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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官
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こんにちは、エンリケです。
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は、今回で51回目です。
冒頭で宗像さんが書かれている
<私は、我が国の歴史について、偏った視点を排除し、“史実”を
しっかり振り返れば、誤った要因や反省すべき内容を突き止める
ことができ、その延長で将来、我が国が採るべき国策の“ヒント”
を得ることができると確信しています。>
とのことばに深く共感するものです。
敗戦から今に至るほぼ一世紀近くの間、
国史から価値ある教訓を得られていない世論の現実は、
主権者たる国民にとって最大の困惑事項なのです。
さっそくどうぞ
エンリケ
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(51)
“波乱の幕開け”となった「昭和時代」(後段)
宗像久男(元陸将)
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□はじめに
毎年のように、広島・長崎の平和祈念式典や終戦記念日の時期
になると、“戦争の悲惨さ”や“戦前の反省”を取り上げる番組
が多くなりますが、なぜか米軍の“極悪非道”な戦いとか、ソ連
や中国の残虐な“ふるまい”を批判するのはほぼ皆無です。また、
最近の日韓関係は悪化の一途をたどっています。これらの「現象」
を考える時、いつもマキアヴェリの『君主論』に出てくる、ある
“フレーズ”を思い出します。
ルネサンス時代のイタリアの政治思想家・マキアヴェリは、
『君主論』に記した激しい内容から、権謀術数に長けた非情な思
想家と評価されていますが、「そのノウハウは現在のマネジメン
トで十分通用する」(佐藤優)との見方もあり、今なお、『君主
論』に記されたさまざまなフレーズがたびたび引用されています。
私が思い出す“フレーズ”とは「人はささいな侮辱には仕返しし
ようとするが、大いなる侮辱に対しては報復しえないのである。
従って、人に危害を加える時は、復讐の恐れがないようにやらな
ければならない」です。
戦争(争い)の歴史を探究すると、いつの時代もその根底に“復
讐心”とか“怨念”があることがわかります。それは国家でも民
族でも同様で、マキアヴェリの言葉はその本質を衝いています。
終戦時、米国は我が国の復讐を恐れていたといわれます。しかし
我が国は、帝国陸海軍が目指した軍人対軍人の戦いに留まらず、
空襲や原子爆弾によって民間人まで殺戮されて、“報復などみじ
んにも考えられないくらい”「大いなる侮辱」を受けたうえ、終
戦後、未来永劫に“復讐心”が起こらないようさまざまな手段で
マインドコントロールされました。
他方、戦前の軍人たちは、プロシア軍参謀のメッケルを建軍の師
として、“勝利のために手段を選ばない”西洋流の戦略・戦法を
学び、権謀術数を巡らしましたが、あくまで戦場における作戦に
留まり、民間人まで巻き込む“極悪非道”にはなり切れませんで
した。背景に、「義」「仁」「誠」などを重んずる武士道精神と
もいうべき国民性があるうえ、欧米列国に対抗する「東亜新秩序」
(アジア主義)の盟主をめざしたこともブレーキとなったと考え
ます。
よって、終戦後に戦勝国から突き付けられた“レッテル”とは逆
に、各地域の戦争(戦闘)においても、また周辺国に対しても
“ささいな侮辱”を与えるに留まりました。
そしてこれらの結果として、現在、マキアヴェリがいう“復讐心”
など微塵にも考えられない代わりに、周辺国から“仕返し”をた
っぷり受けております。
だから、「もっと“極悪非道”に徹するべきだった」と言ってい
るわけではありません。現在直面している「現象」は、今も変わ
らぬ国民性を有する我が国が背負わなければならない“宿命”と
理解する必要がある、と考えているのです。
最近の「現象」を踏まえ、本メルマガの趣旨から少し脱線しまし
たが、大事なのは将来です。“これからどうするか”です。“過
去の反省を繰り返し、平和を祈る”だけで、将来、本当に降りか
かる可能性がある戦争を回避して平和を維持できるのでしょうか。
最近、NHKでスクープして話題になっている『昭和天皇「拝謁
記」』の中で語られている“昭和天皇の深い悔恨と反省”の奥に
流れるものは深い意味があると考えます。軍人による“下克上”
という言葉も出てきますが、立憲君主制を採用した明治以降の歴
史の中で、なぜ“国の行く末を誤る”ような事象が生じることに
なったのでしょうか。
私は、我が国の歴史について、偏った視点を排除し、“史実”を
しっかり振り返れば、誤った要因や反省すべき内容を突き止める
ことができ、その延長で将来、我が国が採るべき国策の“ヒント”
を得ることができると確信しています。
今回は、昭和時代の2回目です。前回も触れましたが、旧軍の末
裔たる自衛隊で勤務していた頃から、8月のこの時期になると、
いつも何かやるせない思いに駆られていたことを思い出し、多弁
を弄しました。先を急ぎましょう。
▼「山東出兵」と「張作霖爆破事件」
昭和初期の頃の中国情勢については、「満洲事変の背景」として
別途まとめて振り返ろうと考えていますが、いよいよコミンテル
ンによる中国の内部工作が本格化してきます。
1925(大正14)年、中国国民党の孫文が死亡、蒋介石がこ
れに代わり、国民党と共産党の内紛が発生しました。しかし、北
部軍閥打倒のためにはソ連の援助が必要だったこともあって両者
