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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官
でもあります。お仕事の依頼など、問い合わせは以下よりお気
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こんにちは、エンリケです。
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は、今回で55回目です。
私のばあい、
カール・カワカミについては、
佐藤守閣下のブログ記事を通じて知っていました。
とはいえ知らない人が多いと思います。
きょうの記事で取り上げられてますので、
ぜひ氏の業績を再発見してほしいです。
さっそくどうぞ
エンリケ
ご意見・ご感想はコチラから
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(55)
「満州事変」前夜と勃発
宗像久男(元陸将)
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□はじめに(日本人ジャーナリスト河上清氏について)
読者の皆様は、戦前から戦後、米国で活躍した日本人ジャーナ
リストの河上清氏(別名、K・カール・カワカミ)をご存じでし
ょうか。明治6年生まれの河上氏は、明治34年には同士5名とと
もに社会民政党を創立するも、同党が禁止されるや身の危険を感
じて渡米し、以来生涯、米国に活躍した希有なジャーナリストで
す。
「河上氏は、キリスト教への傾斜から社会主義の信奉へ、米国の
民主主義をたたえながら日本の国粋主義を擁護し、やがては一転
して日本を敵視し、ソ連の社会主義を徹底的に非難する・・・曲
折や振幅の激しさはたいへんなものである」(古森義久氏評)の
ように、ジャーナリストとしての河上氏の思想は、首尾一貫して
いなかったことは事実です。
「国と国とが集まって成っている国際社会では一つの国にとって
の『正義』が他の国にとっては『邪悪』となる。そうした国際の
場で主張を述べる言論人にとって自分の立場を明確にすることが
いかにむずかしいか…河上の足跡はジャーナリストのそうしたジ
レンマを象徴している」と古森氏は“言論そのものが持つ固有の
もろさ”に言及しています。
その河上氏は、「国際連盟で満州事変が取り上げたれた際に、日
本の自己主張が遅遅として進まず、逆に中国の持論が思うままに
展開され、連盟がそれに影響されて、軽率に中国に有利な見解を
採用してしまったこと、それに米国にも日本の立場が詳しく説明
されていない」ことに業を煮やし、当時の中国大陸の“事情”に
ついて米国内で解説活動を始めます。
それらの中国事情は、「支那事変」から1年後の1838(昭和
13)年に、『シナにおける日本』としてロンドンの書店から英
文で出版されました(直後にフランス語にも翻訳されます)。世
界大戦の破局を回避すべく、日本の置かれた立場を世界に訴える
ためにこの本を書いたものと思われます。
本書に出てくる具体的なデータ等は、ほぼソ連の秘密文書(北京
のソ連大使館付武官の事務所から中国当局によって押収されたも
の)に基づいており、ソ連による中国工作の“事実”を知る上で
もとても貴重です。
前回の冒頭で、「(消せない)記録がある」と明言しましたが、
本書はその代表のようなものです。興味のある方は是非本書
(『シナ大陸の真相』〔福井雄三訳〕として平成13年に翻訳さ
れています)をご一読下さい。なお、前述の古森義久氏は、河上
氏の半生を『嵐に書く』という書籍にまとめておりますが、こち
らもお薦めです。当時の米国言論界で、孤軍奮闘していた河上氏
のような日本人がおられたのでした。
▼ソ連の中国支援、紅軍の破壊工作の実態
『シナ大陸の真相』の内容を少し紹介しましょう。これも前回触
れましたが、ソ連による孫文や反日クリスチャン将軍の馮玉祥
(ふうぎょくしょう)への支援の実態も、ソ連の武官が仲介して
具体的な量が克明に記録されています。たとえば、孫文に対して
は、6千丁のライフル、1千35万発の弾丸、野戦砲15門、
1万5千発の砲弾、迫撃砲50門、5千発の砲弾、1万発の毒ガ
