配信日時 2019/10/23 09:00

【陸軍小火器史(50)番外編(22)】進歩的知識人の幻想と自衛隊 荒木肇

こんにちは。エンリケです。

「陸軍小火器史」の五十回目は、
番外編の22回目です。

ではさっそくどうぞ。


エンリケ



メルマガバックナンバー
https://heitansen.okigunnji.com/

ご意見・ご感想はコチラから
 ↓
https://okigunnji.com/url/7/

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 陸軍小火器史(50)・番外編(22)

 進歩的知識人の幻想と自衛隊

 荒木 肇
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

□またまた豪雨、お見舞い

 テレビを見ていると、さすがに民放はふつうの番組が増えまし
た。それに対して、NHKでは、いつも災害関連の報道が盛んに
なっています。やはり、こういう時には公共放送なのだろうと心
強くも思うところです。たまたまニュースを見ていたら、陸上自
衛官の出演もあり、旧知の連隊長や中隊長も登場し、時代が変わ
りつつあるなと感心もしました。

 それにしても、正確なことは分かりませんが、あの民主党政権
が工事の中止を命じ、自民党が復権して工事が再開された八ッ場
ダム。かなりの水害を減らしたのではないでしょうか。当時は
『コンクリートから人へ』とかおいしいキャッチコピーを流して、
無駄な公共工事を止めたなどと得意げに語っている人がいました。

皮肉なことに、コンクリートでは防げず、自衛隊、消防、警察、
自治体といった「人」が助けになっています。重点をかける対象
が「公共工事、インフラ整備」から「人への福祉」を呼号したら・・・、
結局、頼れる所は、やはり堤防やダムといった社会資本だった。
しかも災害の復旧、人命救助では結局、人の数が重要だったと分
かりました。ところが、今度は、その人が足りない。そうした問
題が浮き彫りになってきました。

 陸上自衛隊では、即応予備自衛官、予備自衛官への招集がされ
ました。常備自衛官では手不足になり、とうとう即応部隊が出る
ことになっています。また、常備と即応の部隊が出動した後の業
務を行なうために、予備自衛官も招集です。まさに「有事」の様
相を呈してきたと言っていいでしょう。

 ほんとうにどうなっていくのでしょうか。安倍総理をはじめ、
政権担当の方々にほんとうに正しい判断をしてもらわねばなりま
せん。

▼自主的防衛力の整備

 60歳代後半のわたしたちにとっては、青少年時代には「いち
じぼう」「にじぼう」「さんじぼう」といった言葉はよく耳にし
たものだ。「いちじぼう」とは「第1次防衛力整備計画(昭和3
3~35年度)」の正式名称だった。計画開始時の昭和33年は
西暦では1958年である。時期を考えると、同35年は日米安
全保障条約の改定の年であり、世間は「革新と保守」の対決気分
が高まっていた頃だった。

 わが国は昭和31年には「もはや戦後ではない」と経済白書が
高らかにうたいあげた。たしかに、荒廃、窮乏、無秩序といった
戦後現象は減っていたのだろう。『昭和家庭史年表(河出書房新
社・1990年)』を開いてみると、昭和33年はプロ野球では、
のちに「ミスター・ジャイアンツ」といわれた長嶋茂雄が3塁手
でデビューしている。その初試合ですべて三振に切ってとったの
は先日亡くなられた国鉄(現ヤクルト)スワローズの金田正一投
手だった。神宮球場でわたしも大歓声をあげていた記憶もある。
公団住宅も建設が進み、「団地族」という言葉も生まれていた。

 そういえば、日清食品のチキンラーメンも発売された。朝日ビ
ールが缶入りビールも発売した。戦争を思い出す話題は、中国か
らの引き揚げ最終船が京都府の舞鶴港に帰ってきたことがあった。

有名なテレビドラマ『私は貝になりたい』が俳優フランキー堺に
よって演じられ、いわゆるBC級戦犯の悲劇が改めて世間に広報
された覚えがある。放送といえば、東京タワーがこの年だった。
高さが333メートルなのは運用開始が昭和33年3月だったか
らだと説明された。この時代の雰囲気は、映画『三丁目の夕日』
などで知った人もいるに違いない。子供心にも活気があって、猥
雑といえば猥雑、秩序がゆるいといえばゆるい、そんな時代だっ
た。

そうして前年32年には、「国防の基本方針」にのっとって「1
次防」が策定されたのである。この基本方針こそ、国連活動支持
、米国との安全保障体制の基調という現在までも続く流れを決定
したといっていい。

