配信日時 2019/10/03 08:00

【我が国の歴史を振り返る ─日本史と世界史に“横串”を入れる─(57)】「満州事変」の拡大と国民の支持 宗像久男(元陸将)

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官
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こんにちは、エンリケです。

「我が国の歴史を振り返る
 ―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は、今回で57回目です。

国内世論の状態は、
大東亜戦争前と全く変わっていない。
そんな気がしています。

狡猾なマスメディアの扇動に、
世論は意のままに操られ続け、
合法的で誤った国家意思決定につなげられる。

今後もこの状況は続くと考えます。
厳戒が必要と感じています。

冒頭の一文も貴重です。

さっそくどうぞ


エンリケ


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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(57)

 「満州事変」の拡大と国民の支持

宗像久男(元陸将)
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□はじめに(香港デモが意味するもの)

 本メルマガでは、これまで朝鮮半島情勢については何度か取り
上げましたが、香港デモについては触れることがありませんでし
た。中国建国70周年に合わせて、またもや大々的なデモや集会
が開かれ、警官が実弾を発砲する事態にまで発展したこの機会に
この話題を取り上げてみましょう。

 今さら香港の歴史的な経緯を振り返る必要はないとは考えます
が、香港は、我が国の明治維新の原因となった「アヘン戦争」
(1840~42年)で当時の清が英国に敗北した結果、英国に
割譲されました。そして1984年、「中英連合声明」が発表さ
れ、1997年に「返還後50年間、つまり2047年までは民
主主義体制を維持する」との約束の元に中国に返還され、有名な
「一国二制度」という言葉が生まれました(大東亜戦争の際に、
日本が香港を攻略し、3年8か月にわたり統治しますが、それに
ついてはいずれメルマガ本文で触れましょう)。

 デモの発端は、“中国本土への容疑者引き渡しを可能”とする
「逃亡犯条例」改正に対する反発にありますが、この改正には北
京政府の焦りと強い圧力があったことは間違いないでしょう。

北京政府が本条例の改正を譲れない理由について、9月25日付
の「Newsweek」の記事は次のように分析しています。現
在、香港の最高裁判所の裁判官17人のうち15人が外国籍で、
「裁判官は民主運動を叫ぶ側に立っている」との不満が香港の親
中派や北京政府にあるのだそうです。裁判官の外国籍は、香港返
還の調整の結果、香港の憲法のともいうべき「香港特別行政区基
本法」でも認められています。よって、香港では“中国寄り”の
裁判が期待できないことから、いま以上の民主主義の定着を恐れ
た北京政府が容疑者の本土引き渡しを要求しているというのです。

9月4日、長い苦悩の後、香港政府トップの林行政長官は改正案
を撤回しましたが、デモは終息せず、デモ側は、条例改正の完全
撤回、暴動認定の撤回、デモ参加者の釈放、当局(警察側)の暴
力の独立調査、普通選挙の実現の「5大要求」を掲げ、「これか
らも戦い続ける」として今日に至っております。最近、林長官も
市民との対話を推し進めていますが、功を奏しているとは言えな
いようです。

その背景に、2014年、駐英中国大使が「1984年の声明は
今や無効だ」と発言したことなどもあって、このたびの改正を認
めれば、2047年まで待つことなく、明日にでも「一国二制度」
が崩壊する、つまり、香港が中国化されてしまうことに対する香
港人の強い警戒心と危機意識があることは明白です。

米ソ間の東西冷戦が終結した時、米国の有識者たちはこぞって
「歴史は終わった」とか「これからは文明の戦い」などと分析し
ていました。当時、「東アジアにはまだイデオロギーの対立も領
土をめぐる争いも残っている」と認識していた私などは、「米国
の有識者たちは何を勘違いしているのだろう」と疑問を持ったも
のでした。知る限りにおいて、「冷戦における西側の勝利はアジ
ア・太平洋には当てはまらない」と鋭く指摘していたのは『新し
い中世』を記した東京大学助教授(当時)の田中明彦氏だけだっ
たと記憶しています。

現在も、民主主義対共産主義の“人類の未来の選択”をかけた争
いは続いていると認識する必要があります。米国は、9月25日、
超党派による「香港人権法案」を可決させ、中国に圧力をかけて
いることに対して、中国は「内政干渉!」と反発しています。言
葉を替えれば、香港デモは、民主主義の代表たる米国と共産主義
の代表たる中国の「代理戦争」的様相を呈していると考えます。

「香港革命」との見方もありますが、上記のような背景もあり、
簡単には決着つかないと覚悟しなければならないのではないでし
ょうか。

 すでに述べましたように、思い起こせば、共産主義の巧みな戦
略に我が国が直面するのは、まさに「満州事変」の頃からでした
が、そのようなしたたかさは当時も今もこれからも変わらないで
しょう。“中国の次の一手”を警戒する必要があると考えます。

▼事変の拡大―溥儀擁立と錦州入城

さて、「満州事変」3日後の1931(昭和6)年9月21日、
中華民国は国際連盟に提訴しますが、我が国は「自衛のため」と
主張して国際連盟の介入を批判、「日中両国の直接交渉で解決す
べき」と主張しました。この時点では、国際連盟理事会は日本に
宥和的で中華民国に冷淡だったのでした。

しかし、10月以降の事態拡大によってその態度が変化していき
ます。そのきっかけは、アメリカのスティムソン国務長官が幣原
外務大臣に“戦線不拡大”を要求したことに端を発します。これ
を受けた幣原は、金谷陸軍参謀総長に「戦線を奉天で止めるべき」
と伝え、参謀総長もそれを承認しました。

