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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官
でもあります。お仕事の依頼など、問い合わせは以下よりお気
軽にどうぞ
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こんにちは、エンリケです。
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は、今回で58回目です。
日々のお仕事お忙しいでしょう。
お疲れ様です。
他とは違うレベルの厳しい現実と日々取り組んで
いるあなたのことを考え、最も読みやすい形
になるよう、日々苦心して、宗像さんは文章
作りに頭を絞られています。
後輩たちの役に立ちたい、
そんな先輩の思いがあなたに伝われば幸いです。
この連載は、
大きな歴史の流れを
頭の中に妥当に再現できる
他に類を見ない素晴らしい内容。
私はそう思っています。
きょうも実に読み甲斐ある内容です。
冒頭の一文もお忘れなく。
さっそくどうぞ
エンリケ
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(58)
満州国建国と国際連盟脱退
宗像久男(元陸将)
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□はじめに
2006年の秋、安倍首相と胡錦濤国家主席の間で「日中歴史
共同研究」が合意され、以来3年間、日中の歴史家たちによる共
同研究が実施され、09年末に最終会合が開かれました。目的は
「歴史の共有」よりも「相互理解の増進」を目指したようですが、
どうしても昭和期の「不幸な歴史」の解釈に時間を費やしたとの
ことです。
結果として、個々の歴史事象や事実認定に対して両国が共有でき
る部分が格段に広がったようですが、日中戦争の歴史的意義、な
かでも「中国人民が日本の“侵略”に抗して“抵抗”を貫いたこ
とから現在の国家基盤が築かれ、国民統合が進んだ」とする考え
や「中国が中国戦線を一手に引き受け、日本を消耗させ、連合国
の“反ファシズム戦争”に貢献した」として「ソ連や米国など中
国以外の連合国が抗日戦争の勝利に貢献したという側面が入る余
地が少なかった」とのことで、やはり“史実”との違いを否定で
きないのも事実です(細部は引き続き振り返ってみましょう)。
本メルマガでは、「満州事変」から「日中戦争」の歴史について
は、この共同研究に参加した日本側の歴史家たちが記した『決定
版 日中戦争』も参考にしていますが、今なお、それらの歴史的
解釈については両国の間に大きな隔たりがあると読者に理解して
もらうために冒頭に紹介しました。
“なんとなく”始まった戦争が、結果的に“ずるずると”日本を
泥沼に引き込んでしまったといわれる「日中戦争」ですが、確か
にその輪郭がはっきりせず、その全体像を明確にすることの難し
さに思いが至ります。そのあいまいさは、「満州事変」終結の頃
から始まっていました。
▼「上海事変」と「満州国」建国宣言
第1次5カ年計画達成に余念がないソ連が「中立不干渉」を声明
したこともあって、事変翌年の1932(昭和7)年1月、ほぼ
満州全域を制圧した関東軍が、「満州事変」から列国の関心をそ
らす狙いをもって工作したといわれる「上海事変」が発生します
(「第1次上海事変」)。
まず、日本人僧侶が中国人に襲撃された事件を機に、海軍の陸戦
隊が出動、その後、陸軍部隊を増強し、3月には中国軍を上海か
ら撤退させます。背景に、日頃から生命財産を脅かされていた在
留邦人の強硬姿勢があり、国内世論も支持したのでした。
しかし、中国の反日感情はさらに強まって国際連盟に提訴したこ
ともあって、英国や米国など国際世論の日本に対する非難はます
ます強まりました。
こうしたなか、同年3月1日、満州国は独立を宣言します。新京
と改称された長春の街は、零下20度の寒さのなか、「五協和音」
「王道極楽」などと書かれた花電車やトラックのパレードがあり、
群衆は歓喜したといわれます。溥儀の執政への就任式も行なわれ、
関東軍司令官や満鉄総裁に加え、東北3省の軍閥系実力者や溥儀
の臣下も参列しました。
