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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官
でもあります。お仕事の依頼など、問い合わせは以下よりお気
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こんにちは、エンリケです。
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は、今回で54回目です。
わが国と特亜三国では歴史に対する姿勢が、
まったく違う、という感触を持っていましたが、
「やはりそうだったか」という印象です。
20世紀の支那大陸をめぐる正確な状況把握は、
戦後日本人に最も欠けているところです。
この記事で穴埋めしてください。
さっそくどうぞ
エンリケ
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(54)
当時の中国大陸で何が起きていたか?
宗像久男(元陸将)
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□はじめに
ユーラシア大陸東側、わずかに200kmの対馬海峡を隔てただ
けの島国の我が国は、有史以来、大陸と“関わりなし”では生き
て来られませんでした。前回の冒頭で、最近の韓国事情について
取り上げましたが、いつの時代も、朝鮮半島の背後には、見せか
けだけはアジアの大国・中国、そして南下を国是とするロシア
(ソ連)のさまざまな“画策”がありました。
「日清戦争」「日露戦争」に始まり「満州事変」「支那事変」を
経た我が国の大陸進出を「侵略」とか「軍の暴走」などと決めつ
けてしまう、狭隘な“歴史の見方”を信奉してしまうと、中国や
ロシア(ソ連)の“画策”という、我が国の国防上とてつもなく
大事な要因を見落とすことになります。
自衛隊では、指揮官が行なう「状況判断」から「決心」に至る「思
考過程」は、幕僚と一体になって「任務」「地域(いわゆる“戦場”)
の特性の分析」「敵に関する分析」「我に関する分析」と手順を
踏んで行なうことになっています。その中でも、「情報幕僚」が
実施する「地域の特性の分析」や「敵に関する分析」は極めて重
要です。
旧軍は、情報を無視し、陸大教育でも「情報参謀(幕僚)」の教
育は皆無だったといわれますが、満州に所在する関東軍の参謀た
ちは、当時の満州、そして中国やソ連に関するさまざまな情報を
入手し、彼らの“画策”についても肌で感じていたものと推測で
きます。
さて前回、韓国では「歴史は“信仰”」と紹介しましたが、かつ
て米国スタンフォード大学の研究報告は「中国の歴史はヒストリ
ーではなく“プロパガンダ”だ」と評しました。これらに共通し
ているのは“史実ではない”ということです。蛇足ながら、戦後、
我が国においても、占領政策により“史実ではない”歴史を教え
られました。それを今なお信奉している人たちは、残念ながら、
隣国と同類なのだと思います。
しかし、幸いにも当時の(消せない)「記録」が残っていますし、
最近、「大陸で本当は何が起こっていたのか?」をつまびらかに
しようとする試みも増えています。
「満州事変」の背後に何があったのか、なぜ軍が行動を起こした
のか、などについて、長い年月を経た今日、本メルマガではそれ
らの“史実”を冷静に分析しつつ逐次明らかにしたいと考えてい
ます。
前回の満州情勢に続き、今回は、やや複雑になりますが、最近つ
まびらかになったことも織り交ぜて、当時の中国大陸の“状況”
を振り返ることにします。
▼「辛亥革命」後の中国の状況
さて、「辛亥革命」(1911年)から中華人民共和国が成立(1
949年)までの中国の大混乱は、私たち日本人には理解しがた
く、想像を絶するものがあります。
まず、私たちは、革命後、新政・中華民国が中国全土を支配した
ような“錯覚”に陥りますが、建国当初は、中国南部の14省が
独立を宣言したに過ぎず、清朝の実権を残したまま皇帝を廃止し、
袁世凱が大総統に就任しました(孫文との間には「密約」があっ
たといわれます)。
袁は新憲法を発布して自ら皇帝につくことを宣言しました(19
15年)。この年、日本の「対華二十一カ条の要求」を受け入れ
たのは、帝政承認と引き換えとの意味合いもあったようです。し
かし、中国民衆の反発を買い、袁世凱打倒の動きが中国全土を覆
いました。こうして、袁世凱は帝政をわずか3か月で撤回し、失
意のうちに病没してしまいました。
袁世凱が亡くなると、中国情勢はますます分裂に拍車がかかりま
す。袁世凱の北洋軍が段祺瑞(だんきずい)と馮玉祥(ふうぎょ
くしょう)が指揮する軍閥に分裂、段を日本が、馮をイギリスが
後押しします。
他方、革命側も北方軍閥を討伐し統一しようとする孫文の広東政
府と北伐を望まない広西の軍閥に分裂します。このように、当時