ス弾など。馮玉祥に対しては、1万8千丁のライフル、1千8百
万発の弾、90丁の機関銃と弾、大砲24門と2万4千発の砲弾、
毒ガス弾640発、飛行機2機などです。
ソ連政府は、犬猿の仲の双方を同時に支援していたのでした。そ
して1927年秋、蒋介石と馮玉祥は湖南省で衝突、馮は完膚な
きまでに打ち負かされ、山東州に逃げ込むことになります。
秘密文書にはまた「中国の国家独立のために国民党を有利に
なるよう煽動を進めていく必要がある・・・目下の所は、共産
主義の宣伝活動をしないように注意せよ。列強間における敵対
関係を維持することも極めて大切である。・・・日本を孤立さ
せておくことはとりわけ大切である」などと中国における工作
や反外国活動についてもこと細かく指示していたとも残ってい
ます。
ソ連の寛大な援助によって、1926年、蒋介石は揚子江流域
まで前進し、漢口に国共合作政権を樹立しますが、やがて共産主
義者との危険を察知し、共産党員を追い出し、南京に国民党政府
を樹立します。そして農民と共産主義労働者からなる紅軍が誕生
します。紅軍は行く先々恐ろしい破壊工作を繰り返しますが、本
書ではその実態も克明に記載されています。
たとえば、江西省においては、殺された人間1万8千人、死亡し
た避難民210万人、焼失した家屋10万、略奪された財産6億
5千万ドルなど、湖南省においては、殺された人間7万2千、焼
失した家屋12万、財産の損失1億3千万ドル、河南省において
は、殺された人間35万人、家を失った難民850万、焼失した
家屋9万8千、略奪された財産6千万ドルなどです。
このような中国情勢を特務機関(諜報・宣伝工作・反反乱作戦
などを主任務とする特殊軍事組織)などによって十分ではないも
のの逐一情報を入手していたと思われる日本にとって、「共産主
義の脅威は、単に学問的あるいは思想上の空論ではなく、不吉な
現実そのものであった」(河上氏)と認識するようになります。
本書は、「後世の歴史家などの後知恵とは無縁の、まさにリア
ルタイムの歴史的価値を持つ本」(訳者、福井雄三氏の言)にも
かかわらず、その真意、中でも共産主義の非人道的な実態などは
当時の欧米世界には届きませんでした。逆に、本書では、国民党
政府が世界各国の報道機関に莫大な謝礼を払って、その見返りに
日本軍の残虐行為を示す偽造写真を掲載してもらっている陰謀が
暴露されています。この延長が、のちの「南京大虐殺」の手口に
つながります。
戦いにおいては、支那の1コ師団は日本の1コ大隊といわれるほ
ど強い日本軍でしたが、“国際社会(特に米国)を味方につける”
活動については、知恵者がおらず稚拙だったのがかえすがえすも
残念です。そして今現在もそれは続いていると私は考えます。長
くなりました。
▼「満州事変」前夜の国内情勢
「満州事変」に至る我が国の国内情勢をもう少し振り返っておき
ましょう。1929(昭和4)年、田中内閣の後継内閣の浜口雄
幸内閣が発足し、「協調外交」論者の幣原喜重郎が2度目の外相
に就任しました。幣原外相は、再び中国に対する一貫した「寛容
主義」を主張し、中国側の善意と公平に期待し、将来を楽観して
いました。
幣原の政策に異を唱えたのが、当時の外務次官吉田茂その人であ
り、吉田は前職の奉天総領事として苦労した経験から「対満政策
私見」を外務当局に提出しました。それによると「日支親善など
では問題は解決しない。対満政策を一新すべき。・・・当面の対
策は機会ある毎に、先ず各地に増兵もしくは派兵を断行し・・」
と主張しています。吉田茂氏の戦後のイメージからはおよそ想像
できませんが、これが現実でした。
余談ですが、「歴史は繰り返す」というか、この「寛容主義」は、
オバマ政権までのアメリカや天安門事件後の我が国の対中政策と
酷似していないでしょうか。それらが見事に裏切られた結果とし
て、現在の米中経済戦争や日中関係の軋轢が生じているのです。
こうして、当初は現地の関東軍や陸軍中央部の中堅層の意見だっ
た「軍の実力をもって張学良軍を満蒙から駆逐しなければならな
い。外交では到底解決できない」との考えが、政府の一部を巻き
込んだ形で陸軍中央部の“総意”ともいうべき雰囲気ができあが
っていきました。
▼「満州事変」勃発
そのような満州、しかも張作霖爆破事件により行き詰まり状態に
あった満州の打開のため、陸軍首脳部は、陸軍きっての鬼才・石