満州国は、「五族共和」(五族とは、漢、満、モンゴル、日本、
朝鮮)の理念を掲げ、執政・溥儀のもとに、立法院、国務院、法
院、監察院の4権分立をとり、国務院は反資本主義(反中国)、
反共産(反ソ連)、反帝国主義(反米国)をめざしていました。
満州国が建設されてから、百万人を超す日本人が満州に移民して
未墾地を開拓し、終戦時には155万人まで膨れあがっていまし
た。朝鮮人の入植も非常に多く、日韓併合後約80万人が満州に
移住したようです。
同年3月、「満州事変」に対する中国の提訴と日本の提案によっ
て、英国のリットン卿を団長とし5名からなる調査団が国際連盟
から派遣され、3か月にわたって満州を調査することになります。
さて、日本政府は、直ちに満州国を独立国家として認めたわけで
はありません。犬養首相は「独立国家を承認すれば、必ず9カ国
条約と正面衝突する」と“独立政権”に留めるべきとの考えを持
っており、“独立国家”承認にはゴーサインを出しませんでした。
▼「五・一五事件」発生と顛末
そのようななか、発生したのが「五・一五事件」です。その背景
を振り返りますと、同年2月、総選挙が行なわれ、政友会が圧勝
します。しかし、「昭和維新」を掲げ、テロリズムによる性急な
国家改造を企てる煽動者が軍人らを巻き込み、「血盟団事件」を
引き起こし、井上準之助(前蔵相)と団琢磨(三井理事長)を殺
害する事件が発生します。
そして、その「昭和維新」の第2弾として発生したのが「五・一
五事件」でした。ロンドン海軍軍縮条約に不満を持っていた海軍
将校らが計画し、犬養毅首相を暗殺、内大臣官邸、立憲政友会本
部、警視庁などを襲撃したのです(首相暗殺以外の被害は軽微で
した)。
犬養首相の後継者選びは難航します。天皇から元老の西園寺公望
に推挙の下命がありましたが、西園寺は政党内閣を断念して元海
軍大将の斎藤実を次期首相に推挙します。斎藤は挙国一致内閣を
組織し、ここに8年間続いた「憲政の常道」が終了し、終戦後ま
で復活することはありませんでした。背景に、与党内の権力争い
や党利党略に対して、満州事変後、高揚し緊張した民心が愛想を
つかしたことがあり、「大正デモクラシー」は短い生命を終えた
のでした。
犬養首相暗殺によって事態が大きく動きます。満州国承認につい
ては、政府よりも議会やマスメデアの方が積極的でしたが、同年
6月、衆議院は満場一致で満州国承認決議案を可決します。それ
を受け、斎藤内閣の内田外相は「日本の国を焦土としても主張を
貫く」と述べ、満州国承認に強い決意を示します。
こうして、リットン報告書が北京で作成され、公表される前の9
月15日、日本は満州国を承認します。日本は、国際連盟でどの
ような勧告や解決案が提示されようともそれらに左右されないと
の強い態度を表明したのでした。
▼リットン報告書と国際連盟脱退
実際のリットン報告書は日中両国ともに不満なものでした。「日
本の武力行使は自衛のためのものではない。『不戦条約』に違反
し中国の主権を犯している。満州は住民の自発的な運動によって
建国されたものではない」と中国の主張を支持しながらも、「満
州に日本が持つ条約上の権益、居住権、商権は尊重されるべき」
など日本への配慮も見られたのです。
そして、張学良の復帰など原状回復も否定し、(1)中国の主権下で
自治政府を設置する、(2)治安は特別警察隊が維持する、(3)日本・
中国軍を含むあらゆる軍隊は撤退し、非武装化することなどを提
案します。だが日本は、独立国家・満州国の承認をすべてに優先
させ、それ以外の事変解決の代案には目を向けなくなっていたの
でした。
翌33(昭和8)年2月、国際連盟総会が開かれ、リットン報告
書の主旨に基づき、「日本の軍事行動は自衛とは言えず、満州国
の分離独立は承認すべきではない」旨の勧告の同意確認の結果、
賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(タイ)となって、松
岡洋右全権率いる日本はこれを不服としてその場を退場します。
日本政府は、3月8日、脱退を決定し、またしても国内世論は代
表団を拍手喝采で迎えることになります。
実は、歴史書を紐解くと、今もって「なぜ日本が国際連盟を脱退
したのかよくわからない」との見方が残っています。連盟が勧告