はひとまず妥協します。北伐は国民革命軍となって続けられ、2
7(昭和2)年3月には南京・上海を占領し、4月には、南京に
国民政府を樹立します。この後も北伐は続けられ、翌5月には山
東半島に迫ってきたのです。
田中義一首相は、5月、「在留邦人の生命・財産の保護」を目的
に山東半島に軍隊派遣を決定、英・米・仏・伊の各代表からも異
論がなかったので出兵させました(「第1次山東出兵」)。
また6月、軍部・外交官を召集して「東方会議」を開いて「対中
国政策」の基本方針を検討、翌7月には満蒙分離・武力行使など
強硬な内容を持つ「対支政策綱領」を決定して発表しました(の
ちに、日本が世界征服をめざした「田中上奏文」として米国や中
国で流布されますが、偽書であることが判明しています)。
日本の「山東出兵」によって北伐は中止され、田中内閣は撤兵の
声明を出します。しかし、翌1928(昭和3)年、蒋介石が再
び北伐を宣言しましたので、同年4月、「第2次山東出兵」を行
い、済南を占領して国民革命軍と衝突します(「済南事件」とい
われます)。これに続き、田中内閣は「第3次山東出兵」を敢行
することになります。
国民革命軍は済南を迂回し、北京に入場しますが、同年6月、敗
走して奉天に引き上げようとした張作霖は、関東軍参謀の河本大
作大佐らによって列車もろとも爆破されて死亡しました。有名な
「張作霖爆破事件」です。
政府は“重大事件”として発表しただけで真相を隠し、犯人の処
罰を行なわなかったことから田中内閣は天皇の信任を失います。
またこれにより、中国の“日貨排斥運動”がますます広がって日
本の中国貿易が衰退、代わって、英・米・独などが中国市場に進
出することになります。「第1次山東出兵」時には日本を支持し
た米・英両国でしたが、1928年、相次いで国民政府を承認し
て日本の“動き”を非難し始め、日本は国際的に孤立することに
なります。
この「張作霖爆破事件」は、実は河本大佐の犯行でなくソ連諜報
機関による犯行だったとする見方もあります。一時話題になりま
した『マオ─誰も知らなかった毛沢東』(ユン・チアン、ジョン・
ハリデイ共著)にも「ソ連の仕業だった」とサラリと書かれてい
ます。この時期、大陸で発生したさまざまな事件にはとかく謎が
多いのです。
▼普通選挙の実施と社会運動の弾圧
1928(昭和3)年2月、「普通選挙法」に基づく最初の選挙
が行なわれました。他方、共産党がはじめて公然と活動開始した
ことから、「治安維持法」に基づき、全国一斉に共産党員とその
支持者約1600人を検挙します(「三・一五事件」)。
同年5月には「治安維持法」を改正し、最高刑を懲役10年から
死刑とします。また、特別高等警察(特高)を強化するとともに、
憲兵隊に思想係を置き、翌年4月には再び共産党とその支持者を
一斉検挙し(「四・一六事件」)、その結果、共産党は壊滅状態
になるなど、左派は労働運動の主導権を失いました。
▼「不戦条約」締結・批准
「張作霖爆破事件」の処理をめぐって天皇の信任を失った田中内
閣でしたが、1928(昭和3)年8月、「不戦条約」に調印し
ます。
同条約は、アメリカ国務長官ケロッグとフランス外務大臣ブリア
ンの提唱により1928年に開催されたパリ会議で締結されたも
ので「ケロッグ・ブリアン条約」とも呼ばれています。当時の国
際法では「国家が戦争に訴える権利や自由を有する」と考えられ
ていたものから「国際紛争の解決手段として武力を行使しない」
と宣言したことで画期的な意味を持っていましたが、その後の歴
史を見れば効果がありませんでした。
我が国が調印する段階で議論になったのは、第1条の「各国の人
民の名において厳粛に宣言」という言葉でした。この表現が野党・
立憲民政党から「天皇大権を犯すもの」と批判されたのです。
「天皇大権」が“政争の具”として初めて使われたのでしたが、
「該当字句は我が国に適用しない」との留保宣言をつけてようや
く批准しました(「天皇大権」を楯にとった物議が軍人の“専売
特許”でなく、党利党略の中で使われたことを覚えておきたいも
のです)。
のちの「満洲事変」はこの「不戦条約」違反第1号といわれ、そ
の延長で、現日本国憲法第9条第1項の規定があると考えられて
います。ちなみに、本条約を批准するにあたりアメリカは「自衛
戦争は禁止されていない」と解釈し、「経済封鎖は戦争行為その
もの」と断言していたことを付記しておきましょう(「真珠湾攻
撃」を引き起こしたABCD包囲網などについて、米国は“戦争
行為”と認識していたということです)。
1929(昭和4)年7月、立憲政友会の田中内閣は総辞職し、
立憲民政党の濱口雄幸内閣が成立しました。このようにして、
「昭和」は〝波乱の幕開け〟となったのですが、まだまだ“序章”
にしか過ぎませんでした。
(以下次号)
(むなかた・ひさお)
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【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸
上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士
課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1
高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副
長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』などに投稿
多数。
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