の中国は大別すると4つの勢力があり、それらの勢力下にある何
十もの軍閥へと分裂に拍車がかかったのです。
満州では、清朝時代から袁世凱と上下関係にあった張作霖が満鉄
と持ちつ持たれつで勢力を増し、奉天軍閥に成長していきました。
張作霖は袁世凱没後、その跡目争いに色気を出し、何度も北支に
派兵しました。やがて袁世凱の後継者と見られていた段祺瑞が失
脚するや、関東軍が引き留めたにもかかわらず北京入りします。
そして蒋介石の北伐が迫るなか、他の軍閥が張作霖をトップに担
いで、軍閥連合の長になったのでした。
1928(大正3)年、蒋介石の北伐を牽制するため、田中内閣
が「山東出兵」に踏み切ったこと、そして日本から満州に引き上
げることを勧告された張作霖がその途上で爆破されたこと(「張
作霖爆破事件」)についてはすでに紹介しましたが、張作霖死亡
後、息子の張学良は蒋介石の配下に入り、「国権回復運動」とい
って、満州で激しい排日運動を展開します。
▼「コミンテルン」の中国進出
ざっとこのような流れで中国の大混乱はまだまだ続きますが、実
は、その陰には、ロシア革命後、「世界革命」を目指すレーニン
が1919(大正8)年に創設した「コミンテルン」(国際共産
主義指導組織)の進出がありました。
「コミンテルン」は、まず、欧州の資本主義諸国の打破を目指し
ます。実際、1919年、ロシア革命の影響を受けて「ドイツ革
命」も起き、「コミンテルン」の画策が成功したかに見えました
が、共産主義革命までは至らず、議会制民主主義共和国(ワイマ
ール共和国)で踏み留まりました。
これらから、レーニンは、“最初にアジアの西洋帝国主義を破壊
することによって欧州の資本主義を打倒する”つまり「アジア迂
回戦略」を決心したのでした。「コミンテルン」はまた、ソビエ
ト政府(ソ連)樹立(1922年)後は政府の意のままに動くよ
うになります。
そして、最初のターゲットは「中国革命を成功させること」とし、
孫文に目をつけたのでした。孫文は、ロシアに大量の武器や軍需
物資を要求し、その資金によって軍官学校も設立して(すでに紹
介しましたように)蒋介石を校長に任命しました。
ソ連は、孫文没後は蒋介石を支援することになりますが、中国工
作は孫文に留まりませんでした。前述の北洋軍の馮玉祥(ふうぎ
ょくしょう)のために騎兵学校も設立しました。これらの学校を
設立する狙いは軍事訓練だけが目的でないのは明白であり、革命
的・共産主義的思想を学生に植え付けることにありました。そし
て、馮玉祥の元にも大量の軍事物資が届けられることになります。
つまり、中国に対するソ連の狙いは、北満州の領土的野心などで
はなく、“中国全土を共産化”させることにありましたが、当時、
張作霖が支配していた満州に対しても宣伝活動は盛んに行われま
した。
当然ながら、日露戦争への怨念やシベリア出兵もあって日本を敵
視します。まず、「カラハン宣言」(1919年)を出して中国
との不平等条約を撤廃するとともに、満州やモンゴルを日露で分
割した「秘密協定」を暴露し、中国に対して「我々は中国の味方。
満州は中国のもの」と反日を煽ったのです。
やがて、蒋介石は国民党の権力を奪おうとする共産主義者の陰謀
とその危険性を見抜き、共産党員を追放しますが、農民や共産主
義者からなる“紅軍”が誕生します。その指導者こそが毛沢東や
朱徳だったのです。
蒋介石は紅軍に対する戦いを続行しましたが、ほとんど成功しな
かったといわれます。紅軍は、中国北部やモンゴル南部などに侵
入し、外モンゴルのソ連軍と合流を企図したのでした。
張学良は、蒋介石に帰順し、共産主義者の「平定委員」にも任命
されますが、共産主義者とも接触し、「真の敵は日本だ」と説き
まわり、共産主義者と戦おうとせずに自分の野望の道具にしよう
としたのでした(張学良が欧州滞在中にモスクワと接触していた
ことも判明しています)。
中国、そして満州の“混乱”が目に見えるようですが、このよう
な情勢を関東軍がどのように認識し、いかに行動したかについて
は次回以降、振り返ってみましょう。
(以下次号)
(むなかた・ひさお)
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【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸
上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士
課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1
高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副
長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』などに投稿
多数。
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