案を可決しても法的には脱退する必要はなく、事実、「居直り」
案も選択肢にあったようですし、松岡自身も脱退論者ではなかっ
たといわれます。
他方、国際連盟の対日批判は、「満州事変」以外に、日中の主張
が食い違った「上海事変」、そして同年2月に始まった「熱河作戦」
でさらに強まったのでした。よって、「熱河作戦が華北に波及し
たら、連盟は対日制裁を発動するのではないか」との憂慮が連盟
脱退を促したという見方がある一方で、逆説的ですが、連盟の脱
退は、列国と軋轢を回避し、国際協調を貫くことにあったとの見
方もあります。
いずれにしても、背景に、国際連盟が中国の巧みな外交努力が功
を奏して中国に同調し、中国の排日行為の厳しさを理解せずに日
本に対する不信感と反発を増大させたことにあったのは否めない
と考えます。
念のために繰り返しますが、「日露戦争」時には満州は中国のも
のでなく、「辛亥革命」後、ソ連の陰謀もあって「中国のもの」
と主張し始めたのでした。「中国はすべて現在からの類推で過去
に何があろうと問答無用。歴史意識は皆無である。国際条約も守
らない」(東洋史専門家・宮脇淳子氏)のであり、その歴史観や
考え方は伝統となって今も続いていると考えなければなりません。
▼「塘沽停戦協定」締結
1933(昭和8)年5月、日本は中国と「塘沽(タンクー)停
戦協定」を締結し、関東軍が長城以北に引き上げ、長城線南側に
非武装地帯が設置することなどを決め、「満州事変」は一応のピ
リオドを打つことになります。後年、昭和史を振り返って「満州
で止まっていたら」と回顧されるたびに必ず引用されるのが本協
定です。
戦後、日本の進歩的文化人は、日本の「中国侵略」を強調したい
あまり、日中戦争の起点を「満州事変」までさかのぼらせ、「1
5年戦争」と呼称し、中国からも歓迎されて頻繁に用いられてい
ます。冒頭に紹介した日中の共同研究においても、中国を説得で
きなかったのか、その考えを容認しているように見えます。
しかし、「満州事変」が本停戦協定で一応の決着をみていること
は、国際法上も、歴史的にも事実と考えます。ちなみに、停戦協
定(休戦協定)は、講和条約ほど恒久性はありませんが、朝鮮戦
争停戦のように、講和条約交渉のないまま戦闘停止状態が続いて
いる事例もあります。
なお、満州国は当時の世界の約60カ国のうち、20カ国が承認
しています。1934年にはローマ法王庁が承認し、イタリア、
スペイン、ドイツなども続いて承認します。ソ連も事実上承認の
関係にありました。満州に住んでいた漢人さえも蒋介石と一緒に
なることを望んでなかったといわれます。逆に、ソ連の傀儡だっ
たモンゴル人民共和国については、ソ連1国しか承認していませ
んでした。
これらを総合しますと、終戦後の烙印とは別に、当時の内外情勢
を打開するための処置として「満州国建国は一理あった」と考え
るべきではないでしょうか。
なお、「塘沽停戦協定」締結後、80万人の国民政府軍は、15
万人の共産軍を包囲殲滅する作戦に乗り出し、共産軍はそれまで
築いてきた各地のソビエト地区を放棄して延安に逃れます(国府
側は「2万5千里の追剿〔ついそう〕」と呼び、中共側は「長征」
と呼びます)。
(以下次号)
(むなかた・ひさお)
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【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸
上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士
課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1
高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副
長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』などに投稿
多数。
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(代表・エンリケ航海王子)
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