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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官
でもあります。お仕事の依頼など、問い合わせは以下よりお気
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こんにちは、エンリケです。
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は60回目を迎えました。
毎回、読み甲斐ある記事が続きますが、
今回(「支那事変」以降)から、特に重要になります。
<「卑怯なまねはしない」などの清い精神は、は陸海軍共通に“作
戦ベタ”にも表れます。>も、大切な指摘ですね。
冒頭の一文もお忘れなく。
さっそくどうぞ
エンリケ
追伸
宗像さんへのお祝いメッセージもお待ちしています。
ご意見・ご感想はコチラから
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(60)
「支那事変」に至る日中情勢の変化
宗像久男(元陸将)
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□はじめに
記念すべき60回目の発信となりました。読者の皆様にはいつ
もお付き合いいただき心より感謝申し上げます。歴史の素人の私
が歴史書を読み漁ってからだいぶ時が経ちますが、歴史研究家の
皆様のご苦労に思いが至るのが、まさにこれから振り返る「支那
事変」以降です。さまざまな事象が複雑に絡み合い、歴史を動か
した“決めて”を容易には見いだせないからです。
米国は、1995年に「ヴェノナ文書」を公開します。米国陸
軍情報部が傍受し、解読した記録といわれる本文書は、第2次世
界大戦前後のソ連の陰謀をかなり詳細に解き明かしていますが、
これによって、それ以前とその後では「歴史の見方」、つまり歴
史を動かした“決めて”が180度変わる部分もあると考えます。
日本では当時から「ゾルゲ事件」のようなものも発生し、ソ連
の陰謀がある程度は顕在化していましたが、なぜか、為政者たち
はその意図を見抜けず、結果として、操られるように「国の大事」
を選択してしまいます。まことに不思議です。その辺の状況も含
め、引き続き国内と国外事情を織り交ぜながら振り返ってみよう
と思います。
まず、冒頭で台風19号を取り上げましょう。台風15号もそう
でしたが、台風19号は、久しぶりに日本列島の広範囲で“人智
を超えた自然の猛威”を知らせてくれたような気がします。改め
まして、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。私事で
すが、生まれ故郷の福島県の被害がまたしても最も大きかったこ
とに心が痛みます。なかには東日本大震災で原発の被害を逃れ、
今回、被災した郡山市やいわき市に移住した人たちがたくさんお
りますが、特にこのような人たちが大事なかったことを祈るばか
りです。
台風の後、アメリカ在住の日本人の知人からご丁重なお見舞い
ととともに、「これほど大型で強い台風なのに、大規模な被害に
ならなかった日本はすごい」と驚きの言葉も添えられていました。
そして「日本ならではの事前の準備や避難指示などの警報と実際
の非難、それに初動対処の迅速さが被害を極限にしたと考えます
が、なぜ被害規模がこれだけですんだかについてはあまり評価さ
れないまま見過ごされてしまうのが残念です」とも書き加えられ
ていました。
私は、長い間、渓流釣りを趣味にしており、ふだんは人が入ら
ないような川の上流まで足を運んだ経験が何度もありますが、そ
こでいつも目にするのが、日本中至るところに整備されている砂
防ダムや明らかに人の手で植林されたとわかる針葉樹林でした。
砂防ダムは、いつ建設したわからないほど周囲の自然と一体化
しており、工事用に作ったと思われる小道もその名残りがあるだ
けになっているものもあります(釣りの帰り道としてはありがた
いのですが)。そのような光景を見るにつけ、「治山治水は国の
統治の基本」を実践した先人たちに感謝の気持ちを抱いたもので
した。
