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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官
でもあります。お仕事の依頼など、問い合わせは以下よりお気
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こんにちは、エンリケです。
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は、今回で49回目です。
大正時代はどういう時代だったのか?
私も含め、今生きる人は余りに無知に過ぎる気がします。
最後のパラグラフが秀逸です。
特に最初の段は、何度も読んで覚えてしまいたい
です。
20世紀に入ってから、
特定のイデオロギーが恣意的に
歴史を処断しても良し、とする風潮にまみれたことも
一つの原因でしょうか。
軍事常識、感覚そして国際関係という
視座がなければ、歴史から妥当に学ぶ思考はできない。
と私は考えています。
さっそくどうぞ
エンリケ
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(48)
「大正時代」が“残したもの”
宗像久男(元陸将)
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□はじめに
最近、時々“読者反響”をいただきます。いずれも本メルマガ
に肯定的な評価を賜り、ありがたく思っておりますし、本当に励
みになります。御礼が遅くなってしまいましたが、田中様、江野
様、そしてうずまき様、ありがとうございました。
毎回のメルマガの冒頭でエンリケさんから、私が本メルマガに
込めた“想い”を過分なほど的確にご紹介いただき、いつも恐縮
しております。私は歴史家でも教育家でもなく、その上、小説家
や著作業を生業とする人たちのように、本メルマガを広く売り込
もうとする意図もありませんので、偏ることも誇張することもな
く、しかし大事な要素は漏らさず、できうる範囲で“史実”を発
掘しつつ歴史を振り返るよう心がけております。
先日、有名な“昭和史研究家”の近著を読む機会がありました。
著者は多くの関係者を取材し、それらの証言に基づく分析を“売
り”にされているようですが、“歴史が動いた要因”を自ら取材
した証言、政府発表、そしてマスコミ報道のようなものを重視し
て探っておられ(それ自体は素晴らしいのですが)、“歴史の繋
がり”や“世界史的な視点”がほとんどないことをとても残念に
思いました。
エンリケさんが指摘されるように、歴史を広い視野で俯瞰的に眺
めることの難しさを改めて感じながら、引き続き、さまざまな視
座を保持しつつ我が国の歴史を振り返ってみようと思います。今
回は、「大正時代」の最後です。
▼陸軍の軍縮とその影響
第1次世界大戦後の世界的な“軍縮ムード”は海軍だけに留ま
りませんでした。特に我が国の場合、“長年の仮想敵国であった
帝政ロシアがなくなった”との理由で、陸軍への軍縮要求はさら
に強まりました。前回取り上げましたように、この時点では、共
産主義国家・ソ連の脅威の増大を見通せなかったのでした。
「参謀本部」を“軍閥の牙城”として廃止まで考えていたといわ
れる原敬首相が暗殺されてから3か月後の1922(大正11)
年2月1日、山県有朋が死去しました。個人的には、明治から大
正時代にかけて我が国国防の牽引車として山県が果たした役割は、
まさに“余事を持って代えがたし”、称賛尽くせないものがあっ
たと考えますが、「まるで地獄の蓋が開いたような軍に対する批
判が議会で噴出した」(岡崎久彦氏の言)のでした。
これらを受けて、陸軍は2度にわたり軍縮を行なっています。
1回目は陸軍史上初の軍縮となった「山梨軍縮」(大正11~1
2年)と呼ばれるものであり、約6万人の兵士と1万3千馬の軍
馬を整理しました。しかし、組織編成の外容はそのままにするな
ど経費節約が不徹底のまま近代化のための新規予算を要求しまし
たが、「関東大震災」が発生したため(後述します)、新規装備
の導入が困難となりました。
2回目は「宇垣軍縮」(1925(大正14)年)と呼ばれ、日
露戦争後に編成した4コ師団を一挙に廃止し、震災後の厳しい中
で予算を獲得して装備の近代化に図ろうとしました。これにより、
3万6900人の兵士と5600頭の軍馬が廃止されました。そ
して、初めて航空科も新設され、機関銃隊の編成、戦車の誕生な
どある程度の近代化は進展しましたが、陸軍内部には深い“しこ
り”を残す結果ともなりました。
▼「関東大震災」による甚大な被害
時は少し相前後しますが、1923(大正12)年9月1日、相
模湾北部を震源とする海溝型の巨大地震が発生し、人口密度の高
い首都圏や南関東を中心に観測史上最大となる死者14万人、全
壊家屋約25万4千戸、被害総額約65億円(当時のGDPの約
4割、国家予算の約5倍に相当。現在の貨幣価値換算で約320
兆円)にのぼる甚大な被害が発生しました。
ちなみに、記憶に新しい「東日本大震災」の被害総額が16兆9
千億円(GDPの3.6%、国家予算の17%)であったことを
考えますと、「関東大震災」が当時の日本にいかに天文学的な被
害を与えたかが想像できます。
第1次世界大戦の戦争特需が終わり、株価などが大暴落した直後
の震災被害のダメージはその後長く尾を引き、やがて「昭和恐慌」
につながっていきます。
▼「大正デモクラシー」の総決算
「大正デモクラシー」もいよいよ終盤に近づきました。1918
(大正7)年の米騒動以降、本格的な政党内閣の原内閣を経て、
「普通選挙」を要求する運動が全国に展開されました。併せて労
働運動も盛り上がり、各地に労働組合も結成されます。そして
「全国普選期成連合会」も結成され、各地で大会やデモを開催し
ました。
1920(大正9)年には最初のメーデーが実施されるなど社会
運動も激化し、22年には日本共産党も非合法的に結成されまし
