配信日時 2019/11/14 08:00

【我が国の歴史を振り返る ─日本史と世界史に“横串”を入れる─(63)】「支那事変」止まず、内陸へ拡大 宗像久男(元陸将)

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
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こんにちは、エンリケです。

「我が国の歴史を振り返る
 ―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は63回目です。

きょうの記事を読めば、
支那事変勃発前後の我が国をめぐる史実を、
より明確に把握できるので、今に活かす歴
史の知恵をがようやく得られるようになります。

理由は
1.「支那事変」が拡大し「南京事件」発生に
 至る陸軍と海軍に対する評価が180度変わる
2.当時の、複雑な支那政治状況をスッキリ整理で
 きる
3.「援蒋ルート」の意味がハッキリ見える

からです。

冒頭では、
9日に行われた 天皇皇后両陛下御即位祝賀祭典に
出席された宗像さんの感想が記されています。

胸がジーンとなり、感動と感激でいっぱいになりま
した。「実に貴重な記録でもあるなあ。残しておか
ないと」とも思いました。

さっそくどうぞ


エンリケ


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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(63)

 「支那事変」止まず、内陸へ拡大

宗像久男(元陸将)
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□はじめに(天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典
について)

 天皇陛下御即位に関連する一連の行事が続いてお
りますが、11月9日、皇居前広場で行なわれた国
民祭典に参列する機会を得ました。

 祭典の概要はNHKでも中継されましたので、こ
とさら紹介する必要はないと考えますが、やはり現
場にいないとわかない“肌感覚”を少しお伝えしよ
うと思います。

 まず、皇居前広場会場に集まった約3万人を
人々――何らかのルートでチケットを入手した幸運
とも言える人々――は、入場前から警察官や係員の
誘導に素直に従い、二重橋前の会場を横目でにらみ
ながら、いったん和田倉門の方に誘導され、さらに
大手町交差点まで歩かされて初めてUターンするぐ
らい歩かされるのに誰一人文句を言わないのです
(私を除き)。

 それに、事前にいただいた案内チラシでは、開場
は15時と明示されているのにもかかわらず、14
時ごろ“長い迂回を終えて”ようやく会場に到着す
ると、特設スタンド正面部分はすでに埋まっており、
15時前に会場の8割程度が埋まってしまいました。

 夕方になるにつれて気温が下がり、また高齢者が
多いことからトイレは長蛇の列です。私はこれまで
の人生で、これほど長い(トイレを待つ)列を見た
ことがありません(笑)。こちらも誰一人文句を言
う人がおりません。

 席で待っている間も飲食禁止をひたすら守り、喧
騒にもならず静かな時間が過ぎていきます。そして
祭典が始まりました。いよいよ天皇皇后両陛下のお
出ましの時間が近づき、渡された提灯を点灯し、国
旗の小旗を準備します。

 3万人の参加者が一斉に提灯と小旗をもって立ち
上がり、両陛下をお迎えしますと(当然ながら、ほ
とんどの参加者は二重橋近くの石橋の上におられる
両陛下のお姿を直接拝見することはできず、会場に
用意されたパブリックビューイングでしか拝見でき
ないのですが)、お腹の底から沸き上がって来るよ
うな感情をもはや抑えることができなくなります。
いったいこの感覚は何なのでしょうか。

 一連のプログラムの最後に、奉祝曲「Rey of 
Water」(素晴らしい組曲でした)が演奏され、
人気グループの「嵐」がその第3楽章をみごとに披
露した頃が祭典のクライマックスでした。その後、
参列者全員で万歳三唱、それも一度で終わりと思い
きや、両陛下が二重橋から見えなくなるまで何度も
何度も繰り返されました。

 10日に実施された「祝賀御列の儀」における沿
道の奉祝者数も11万9千人だったとの発表があり
ました。言葉で言い尽くすのは難しいですが、日本
人は本当に天皇陛下を敬愛し、親しみを感じ、天皇
陛下の存在そのものに誇りと喜びを抱いているとい
うことを改めて実感することでした。

