配信日時 2019/08/29 08:00

【我が国の歴史を振り返る ─日本史と世界史に“横串”を入れる─(52)】第2次世界大戦を引き起こしたアメリカ発の「世界恐慌」 宗像久男(元陸将)

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官
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こんにちは、エンリケです。

「我が国の歴史を振り返る
 ―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は、今回で52回目です。

「歴史のIF」思考は戦後日本でどちらかといえば
排斥された考え方ですが、実は歴史から今に活かす知恵を
吸収するうえで必須のスキルです。

「常識を乗り越える」イノベーション発想やアイデアは
すべてここから生まれます。

軍事の世界も例外ではありません。

さっそくどうぞ


エンリケ


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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(52)

 第2次世界大戦を引き起こしたアメリカ発の「世界恐慌」

宗像久男(元陸将)
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□はじめに

お盆休みを利用して、話題の映画『アルキメデスの大戦』を観る
機会がありました。この映画はフィクションです。時は昭和8年
頃、海軍がワシントン・ロンドン両軍縮条約からの脱退(昭和1
0年:本文参照)を見据えて、将来の海軍戦力をいかに構築して
いくかの“抗争”を映画化したもので、概要は以下のとおりです。

将来も艦隊決戦を想定する“鉄砲屋”(映画ではそのように表現)
が戦艦「大和」を建造して“大艦巨砲主義”を貫こうとの強い意
志を持っていたことに対して、山本五十六提督ら“飛行機屋”が
「空母を建造すべき」と対立します。

“飛行機屋”は、急きょ若き天才数学者を海軍に採用し、巨大戦
艦「大和」建造費の“ごまかし”を見事に見破りますが、結局は、
“史実”どおり、戦艦「大和」が建造され、その「大和」は航空
攻撃によって撃沈されます。

映画の後半で、「大和」の設計者が天才数学者に向かって、「大
和」建造の目的と「大和」という命名の訳を語る場面があります。
フィクションとは言え、その内容にとても興味をそそられ、考え
込んでしまいました(細部はあえて省略します)。

実際の戦艦「大和」は、昭和12年に起工し、昭和16年に就役
します。建造費は当時の国家予算の約半分に相当する1兆380
0万円(試算額)でした。いつものように「歴史のif」を適用
して、もし昭和初期に海軍が「将来戦は航空戦が主」と判断し、
巨大戦艦「大和」を建造する代わりに何隻かの空母を建造し、戦
闘機などをもっと量産していたら、「真珠湾攻撃」を含めた“海
軍の戦い方”は違っていたのではないだろうか、と元陸上自衛官
の私は素人ながら勝手に想像するのですが、読者の皆様はどう思
われるでしょうか。

▼「世界恐慌」の背景

さて、1929(昭和4)年、アメリカ発の「世界恐慌」はなぜ
起きたのでしょうか。まずその原因を探ってみましょう。

第1次世界大戦の勃発以降、工業製品や農産物生産は主戦場とな
った欧州からアメリカに移り、アメリカが世界経済の中心になり
ました。1920年代になると、米国内の都市化も進んで好景気
となり、投資ブームも異常に盛んになって、ダウ平均株価は19
24~29年の5年間で5倍に高騰しました。

 他方、過剰生産によって商品の売れ残りも生じ始めたのです。
こうしたなか、1929年10月24日(木)、ウォール街のニ
ューヨーク証券所で株価の大暴落が起こります(世に言う「暗黒
の木曜日」です)。

不安を感じた国民は銀行から預金を引き出し、銀行は倒産、銀行
が融資していた企業も倒産、企業に仕事をもらっていた工場も倒
産、と“ドミノ倒し”のように影響が広がり、失業率が25%を超
えました。この一連のパニックはアメリカ一国にとどまらず、世
界中を混乱の渦に陥れました。この一連の混乱が「世界恐慌」
(あるいは「世界大恐慌」)といわれるものです。

「関東大震災」に続き「昭和金融恐慌」によって疲弊していた我
が国でしたが、国際協調を掲げていた濱口雄幸内閣が「世界恐慌」
の直前に“金解禁”を断行したこともあって、恐慌の“あおり”
をまともに受け、株の暴落や企業の倒産が相次ぎ、大量の失業者
が発生しました。特にアメリカに輸出していた生糸が危機的状況
に陥り、生糸生産農家では、あまりの不況から子供を身売りする
などまで事態は悪化したのでした。

「世界恐慌」の対応は国によってまちまちでした。アメリカは、
やがてフランクリン・ルーズベル大統領が掲げた「ニューディー
ル政策」によって政府が積極的に市場に介入する方針へ転換、イ
ギリスやフランスは「ブロック経済」という政策をとって植民地
を含む身内以外の国を貿易から締め出すような対応策を取って経
済を回復させました。

これに対して、我が国はしばらく成長率が低迷した後、犬養毅内
閣の高橋是清蔵相による金輸出再禁止と日銀に国債引き受けなど
のリフレーション政策によってようやくデフレを終息させますが、
資源や植民地の少ないドイツやイタリアなどと共に「植民地を得
るために侵攻すべき」「軍事に力を入れれば軍事産業が盛りあが
り、仕事ができる」という空気が高まったことも事実でした。

この空気の延長で、日本では「満洲事変」が起こり、ドイツでは
ヒトラーが、イタリアではムッソリーニがファシスト体制を作り
あげ、他の国々との対立が深まっていくことになります。