た。同時に、農民の耕作権確立要求や婦人の地位向上を目指す婦
人運動なども活発化しました。
こうした中、「ワシントン体制」が成立する一方、国内では「関
東大震災」による大混乱が発生し、多数の朝鮮人・労働者・社会
主義者が虐殺されるという不幸な事件も起きます。そして192
4(大正13)年1月、貴族院に基礎を置く清浦奎吾(けいご)
が“超然内閣”を組織しますと、これに反対する「第2次護憲運
動」が発生します。
このような経緯を得て、加藤高明を首相とする護憲3派内閣が成
立し、1925(大正14)年、「普通選挙法」を制定します。
これにより納税要件は撤廃され、25才以上の男性は選挙権を持
つことになりますが、婦人と朝鮮人・台湾人には依然として参政
権が与えられませんでした。
また同時に、ロシア革命のような“社会変革”を恐れた枢密院の
圧力があって、激化する社会運動に備えるための「治安維持法」
も制定されます。これにより「国体の変革」や「私有財産の否認」
等を主張する者を対象に取り締まることが合法化されました。
一般に、これら2つの法律制定をもって「大正デモクラシーの総
決算」といわれています。「普通選挙法」に基づく実際の選挙は
1928(昭和3)年より42(昭和17)年まで計6回行われ
ます。また「治安維持法」は、1928年には“死刑”、41
(昭和16)年には“予防拘禁制”が加えられ、終戦後の194
5(昭和20)年10月に廃止されるまで、「激動の昭和」の象
徴のように“ 猛威を振るう”ことになります。
▼「日ソ基本条約」によるソ連承認
1923(大正13)年、アジアの歴史の大転換となった孫文の
国民党政府が広東で樹立されます。協力したのはロシアの革命政
府でした。広東政府は「ソ連容共」の方針でソ連教育団を士官学
校に迎え入れました。校長は蒋介石、副校長は周恩来でした。こ
の時代の複雑な“中国事情”の始まりですが、そのいきさつなど
細部はのちほど取り上げることにしましょう。
国内は、1925(大正14)年の加藤内閣以降、憲政会の単独
内閣が32(昭和7)年に犬養毅が暗殺されるまで8年間続きま
すが、この間は、軍の政治介入を許さない、国際基準からみても
完全なデモクラシーだったといわれます。この時代の外交は、
「協調外交」(前回も紹介)を貫いた弊原喜重郎外相の主導によ
って行なわれます。
1917年に成立したソ連は、列国の干渉戦争にもかかわらずこ
れを打倒するのは不可能となり、まずイギリスが承認(1924
年)し、列国もこれに続きました。共産主義への敵意が強く、シ
ベリア撤兵の問題があった我が国でしたが、中国における権益を
守る目的もあって、1925(大正14)年、「日ソ基本条約」
を締結し、日ソ間の国交を樹立しました。
ちなみに、当初から共産主義の危険さを“脅威”として認識して
いたアメリカは、「アメリカが承認すればソ連の威信と国力が高
まる」と4人の大統領が承認行為を拒否してきましたが、193
3年、就任したばかりのルーズベルト大統領がソ連を承認するこ
とになります。
1926(大正15)年12月25日、生来健康に恵まれなかっ
た大正天皇が47歳の若さで崩御され、「大正時代」は終わりを
迎えました。
▼「大正時代」の総括
「大正時代」を総括しましょう。外には、「第1次世界大戦」の
勝利、ロシア革命から「シベリア出兵」を経て、我が国は念願の
「1等国、5大国の一員」になりましたが、アメリカの台頭もあ
って「日英同盟」の破棄や「ワシントン体制」を強要され、陸海
軍の軍縮も進みました。
内には、「大正デモクラシー」の興隆の中、明治時代から続い
た藩閥政治が終焉して政党内閣となり、民主政治が定着したかに
見えました。現職首相が暗殺されたり、わずか15年の間に内閣
総理大臣が10人も数えるなど、内外情勢の難しい時代、国の
“舵取り”はけっして盤石ではありませんでした。
「大正時代」を振り返る冒頭で、「『激動の昭和』に至る道筋を
決めた大正時代」と紹介しましたように、やがて昭和に入り、内
外情勢がますます厳しくなる中、軍人が台頭するなど「大正時代」
の“反動”のようなものが表面化します。
改めて、なぜそのような“道筋”になるのだろか、この時代の為
政者たちの“決断”は正しかったのか、また、「大正時代」は何
を残したのだろうか、などの疑問に行き着きます。そして、歴史
は、後戻りはできないものの、後々の歴史から逆算すると多くの
「if」が頭をよぎってしまいます。
記念すべき50回目となる次回より、いよいよ「昭和」に入りま
す。「正しい歴史の理解」に思いを致しつつ、歴史の“繋がり”
を重視ながら、内外情勢、外交政策、軍人の葛藤、国民精神、中
でも「満洲事変」から「大東亜戦争」に至る“戦争の歴史”を主
に「激動の昭和」に歩を進めることにしたいと思います。
請うご期待!
(以下次号)
(むなかた・ひさお)
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【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸
上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士
課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1
高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副
長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』などに投稿
多数。
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ら感謝しています。ありがとうございました。
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(代表・エンリケ航海王子)
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