配信日時 2019/10/17 08:00

【我が国の歴史を振り返る ─日本史と世界史に“横串”を入れる─(59)】「二・二六事件」の背景と影響 宗像久男(元陸将)

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官
でもあります。お仕事の依頼など、問い合わせは以下よりお気
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こんにちは、エンリケです。

「我が国の歴史を振り返る
 ―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は、今回で59回目です。

二二六事件をめぐる時代状況、軍状況に関する
貴重で重大なポイント、ヒントをこれほど簡潔に
わかりやすく記した一文をわたしは知りません。

また今回発見しましたが、
この連載記事は、気持ちを落ち着けて読むと、

見えてくるもの、こと
つながってくるもの、こと

の幅と深さが変わってきますね。

せわしない状態でパパっと目を通すのでなく、
できれば、落ち着いた状態で気持ちをゆったりさせて
読んでください。

きょうも実に読み甲斐あります。
冒頭の一文もお忘れなく。

さっそくどうぞ


エンリケ


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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(59)

 「二・二六事件」の背景と影響

宗像久男(元陸将)
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□はじめに(「大正デモクラシー」終焉が意味するもの)

前回、「五・一五事件」で犬養毅首相が暗殺され、「大正デモク
ラシー」は短い生命を終えたことを紹介しましたが、その事象が
その後の我が国の歴史にいかなる影響を及ぼしたのか、について
興味を持ちました。

 当時の日本は、「満州事変」と一連の戦線拡大によって大満州
ブームが沸き返り、その延長で“国際連盟の脱退によって日本が
世界から孤立したことへの危機感はほとんどない”ような高揚感
がまん延しました。その結果、内閣も議会も“妥協的態度を軟弱”
として、“強硬論をすべて是”とする世論やマスコミの大勢に乗
るだけになったのです。

 国際連盟脱退後、昭和天皇は次のような詔勅を出されました。
「……平和の進展はわれわれが永久に望むものである。平和の大
事に対するわれわれの態度は何ら変わることはない。わが帝国は
国際連盟を脱退し、独自の道を歩むことになるが、このことは極
東においてひとり超然たろうとするものでも、各国との友愛関係
から自らを隔絶しようとするものでもない。わが帝国と他のすべ
ての国々との相互信頼を深め、わが国の大義の正しさを世界に知
らしめるのが、われわれの願いである」と。

 立憲君主の立場から政治的なご発言は抑制されておられたとは
言え、天皇が勅語という形で明確な指針を示されたにもかかわら
ず、その後の我が国が歩んだ道程は、この詔勅に見られる“友愛
の精神”とはおよそかけ離れたものになります。

 改めて、国の統治とは本当に難しいものだと考えます。権力を
広く分散すれば、自ら良い政治になるという民主主義の考え方は、
そう簡単に人々に根付くものではないことを「大正デモクラシー」
は教えてくれました。他方、国家が“一枚岩”になると、確かに
意思決定は容易ですが、一度動き始めたら軌道修正ができないと
いう致命的な欠点があります。

 前々回も触れましたが、世界恐慌などの影響によって経済的に
疲弊を来し、希望を失いつつあった国民が“強硬論”を最適な選
択肢として同調すること、そして“強硬論”を掲げて有言実行す
る軍人たちが“救世主”のように見えたのは容易に想像できます。
そうした国民精神が、結果として「大正デモクラシー」を終焉さ
せ、我が国の混乱を増大させる要因となったのでした。

 このような風潮は、翌1933(昭和8)年に行なわれた
「五・一五事件」の裁判にも表れます。マスコミは首謀者たちの
主張を正当化し、行動を称えもしました。その結果、減刑運動が
拡大し、首謀者の判決は軽いものになります。これがのちの
「二・二六事件」の陸軍将校の反乱を後押ししたともいわれます。

 歴史を振り返れば、バランス感覚をもって天皇のご意図に沿っ
て国の舵取りを諫(いさ)め、軌道修正できる明治時代の伊藤博
文のような人材を輩出できなかったのが、まさに昭和時代初期の
不幸だったのではないでしょうか。

 同じ年の1月、巨額な賠償金と「世界恐慌」にもがき苦しんで
いたドイツにヒトラー政権が誕生しました。ドイツ国民も、彼こ
そが“救世主”だと信じたのでした。

▼「二・二六事件」の背景

さて、「激動の昭和」と言われるとおり、昭和初期は、今の常識
からは想像を絶するような事件や事案が次から次へと発生します
が、1933(昭和8)年の国際連盟脱退からおおむね3年間は、
昭和にしては静かな期間でした。

