こんにちは。エンリケです。
「陸軍小火器史」の五十三回目は、
番外編の25回目です。
荒木先生の最新刊
『日本軍はこんな兵器で戦った-国産小火器の開発
と用兵思想』
http://okigunnji.com/url/62/ の
評判が非常にいいそうです。
あなたも、もう読まれましたよね?
きょうは、読者反響を中心に、
これまで語られること少なかった荒木先生の心情が
つづられています。
著者の荒木先生と直接コミュニケーションが取れる
数少ない場のひとつはこのメルマガなので、
ぜひお使いください。
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ではさっそくどうぞ。
エンリケ
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陸軍小火器史(53)・番外編(25)
反響のご紹介と挨拶
荒木 肇
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□実証の重視
『日本軍はこんな兵器で戦った-国産小火器の開発
と用兵思想』、11月7日の発売以来、たくさんの
ご感想や、ご意見、ご教示をいただいています。あ
りがとうございます。
今日も、多くの方々のお便りを紹介させていただき、
わたしの話を付け加えさせていただきます。ある経
済人の方からのお便りです。
「兵器装備というのは、予想戦場、兵士の知的水準、
兵站補給、技術工業水準、その他もろもろの要素が
絡み合って開発される・・・といった常識がとても
よく理解できました」
また、ある元自衛官の方からは、「きわめて人間臭
い、戦場の実相の一部が目の当たりに浮かぶような
気がしました」というお便りもいただきました。
そうですね。わたしは少し正統からは外れた、歴史
についての追究者です。だから、ずいぶん細かいこ
とばかり考えてしまいます。それだけに、いわゆる
歴史学者といわれる方々とは一線を画して、記述の
方向が違っているのでしょう。学部の学生であった
若い頃、日本中世史の授業であるレポートを書きま
した。
武士の主要武器は何かというタイトルをつけたので
す。それは、昔から徳川家康のことを「海道一の弓
取り」といったり、武士の家柄を「弓箭(きゅうせ
ん・ゆみや)の家」といったりしてきました。「鑓
一筋(やりひとすじ)の家」と書いたり、「弓馬の
腕」と表現したりもしますが、少しも「刀執る身」
とか「太刀一腰の家」などと言わないことが気にな
ったからです。
ああ、そういえば、高校生の頃です。みんなで木刀
を振り回して遊んでいたら、ある先生から指導を受
けました。「木刀というのは、剣道をやっている人
にとっては刀と同じもので、武士の魂ともされたも
のだ。それを遊びに使うとは」。それを聞いたとき
に、剣道2段だったわたしは、「この先生は本気で
そんなこと考えているのかな?」と不思議でした。
生意気な子供だったのですね(笑)
そこで学生時代に調べたのです。日本中世の戦場で
は、どんな武器で人は殺傷されたのか。材料は主に
国文学の古典、軍記物語でした。そうすると、武士
の主兵器は弓であり、多くの有名な武将は弓で射殺
されていたことが分かりました。もちろん、そうし
た伝統的な戦闘(騎射戦闘)が苦手で、馬上の組打
ちから太刀による殴り合いをした武士もいますが、
源為朝(みなもとの・ためとも)をはじめとして強
弓(ごうきゅう)を引く人が何より勇者でした。
そうしたことを考察して、先生に提出したところ、
「こんなくだらぬことはどうでもいいのだ。当時の
戦争の実相を考えた? どうでもいいことを調べて
いる。中世武士のことを考察するなら、荘園制と武
士団の役割のようなことを書け」と酷評を受けまし
た。いまは亡くなりましたが、高名な唯物史観のス
ターの学者でした。
こうした歴史学のプロパーは今もそうした気風を残
しているように思えます。大きな流れを重視して、
「細かいこと」や「人間臭い」ことにはあまり目が
向かないようです。教科書会社は建前では文科省に
よる検定制度には嫌な顔をしています。それが検定
官にいわせれば、「検定があるおかげで、無料の校
正と校閲が受けられるのだから、助かっていること
でしょう」
それがほんとうのところです。大きな史料集でもそ
ういうことはありました。大学院に進んだ頃のこと
でした。岩波書店の『近代日本総合年表(1979
年)』を見ていた時です。1944(昭和19)年
2月のエニウェトク環礁の玉砕戦が書かれていませ
ん。アッツ島の激戦と守備隊の玉砕1943(昭和
18)年5月はありますし、同年11月のマキン・
タラワの戦闘、クェゼリン・ルオットの玉砕(44
年2月)があるのに、4000人が亡くなったエニ
ウェトク環礁の戦いは抜けているのです。
また、その時代(1970年代)の特徴でもありま
しょう。激しい抗日戦の中での中国軍の行なった残
虐事件、「通州事件」(1937年7月)が掲載さ
れていませんでした。問題意識の欠如としか思えま
せん。また、仏領インドシナの武力接収(1945
年3月)もない。これもやはり、うかつとしか言え
ない掲載漏れでしょう。聞き書きをしたことがある
のです。そこでも多くの日本兵が亡くなっています。
学徒兵あがりで歩兵小隊長だった人の話でした。初
陣で軍刀を抜いて前進を命令し、その後も右手に刀
を提げたまま走っていたら、「刀を納めろ!刀を納
めろ!」と横を追い越していった中隊長から怒鳴ら
れたという印象的な内容です。刀を振り回したり、
振り上げたりして走ったら、味方ばかりか自分も傷
つけることになるから・・・ということでしょう。
それがインドシナ(ベトナム)のフランス軍のドン
ダン兵営を攻撃するときの話でした。
▼兵士の知的水準
建軍初期の頃、徴兵で入営した人たちも、あるい
は「壮兵」といわれた旧藩軍の将兵も西欧式の物や
考え方には、およそ縁遠かったといえます。よく江
戸時代の識字率は列国と比べても異常なほど高かっ
たといわれます。たしかに、そういう一面は事実で
すが、よく村の辻などに掲げられたお達しを読めた