 そして、このような畏敬の念を抱く背景には、戦
後、昭和天皇が示された「国民に寄り添う」との皇
室の新しい姿を、上皇陛下を経て天皇陛下が継承し
ておられることがあるとは言え、憲法でいう「日本
国及び日本国民統合の象徴」というような概念を超
えているのではないかと私は考えます。

 前回も少し触れましたが、武家政権になった後、
天皇の地位が高まったのは江戸中期以降でした。現
在までほぼ200年の歳月が流れています。その間
に幾多の戦争をはじめ、色々なことがありましたが、
ほとんどの日本人の中には、天皇陛下に畏敬の念を
持つDNAが“微動だにしないレベル”まで定着し
ているのではないでしょうか。

 日本憲法制定時に、「象徴」としたマッカーサー
の狙いやそうせざるを得なかった理由はあるのです
が(細部はのちほど触れることにしましょう)、そ
のような言葉をもって天皇と国民の距離を割こうと
してもそれは無駄だったということを改めて感じた
祭典でした。

▼日中両国の戦争指導
 一般に「戦争指導」については、戦いが終わった
後に、しかも第三者の立場で冷静に分析してはじめ
てその問題点などをとやかく論評するものであると
思います。いわゆる“後出し”です。

「支那事変」が拡大し、「南京事件」発生に至る要
因は、海軍の積極的な作戦に陸軍が後追いした結果
である、と第61話でその史実を解説しました。日
本軍は、首都・南京を占領したものの、最終的に中
国に勝利することはできず、戦線はますます拡大し
ます。

他方、中国側も、蒋介石の上海および南京の防衛戦
における戦争指導の迷走は戦略的に重大な過ちであ
り、結果として、多くの人的損害をもたらしました。
また、南京を失ったものの、「日中戦争の国際化に
より勝利する」という戦略は中期的には成功します
が、最終的には、共産党に敗北し、台湾へ追われる
ことになります。

当時の『ニューヨーク・タイムズ』は、「南京の戦
いにおいて、日中双方ともに栄光はほとんどなかっ
た」と結論付けていますが、当時から、アメリカは
「勝利なき日中戦争」を見抜いていたとも判断でき、
そこに“つけ入る隙”を見出していたと分析できる
でしょう。その細部はのちほど触れることにします。


▼南京・重慶国民政府の抗日戦争

 再び、複雑な中国の国内事情を整理しておきまし
ょう。しばしば誤解されますので、1925年から
1948年までの“中華民国政府の呼称”について
整理しておきます。

 つまり、中華民国=国民政府ではありません。国
民政府は、1924年、国民党が広州で旗揚げした
時からしばらくの間は、広州国民政府と名乗ってい
ましたが、当時、国際的に承認されていたのは、清
の末裔というべき北京にある政府でした。その北京
政府を北伐によって倒した後は、国民政府は、広州
から南京に移動し、南京国民政府と名乗り、中国を
代表するようになります。日本と戦争したのは、こ
の南京国民政府でした。その政府は、南京陥落後に
重慶に移動し、重慶国民政府となります。

 しかし実際には、重慶には一部の政府・党機能し
か置かず、武漢(南京と重慶のほぼ中間に位置)が
事実上の戦時首都の機能となり、武漢において蒋介
石は断固たる抗戦意志を表明します。

 他方、トラウトマン和平工作は南京陥落後も引き
続き進められていましたがなかなか成功しません。
そして1938(昭和13)年1月16日、近衛文
麿は「国民政府を対手(あいて)にせず」という有
名な声明を発し、トラウトマン工作は終焉します。

▼「支那事変」の内陸への拡大

 その後、「支那事変」の内陸への拡大の概要を振
り返ってみましょう。武漢に撤退した頃から、蒋介
石は、日中戦争が長期化することを意識し、「持久
戦」に戦略転換します。そして同年3月、武漢で臨
時全国大会を開催し、新たに国民党総裁職が設けら
れ、蒋介石が総裁に就任します。

中国軍は、山東州南部の台児荘(徐州の東北に位置)
で日本軍を撃退するなど、一定の成果を上げますが、
同年5月、日本軍は徐州作戦を実施し、同地を占領
します。「徐州、徐州と人馬は進む…」と歌われた
あの徐州です。少し前に話題になっていました『一
等兵戦死』(松村益二著)で描かれている戦場もこ
の徐州作戦です。