▼管区隊を師団にした2次防

 さて、具体的な1次防計画とは、まず陸上自衛隊勢力の整備か
ら見てみよう。人員18万人、予備自衛官1万5000人である。
海上の艦艇は12万4000トン、航空機200機、そして航空
自衛隊は約1300機を運用するとした。

 昭和36(1961)年は単年度事業が進んだ。なぜなら前年
の安保条約改定にともなう政治的混乱があったからだ。この混乱
は、当時の反政府勢力が「岸政権打倒」を叫んでマスコミもこれ
に乗じて起こした事態だった。あるいはマスコミがあおったとい
うべきか。当時をよく知る高名な一学者はのちにこう語っている。
「当時の暴れた学生の中で、ちゃんと安保条約の中身を読んだ者
はろくにいなかったのじゃないか。僕も含めてね」

 とにかく、自民党政権憎し、アメリカ憎し、ソ連・中国大好き
といった人たちが「知識人」には多かった。それにインテリ予備
群を自認する学生、新聞記者たちはもっぱら「民主革命」を叫ん
でいた。それに共産党や社会党の支持母体だった労働組合の指導
者たちもまた政権転覆、保守勢力せん滅をアジテーションしてい
たのである。

 今から見れば、「進歩的知識人」などという訳のわからない人
が多かった。ソ連ひいき、中国大好き、北朝鮮礼賛こそがインテ
リの勲章だったのだ。そういえば、北朝鮮の在日団体である「総
聯」といわれる組織が行なった「祖国帰還事業」(昭和34年開
始、同58年についに帰還者はゼロになる)ほど、ひどい虚像に
固められたものはなかった。いまは、そのウソがすべてばれてし
まったが、当時の北朝鮮は地上の楽園だったのだ。学費無料、医
療費もただ、食糧はあふれ、人々は幸福の中にある、それを見て
きた、確かだという知識人も多かったのである。

 2次防は昭和37(1962)年度から昭和41(1966)
年度までの5カ年計画だった。通常兵器による局地的な侵略に対
処できるという能力をもつものとされた。この時期に注目すべき
は、戦略単位である13個師団がつくられたことだ。しかも主力
装備は、61式戦車、60式装甲兵員輸送車、64式対戦車ミサ
イル、64式小銃という国産装備への改変が行なわれた。

▼師団(甲)と師団(乙)とは

 1962(昭和37)年から陸上自衛隊で師団という名称が復
活した。当時の新聞記事では、「旧軍の亡霊」とか「軍国主義の
復活」とかの非難もあったが、特車も戦車になった。反対する声
もありながら大げさな騒ぎにもならず、いつのまにか使われるよ
うになった。「名は実」を表すとでもいうか、管区隊より師団の
ほうがふさわしいというのが多くの国民の声だったのである。革
新気分も国民の豊かさの伸展とともに薄墨色のようになっていっ
た。

 第1、2、4、11の4個師団は、普通科(歩兵)連隊4個を
基幹とする定員約9000名の師団となった。これを4単位制師
団(甲)という。戦車大隊も4個中隊であり、野戦(特科)砲兵
連隊も4個大隊で編成された。順に、東京、北海道旭川、福岡県
福岡、北海道札幌市真駒内に司令部を置いた。


 第3、5、6、7、8、9、10、12、13の9個師団は普
通科連隊3個を基幹とする定員約7000名の師団(乙)である。
順に兵庫県伊丹、北海道帯広、山形県神町、北海道千歳、熊本県
熊本、青森県青森、愛知県名古屋、群馬県榛東村、広島県海田市
にそれぞれ司令部を置く。戦車大隊は3個中隊、特科連隊も3個
大隊である。

 つまり、歩兵連隊長を指揮官にする「連隊戦闘団」を編成する
ときに、4単位なら4個中隊の戦車が各連隊戦闘団に1個中隊ず
つ配属できる。同じように3単位なら、やはり各戦闘団に戦車を
1個ずつつけることができた。他の職種(兵科)も同じである。
施設(工兵)大隊も4単位なら4個中隊、3単位なら3個中隊に
なっていた。

 興味深いのは、各管区隊の偵察中隊が師団偵察隊に改編された
が、戦車をすべて新編の戦車大隊に回されたことだ。現在も2佐
(中佐)を指揮官にする偵察隊はあるが、偵察警戒車が主力装備
である。戦車が偵察隊からなくなったことはこの時代から始まっ
た。

