体学の柱が楠木精神を学ぶこと

 国体学とは、わが国の由緒正しい国家の体制を歴
史的に学ぶ学問である。吉原が活用した教材には、
南北朝時代において北畠親房が記した『神皇正統記』、
江戸時代において日本固有の儒学を確立した山崎闇
斎の『崎門学』(きもんがく)、水戸藩の藤田東湖
の『弘道館記述義』、そして吉田松陰の『講孟箚記』
(こうもうさつき)などがある。

 また、学生の卒業に際しては、先烈の遺跡を訪れ
る「国体学現地演習」が行なわれた。この研修では、
吉野、笠置、赤坂、千早、湊川、鎌倉等の楠木正成
のゆかりの地、幕末の水戸藩の史跡、吉田松陰が獄
中生活を送った伝馬町獄跡や松陰の墓がある小塚原
回向院(えこういん)など、幕末志士たちのゆかり
の跡を訪ねて国事に殉ずる精神の陶冶(とうや)が
はかられた。

 これら教材や研修先から、時代を超えた楠木精神
の伝承を学ぶことが国体学のひとつの柱であったよ
うにみられる。

 正成の後醍醐天皇に対する忠義と永遠に変わらぬ
誠の心、そして彼の生きざまは、江戸時代の「水戸
のご老公」こと水戸光圀の研究対象とされて、武士
の鑑(かがみ)としてもてはやされた。
 
 光圀は、歴代天皇を扱った歴史書『大日本史』を
編纂(へんさん)するなかで、南朝と北朝に天皇が
それぞれ並び立つ14世紀の南北朝時代において、
南朝の後醍醐天皇を正統とする立場をとった。すな
わち、北畠親房の『神皇正統記』の正統性を認めた。

 光圀は1692(元禄5)年12月、正成の墓が
あった湊川に墓碑(楠公碑)を建立した。碑面に自
筆揮毫で「嗚呼(ああ)忠臣楠子(なんし)之墓」
と刻んだ。

 以後、水戸藩の学問「水戸学」を通して藩内には
正成の精神がいきわたる。その中心人物が会沢正志
斎(1782~1863)と藤田東湖(1806~
1855)である。そのうち東湖が書いたものが、
教材となった『弘道館記述義』である。

 水戸藩士は尊王攘夷を掲げ、幕府の大老、井伊直
弼(なおすけ)を襲撃した桜田門外の変を起こした。
この際の精神的支柱になったのも正成であった。

 楠木精神の継承者として忘れてはならないのが士
道を確立した山鹿素行である。素行は『楠正成一巻
書』(1654年)の序文を執筆し、「忠孝は武士
の励む最もたる徳で、非常に難しいが、歴史上もっ
とも忠孝を尽したのは楠木正成・正行しかいない」
と述べた。

 素行は士道において「誠」を強調した。その思想
が吉田松陰や乃木希助へと継承された。なお、松陰
は著書『武教講録』のなかで素行を「先師」と尊敬
しているが、松陰と素行とは時代が200年ほどこ
となるので直接な交流はない。

 松陰もまた、湊川神社の正成の墓所を訪問(18
51年)するなど、正成を敬仰した。そして松陰は
水戸の会沢正志斎と藤田東湖と交流し、尊王思想に
感化を受けた。

 このようにして、楠木精神が山鹿素行や水戸藩に
よって継承され、松陰によってその精神がなお高め
られ、高杉晋作、桂小五郎などを動かして明治維新
を成し遂げたのであった。

 こうした正成の思想が伝授されるなかで、「謀略
は誠なり」の言葉の発祥とともに、正成が太平洋戦
争期における秘密戦士の精神的支柱になっていった
と考えられる。

 かくして中野学校において楠公社が建立され、そ
こで学生は座禅を組み、精神修養に日夜は励んだ。
こうして中野学校に教えに日本の伝統的な「誠」の
精神が注入されたのである。

 米軍は太平洋戦争時、わが国に対して無差別爆撃
を実施した。これは「孫子」の第12編「火攻」で
ある。

 しかし、中野学校卒業生は、アジア解放の戦士と
なることを目指した。彼らは、「孫子」の知恵の戦
いは踏襲したが、「孫子」とは一線を画する「闘戦
教」の教えに根差した「誠」の心を持ってアジアの
人々と接した。

 それゆえに、彼らの行動はアジアの人々の琴線に
触れたのである。


(次回は最終回)


(うえだあつもり)

上田さんへのメッセージ、ご意見・ご感想は、
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【著者紹介】
上田篤盛(うえだ・あつもり)
1960年広島県生まれ。元防衛省情報分析官。防衛大学校(国際関係
論)卒業後、1984年に陸上自衛隊に入隊。87年に陸上自衛隊調査
学校の語学課程に入校以降、情報関係職に従事。92年から95年に
かけて在バングラデシュ日本国大使館において警備官として勤務
し、危機管理、邦人安全対策などを担当。帰国後、調査学校教官
をへて戦略情報課程および総合情報課程を履修。その後、防衛省
情報分析官および陸上自衛隊情報教官などとして勤務。2015年定
年退官。現在、軍事アナリストとしてメルマガ「軍事情報」に連
載中。著書に『中国軍事用語事典(共著)』(蒼蒼社、2006年11
月)、『中国の軍事力 2020年の将来予測(共著)』(蒼蒼社、
2008年9月)、『戦略的インテリジェンス入門―分析手法の手引
き』(並木書房、2016年1月)、『中国が仕掛けるインテリジェ
ンス戦争―国家戦略に基づく分析』(並木書房、2016年4月)、
『中国戦略“悪”の教科書―兵法三十六計で読み解く対日工作』
(並木書房、2016年10月)、『情報戦と女性スパイ─インテリジ
ェンス秘史』(並木書房、2018年4月)、『武器になる情報分析
力─インテリジェンス実践マニュアル』(並木書房、2019年6月)
など。

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