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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官で
もあります。
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こんにちは、エンリケです。
中野学校の2回目です。
学校創設に至る沿革が非常に面白かったです。
最初は防諜機関から・・・以下の記述を読み、
これまでの疑問(というか複雑さw)が氷解
しました。
さっそくどうぞ。
エンリケ
ご意見・ご感想はコチラから
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わが国の情報史(40)
秘密戦と陸軍中野学校(その2)
陸軍中野学校の概要と創設の経緯
インテリジェンス研究家・上田篤盛(あつもり)
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□はじめに
残暑が続いています。9月半ばですがまだクーラーが離せませ
ん。わが国を取り巻く情勢としては、香港デモ、日韓問題と在韓
米軍撤退問題、北朝鮮のミサイル発射などがあります。それにロ
シアの東アジアにおける軍事動向にも要注意です。
最近、筆者はSNSを始めました。それまで勤めていた会社を
辞めることになり、就活を開始しようとしてサイトの就活募集情
報を調べたら、引きずり込まれるようにあるSNSサイトにたど
り着きました。
そして、「あなたの友人かも?」ということで、たくさんの私
の知人がリスト表示されました。そこで、知人に友達申請をした
り、友達承認をしたりしながら、学生以来ずっと音信不通であっ
た旧友とメールでお話ししました。実際にもお会いし、貴重な助
言をいただきました。本当に便利です。
SNSといえば、2010年からの「アラブの春」で反政府に
よる動員呼びかけでSNSが使用されました。その時に主として
使用されたSNSは米国企業が運営するものでした。つまり「ア
ラブの春」に、米国もしくは米国企業が間接的に絡んでいたとい
うことです。
筆者は、インテリジェンスの世界においてもSNSの活用が主
流になるであろうとの指摘があるのは承知していました。しかし、
SNSが米企業による世界支配を推し進める戦術のような認識が
あり、毛嫌いしていました。
また、SNSを利用しての“なりすましメール”や、使用者の
住所を突き止めてのいやがらせ行為を行なうなど、いろいろな被
害も報告されていました。だから、これまでSNSと向き合うこ
とを躊躇していたのです。
筆者は初心者であり、まだSNSの使い方もよくわかりません
し、保全上、何に対してどのように注意すべきかについても認識
不十分です。しかし、もはやSNSを無視していては重要な情報
も集まらないし、情報の発信もできないことを思い知らされまし
た。少しずつ勉強していきたいと思います。
さて、今回は「秘密戦と陸軍中野学校」の第2回目です。
▼陸軍中野学校の概要
陸軍中野学校(以下、中野学校)は1938年7月、後方勤務
要員養成所として創設され、1945年8月の終戦時、疎開先の
群馬県富岡町および静岡県磐田郡二俣町において幕を閉じた。諜
報、防諜、謀略、宣伝からなる秘密戦に関する教育や訓練を目的
とする大日本帝国陸軍の学校であった。
なお中野学校という校名は、この学校の所在地が1939年4
月から45年4月まで現在の東京都中野区であったことに由来す
る。
陸軍中野学校は創設されてから終戦による閉鎖廃校まで、わず
か8年という極めて短期間の存在であったが、この間の卒業生は
2000名以上に及んだ。卒業生は世界のいたるところで情報勤
務という特殊の分野での職務に精励した。
当時、すべての陸軍管轄の学校は教育総監(陸軍大臣、参謀総
長と並ぶ三長官の一人)が所掌していた。しかし、中野学校は陸
軍大学校などともに教育総監部に最後まで所属しなかった数少な
い異例の学校の一つであった。
一般軍隊においては、「百事、戦闘を以て基準とすべし」と定