 興味のある方のために、このとき新編された戦車大隊の所在地
を示そう。第8戦車大隊は北熊本、第9同は青森県八戸(はちの
へ)、第10同は滋賀県今津、第11同は北恵庭(きたえにわ)、
第12は相馬原(そうまがはら)、第13同は第10といっしょ
に今津。

▼勇ましきかな戦車団

 1956(昭和31)年、前にも書いた第104特車大隊がで
き、富士に行った第102大隊を除いた第101特車大隊、第1
03同、第104同で第1特車群が編成された。ソ連軍の侵攻が
本気で警戒されていた頃である。軽戦車(M24)×2、中戦車
(M4)×69、戦車回収車(M32)×5というのが第1特車
群の編制だった。他の戦車部隊をもたない管区隊への戦力の補填
をする意図があった。北部方面隊ならではの部隊だった。

 また第103特車大隊のM4戦車(76ミリ砲)は1961
(昭和36)年の改編で、M41軽戦車(76ミリ砲)に替えら
れることになった。また1965(昭和40)年頃から、新戦車
61式戦車(90ミリ砲)に逐次、換装されるようになってきた。

 これが第4次防衛力整備計画(昭和47~51年度)になると、
1974(昭和49)年8月に第1戦車団として生まれ変わった。
正確には第1戦車団を新編し、第1戦車群を編合(へんごう)し
たという。つまり群の組織そのままを、名称だけ変えたというこ
とではない。団固有の部隊組織が新たにつくられ、そこに第1戦
車群が入り、人員・装備は解体されて、新しい団の中にそれぞれ
が位置づけられたという意味である。

 第1戦車団は3個戦車群で構成された。1個戦車群は5個中隊
と本部管理中隊だった。本部管理中隊には整備、補給、衛生、通
信、指揮、偵察の各小隊、本部班や人事班があった。戦車222
輌、装甲人員輸送車38輌(60式)、戦車回収車3輌が主な装
備車輌だった。

 この団は1980(昭和55)年の第7師団の機甲化のときに、
隷下の第7師団戦車大隊は第71戦車連隊となるに合わせて、第
1戦車団第2戦車群は第72戦車連隊、同第3戦車群は第73戦
車連隊の基幹となる部隊になった。こうして、第7師団は戦車3
個連隊をもつ機甲師団となった。そして残った第1戦車群は、方
面隊直轄の戦車群になる。

 第7機甲師団への改編については次回、詳しくみてみよう。




(以下次号)


(あらき・はじめ)

☆バックナンバー
 ⇒ https://heitansen.okigunnji.com/ 
 
荒木さんへのメッセージ、ご意見・ご感想は、
このURLからお知らせください。

https://okigunnji.com/url/7/
 
 
●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士
課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、
大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関
係の研究を行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育セン
ター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役
員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師
(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に
勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年
には陸上幕僚長感謝状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行
なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに
語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか
―安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわ
かる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、
『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌わ
れる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教
えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなた
の習った日本史はもう古い!―昭和と平成の教科書読み比べ』
『東日本大震災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』
『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』。11月刊行予定『日本軍はこ
んな兵器で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』(並木書房)
がある。
 
 
PS
弊マガジンへのご意見、投稿は、投稿者氏名等の個人情報を伏
せたうえで、メルマガ誌上及びメールマガジン「軍事情報」が
主催運営するインターネット上のサービス(携帯サイトを含
む)で紹介させて頂くことがございます。あらかじめご了承く
ださい。


最後まで読んでくださったあなたに、心から感謝しています。
マガジン作りにご協力いただいた各位に、心から感謝しています。
そして、メルマガを作る機会を与えてくれた祖国に、心から感謝
しています。ありがとうございました。

--------------------------------------------------------
メールマガジン「軍事情報」
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
メインサイト:https://okigunnji.com/
問い合わせはこちら:https://okigunnji.com/url/7/
メールアドレス:okirakumagmag■■gmail.com
(■■を@に置き換えてください) 
--------------------------------------------------------
 
 
 
配信停止はこちらから
https://1lejend.com/d.php?t=test&m=example%40example.com
 
 
投稿文の著作権は各投稿者に帰属します。
その他すべての文章・記事の著作権は
メールマガジン「軍事情報」発行人に帰
属します。
 
Copyright(c) 2000-2019 Gunjijouhou.All rights reserved.