配信日時 2019/11/07 08:00

【我が国の歴史を振り返る ─日本史と世界史に“横串”を入れる─(62)】「支那事変」の拡大と「南京事件」 宗像久男(元陸将)

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官
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こんにちは、エンリケです。

「我が国の歴史を振り返る
 ―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は62回目です。

冒頭と末尾の一文を読み落とされませんよう。

さっそくどうぞ


エンリケ


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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(62)

 「支那事変」の拡大と「南京事件」

宗像久男(元陸将)
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□はじめに

 本メルマガでは、政治に関する論評などは控えてきたのですが、
最近、政治家の不祥事や不用意な発言が毎日のようにマスコミや
国会で話題になり、大臣辞任が続いていることを心配しておりま
す。

確かに、法律を作って国民の法令遵守を強要する“国会議員が法
律を犯すなどとんでもない”との感情は理解できないわけではあ
りませんが、このたびの法務大臣の辞任は、某国の同大臣の辞任
と比較してあまりにもその性格が異なることに唖然としてします。
“大臣の椅子の値段”があまりに安すぎると思ってしまうのです
(このように考える私が異常なのかもしれません)。

それに、「身の丈」とか「雨男」など、デリカシーがなく違和感
を持つとは言え、話のはずみで出てしまったような政治家の発言
の一言一言を問題視して、大切な他の審議を止めてまで追及しつ
つ、二言目に「任命責任」とか「説明責任」と攻め立て、それな
りの言い訳と謝罪をすましたら、“終了”(一件落着)とする、
我が国の政局の“文化”のどこに生産性があるのでしょうか。

歴史的にも、大正末期から昭和初期において相次ぐ政治家の不祥
事や不正の結果、国民が愛想をつかし、政党政治が廃(すた)れ
たことを本メルマガでも取り上げました。しかし、あの時代には、
「天皇大権」などをはじめ、国家の根本問題などについて与野党
がせめぎ合っていたと思います。

些細なことでも問題を起こさないことが肝要なことは言うまでも
ないのですが、このような不祥事や発言をあげつらって与野党が
相互に“足の引っ張り合い”をしているとその先に何があるのか
と考え込んでしまいます。

そして、政治家に清廉潔白を求め過ぎると、清廉潔白だけを最優
先し、通り一遍のことだけを発言して、狭い範囲で活動するにと
どまるなど、“何もしない政治家”が増えることも懸念されます。

その延長で、国を愛し、しっかりした国家観を持ってぜひとも国
政の場で活躍していただきたいような人材が政治家を目指す意欲
をなくすことがとても心配です。

最近、櫻井よしこさんが「憲法議論をしない政治家は辞めるべき
」旨の発言をされたようですが、個人的には同感です。国会議員
には、ぜひとも国の運営に関する重要な案件の議論にこそ時間を
費やし、真剣に取り組んでもらいたいと願っています。

また、自治体の長を含め、知名度(人気)だけの政治家を選出す
ると、災害時や「国の大事」に危機管理や決断ができない(ある
いは、誤った決断をする)結果になり、結局、国民や住民を不幸
にすると歴史は教えてくれますし、最近でも同様の事例が繰り返
し発生しているのではないでしょうか。

国民の普段の政治に対する関心も大切と思います。駅前などで地
元の政治家が演説をしたり、自前で作成した活動報告のチラシを
配っている姿をよく目にします。

私は、「国民に政治を語り、チラシを配ったりするのは政治家の
仕事、(仮に意見を異になる政党の政治家であっても)演説を聞
いたり、チラシを受領して読むのは主権者たる国民の仕事(義務
でさえある)」との信念から、時間がなくともチラシは必ず受け
取るようにしていますが、ほとんどの人々は演説を聞くこともチ
ラシを受け取ろうともしません。見ていて、政治家が気の毒なく
らいです。

政治家の不祥事や発言をことさらに取り上げるマスコミですが、
このような国民の政治に対する無関心を取り上げ、警鐘を鳴らす
こともまずないでしょう。

「政治は国民を映す鏡」とはサミュエル・スマイルズの『自助論』
に出てくる有名な言葉ですが、政治家のレベルアップは、ひとえ
に国民のレベルアップにかかっていることを国民一人ひとりが今
一度再認識する必要があるのではないでしょうか。いつの時代も
結局の所、“民意が政治を動かす”ことを思い知らされるのです。

▼上海から南京まで

さて前回の続きです。「北支事変」から「支那事変」に拡大した
後も、日本はドイツを仲介に和平工作(トラウトマン工作)を始
めます。仲介案の骨子は、「中国側が今後、満州を問題としない
という黙約の下に、河北の諸協定を廃止し、その代わり反日運動
を取り締まる」というものでした。蒋介石もこの案を支持します
が、杉山陸相が(石原莞爾がすでに満州に転任させられている)
陸軍内の“強硬派”の突き上げを受けて一夜にして約束を反故
(ほご)にしたのでした。

その後の閣議において、近衛首相も広田外相も一言も発言しなか
ったといわれます。第60話で紹介しましたように、近衛、広田、
杉山を「大日本帝国を滅ぼした責任者はこの3人」(岡崎久彦氏)
との厳しい指摘は、このような判断や指導力の欠如を指している
ものと考えます。

中国軍の敗走を目のあたりにして、蒋介石は、首都・南京を死守
すべきか否か迷った結果、死守を決めました。ソ連の参戦に最後
の望みを託していたといわれています。中国共産党も「南京防衛
は中国人民の責任であり、日本軍に対して人民が総武装化して戦
うべき」と主張していました。