められているが、中野学校においては「百事、秘密戦を以て基準
とすべし」の鉄則にもとづき、秘密戦を基準として学校全体が動
いていた。
秘密戦士を養成する学校が世に存在するのを秘匿するため、創
設当初の正式(勅令)の学校名は「後方勤務要員養成所」であっ
たが正式名称は伏せられた。このため、同養成所の施設となった
愛国婦人会別館の入り口看板は「陸軍省分室」であり、学校の存
在を秘匿するため、軍部外の教官による教育は市内随意の場所が
選定されて行なわれた。
中野に移転した以降も、学校の存在は秘匿され、看板は「陸軍
省分室陸軍通信研究所」とされた。教官、職員、学生の身分を欺
編、秘匿するため、校長以下の学校関係者は長髪とし、軍服を着
用せず、背広を着用した。
▼牛込に防諜機関が誕生
次に中野学校創設にいたる沿革について述べたい。1931年
9月の満洲事変以降、わが国は対ソ国防圏の前線を満ソ国境に推
進させた。対外的には対ソ戦略の軍事力整備が要求されるととも
に、対内的には国家総力戦、つまり国家総動員の整備や防諜体制
の強化が行なわれた。
総力戦思想が普及するにともない、建軍以来の作戦第一主義で
あった陸軍においても情報に対する関心が高まった。
まずは防諜への関心である。当時、秘密戦の一分野である防諜
については、1899年に公布・施行された軍機保護法があった
が現状に適さないものになっていた。このため「軍機保護法を改
正すべし」との意見が軍内に起こった。
こうしたなか1936年3月、陸軍内の防諜を強化するために
防諜委員会が設置された。また、この頃から暗号解読が重視され
るようになり、参謀本部第2部1班が暗号班となった。
同年8月、陸軍省兵務局(所属課は兵務課・防備課・馬政課)
が新設され、岩畔豪雄中佐(いわくろひでお、1897年~19
70年、のちに少将)は、同年2月に生起した二・二六事件の後
始末で兵務課課員として転職し、軍機保護法の改正案に着手した。
なお同改正法は1937年3月に議会を通過した。
兵務局設置当時、防諜業務は兵務課の業務とされたが、193
7年1月には兵務局防備課に広義の防諜業務を所管させることと
して、防備課を防衛課に改編し、防諜業務を担当させた。
当時の兵務局長は、終戦時の陸軍大臣の阿南惟幾(あなみこれ
ちか)少将、兵務課長は太平洋戦争開戦時の参謀本部第1部長の
田中新一(たなかしんいち)大佐であった。
田中大佐は、ハルピン特務機関から参謀本部第5課(ロシア課)
に転属した秋草俊中佐(あきくさしゅん、1894年~不明、の
ちに少将)、福本亀治(ふくもとかめじ)憲兵少佐、曽田峯一(そ
だみねいち)憲兵大尉に命じ、科学的防諜機関を設立するための
研究を命じた。
かくして1937年春、兵務連絡機関(兵務局分室)という防
諜専門機関が牛込若松町の陸軍軍医学校の敷地奥に設置されたの
である。初代班長は秋草であった。共産党問題研究者として省部
その他で高く評価されていた福本がこれを補佐し、十数名の組織
として立ち上げられた。
同機関の任務は国際電信電話の秘密点検、外国公館その他の信
書点検や電話の盗聴、私設秘密無線局の探知などの防諜業務が主
であったが、あわせて情報収集にあたった。
この防諜組織の存在は省内でも一部の関係者以外には極秘とさ
れ、1940年8月に陸軍大臣直轄の極秘機関である軍事資料部
となり、終戦に至るまで77名の中野学校出身者が勤務した。こ
の数は、中野出身の割合から言えば、かなりの数であった。
▼後方勤務要員養成所が設立
防諜機関の設立とともに敵国に対して積極的な情報活動を行な
うことを趣旨とする諜報・謀略機関の新設気運が高まった。しか
し、当時の日本陸軍の謀略に関する考え方は「謀略は人によって
行なう」というものであり、科学性、合理性に欠けていた。つま
り、「これを是正せよ」との要請が起きた。
そこで防諜機関設立の立役者となった岩畔、秋草、福本らを中
心に諜報・謀略要員を養成する機関の設立に向けての新たな取り
組みが開始された。
1937年秋、岩畔中佐は参謀本部に対し「諜報、謀略の科学
化」という意見書を提出した。この意見書提出により、諜報・謀