それによると、日本軍にとってけっして楽な作戦で
はなかったことがわかります。日本軍に比し中国軍
の弾薬など物量の異常な多さと日本軍に好意的な地
域住民などには特に驚かされます。脚色したように
は見えない本書が記す“戦場の実相”が意味するこ
とを改めて認識しなければならないと考えています。

一方、徐州を離れた中国軍を追うように、日本軍は
華南に展開を目指しますが、中国軍は黄河の堤防を
破壊するなどして日本軍の南下を防ぎます。蒋介石
の持久戦論に基づく“焦土戦”を展開したのでした。

日本軍は計画より約1か月遅れて武漢攻略に向かい、
同年8月、武漢作戦を発動し、10月下旬には武漢
三鎮(武昌、漢口、漢陽)を陥落します。相前後し
て、重慶への支援ルートを抑えようとして広州など
の沿岸部も占領します。

蒋介石は、武漢陥落後、湖南へ撤退し、同年11月、
蒋介石は、「抗戦の第1段階は終わった。事後は、
民衆を取り込んだ遊撃戦を主とする持久戦を実施し、
守勢から攻勢に転じる第2段階に入る」と宣言しま
す。一般的に、遊撃戦といえば共産党の作戦のよう
に思われますが、国民党も遊撃戦を採用していたの
でした。

そして12月、重慶に移動し、本格的な重慶国民政
府を始動させます。蒋介石は、この後、再び南京に
戻る1946年5月5日までの6年半の間、重慶に
とどまります。

さて、トラウトマン工作は失敗に終わりましたが、
その後も一連の日中間の和平工作が行なわれます。
しかし、蒋介石は、日本との長期戦を想定する一方
で、将来的には日本とアメリカ、イギリス、ソ連と
戦争を始めるであろうと期待を込めていました。つ
まり、単独で日本に勝利するというよりも、日本が
欧米列国と対立することにより大局的に勝利するこ
とを想定していたのです。

よって、日本との和平交渉は世界情勢の進展を睨み
ながら交渉していましたので、なかなか妥協までに
は至りません。

そのようななか、1938(昭和13)年11月、
日本は第2次近衛声明を発し、「東亜新秩序」を提
唱して汪兆銘と連携を模索します。それに呼応する
ように、汪兆銘は重慶を脱出します。同年12月、
近衛首相は第3次近衛声明を発し、中国に再び講和
を求めますが、蒋介石は、「この抗戦は、我が国に
とっては民主革命の目的を達成し、中国の独立と自
由平等を求めるもの、国際的には正義を守り、条約
の尊厳を回復し、平和と秩序を再建するもの」と抗
戦の正義を訴えました。

1940年3月、汪兆銘は南京に新国民政府を樹立
し、同年11月、正式に主席になります。

▼「援蒋ルート」の設定

 重慶政府は、抗戦のための物資の調達が困難を極
めました。中国経済の中心は上海など沿岸部であり、
「大後方」といわれた四川省など内陸部は抗戦のた
めの産業基盤がないからです。にわかに重化学工業
などの建設を行ないますが、簡単に基盤形成はでき
ず、列強の援助に頼ることになります。

 この結果、周辺地域との間に「援蒋ルート」とい
われる輸送ルートを開発が進められます。特に、雲
南からビルマへの道路開通、ベトナムから雲南、ソ
連から新疆への輸送ルートの確保が急がれ、このた
めに、米英から巨額の借款が給与されました。
日本軍が沿岸部の要点を占領したことはまた、中国
の経済に大打撃を与えます。さらに日本軍は、重慶
政府に圧力を与えるために、湖南省の長沙作戦を実
施する一方で重慶爆撃を継続します。のちに事実上、
無差別爆撃となるなど激しさを増します。



(以下次号)


(むなかた・ひさお)


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【著者紹介】

宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学
校卒業後、陸上自衛隊入隊。1978年、米国コロ
ラド大学航空宇宙工学修士課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕
僚副長、第1高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、
第6師団長、陸上幕僚副長、東北方面総監等を経て
2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』
などに投稿多数。


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(代表・エンリケ航海王子)
 
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