幣原は「錦州(現在の遼寧省西部)までは進出しない」旨の意志
決定をスティムソン国務長官に伝え、その内容が、即、国務長官
談話として世間に発表されました。

だが実際には、参謀総長の抑制命令が届く前日に、関東軍は錦州
攻撃を開始してしまいます。スティムソンはこれに激怒します。
加えて、幣原の「協調外交」はその決定を踏みにじられ、国内外
に指導力欠如を露呈して大きなダメージを受けることになります。

こうして、10月8日、奉天を放棄した張学良の拠点・錦州を関
東軍の爆撃機12機が空襲し(錦州爆撃)、関東軍は「張学良は
錦州に多数の兵力を集結させており、放置すれば日本の権益が侵
害される恐れが強い」と公式発表します。

▼清朝最後の皇帝・溥儀擁立

また関東軍は、国際世論の批判を避け、陸軍中央からの支持を得
るために、満洲全土の領土化ではなく、清朝最後の皇帝・溥儀を
立てて満州国の樹立へと早々に方針を転換しました。

特務機関は溥儀に日本軍に協力するよう説得にかかります。溥儀
は、辛亥革命後に退位を余儀なくされましたが、紫禁城で暮らす
ことは認められていました。しかし、国民政府内部のクーデター
が発生した折に自発的に日本公使館に保護を求めたのでした。

溥儀は、満洲民族の国家である清朝の復興を条件に新国家の皇帝
となることに同意して、自分の意志で旅順に向かいます(この付
近のいきさつは、溥儀の英国人家庭教師・ジョンストン著の『紫
禁城の黄昏(たそがれ)』に克明に記されています)。 

11月中旬以降、日本軍はチチハルを占領して錦州に迫りました。
犬養毅首相が張学良に錦州からの撤兵を要請し、張学良が了承し
たこともあって、翌年1月3日、日本軍は錦州に入城します。

一方、民政党の若槻内閣は、関東軍の北満進出と錦州攻略、さら
に満洲国建国工作にも反対しますが、財閥とつるんだ内相の反乱
のような格好で総辞職し、“最後の政党内閣”となる政友会総裁
の犬養毅内閣が誕生します。

▼「満州事変」への国民の支持

「満州事変」前夜までは“軍批判の急先鋒”に立っていた各新聞
は大旋回します。「朝日」は事変後4か月あまりの間に号外を1
31回の発行し、「満州に独立国が生まれ出ることについて歓迎
こそすれ、反対すべき理由はない」と支持します。「毎日」も
「関東軍の行為に満腔の謝意」「強硬あるのみ」「守れ満蒙、帝
国の生命線」などとはやし立てました。

背景に、幣原外相が目指した「協調外交」が当時の国際社会の政
治的・軍事的・経済的文脈から非現実的だったことに加え、国内
の経済的疲弊や米国の排日移民政策があったとはいえ、戦争とマ
スメディアによる大々的報道という最大の「劇場型政治」が展開
され、世論は急速に関東軍の支持に傾きました。

戦後、立つ位置を大転換し、戦争に加担した責任や反省の“そぶ
り”すら見せないマスメディアですが、これが現実だったのです。

本メルマガの最後に総括しようと考えていますが、明治時代、福
沢諭吉や新渡戸稲造がさかんに「武士道」のような日本精神の涵
養をめざすことを説きましたが、実際には欧米思想にかなり毒さ
れました。夏目漱石は、明治人のこの浮ついた精神を“上滑り”
“虚偽”“軽薄”と批判しましたが、その精神は大正・昭和時代
へ連綿と続いていたのです。

それどころか、数学者の藤原正彦氏は、「“一貫性がなく、時代
によって流される”精神は、今でも日本人の伝統的な精神として
続いている」と分析しています。

このように、マスコミが煽動して国民の“浮ついた精神”をあお
るような格好のポピュリズムは戦前から存在しました。狂気を逸
した旧軍の行動を肯定するつもりは毛頭ないですが、さりとて、
戦争という「国の大事」に至った我が国の歴史を「軍人の暴走の
せい」と決めつけるのは、少なからず違和感を持ちます。

なぜならば、今の自衛隊も旧軍も彼らを行動させる最大のエネル
ギー(栄養源)は「国民の支持」だからです。これは軍人の本質
ともいうべきものと考えます。

だからこそ、国益につながるとの「大義」(自己評価)に国民の
支持という「正義感」が加われば、軍人たちはさらなる「使命感」
を自ら培養するのです。それこそが「満州事変」から「支那事変」
そして「大東亜戦争」へと突き進んでいった最大の要因ではない
かと私は思います。

「歴史にif」ですが、「満州事変反対!」とマスメディアが連
呼し、国民が軍(特に関東軍)にそっぽを向いていたら日本の歴
史は変わっていたのではないか、とまたしても後付けながら考え
ています。当時、軍の行動に反対を唱えた若槻内閣を葬った主要
因は、軍人の横暴ではなく、“浮ついた”国民の精神だったので
はないでしょうか。そして、今にして“史実”を振り返ると、そ
のように仕向けられた一面があったことも事実でした。次回以降、
それらの細部を紐解いてみたいと思います。


(以下次号)


(むなかた・ひさお)


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【著者紹介】

宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸
上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士
課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1
高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副
長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』などに投稿
多数。


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