災害大国ならではの日本の統治の基本を忘れ、「コンクリート
から人へ」との意味不明な政策を掲げ、ダム建設を中止した時期
がありました。3年ほど前に、中止の後に建設が再開された「八
ッ場ダム」に足を運んだことがあります。両岸が狭くせり立ち、
地盤も固そうでダム建設には最適な立地条件の場所で、ダムは急
ピッチで建設されていました。そして今回、建設再開が功を奏し
て、利根川水系の氾濫を防ぐ治水効果を発揮しました。
当時の民主党議員達には反省の弁もなく、逆に、反論や極論を
主張しているとの“見苦しい話題”が取り上げられていますが、
すべては選んだ国民の側に責任があるとはいえ、国の統治の基本
を忘れた政治家の決断が国家・国民を不幸にすることを改めて証
明してくれました。
国民の生命と財産を守るため、“自然の猛威による被害を最小
限にするために人智を尽くす”という意味で言えば、我が国の
「防災」がまだまだ万全でないことも事実でしょう。治山治水に
加え、米国のFEMA(連邦緊急事態管理庁)のように、天変地
異の際、国の諸機関などを一元的に運用する組織の設置も急務と
考えます。
「防災」のみならず、外国の侵略を未然に防ぐ「防衛」について
も、ふだんの万全の備え(抑止)こそが最重要なのですが、ハー
ド・ソフトいずれもまだまだ整備途上にあります。こちらは相手
もあります。
国の行く末を狂わした、心ない政治家(統治者)の出現は歴史
的には何度もあります。戦前もそうでした。本文をご参照下さい。
▼「宣伝は政治より重し!」
第58回目の配信で「欧米列国が一方的に中国に加担した」と
述べましたが、中国は国際世論を味方につけるため、積極的に宣
伝を活用しました。蒋介石は「政治は軍事より重し、宣伝は政治
より重し」として「戦争に負けても宣伝に勝てばいい」と述べて
いることから、いかに「宣伝」の力を入れていたかが理解できま
す。この三国志以来の伝統といわれる中国の宣伝工作は、この後
の「支那事変」になっても大いに発揮されます。
これに対して我が国は、石原莞爾が「宣伝下手は日本人の名誉」
と述べているように、『武士道』によって、武道そのものよりも
「卑怯なまねはしない」のような徳義論的な考えが定着したのが
逆に災いしたことに加え、軍事的勝利に対する自信から宣伝を軽
視していたのでした。我が国の“宣伝ベタ”は今も続いており、
中国や韓国から“いいようにやられている”のは承知のとおりで
す。
「卑怯なまねはしない」などの清い精神は、は陸海軍共通に“作
戦ベタ”にも表れます。これについてもいつか取り上げましょう。
▼「支那事変」の引き金になった「西安事件」
再び、当時の中国の国内事情を振り返ってみましょう。この時期
に日中平穏だったのは、蒋介石が共産軍の包囲殲滅に集中し、
「塘沽(タークー)停戦協定」締結後の対日関係は行政院長の汪
兆銘に委ねていたからでした。
その後の日中関係で重要な役割を果たす汪兆銘について少し触
れておきましょう。汪兆銘は、日露戦争の最中に留学生として来
日し、西郷隆盛や勝海舟にも深く私淑して親日派になりました。
汪は「優れた人間同士が理解し、信頼し合えば、いかなる困難も
克服できる」という“東洋思想”を最後まで捨てなかった人だっ
たといわれます。
1935(昭和10)年、汪兆銘は抗日派に狙撃されます。一
命は取り留めましたが、この結果、「支那事変」勃発時、我が国
は中国側のキーパーソンの汪を欠くことになります。
その頃、共産軍撃滅作戦を推進中の蒋介石に対して、劣勢な共
産軍から「抗日統一作戦」結成の呼びかけがありましたが、共産
軍の狙いを見抜いている蒋介石は応じませんでした。そのような
情勢下、1936(昭和11)年12月、戦意がない張学良を直
接指導するため蒋介石が張の根拠地の西安に乗り込んだところ、
逆に逮捕監禁されるという事件が発生します。有名な「西安事件」
です。
レーニン没後、後継者として地位を固めつつあったスターリン
は、毛沢東の「殺蒋抗日」に反対し、「国民党と日本を戦わせ、
お互いが疲弊するのを待つ」との基本戦略のもと、蒋介石は釈放
される代償として「共産党討伐の中止」「一致抗日」を約束させ
られ、「第2次国共合作」が成立します。ソ連の陰謀がみごとに
成功したのです。
これによって、国民党内の“知日派”が失脚する一方、親ソ派