 その静寂を破ったのは、1936(昭和11)年2月26日に
発生した「二・二六事件」でした。20世紀に生きていた日本人
に「何が最も強烈な記憶か」と聞くと「二・二六事件」と答えた
人が多いといわれます。大東亜戦争時の真珠湾攻撃や原爆投下な
どさまざまな強烈な経験と比較して、日本人は、本事件を“自分
たちが生まれて育ってきた社会全体が足元から崩れる予兆”とし
て脅えたのでした(岡崎久彦氏の言)。

 その背景を少し探ってみましょう。まず、思想的背景として
「昭和維新」の“革新思想”がありました。事件後、死刑に処せ
られた北一輝などが主導して一部の青年将校らに浸透していった
ものですが、その思想を簡単に紹介します。
 第1に、白人帝国主義に対するアジア主義です。日本が戦争に
訴えても国際的不正義を匡(ただ)すことを是認しています。第
2に、社会主義の影響を色濃く受けた平等主義です。特権階級の
廃止などを主張します。この考えは、陸軍が画策した満州の計画
経済の考えと一致します。第3に、議会制民主主義に対するもの
として革新派による専制体制を主張しています。これらを求めた
のが「昭和維新」だったのです。

 これらの思想に加え、陸軍内の対立も背景となりました。以前、
本メルマガでも「昭和陸軍の台頭」について触れましたが、一枚
岩のように見えた「一夕会(いっせきかい)」に、第1次世界大
戦の教訓から「国家総力戦」の準備と計画を整備するために軍部
主導の政治運営を主張する、いわゆる「統制派」が永田鉄山らを
中心に結成されます。そして、それに対抗するように、荒木貞夫
陸軍大臣や真崎勘三郎参謀次長らを担ぎ、“革新思想”を信じて
国家改造を目指す青年将校らによる「皇道派」も形成されます。

 両派の対立は、対ソ戦略をめぐっても激しい論争を展開します。
「統制派」が日ソ不可侵条約の締結に積極的だったのに対して、
「皇道派」が対ソ強硬論を主張してこれを断念させます。その結
果、ソ満国境にかなりの兵力を割く必要が生じ、陸軍の「対中国
戦略」に大きな足かせとなっていきます。

 その「対中国戦略」についても、「統制派」が中国に日本との
共存共栄が進むよう誘導し、排日が激化すれば断固排除する方針
だったに比し、「皇道派」は、欧米列強と協調しながら安定を維
持し、主に経済的観点から貿易市場とすべきとの方針でした。

▼「二・二六事件」発生と影響

このような背景によって、「皇道派」を軍中央から一掃しようと
した永田鉄山が刺殺される事件が起きます(昭和10年)。永田
暗殺の翌年の1936(昭和11)年、第1師団や近衛師団の青
年将校グループがクーデタ―による国家改造をめざし、約150
0人の兵士を率いて「二・二六事件」を引き起こします。

 しかし、昭和天皇の「朕自ら近衛師団を率いてこれを鎮定に当
たらん」の強いご意志もあってクーデターは失敗。青年将校と繋
がりのあった真崎、荒木らは予備役に編入され、事件の背景にあ
った「統制派」と「皇道派」の争いも決着をみることになります。

 なお、「五・一五事件で海軍に先を越された陸軍過激派はいつ
か大事を起こす。万一海軍省が占領されるようなことがあったら
海軍の名折れである」と考えた当時の海軍省軍務局第1課長井上
成美らは、事件のかなり前から陸軍の動きを警戒して最小限の準
備をしていたのです(当時の陸軍と海軍の関係を知る貴重なエピ
ソードです)。

 今年の8月15日、NHKスペシャルで「二・二六事件に関す
る海軍の最高機密文書を発掘した」と、鎮圧に至る「4日間」の
詳細が報道されました。本事件に対する海軍の態度や昭和天皇の
苦悩が明らかになっていますが、「皇道派」と「五・一五事件」
を引き起こした海軍「艦隊派」とは気脈が通じていたともいわれ、
本事件は事件後80年余り過ぎた現在でも依然、謎が多いのも事
実です。

 陸軍においては、当時、参謀本部作戦課長職にあった石原莞爾
が「兵隊の手を借りて殺すなど卑怯千万」として反乱軍鎮圧の先
頭に立った事を付記しておきましょう。

 事件後、外務大臣だった広田弘毅が首相に任命されますが、広
田内閣の陸軍トップは、陸軍大臣・参謀総長・教育総監らすべて
政治色が薄く、その結果、「統制派」の中堅幕僚層の意向が強く
反映され、同時に陸軍の政治的発言力が急速に増大することにな
ります。

 このような情勢下で、同年5月、大正2年に山本権兵衛内閣に
よって削除された「軍部大臣現役武官制」が復活するなど、まさ
にクーデターが成功したかのように、“軍国主義化の潮流”は歯
止めのない状態になっていきます。


(以下次号)


(むなかた・ひさお)


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【著者紹介】

宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸
上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士
課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1
高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副
長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』などに投稿
多数。


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