略などの専門機関を設立するための準備が本格的に始動すること
になる。
なお岩畔中佐は兵務局兵務課が新設された時(1936年8月)
に、参謀本部第2部欧米課第4班所属替えになるが、同4班は1
937年11月に大本営の設置とともに新設された第8課(通称、
謀略課)になるので、これを見越した転属であったとみられる。
1937年12月、陸軍省軍務局の軍事課長・田中新一(19
37年3月に兵務課長から軍事課長に転出)が、秋草、福本、岩
畔を招き、「近代戦においては相手国からの秘密戦に対処する消
極的防衛態勢だけでは勝つことができないので、進んで相手国に
対する諜報、宣伝、防諜などの勤務者を養成する機関を早急に建
設する必要がある」として新組織の設立を検討するよう命じた。
かくして陸軍省が中心となって、かかる組織を建設するこことな
ったのである。
秋草、福本、岩畔の3名は設立委員となり、訓育主任として満
州鉄道守備部隊から伊藤佐又(いとうさまた)少佐が馳せ参じた。
1938年1月に「後方勤務要員養成所」が設立され、同年7
月に1期生19名の入校を迎えることとなったのである。
▼中野学校の沿革は4つの段階に区分される
中野学校は、所属、所在地、教育目的などによって、「創設期」
「前期」「中期」「後期」の4つに区分される。
(1)「創設期(1938年1月~1940年8月)」
同期は「後方勤務要員養成所期」とも呼ばれる。1938年7月、
九段下牛ヶ淵の「愛国婦人会」本部内の集会場を使用し、甲種幹
部候補生・予備士官出身の第1期生19名(卒業生は18名)に
対する教育が開始された。第1期生は海外における長期勤務を想
定とした選抜であった。
秋草中佐が所長、福本中佐が同養成所の幹事に就任し、狭隘な
集会所が教室兼宿舎となり、学生が一同に起居する寺子屋式、私
塾的な体制であった。学生は陸軍兵器行政本部付兼陸軍省兵務局
付として入校させ、秘密戦の教育を開始した。そして翌年4月に
は、旧電信隊跡地の中野区囲町に移転した。
1939年7月に第1期生が卒業し、同年11月に第1期生と
同じ出身母体の第2期の乙I長40名と、現役少尉を含む第1期
の乙I短70名、これに加えて陸軍教導学校で教育総監賞などを
受賞した優秀な下士官候補生から選抜された丙1・52名が入所
した。
ここでの長期の学生とは第1期生と同様に海外での長期勤務を
想定した要員であり、入校と共に別名が与えられた。教育施設内
では、国内外の既存情報機関勤務を想定した短期学生や丙1とは
相互往来は禁じられ、壁をもって仕切られていた。
(2)前期(1940年8月~1941年10月)
1940年8月「陸軍中野学校令」が制定され、後方勤務要員
養成所は、陸軍大臣直轄の学校として名称も陸軍中野学校に変更
された。施設や教育内容が急速に整備され、当初の私塾的な体裁
から抜け出ていった時期である。
初代校長に北島卓美少将が就任。1941年春に北島少将が東
部軍参謀長として転任したあと、1941年6月、陸軍省兵務局
長の田中隆吉少将が二代目校長となり(形式上)、同年10月、
ロシア駐在武官や参謀本部ロシア課長の経歴を有する川俣雄人少
将が校長として赴任した。
1940年9月には1甲、同12月には乙II長・短、丙2の学
生が入校し、翌41年2月には、2甲、41年9月には3丙、3
戊の学生が入校した。
なお、甲とは陸軍士官学校卒業者であり、秘密戦への転向を命
じられた初回の学生である。そして、3丙学生および3戊学生は
従来の乙学生および丙学生のことである。これは、後述のように
1941年10月の学生種別の変更にもとづき呼称が変わったた
めである。
校門には「陸軍通信研究所」の小さい看板がかけられ、陸軍組
織上では「東部第三十三部隊」とされた。学生の通信の発送はす
べて陸軍省兵務局防衛課の名称が使用された。
1940年12月から大東亜戦争が開始されたこの時期におい
ては、創設期の教育課目に占領地行政、宣伝業務が加味され、戦
争対応への意識が高まった。
(3)中期(1941年10月~1945年4月)
1941年10月、陸軍兵器行政本部付から参謀本部直轄とな