他方、この「世界恐慌」の影響を全く受けない国がありました。
ソ連です。物価、生産・流通・配給のすべてを国家が統制する社
会主義国家・ソ連は、スターリンの元、「五か年計画」の真っ最
中でこの時期も高い成長を遂げ、1939年にはGDPで世界第
2位に踊り出ます。

「世界恐慌」のような事象は、共産主義勢力には「資本主義の末
期的症状が露呈したもの」と映っていたといわれ、“全世界共産
主義の完成”を画策するコミンテルンの勢いを増大させる要因と
もなりました(これらの細部については後述します)。

こうして、アメリカ発の「世界恐慌」は、多くの国の運命を狂わ
せ、やがて世界史上2度目の世界大戦という歴史的事件を引き起
こすことになります。

▼「ロンドン海軍軍縮条約」調印と「統帥権干犯問題」

「世界恐慌」と同時期、国内では別の騒動が発生します。「統帥
権干犯問題」です。

1922(大正11)年に締結した「ワシントン海軍軍縮条約」
は、巡洋艦以下の補助艦艇の建造数に関しては無制限でした。こ
のため、1929(昭和4)年、「ロンドン海軍軍縮会議」を開
催する運びとなりました。現下の経済情勢から軍縮による軍事費
の削減に積極的な濱口内閣は、昭和天皇からも「世界の平和のた
めに早くまとめるよう努力せよ」との御言葉を賜わり、若槻禮次
郎元総理を首席全権、斎藤博外務省情報局長を政府代表として派
遣しました。

交渉は各国の意見が対立して難航しました。日本は、ここでも対
米英7割を方針としていましたが、アメリカの要望に応じて
0.025割を削り、対米英6.975割とする妥協案を引き出
せたことでこの案を受諾する方針に変更しました。海軍省は変更
案に賛成の意向でしたが、軍令部は重巡洋艦保有量が対アメリカ
6割に抑えられたことと潜水艦保有量が希望量に達しなかったこ
との2点を理由に条約拒否の方針を唱えました。

1930(大正5)年10月1日、枢密院本会議は満場一致で条
約を可決し、翌日の10月2日、条約は批准されましたが、海軍
内部では条約に賛成する「条約派」とこれに反対する「艦隊派」
という対立構造が生まれました。また、緊縮財政による海軍予算
の大幅縮減も「艦隊派」の不満を高めることになりました。

こうしたなか、野党の立憲政友会の犬養毅や鳩山一郎、さらに伊
東巳代治や金子堅太郎などの枢密顧問官は、大日本帝国の「統帥
大権」を盾に、「政府が軍令(=統帥)事項である兵力量を天皇
(=統帥部)の承諾無しに決めたのは憲法違反だ」とする「統帥
権干犯問題」を生起させ、政府を激しく攻撃しました。

濱口首相は、「実行上、内閣は統帥権を委任された立場にあり、
軍縮条約を結ぶことは問題ない」として「干犯には当たらない」
と反論しますが、後日、東京駅構内で国粋主義団体員の暴漢から
銃撃を受け、その時の怪我がもとで他界することになります(濱
口首相の銃撃現場も東京駅構内にプレートが設置されています)。

のちに、「統帥権」を振りかざす軍部の独走を議会が抑えられな
くなり、政党政治は終焉しますが、元を正せば、前回紹介した
「不戦条約」締結時の「天皇大権」に続き、議会側が“政争の具”
として持ちだしたものでした。“政党が党利党略に走る時、国家
は危機に陥る”事実を我が国はこの時点で体験していたのでした。

「統帥権干犯問題」の根本原因が大日本帝国憲法が有していた
“不備”にあったことは間違いないでしょう。元老が健在してい
た頃はこのような問題が先鋭化する前に元老が統制していたので
すが、昭和に入り元老の大半が世を去り、また本来、統制する側
にまわるべき東郷平八郎元帥は「艦隊派」に担ぎ出され、この問
題では昭和天皇と意見が離れてしまいます。

その後、「艦隊派」の筆頭・加藤寛治軍令部長らは辞職しますが、
昭和8年、海軍の制度改正によって、兵力量の起案権は軍令部が
握り、平時の海軍大臣の兵力指揮権が削除されるなど、海軍の良
き伝統だった海軍省優位が崩れ、軍政に対する軍令の優位が確立
しました。同時に、昭和海軍は“米国艦隊を艦隊決戦により撃滅
すべき対象”とみなすようになったといわれます。

1935(昭和10)年、「第2次ロンドン海軍軍縮会議」が開
催されますが、我が国は脱退し、軍縮時代は終了します。昭和1
2~14年頃、米内正光海軍大臣、山本五十六次官、井上成美軍
務局長トリオを中心に海軍立て直しに努力しますが、現下の情勢
から果たせませんでした。

余談ながら、冒頭に紹介した映画の原作者は、このような“史実”
をよく調査した上で製作したと信じたいですが、“飛行機屋”の
抵抗は史実としても、“鉄砲屋”たちが映画で紹介されたような
高邁な精神を有していたとは到底思えず、その後の歴史を知った
上での“あとづけ”だった考えます。ついでながら、つくづく
“歴史とは皮肉なもの”と思ってしまいます。やがて“飛行機屋”
筆頭格の山本五十六の発案による「真珠湾攻撃」が起こります。
艦隊決戦ではありませんでしたが、対米戦争の勃発です(細部に
ついてはのちほど触れましょう)。


(以下次号)


(むなかた・ひさお)


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【著者紹介】

宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸
上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士
課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1
高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副
長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』などに投稿
多数。


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