が台頭し、ここに来て蒋介石ははっきりと「敵は日本」と定めた
のでした。まさに、「西安事件が支那事変そして日中戦争の引き
金になった」(米国駐支大使N・ジョンソン)のでした。
▼国内情勢―近衛文麿登場
一方、「二・二六事件」後、我が国の政局は荒れに荒れます。事
件後、総理となった広田弘毅首相は、1937(昭和12)年1
月、立憲政友会の浜田国松議員の発言をめぐって寺内陸相の間で
大混乱になった「腹切り問答」を機に辞任します。
その後継に指名された宇垣一成(かずしげ)内閣は陸軍の反対
で組閣流産します。代わりに首相となった林鉄十郎(せんじゅう
ろう)も、解散する理由もないのに衆議院を解散(「食い逃げ解
散」といわれる)し、政党勢力を勢いづかせた責任をとって同年
5月、在職3か月で総辞職します。このような政局の混乱から、
国民に新世代の出現を期待させ、当時45歳の若き近衛文麿が首
相となり、外務大臣には広田弘毅(こうき)が就任します。
近衛文麿については、のちほど詳しく触れたいと思いますが、
「近衛、広田、そして後の陸相・参謀総長の杉山元は、大事な節
目で指導力を発揮せず、体制順応した不作為の罪を責められるべ
き」として、岡崎久彦氏は「大日本帝国を滅ぼした責任者はこの
3人」と断じていることを紹介しておきましょう。
岡崎氏はまた、この3人にとどまらず、「昭和前期の人々の通
弊(つうへい)だったが、この時期、国の為政者として骨のある
人材が存在しなかった」と指摘しています。我が国にとっては何
とも不幸だったとしか言えようがありません。
▼「盧溝橋事件」発生!
「張作霖爆破事件」から「満州事変」そして各種の北支工作など
については、依然として謎はあるものの、終戦後は日本軍が仕組
んだとされています。
しかし、「盧溝橋事変」に至る1935(昭和10)年以降に
起きた諸事件には日本側の秘密工作の証拠がなく、長い間の反日
宣伝活動で感情が高ぶった一般国民か国民党下部か共産党系かは
明確でないにしてもすべて中国側から挑発を受けていたことは明
白です。
この頃から、国共合作の中国は、「日本と一戦交えてもいい」
という雰囲気に変わり始め、北支・中支・南支各地でめまぐるし
く事件が発生したのでした。
改めて、「西安事件」後の日中両国が対峙している状況を振り
返ってみますと、華北では、41万人の兵力が5千の日本軍を包
囲する形となり、徐州方面でも35万の兵力が北上をうかがうな
ど、日中両軍の緊張が高まっていました。しかし、日本側はあく
まで華北にとどまり事態の不拡大方針を堅持していたのです。
このような中の1937(昭和12)年7月7日夜、演習を終
えた日本軍に突如、中国側からと思われる数発の銃弾が撃ち込ま
れました。翌8日払暁以降も、再三にわたり不審な発砲を受けま
す。隠忍自重すること7時間、ついに日本側は中国に攻撃開始し、
これを撃滅しました。「支那事変」の発端となった「盧溝橋事件」
発生です。
事件解決をめぐって、国内では「拡大派」と「不拡大派」が対
立しますが、それでも和平に乗り出そうとします。しかしそれは
叶いませんでした。細部は次号で振り返ってみましょう。
(以下次号)
(むなかた・ひさお)
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【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸
上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士
課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1
高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副
長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』などに投稿
多数。
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おきらく軍事研究会
(代表・エンリケ航海王子)
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