った。これにより、学生の種別も改正され、甲種学生(陸士出身
者)が乙種学生、乙種学生が丙種学生(予備士出身)、丙種学生
(教導隊出身)に新編成された。
この期に入校したのは4から7までの丙種学生と4から6まで
の戊種学生、それに1から4までの乙学生、このほか遊撃(1・2)、
情報(司令部情報要員)、静岡県磐田郡二俣町に開設された二俣
分校の1期および2期である。(注:二俣は1期、2期と名称す
るが、乙・丙・戊種については「期」と呼ばない)
1942年6月のミッドウェー海戦の敗北により、わが国は守
勢に転じ、さら1943年2月のガダルカナル島撤退により、陸
軍参謀本部は遊撃戦(ゲリラ戦)の展開に踏み切ることにした。
そして1943年8月、中野学校に対して「遊撃戦戦闘教令(案)」
の起案と遊撃戦幹部要員の教育を命じ、この教令(案)は194
4年1月に配布された。
1944年8月、静岡県磐田郡に遊撃戦幹部を養成する二俣分
校が創設された。第1期生226名が陸軍予備士官学校を卒業等
して尉官学生(見習士官)として入校、約3か月の教育が行なわ
れた。なお、この中にはフィリピンのルバング島で発見された小
野田寛郎氏がいる。
これと前後して、1944年8月、陸軍参謀本部は中野学校に
対し、国土決戦に備えるため、教範『国内遊撃戦の参考』の起案
を命じ、1945年1月に『国内遊撃戦の参考』および別冊『偵
察法、潜行法、連絡法、偽騙法、破壊法の参考』を配布した。教
育内容は、残地蝶者教育、通信科目、遊撃戦などを重視するなど、
創設期および前期に比してかなり変更された。
(4)後期(1945年4月~1945年8月)
1945年2月、国内の各軍司令官に対し本土防衛任務が付与
された。同年4月、本土上空に対する空爆の激化に伴い、中野学
校(本校)は群馬県富岡町に疎開し、同地において遊撃戦幹部の
養成が行なわれた。
この期に入校したのは、8から10までの丙学生、7から8ま
での戊学生、5乙学生、二俣分校の3期から4期の学生である。
遊撃戦教育とその研究に最重点がおかれ、それも外地作戦軍内
における遊撃戦にとどまらず、最悪の場合の本土決戦に備えてこ
れを国内において敢行するための各種の訓練が開始された。また、
いわゆる「泉部隊」と称した国内遊撃部隊構想も一部着手された。
1945年8月、敗戦によって富岡町の中野学校本校と二俣分
校は幕を閉じた。
(次回に続く)
(うえだあつもり)
上田さんへのメッセージ、ご意見・ご感想は、
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【著者紹介】
上田篤盛(うえだ・あつもり)
1960年広島県生まれ。元防衛省情報分析官。防衛大学校(国際関係
論)卒業後、1984年に陸上自衛隊に入隊。87年に陸上自衛隊調査
学校の語学課程に入校以降、情報関係職に従事。92年から95年に
かけて在バングラデシュ日本国大使館において警備官として勤務
し、危機管理、邦人安全対策などを担当。帰国後、調査学校教官
をへて戦略情報課程および総合情報課程を履修。その後、防衛省
情報分析官および陸上自衛隊情報教官などとして勤務。2015年定
年退官。現在、軍事アナリストとしてメルマガ「軍事情報」に連
載中。著書に『中国軍事用語事典(共著)』(蒼蒼社、2006年11
月)、『中国の軍事力 2020年の将来予測(共著)』(蒼蒼社、
2008年9月)、『戦略的インテリジェンス入門―分析手法の手引
き』(並木書房、2016年1月)、『中国が仕掛けるインテリジェ
ンス戦争―国家戦略に基づく分析』(並木書房、2016年4月)、
『中国戦略“悪”の教科書―兵法三十六計で読み解く対日工作』
(並木書房、2016年10月)、『情報戦と女性スパイ─インテリジ
ェンス秘史』(並木書房、2018年4月)、『武器になる情報分析
力─インテリジェンス実践マニュアル』(並木書房、2019年6月)
など。
ブログ:「インテリジェンスの匠」
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