人は数パーセントもいなかったことでしょう。日常
の暮らしの中での算数や国語のレベルの高さと、技
術に関わったり、西欧風の道具に親しめたりするの
はまた、別の能力でした。
『日本軍はこんな兵器で戦った』でも書きましたが、
ネジというものが身近にない時代、意訳した「螺子
(らし)」という新しい言葉で新しい名称を付けな
ければならなかったのです。螺子を回すドライバー
は「転螺器(てんらき)」、コイル・スプリングは
「弦巻発条(つるまきはつじょう)」です。ほかに
も軍事用語に関する興味深い話はいくつもあります。
「一軒家」というのを「独立家屋」といいました。
「あの杉の木から指3本右」などという指示、「敵
らしきもの接近しつつあり」などという外国語の直
訳のような言葉遣いなどです。
戊辰戦争の幕府陸軍では、時間については24時
制を使っていました。外国製の小銃や大砲を使い、
戦術もまた輸入したとなると、組織の仕組みも教育
も、指揮法もすべて西欧式にしなければならなかっ
たのです。午後8時30分は、「二〇三○」と書き、
「にじゅうじさんじっぷん」と読んだのです。それ
は大変なことでした。
幕府時代には、明け六つ(あけむつ)とは太陽が昇
る時をいい、暮れ六つ(くれむつ)とは日没を指し
ました。よく時代小説に、「夏になったから六つで
もまだ明るい」などという記述を見ましたが、あり
得ないことです。夏と冬は「一刻(いっこく)」は
およそ2時間であり、ぴったり2時間ではなかった
のでした。夏の日照時間が14時間ならそれを6等
分し、昼の一刻としました。冬の日照時間が10時
間なら、それも6等分していたのです。
角度もたいへんでした。それまでは時刻と同じく
12支を元にして、北を子(ね)、順に丑、寅、卯
・・・としていました。南は午(うま)にあたり、
地球儀の縦線(経線)を「子午線(しごせん)」と
したのもそこからです。一周を360度としました。
距離の測定や、砲の調整にも苦労したのです。
全国の津々浦々、農山村にあまねく造られた学校で
は、近代的な知識と訓練を子供たちに与えました。
体育の時間にも、普通体操や兵式体操(へいしきた
いそう)といわれた団体行動訓練がありました。師
範学校を出た正規訓導(くんどう)は全寮制生活を
経験し、短い入営期間(時代によって差がありまし
た)の後には、国民兵役の伍長になりました。全寮
制の中では、銃をとり、山野を駆ける軍事訓練も受
けていたからです。
明治の中ごろ、運動会が盛んに行なわれ、そこで親
たちはびっくりしました。自分の家の子供たちが号
令で行進したり、右に左に歩いたりしたからです。
そういう習慣は、近代学校教育を受けないと身に付
きません。また、手を振りながら「走る」「跳ぶ」
「気を付け」なども訓練されないとできない動作で
す。入営した兵士たちのほとんどが、すでに小学校
でそうした訓練を受けていればこそ、陸海軍では兵
士としての訓練を容易に施すことができました。
いつだったか、米軍の資料を読んでいたときでした。
「日本軍の将校は、そのほとんどが英語を読み書き
できる」と少し驚いた様子で書いてありました。よ
く、米軍は日本語を研究し、専門の士官をいっぱい
育てた。敵を知るための当然の方法だった、それに
比べて日本軍は・・・という非難した言い方が聞か
れてきました。
しかし、敵の使う言葉を知っている割合でいえば、
日本軍のそれは、米軍の一般士官が日本語を知って
いる率と比べればはるかに高かったことでしょう。
日本陸軍の士官の大部分を占めた予備役士官は、少
なくとも中等学校を出ています。高等学校や大学、
あるいは高等専門学校(いまの大卒よりはるかにエ
リート性は高い)を出ているのも普通です。現役将
校でも中学を出て士官学校へ入った人は、最低4年
間は英語の学習をしていました。
昭和の初めの兵士たちの学校歴を調べてみましょう。
これは1931(昭和6)年度の「壮丁教育調査概
況」の数字です。この年の壮丁の全国総数は約62
万人でした。そのうちの16.6%の人が中等学校
在学以上の経歴でした。10万人以上が英語に接し
ていたということです。それに対して、アメリカの
兵士たちのどれくらいが日本語を聞いたことや読ん
だことがあったでしょうか。
たしかにごくごく少数の日本語専攻語学将校がいた
ことは事実です。そして、日系の将校や下士官がい
たことも確かです。しかし、一般兵士のいわゆる普
通教育を受けたレベルでは、わが国の方が欧米列国
のそれより高かったことは疑いありません。
また、この時期になると、不就学者や義務教育未修
了者はわずか5.5%しかおりません。義務教育で
ある6年制の尋常科の卒業生はわずか19%あまり
で、高等科(2年制)の中退、卒業者は合計で55
%にも達していました。そうして、その後の実業補
習学校の全期卒業生(夜学・5年制)も18%にも
なります。つまり、ふつうの兵士の半分以上は義務
教育以上を受けていて、5人に1人は高等科も出て、
そのうえ、教育を受けた者でした。
皆さまの温かい声援をありがたく受け止めていただ
いています。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
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●著者略歴
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同
大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露
戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍
教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行な
う。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』(並木書
房)がある。
PS
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