原莞爾に求め、関東軍参謀に任命したのでした。
石原は、着任するや20万人を超える張学良の軍隊に対して関東
軍は総数1万4千人に過ぎない現実を目のあたりにして頭をかか
えたことは容易に想像できます。しかも石原の念頭には、対張学
良作戦に留まらず、対ソビエト防御戦も視野にあったのでした。
石原は、(1)南満州や朝鮮を守り、支那民衆のために満州を勢力圏
にするしかない、(2)革命直後、5カ年計画の真っ最中のソビエト
の国力では到底満州へ侵攻する能力を持たない、(3)米国には帝国
海軍に喧嘩を売る力がない、(4)英国と国際連盟に喧嘩を売っても
何とかなる、(5)完璧な計画であれば、張学良軍を撃破できる、な
どと判断したといわれ、「関東軍満蒙領有計画」を立案しました。
その細部に触れる紙面の余裕はありませんが、有名な「世界最終
戦論」者の石原は、この時点でアメリカとの決定的対立、ひいて
は戦争に至るとの認識を持っていたことは付記しておきましょう。
張学良政権による日本権益の侵害に直面していた満州の在留邦人
たちは、日本政府の弱腰をなじっていましたが、石原らは精力的
に説得し、これら在留邦人も味方につけました。蛇足ながら、在
留邦人の中には、指揮者・小澤征爾氏の父君もおられました。征
爾の征は、板垣征四郎の征、爾は石原莞爾の爾から頂いたといわ
れます。
1931(昭和6)年9月18日午後10時過ぎ、奉天市近くの
柳条湖付近で線路の爆破事件が起こり、近くで演習中であった関
東軍独立守備隊第2大隊第3中隊約600人は、その爆裂音と共
に、1万5千人近い軍勢がいた張学良軍の北大営に進軍を開始し
ます。有名な「柳条湖事件」です。こうして「満州事変」が勃発
します。
翌19日零時直前、奉天から旅順の関東軍司令部に第1報が届き、
幕僚たちが召集されて寝間着や和服姿のまま集合しましたが、石
原莞爾ただ1人、軍服を着ていたといわれます(その光景が目に
浮かぶようです)。
本庄繁関東軍司令官の表情は沈痛でした。司令官の頭の中には、
(1)何十分の一の劣勢にあって張学良軍を駆逐できるか、(2)たと
え撃退したとしても蒋介石がそれを座視するか、(3)さらにソビエ
トは、日本が満州を占領することを黙認するか、があったのでし
た。
しかし、石原の考え抜き、自信に満ちた、気力溢れる面持ちをみ
て、なおかつ後戻りできない情勢を鑑み、眼前の石原を信用する
ことにして「本職の責任においてやろう」と決断したのでした。
司令官の決断を受け、石原は計画どおり、“メモ1つ見ずに”関
東軍隷下の各部隊に素早く命令を発したといわれます。
当日正午頃、司令官以下幕僚達が臨時列車で奉天に到着しますが、
戦況はめざましいものでありました。奉天はすでに張学良軍が武
器弾薬、戦車などを残したまま撤退しており、奉天の守備隊もす
べて制圧していたのです。
当時、張学良軍の主力約11万人の兵は、長城線以南にあって、
共産党包囲掃討作戦を最優先に全力集中するとの蒋介石の方針の
もと、張学良は、日本軍に対して不抵抗および撤退を命じていた
ともいわれます。この方針まで石原の念頭にあったかどうか不明
ですが、“戦機が我に有利に働いた”ことは明らかでした。
(以下次号)
(むなかた・ひさお)
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【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸
上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士
課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1
高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副
長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』などに投稿
多数。
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(代表・エンリケ航海王子)
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