1937(昭和1)年12月1日、大本営は「南京攻略」を下令
し、海軍爆撃隊による爆撃も南京に集中します。12月6日、蒋
介石は南京死守を宣言したのにもかかわらず、南京総攻撃の直前、
脱出を決意します。その理由として、日本軍の圧倒的な軍事力の
差の前に敗北を予測した他、参戦を期待していたスターリンから
「日本が挑発しない限り、単独での対日参戦は不可能」との回答、
それに一向に改善しない英米等の国際支援、などがあったようで
す。

この結果、蒋介石をはじめ中国政府高官は次々に南京を離れ、重
慶の山奥まで逃げ込んでしまいます。市民の多くも戦禍を逃れ、
市内に設置された南京国際安全区(難民区)に避難します。この
際、日本軍に利用されないよう多くの建物が中国軍によって焼き
払われました。

▼「南京事件」の真相

12月9日、松井石根(いわね)司令官は、中国軍に南京城を引
き渡すよう開城・投降を勧告しますが、中国軍の司令官が拒否し
たので総攻撃と掃討を命じます。蒋介石の撤退指示が遅れたうえ、
日本軍の進撃がきわめて敏速だったことから中国軍は撤退の時期
を失してしまい、揚子江によって退路がふさがれていたことから
混乱状態に陥りました。そして多数の敗残兵が便衣兵に着替えて
難民区に逃れますが、13日には、中国軍の組織的抵抗は終了し、
日本軍は南京を占領します。

このような状況の中で「南京事件」が発生したとされます。「南
京事件」の犠牲者は、極東裁判における判決では20万人以上、
南京戦犯裁判(1947年)では30万人以上とされ、中国の見
解は後者を依拠しています。

現在、外務省の公式サイトでは「非戦闘員の殺害や略奪行為など
があったことは否定できないが、被害者の具体的な人数について
は諸説あり、正しい数を認定することは困難である」としていま
す。

第2次世界大戦中に発生したマニラ、スターリングラード、ワル
シャワ、ベルリンなどの市街戦にみられるように、一般に、大都
市の市街戦に至った場合、兵士のみならず民間人の犠牲者がでる
ことは避けられないことは明白です。

しかして、「南京事件」の真相はいかなるものでしょうか。「激
動の昭和」を振り変える際にどうしても避けては通れないと考え、
諸説をチェックしてみました。残念ながら、戦後に2つの裁判の
結果を検証しようとした研究は、多かれ少なかれそれらの裁判結
果に影響されているような気がしますし、日中共同研究も明確な
分析は避けています。当然ながら、日本の分析に中国の同意が得
られるわけがないと判断したものと推測されます。

しかし、幸いにも、松井大将をはじめ南京攻略に参加した各指揮
官の日記や従軍記者の写真や手記も残っており、「偕行社」がそ
の抜粋を『南京戦史資料集』として平成5年に編纂しています。

それらを紐解きますと、まず南京攻略前に「軍紀緊縮の訓示」を
行った松井司令官にとって、「南京の大虐殺」は“寝耳に水”の
驚きだったことがわかります。

従軍記者の写真や手記などを読む限りにおいて、確かに、敗残兵
の処断などの事実はあったものの、いわゆる通常の掃討、南京の
場合には、明らかに国際法違反である便衣兵の捜索・処刑(これ
自体は戦時国際法上合法とされた)が多かったことが理解できま
す。

十数万人を処理したとする唯一の日本軍の騎兵将校である太田壽
男少佐の供述書(1954年8月付)も残っております。中国に
とってはありがたい供述なのでしょう、その原文は、南京の記念
館に大事に保存されているとのことです。

しかし、太田供述は信ぴょう性に欠けることがわかります。理由
は太田少佐の終戦後の足跡です。太田少佐は戦後ソ連に抑留され、
その後、中国のブ(木偏に無)順戦犯管理所に移送されます。供
述はその際に提出したものでした。そこで何があったか細部は不
明ですが、まともではない状態で供述した可能性は否定できない
でしょう。太田少佐は、昭和31年ようやく帰国し、昭和39年
死去してしまいます。

なお、太田少佐の供述には、12月14日から15日にかけて南
京市内各地で何万体もの死体処理を目撃したように書かれていま
すが、太田少佐が南京に到着したのは、他の証言者によって12
月25日であることが判明しておりますので、供述は実際に太田
少佐が直に見聞したものでないことは明白です。

また、戦後大問題になった「百人斬り競争」の2人の将校の写真に
ついても実際に撮った従軍記者の証言も残っています。この写真
は、南京へ移動中、つまり攻略前の写真であり、タバコほしさに
“はやる気持ち”を語っていたに過ぎず、百人を切った証拠には
なりません。

当時の従軍記者は、発行部数の拡大のためだったと考えますが、
このような“飛ばし記事”を競って戦場からたくさん送っていた
ようです。不幸にも、2人の将校は、この写真が証拠とされて有
罪となって銃殺刑に処されます。

東京裁判については、のちほど振り返ることにしますが、陸上自
衛隊の戦史教育参考資料『近代日本戦争概説』においては、「南
京攻略」の戦史は約1ページ、その作戦の概要が記されているの
みで、「南京市内には市民がほとんどいなかったし、占領直後に
は市内に部隊が入れない処置などもあった。多数の遺棄遺体は、
敗走した中国軍のものであった」とさらりと記述されていること
を付記しておきましょう。



(以下次号)


(むなかた・ひさお)


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【著者紹介】

宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸
上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士
課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1
高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副
長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』などに投稿
多数。


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(代表・エンリケ航海王子)
 
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